明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

「人生のネタバレ化」で「やりたいこと」という呪いが解ける人もいるかもしれない

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ウェブ小説界隈でちょっと有名らしい人から、こういう言葉を聞いたことがあります。

「創作が苦しいんだったらやめたっていいと思いますよ。何も小説がすべてというわけではないですし。でも、苦しくてもあきらめずに何年も書き続ける人が書籍化して、成功していくんですけどね」

 

私はこの話を聞いたとき、ひどく違和感を持ちました。

何年もやり続けていてもプロになれない人なんていくらでもいるし、そもそも大して苦労もせずにいきなり書いた小説がそのまま書籍化する人だっている。頑張っていればいずれ成功できるなんて、それこそ公正世界信念というものではないのか。プロになれない人は努力が足りない?プロになった人だけが努力を評価されるというだけの話じゃないの?

 

……とまあ、いくつもの疑問が頭に浮かんだのですが、ここで書きたいのは努力と成功の関係性についてではありません。

そういうことより、先の発言について私が気になったのは、創作をやめた人に対する視線です。「小説がすべてではない」と断ってはいるものの、その後にすぐ「でもやめた人には成功はつかめないんですけどね」とつなげてくるあたり、この発言にはどこか「創作をやめたものは夢を諦めた敗残者なのだ」というニュアンスが感じられる。しかし、本当にそう言えるのか。

 

というのは、作家デビューするという夢を叶えたあとに待っているものが、まさに冒頭でリンクしたふたつのエントリのようなものであるかもしれないからです。首尾よくラノベ作家になれたはいいものの、夢見ていたアニメ化の話が来るでもなく、時が経つうちに「期待の新人」の地位から滑り落ち、小説の売上もしだいに先細りになっていく。そしていつか戦力外通告を受ける……夢にまで見たプロデビューの先に待つものは、こういう世知辛い結末かもしれないのです。これが創作をあきらめた人生よりも幸福と言えるのか、これはそう簡単に結論の出るものではありません。

 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

作家になることは、それほど難しいことではないかもしれない。しかし、作家であり続けることはとても難しい。これは、村上春樹が『職業としての小説家』で強調していることです。その点から見れば、まがりなりにも10年間作家として現役でいられた一人目の方など、まだいい方なのかもしれません。もっと短い期間しか作家活動が続けられない人もたくさんいるし、一度戦力外通告を受けて再デビューに向けてがんばっている人も少なくないのです。そういう人に比べれば、ライトノベルという分野の成長期に立ち会え、自分がこの業界を今まさに作っていくのだという自負心を一時でも持つことができた、そういう時期が人生の中にあったのはむしろ僥倖と言うべきなのかもしれません。すでにかなり成熟しているラノベの世界にこれから参入する人は、そんな高揚感は味わえないのですから。

 

私は何人かのプロ作家の方ともやり取りがありますが、皆が口をそろえて言うことがあります。それは、「作家になって本を何冊か出したところで何も変わらないし、何者にもなれはしない」ということです。もちろん、書いた小説が人様からお金をいただける価値のあるものだと認められるようになること、これはひとつの大きな達成です。ですが、よく「作家デビューすると担当編集から今の仕事はやめないでくださいと言われる」というように、多くの人は作家だけでは食べてはいけません。よほどの売れっ子にでもならない限り、作家という肩書を手に入れたところで、その実態は「ちょっと文化的な匂いのする副業」くらいのものなのです。そして商売として見るならば、上の増田さんが言っているとおり、作家は全然効率のいい商売ではありません。企画がボツになることはいくらでもあるし、いくら渾身の企画を出そうが採用されなければ一円にもなりません。好きでなければとうていやっていられない、いや好きでも相当キツい。それが作家という商売です。

 

saavedra.hatenablog.com

「やりたいこととは、解けない呪いだ」──これは、プロゲーマー・ウメハラの言葉です。人は夢を持つと同時に、その夢に束縛されてしまう。作家志望者なら、プロになれないうちはまだ自分は何者でもない「ワナビ」にすぎないのだ、という現実と向き合わなければいけません。でも、作家生活の実態を知ることで、この「呪い」から解き放たれる可能性もあります。ほとんどの人はプロになってもきらびやかな生活を送れるわけでもなく、それでいてプロとして結果を出さなくてはいけないというプレッシャーにさらされ続けることになります。このような生活をどれだけ続けていけるのか?と考えたとき、作家になるモチベーションを失ってしまう人もいるはず。

 

でも、それは必ずしも悪いことではありません。作家というものは世に数多ある職業の一つに過ぎないのであって、別になれなかったところでそれで人としての価値まで失うわけではありません。一つの夢を追っているとき、人はどうしても視野が狭くなりがちなものです。創作者は自作が評価されないと、往々にして自分など無価値だと思ってしまいがちなものですが、それはあくまでごくごく狭い世界のなかでの評価にすぎません。一歩創作の世界の外に出てしまえば、また違った風景が見えてきます。十年間ラノベ作家を続けた人も、最後は「現世に帰ってこれて良かった」と結論づけています。これは十年間作家を続けられたからこそ言える台詞ではあるでしょうが、元プロ作家が創作の世界を退いても今の生活を肯定できているという事実は、創作が続けられなくなった人にとっては希望であり得ます。別に創作で評価されなくても幸せであっていいし、創作をやめたから敗残者というわけでもありません。というか、別に敗残者でも幸せになっていいんじゃないか、と私は思っているのですが。

 

ネットによって「人生のネタバレ化」が進んだ、と言われることがあります。このフレーズは普通、あまりいい意味では使われません。たとえば結婚生活の大変さが知れ渡ることで結婚を躊躇する人が増えてしまった、といったケースについて使う場合はそうです。ですが、こと作家生活についていえば、ネタバレ化が進むのは望ましいことかもしれません。こういう現実がプロデビューした先に待っているということを先に知っておけば、プロになれていないことにそれほど悲壮感を持たなくていいかもしれないし、覚悟の足りない人が業界に参入してくるリスクも減らせます。こういうことを知ってなおプロになりたいという意欲がおとろえない人だけが、作家を目指したほうがいいのかもしれません。得られる社会的地位や報酬がそれほどでなくても書くモチベーションを保っていられるというのも、それはそれで一つの立派な才能だからです。

「日本版マグナ・カルタ」六角氏式目、今川仮名目録をコピペした甲州法度……分国法から戦国大名の個性を描き出す清水克行『戦国大名と分国法』

 

戦国大名と分国法 (岩波新書)

戦国大名と分国法 (岩波新書)

 

 

これは久々に大当たりの新書。

 

戦国大名の特徴として、領国内にしか通用しない「分国法」を制定している、ということがよく挙げられます。有名どころでは今川仮名目録や甲州法度などをあげることができますが、これらの分国法の内容までくわしく知っている人は、必ずしも多くないかもしれません。しかし、ともすれば退屈なものと思われがちなこれらの法律の中身を検討してみると、そこには戦国時代の地域差や言うことを聞かない家臣に振りまわされる大名の苦労話、商業の捉え方の違いなど、極めて興味深い戦国時代の実相が浮かび上がってきます。これは戦国時代に興味をもつ方なら必読でしょう。

 

当主の愚痴がそのまま書かれている結城氏新法度

 

本書では、まず分国法のなかでもマイナーな部類の「結城氏新法度」から解説を始めています。この分国法は他国のものに比べて内容も未整備で、完成度が高いとはとても言えないものですが、それだけに当主である結城政勝の生の声がそのまま反映されています。たとえばこんな具合です。

 

【67】実城(本丸)で合図のほら貝がなったら、無分別にただやたらと出撃するのは、とても始末の悪いことである。ほら貝が鳴ったら、まず町に出て、一人の倅者でも下人でも実城に走らせ、どこへ出撃するのか問い合わせて出撃せよ。

【68】どんなに急な事態であっても、鎧をつけずに出撃してはならない。機敏なさまを見せようと、一騎駆けで出撃してはならない。全軍が揃うのを待ってから出撃せよ。

【69】命じられてもいないのに偵察に出かけるというのは、まるで他人事のような振る舞いだな。

 

この条文からは、政勝の家臣は戦となれば敵が誰かもわからないのに勝手に出陣していることが読み取れます。しかも装備もろくに整えないのだから、これではとてもまともな戦にはなりません。結城氏はまったく家臣の統制が取れていなかったのです。

めいめいが勝手に出陣するのは一見勇ましいようにも思えますが、実はそうではありません。家臣が勝手に出陣してしまうのは、敵地で女性の一人でもさらってやろうという魂胆があるためです。私利私欲のためにしか動かない家臣をどうにかコントロールしなくてはならない、という政勝の苦労が、結城氏新法度からは読み取れるのです。分国法というのは実は面白いものなのだ、ということを読者に理解してもらうために、この結城氏新法度を一番最初に持ってきたのだと思います。

 

商人の扱いがまったく違う塵芥集と六角氏式目

 

分国法には、戦国大名の地域差が反映されます。その差がもっともよく出ているのが、塵芥集と六角氏式目です。塵芥集は伊達政宗の曾祖父にあたる伊達稙宗が制定した分国法ですが、この法度のなかでは、販売している商品が盗品だと疑われた場合、売り主が自らそれが盗品でないことを証明しなくてはなりません。ですが六角氏式目では逆に、もとの持ち主が盗まれた品が売られているのを見たときは、返してもらいたければ自分で犯人を捕まえるなどして犯罪が行われた事実を証明しなくてはいけないのです。

 

この違いはなぜ生じているのか。伊達氏の本拠地である東北に比べ、六角氏が根拠地としている近江は商業の先進地域です。実際、六角氏は信長に先がけて楽市令を施行した大名としても知られています。このような地域を治めるには、商人の保護を優先しなくてはならないのです。売り主が商っている品が盗品だと疑われるたびに自分で無罪を証明しなくてはいけないようでは、おちおち商売などやっていられません。六角氏は盗品が販売されるリスクよりも、商取引が円滑に行われるメリットを優先していたということです。

 

ちなみに、この六角氏式目は家臣団が原案を起草し、大名当主に対して提出されるという成立過程をたどっています。結城氏が言うことを聞かない家臣をどうにか統制しようと法度を作っていたのに対し、こちらは家臣が当主に対して勝手に命令を出したり課税したりしないよう法で拘束するという形になっているのです。このような性質があるため、本書では六角氏式目を「日本版マグナ・カルタと呼んでいます。

 

今川仮名目録にみる中世人の知恵

 

分国法の中でももっとも整理され、先進的な内容だったと評価されているのが今川家の今川仮名目録です。とはいえ、やはり中世の法律なので、現代人の目から見ればあまり納得できない内容のものもあります。

たとえば、川や海の侵食で川原や海になってしまった「川成」「海成」という土地の境界争いについては、双方の主張する境界線の中間を境界とせよ、と決められています。ずいぶん適当な法律のように思えますが、これは当時の人からすればかなり説得力のある処置だったのです。著者は最上義光の「人のもめ事にはどちらにもそれなりの道理があり、裁判とは道理の少ない方を非とするだけのものだ」という言葉を引用しつつ、こう説きます。

 

中世の人々を私たちよりも野蛮で劣った人々だなどと侮ってはいけない。ともすれば、ネット上の限られた情報をもとに「悪人」を決めつけ、それを袋叩きにすることで溜飲を下げている私たちのほうが、中世の人々に言わせれば、よほど野蛮な連中なのかもしれない。そして、こうした考え方を根底に持つ人々が争いを解決に導こうとした場合、中分や析中が最善ないし次善な解決策になるのは当然と言えるだろう。

 

誰にでもそれなりの道理があるのだからそれぞれの言い分の中間で手を打つ、というのが中世においてはもっとも「合理的」な判断だったのかもしれません。とかく白黒をつけたがり、間違っている方を一方的にバッシングしたがる現代人と中世人とどちらが現実的で賢いのか、と問われてみれば、これは確かに簡単に答えが出ることでもないような気がします。

 

それはともかく、今川仮名目録は内容が優れていたために、そのかなりの部分が武田家の分国法である甲州法度にコピペされています。コピペというのは私が勝手にこう言っているわけではなく、この本のなかに本当にこう書かれているのです。

 

この「甲州法度」は、全二六条のうち一二カ条までが「かな目録」とほぼ同じ内容となっている。つまり、一般的には武田信玄といえば”戦国最強の大名”として有名を馳せているが、じつは分国法については、その内容は「今川かな目録」の無断引用(コピー&ペースト)だったのである。

 

しかし武田家もただ今川仮名目録の模倣に終わったというわけではなく、甲州法度はつねに内容が更新されていて、天正八年に至るまでバージョンアップが続けられています。勝頼が天目山に滅びるのは天正十年なので、武田家滅亡の寸前までバージョンアップがくり返されていたのです。

武断的なイメージのある武田氏は、実は「法の支配」にかなりこだわっていた大名でした。にもかかわらず、武田家は滅びてしまいました。武田家だけでなく、分国法を作った今川家も六角家も大内家も皆滅びてしまっていますし、塵芥集を作った稙宗も隠居に追い込まれています。つまり分国法は、負け組の作った法律ともいえるのです。なぜ法律を整備し、内政に力を入れた大名が滅びてしまったのか?この問いに対する答えが、本書の最終章で示されます。

 

分国法なんていらなかった?

戦国時代の最終段階での覇者となった織田家や毛利家、島津家などでは分国法は作っていません。それは最終的な勝者となった徳川家も同じことです。結果から見れば、分国法の制定は戦国大名として勢力を拡大する上ではそれほど重要なことではなかった、ということになります。どうして、法律を整備することが国力を増すことにつながらなかったのか。著者はこう結論づけています。

 

そもそも当時の家臣や領民にとって、裁判というのは迂遠で面倒なものにすぎなかった。多額の費用と長大な時間を浪費して法定で敵と争うくらいなら、対外戦争に従事して、 そこで功績を上げてしまえば、恩賞としてそれに数倍する土地や権利を手に入れることが可能だった。勝ち目のない地味な裁判を争うよりも、戦争は手っ取り早い権利拡大の手段なのである。

 

法を整備する大名のほうが「文明的」であることは間違いないのですが、戦国の世が求めていたのはそのようなお上品な大名ではなく、ひたすら領土拡大に突き進むような大名だった、というのです。限られた領土内での法の整備に力を入れるより、対外戦争に勝ち続けるほうがメリットが大きい。この時代に求められているのは分国法などよりも「天下布武」を掲げて外へ繰り出すイノベーションだったのだ──とこう言われてしまうと、多くの労力を割いて分国法を定めた意味とは一体なんだったのか、と考えずにはいられません。

 

結局、これらの分国法の理念は、江戸時代に入り各大名家の藩法に継承されていくことになります。今川仮名目録や甲州法度で取り入れられた喧嘩両成敗法も江戸幕府が継承しています。法の支配が平和な時代にこそ求められるものであるとするなら、分国法を作った大名たちは著者も言う通り、時代を先取りしすぎていたことになります。喧嘩両成敗法に見られるような自力救済の否定が豊臣政権や江戸幕府に受け継がれたことを思えば、分国法は社会を文明化させる上ではたしかに役立ったのだ、と信じたいところです。

カクヨムの超おすすめ短編小説が勢揃いしている『第八回本山川小説大賞』のご紹介

これはカクヨムの自主企画なのですが、先日「第八回本山川小説大賞」という企画が行われました。もともとは「本物川小説大賞」として七回まで行われていた企画ですが、今回はラノベ読みVtuberの本山らのさんを審査員に加えているのでこういう名前に変わっています。ちなみに、本山さん以外の二人の審査員はプロ作家です。

 

この企画は回を重ねるごとに参加作品の水準が上がっていて、最近はプロも参加するようになっているのですが、この第八回は特にレベルが高く、参加作品も127作品という過去最高の作品数になっています。

この大賞は3人の審査員が受賞作を選ぶシステムになっていますが、受賞作はどれも相当な読みごたえがあるので、カクヨムのおすすめ作品って何があるの?と思う方はまず受賞作から読んでみることをおすすめします。この企画はレギュレーションが1万字以上2万字以下となっていて、参加作品はどれも短編なので読みやすいはずです。受賞作の講評はこちらのエントリに書かれています。

 

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大賞受賞作『CQ』についてはさん屋久ユウキさん(弱キャラ友崎くんの著者)も絶賛しています。この作品はラノベ読みVtuber本山らのさんによる朗読まであります。

 

上記のエントリを読むとおわかりの通り、この企画では122作すべての参加作品について、3人の審査員からの講評が書かれています。小説を書いている方はこれを読んでいるだけでも勉強になりますし、面白い作品を探すために講評を呼んでいて気になった作品を読んでみるという読み方もできます。いずれにせよ、全参加作品についてこれだけガチな講評をしている企画はなかなかないと思いますので、一度読んでみることをおすすめします。以下、私のお気に入り作品をいくつか紹介します。

 

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全122作の中で私の一番のお気に入りはこれです。惜しくも大賞は逃しましたが、これはもう完全にプロレベルの作品です。内容的には『明日に向って撃て!』のようなバディもののクライムアクションですが、これが14000字程度の短編であるとは信じられないくらいの密度の濃さで、読み終わったあとには良質の映画を一本観終わったくらいの余韻が残ります。上手い小説ほど余計なことは書かれていないものですが、この短さでしっかりとキャラを立たせ、情感あふれるラストまで読者を引っ張っていく手腕は驚くべきもの。

 

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こういうバカ小説も読めるのがアマチュアの企画の面白さ。兄と妹がトイレを奪い合うというだけの内容ですが、会話のテンポが良いのでそのまま最後まで読んでしまう。オチが思いもかけず壮大なところもいい。

 

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電撃文庫『ゼロの戦術師』著者による爽やかな恋愛短編。プロの書いたものだけあってさすがに完成度が高い。作中にある仕掛けがあり、主人公がなぜ「普通」であることにこだわっているのか、が最後にわかるようになっていますが、こうしたサプライズがひとつあるだけでも作品の印象がぐっと良くなることがよくわかります。多くの作品に埋もれないためにプロがどのような工夫をしているのか、を学ぶうえでも参考になる作品と思います。

 

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戦乱の世をしたたかに生き抜いた娼婦の話。女王に瓜二つの容姿を持つ娼婦の独白という形で書かれていますが、分別盛りのはずの将軍をも嘲弄し振り回す主人公の一人語りは、まるで本当にこういう人物が存在しているかのような奥行きを感じさせます。これは、「人間を書く」とはどういうことか、いう問いへの一つの回答であり得るでしょう。

 

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 主人公のメンタルケアを行うイケメンAIとのやりとりがとにかく面白い。AIなのに奇妙な人間味を持つこのプログラムとのやり取りを見ていると、人間とはなんなのか、を考えさせられます。

 

以上、5作品だけ紹介しましたが、まだまだ多くの優れた作品がこの企画には集まっています。選考途中でのピックアップも紹介されているので、こちらから読んでみるのもいいかと思います。

 

kinky12x08.hatenablog.com

kinky12x08.hatenablog.com

 私はこの企画の講評を読んでいて、「創作物はどのように評価すればいいのか」ということをずっと考えていました。短距離走などとは違い、小説というのはだれもが納得できる客観的な指標で評価を下すことはできません。評価には必ず審査する人の主観が入り込むので、何をいいと思うかは人それぞれ、すべての作品に優劣はないのだ、という立場をとることもできます。

  

クドリャフカの順番 (角川文庫)

クドリャフカの順番 (角川文庫)

 

 

米澤穂信クドリャフカの順番』には、「すべての作品は主観の前に等価なのか」という言葉が出てきます。読む人が違えば作品の評価も変わる、これは一面の真実です。ですが、今回の第八回本山川小説大賞では、講評エントリの最後を読めば分かるとおり、『CQ』は審査員三人が全員大賞に推しています。他の作品については意見が割れていますが、やはりなにが優れた作品は見る目のある人から見れば一目瞭然、ということだと思います。

 

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これは、第七回本物川大賞についても同じことがいえます。このときの大賞作品である「幻獣レース クリプテッド・スタリオン 第100回アルバトゥルス王国杯」は、やはり審査員全員が大賞に推していました。やはり頭ひとつふたつ抜けた出来の作品というものはあるものなので、そこを「評価は人それぞれだから」と全て平らにならしてしまうことはできません。確かに、審査員が複数いればその中で作品の評価は割れます。ですが、意見が割れるのはあくまで一定のレベルを超えた作品の中でどれを選ぶか、という話であって、まず審査員の目に留まる、受賞作候補に上がれるというラインをクリアしている必要はあります。「評価は人それぞれ」というのは、そこから先の話なのだと思います。そして、圧倒的に優れたものを書ければ、好き嫌いという主観の差も超えて審査員の評価は一致することもあるのです。

 

sawameg.blogspot.com

では、評価に値するような、優れた小説とはどう書けばいいのか。今回は全部で122作もあったので、これだけ読んでいればある程度の答えが見えてきます。それが、審査員である大澤めぐみさんの上記のエントリでの分析です。短編小説の企画なのでこれは短編小説についての分析ですが、これはこれから小説を書いてみよう、という方にも非常に参考になるものだと思います。

ケン・リュウ『母の記憶に』は中国史好きにもおすすめできる短編集

 

母の記憶に (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

母の記憶に (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 

 

ケン・リュウ『母の記憶に』を読んだ。SF短編集として売られているし、実際に考古学のロマンを打ち砕く苦味の残る「重荷は常に汝とともに」や、皆が楽園追放のディーヴァのような世界を目指す中で取り残されたものの悲哀を描く「残されし者」のようなキレのあるSFが多く収録されているのだが、むしろわたしが本書のなかで強く印象に残ったのは中国史を扱っている「草を結びて環を銜えん」と「訴訟師と猿の王」の二作品だった。どちらのこの短編集の中では屈指の出来栄え。

 

このふたつの短編は、どちらも清が中国において行った「揚州大虐殺」を題材にしている。この短編を読むまで知らなかったが、揚州大虐殺とは南明の支配していた揚州において、満州兵が10日間にわたり繰り広げた虐殺のことだ。この蛮行で、なんと80万人もの人々が殺されたといわれている。この揚州大虐殺を背景として展開される芸妓を主人公とした人間ドラマが「草を結びて環を銜えん」で、揚州大虐殺を記した「揚州十日記」という書物をめぐって繰り広げられる物語が「訴訟師と猿の王」だ。

 

この2つの短編は、清という巨大な権力に押しつぶされそうになりながらも、人としての誇りを失わなかった人々を主人公としている。揚州の芸妓も、訴訟師も市井の人間であって英雄ではない。しょせん歴史を動かせる側の人間ではないのだ。だから二人の抵抗は無駄とも言えるのだが、だからこそ意地を通そうとする二人の生きざまは読者に深い印象を残す。友の命と揚州の人々を少しでも助けようとした緑鶸、そして揚州大虐殺を歌に託して後世に伝えようとした田。このような人物に光を当てるところに、ケン・リュウのまなざしの暖かさを感じることができる。

 

中国を扱った作品としては「万味調和ー軍神関羽アメリカでの物語」もまた素晴らしい。これはアイダホに移住した中国人移民たちとアメリカの少女との交流の物語だが、関羽を思わせる「老関公」の人柄になんともいえない深い味わいがある。作中作として出てくる微妙に間違っている三国志も楽しい。ラストはやはり苦いが、この短編集のなかでも一、二を争う傑作だろう。私はどちらかというとSFを苦手としているので今までケン・リュウを読んでいなかったが、この短編集にはこれらの非SFの傑作も含まれているので、SFを敬遠している人も一度手にとって見てほしい。最初の短編は機械の腕を持つ主人公が満州で熊と戦う話ですよ、といえばSFの方にも興味を持ってもらえるだろうか。

独身40代からの孤独と地下アイドルと「中年純情物語」

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このふたつのエントリを読んでいて、自分は「ザ・ノンフィクション」という番組の「中年純情物語」の回を思い出した。番組のくわしい内容はこちらのエントリで書かれている通り。

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この回の主人公であるきよちゃんは40代ではなく50代だが独身で、地下アイドルにはまることで交流も増え、「人とのふれあいが一番楽しいかなって感じ」と番組中で語っている。ここでいう「人とのふれあい」はきよちゃんの推しである小泉りあさんとの交流も含まれるだろうけど、それだけではなく地下アイドル「カタモミ女子」のファンとの交流のことを言っているのだろう。

 

この番組は冒頭で、地下アイドルにはまっている30代から40代くらいの男性ファンを映していた。そこで「まだ独身なんですよ、何やってるんでしょうね。まあ楽しければいいんですよ」と自嘲気味に笑っている人を登場させているように、地下アイドルのファンの中には独身の人が少なくないことを匂わせている。地下アイドルの世界はそういう人にも居場所を与えてくれるということだ。

 

独身だから孤独だとは限らないし、きよちゃんがカタモミ女子にはまるまで孤独な人生を生きてきたかどうかはわからない。ただ本人が言っているとおり、きよちゃんはアイドルやファンとの交流を楽しめるようになっていて、それまでよりずっと人生を楽しんでいるように見える。こういう場があれば孤独な人も孤独感を解消できるだろうし、そうでなくても「推し」を作ることでより毎日が充実するということは間違いない。地下アイドルにはまる人がいる理由として、そこで仲間ができるから、という事情もあることは確かなのではないかと思う。

 

しかし、ただ仲間を作るだけなら他の趣味でもいいんじゃないか、ということは言える。地下アイドルは趣味としては世間体がいいとは言えないし、人によってはもっといい趣味を見つけろと言うかもしれない。自分はそれは余計なお世話だと思うが、ではなぜ地下アイドルでなくてはいけないのか。きよちゃんの発言に、この疑問を解き明かす鍵がある。

 

「この歳になると自分で頑張って何かやっても先が見えてる」

 

 50代のきよちゃんは、もう自分自身の人生にはあまり夢を見ることはできない。そうするくらいなら、誰かに夢を託したほうがいい、ということになる。独身のきよちゃんは子供に夢を託すことはできないから、選択肢のひとつとしてアイドルが浮上してくる。活動規模が大きくない地下アイドルならそれだけ一人が与えられる影響力も大きくなるし、応援のしがいもある。小泉りあさんはカタモミ女子として活動しているとき、当初はファンが一人もいなかった。そこできよちゃんが自分が最初のファンになる、と申し出た。この子を支えてやれるのは自分だけだ、と思えればそれだけ応援にも気合が入るだろうし、ある種の使命感みたいなものまで生まれてくるかもしれない。実際、きよちゃんの小泉さん推しは徹底していて、吉田光雄さんにも「信用できるタイプ」と言われるほどだ。

 

 

幸せになるための方法として、他人に貢献することが大事だということはよく言われる。アドラー心理学も共同体に貢献することの必要性を説く。この観点から見ると、地下アイドルを応援するという行為は孤独感を解消するだけでなく、幸福感を大きく増す効果も得られるということになる。自分はあまり芸能界やアイドルに興味がないタイプなので、あまりアイドルにお金をつぎ込む人の気持ちがわからなかったが、こうして見るとやはりアイドルを応援するという行為そのものが人に幸せをもたらしているのだ、ということがわかってくる。いくらお金をつぎ込んでもアイドルと付き合えるわけではないのに、というのは一面的な見方でしかない。

 

孤独感を解消する方法として地下アイドルを応援するということが最善の選択肢かどうかはわからない。推しのアイドルのおかげで日々が充実していたとしても、そのアイドルがいつ脱退してしまうかもわからないし、グループ自体が解散する可能性もある。推しへの思い入れが深ければ、相手が結婚することで大きなダメージを受けてしまうこともある。ただ、リスクがあるのは子供で孤独感を解消している人にしても同じことだ。離婚して子供と離ればなれになってしまうかもしれないし、いずれ子供が成長して反抗期を迎え、毎日こちらを罵倒してくるようになるかもしれない。

 

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孤独感や生きがいがないことの虚しさは人によって癒されることもあるが、相手が生身の人間である以上、状況はいつも流動的だ。きよちゃんも小泉さんがアイドル活動を中止したときはかなり気落ちしている。今は小泉さんはつくば市の地元タレントとして活動できているが、どんな活動も永遠には続かない。それでも、一時だけでも誰かの活動を支えることができたのであれば、その思い出を糧に生きていくこともできるだろうか。

 

『食い意地クン』に久住昌之の凄さを見る

食い意地クン (新潮文庫)

食い意地クン (新潮文庫)

 

一見なんてことない食い物エッセイのようにみえるし、そのように読むこともできる。でもじっくり読んでみると、 やはり久住昌之という人はただ者ではないことがわかってくる。やはり食ネタでずっと飯を食っている人は違う。

 

久住昌之が語る食べ物はだいたいいつも大衆食堂的な店のカレーだとか、おにぎりだとか、庶民的なものばかりだ。こういうネタで読ませるには薀蓄を語るのではなく、いかに読者の共感を引き出せるかが重要だ。久住昌之の読者は知らない世界をのぞき込みたいのではなく、いつも食べているものを同じ目線で語ってくれることを望んでいる。つまり「わかる」と思わせてほしいのだ。

 

そしてその「わかる」というのは、「昔ながらの普通のラーメンってたまに食べたくなりますよね」程度の「わかる」であってはいけない。その程度の文章に人はお金を払わない。じゃあどんなレベルだったらいいのか。久住昌之はとんかつを食べながらこんなことを考えている。

 

とんかつと比べたら、同じ肉でもステーキなんてギャングみたいだ。見るからに悪役面をしてる。黒い革の手袋をはめていそうだ。その下に、でっかい金の指輪もしていそう。とんかつは、真っ白な軍手の似合いそうないい人だと思う。

 

この人のこういう表現力には関心する。私なんてとんかつを食べているときには、ごはんが余らないようにするにはとんかつひと口でごはんをどれくらい食べればいいのか、くらいのことしか考えていないのに、久住昌之はわざわざとんかつを擬人化までしているのだ。今は戦艦から細胞に至るまでなんでも擬人化する時代になっているけれども、このとんかつの擬人化は納得感が高いし、「わかる」感じがする。とんかつを擬人化するなら端正な人でなくてはいけない。

 

このエッセイで一番「わかる」感が高かったエピソードは、完全菜食主義の合宿を一週間体験したあと、何を食べたいか?という話だった。久住昌之の答えは駅前の喫茶店ナポリタン。これは本当に「わかる」。身も心も清めた人間が俗世に戻ってきて一番食べたいのは、ラードと焦げたケチャップにまみれたあのスパゲティだろう。パスタではなくスパゲティだ。粉チーズとタバスコをたっぷりかけて食べるやつだ。菜食主義の対極にあるハイカロリーなあのスパゲティこそ、禁欲生活から開放された人間が最初に食べたいものだろう。これを読んだあとではそう信じたくなる。

 

孤独のグルメ』には「ソースの味って男の子だよな」とか「焼肉と言ったら白い飯だろうが」みたいな「わかる」フレーズがたくさん出てくる。ただおじさんが飯を食っているだけの漫画をつい読んでしまうのは、五郎の言っていることがいちいち「わかる」からだ。ドラマ版の「こういう普通のラーメンがいいんだよ。『どうだどうだ』という押し付けがましさが微塵もない」といった台詞も本当に「わかる」のだが、これも久住昌之が添削しているらしい。久住昌之はエッセイの中では自分はいつもガツガツ飯を食っていてバカみたいだと言っているが、本当はとても繊細な人なのだろう。

 

こういうものを読んでいると、人の才能とはなんだろうかということを考えさせられる。とんかつを擬人化してみせたり、 昔懐かしいナポリタンを目の前に浮かび上がらせるような描写をしてみせる能力がなぜ生まれるのか。結局、それはいつも食べるということについて考えつくしているから、という気がする。四六時中何かについて考え続けられるというのは、立派な才能だ。並大抵の「好き」のレベルでは、「好きなことで、生きていく」ことはできない。人生のリソースをほとんどそれにつぎ込んで構わないというレベルになってようやく、こういうものが書けるようになる。

村上春樹『職業としての小説家』を読んで考えた、創作で病む人・病まない人の違い

 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

村上春樹の文章には、ある際立った特徴がある。それはとにかく読みやすいということだ。これは小説でもエッセイでも変わらない。村上春樹の書くものはかなり好き嫌いが別れることが多いが、彼の作品に文句を言う人もその時点ですでに読んでしまっている。この『職業としての小説家』でもリーダビリティの高さはやはり変わらず、読者は気がつけばするすると最後の一ページまで導かれている。読書をしているというより、心地よい音楽に身をゆだねているような感覚だ。もちろん文章が心地よいだけでなく、内容も相当に濃い。作家・村上春樹が「書く」という行為についてどう考えているか、作家としての「村上春樹」を作り上げるまでどのように格闘してきたか、ということが余すところなく語られているので、およそものを書く人、何かを創ろうという人にとっては一度は手に取る価値のある一冊ではないかと思う。

 

私は村上春樹の作品は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『国境の南、太陽の西 』くらいしか読んだことがないので、彼の作品についてはあまり語る資格がない。ただ本書を読んでいて、村上春樹という人の創作姿勢にはとても好感を持った。それは、村上春樹が文壇政治のようなものからは距離を置いていて、文学賞も特に欲しがらず、かなり権威に対し恬淡としているように思えるからだ。そういった外付けの権威を求めることよりも、読者に対して真摯に向き合うことが大事、ということを、村上春樹は一貫して語っている。特に大事なことは自分がまず楽しむことだ、と彼はいう。

 

全員を喜ばせようとしたって、そんなことは現実的に不可能ですし、こっちが空回りして消耗するだけです。それなら開き直って、自分が一番楽しめることを、自分が「こうしたい」と思うことを、自分がやりたいようにやっていればいいわけです。そうすればもし評判が悪くても、「まあ、いいじゃん。少なくとも自分は楽しめたんだからさ」と思えます。それなりに納得できます。

 

これはひとつの徹底した態度であると思う。しかし創作者の立場に立ってみるとわかるが、普通はなかなかこのように覚悟を決められない。やはりせっかく頑張って書いたのだから、その努力に見合うだけの称賛がほしい、と思うほうが普通なのだ。プロアマを問わず、多くの作家は常に不安を抱えている。実は自分の書くものはつまらないのではないか、自分には大した才能なんてないんじゃないか──といった不安を解消できるだけの評価を求めているのだ。そこまで不安が強くない人でも、誰だって自分は価値ある人間だと感じていたい。自分の価値を保証するために、文学賞というものは大きな支えになる。しかし村上春樹はそういうものは別に求めていないらしい。

  

 

ではなぜ、村上春樹がそうした権威を欲しがらないでいられるのか。これは、彼の「精神の自給率」がとても高いからではないかと思う。「精神の自給率」という言葉は小池龍之介が『"ありのまま”の自分に気づく』のなかで使っている言葉だが、これは「自分のことをこれでよし、大丈夫だと思えているパーセンテージ」のことだ。これが足りなければ、足りないぶんを外からの評価で補わなければいけなくなる。つまり、精神の自給率が低い人ほど承認欲求が強い。作家なら文学賞や世間からの評判など、外部からの評価が欲しくなるということだ。自分で自分を評価できないなら周りに評価してもらうしかない。

 

 作家志望者が「ワナビ」と呼ばれることがある。私はこの言葉があまり好きではない。この言葉は作家志望者に対する揶揄や見下しのニュアンスを含んでいるように感じるからだ。しかし、「ワナビ」の側にも揶揄されてしまう原因がないわけではない。作家として世に出たい、このまま何者にもなれない自分として生きていたくない──という強烈な飢餓感や焦燥感は、時に痛々しい言動となって噴出することがあるからだ。しかし本書を読む限り、村上春樹の若い頃にはこうした「ワナビっぽさ」が、ほとんど感じられない。村上春樹はある日突然「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」という心に浮かんだメッセージに従い、そのまま作家になった人だ。彼の言うことを真に受けるなら、村上春樹は作家になるべくしてなった人であって、作家になることで人から仰ぎ見られたいとか、目立ちたいといった欲求で自分を駆動させてきたわけではない。精神の自給率が高ければ、評価されるためではなくあくまで内的欲求に従って小説を書くことになる。

 

なぜ、村上春樹はこのように精神の自給率を高く保っていられるのか。村上春樹が若い頃ジャズ喫茶を経営していたことはよく知られているが、憶測ではこの経験が、彼の自我に大きな影響を与えているように思える。本書で村上春樹は過20代の生活が苦しかったころを振り返りつつ、このように書いている。

 

でもそういう苦しい歳月を無我夢中でくぐり抜け、大怪我することもなくなんとか無事に生き延び、すこしばかり開けた平らな場所に出ることができました。一息ついてあたりをあたりをぐるりと見回してみると、そこには以前は目にしたことのなかった新しい風景が広がり、その風景の中に新しい自分が立っていた──ごく簡単に言えばそういうことになります。気がつくと、僕は前よりいくぶんタフになり、前よりはいくぶん(ほんの少しだけですが)知恵がついているようでした。

 

ここには、小さいながらも一国一城の主として世知辛い世間を生き抜いてきた、というささやかな自負が感じられる。村上春樹は人生できるだけ苦労をすればいいという話がしたいわけではない、と断っているけれども、こうして苦労しながらもどうにかジャズ喫茶の経営を軌道に乗せてきたという経験が、自我を支える確かな芯として存在しているように思える。地道に日々培ってきた成功体験が自分だってそう捨てたものではないという自信をつくり、内側から自分を支えてくれる。こういう人は、創作をしていてもあまり病まない。自分に自信があるので精神の自給率が高く、足りない部分を創作で評価されることで補おうとしないからだ。だから、自分が楽しめる小説を書けばいいのだ、と言える。

 

しかし、創作を志す人、作家志望者の中には、今の自分に不満があるから創作で何者かになりたいと思っている人もいる。つまり、精神の自給率の低さを創作の評価で埋め合わせるということである。それが悪いことだというわけではない。ただその場合、創作で評価されなければ自分を支えるものが何もなくなってしまうため、常に評価を気にしていなければいけなくなってしまう。これでは自分が楽しめればそれでいい、というわけにはいかない。外需頼みの経済が不安定なのと同じように、他人からの評価で自分を支えるのは危うい。ましてや創作物の評価は水物なので、そこにアイデンティティを置くと心はひどく壊れやすくなる。

 

こう書くと、創作以外の分野で自信を培っていないといけないのかという話になりそうだが、必ずしもそうではない。創作物の評価が高い=偉いという価値観を相対化できればいいのだから、創作以外の居場所を持つ、ということも大事かもしれない。

togetter.com

実際、世間の人を見てみると、小説を読んでいる人なんてそんなにいない。ノーベル賞を獲ったカズオ・イシグロですら、名前を聞いたことがあるという程度の人のほうが多いのだ。創作物の評価は今自分が所属している(世間からすれば)かなり狭いコミュニティ内での問題であって、一歩外に出ればそれは全く関係なくなるし、いろいろな居場所を渡り歩いているうちに創作よりも楽しいことが見つかるかもしれない。今いる場所が全てだと思う必要はどこにもない。創作に打ち込むことと、それ以外の選択肢を捨ててしまうことは違う。

 

人間、一つのことに集中するとどうしても視野が狭くなりやすい。だからこそ結果を出せるという一面もあるのだが、今いる場所が生きづらいならその中で頑張るだけでなく、もっと生きやすい場所を探すという選択肢も考慮に入れておいたほうがいいのではないだろうか。