明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

BSプレミアム「風雲!大歴史実験」の一ノ谷の戦いに関するメモ

義経と言えば鵯越えの逆落とし。というわけで、昨日の風雲!大歴史実験では、ほんとうにこの「逆落とし」が実現可能なのか、という実験を行っていた。

 

実験に使ったのは在来馬の木曽馬。見た感じでは足が短く小柄だが、その分安定感もあるようだった。騎手がこの馬に乗って一の谷の合戦で下ったのと同じ勾配の坂を下っていたが、一度目の実験では勾配が20°から30°にかわるところでギブアップ。それまでもかなりスピードは遅かったが、馬がおびえてそれ以上進めなくなってしまった。

 

では「逆落とし」などしょせん創作でしかないのか。ここで番組では、義経が予め坂の下に馬を降ろしていたという平家物語の記述に着目する。馬は群れで行動する性質があるので、坂の下に仲間がいれば、勾配の急な坂でも降りられるのではないか、というわけである。実際、現代の馬でも短い坂なら急でも仲間のいるところへ降りていくこともある、ということを番組中で確認している。

 

ましてや、源平合戦の時代の馬は現代の馬とは違う。番組中では三浦半島では平地が少なく坂の上り下りに慣れている馬がたくさんいたことにも触れていたが、こうした馬を使っていたなら「逆落とし」も可能かもしれない。たくさんの合戦に参加している馬ならそれだけ勇気もあるだろうし、戦いのなかの興奮状態や高揚感が馬にも伝わっていた可能性もある。

 

仲間のいるところへ行きたがる馬の性質を利用し、二度めの実験では木曽馬は30°の勾配の坂を途中まで降りることができた。このときは平家物語の記述のとおり、周囲から掛け声をかけて応援するということも行っている。坂を最後まで降りきることはできなかったが、現代の馬でもその性質を利用すれば、旧勾配の坂を降りる勇気を出すことができた。戦に慣れ、現代の馬よりもはるかに鍛えられている鎌倉時代の馬なら、逆落しも可能だったかもしれない。

 

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

 

 

近年、「戦国時代の馬はポニー程度の大きさだった」ということが盛んに言われるようになった。鎌倉時代の馬の体格もそんなものだろう。この言葉には、「だから騎馬武者なんて大したことはないのだ」というニュアンスが感じられる。しかし体格が小柄であるからといって、騎馬の機動力や突撃力を軽く見ていいことにはならない。平山優氏(真田丸時代考証役の一人)は『検証長篠合戦』の中でこう書いている。

 

 では体高が小さいことは、貧弱であることの証明になるだろうか。中世日本馬の体格が優れていたことは、近藤好和氏によって絵巻物などをもとに詳細な論証がなされている。近藤氏も指摘するように、日本在来馬が貧弱であると強調する論者は、ポニーと子馬を混同しているのではないかとみられ、ポニーはあくまで小型馬という品種そのものを指し、子馬ではない。また、馬体を規定するのは体高ではなく骨格と筋肉であるから、体高の数値だけで貧弱と決めつけるのは非科学的である。絵巻物にみえる馬は、筋骨も逞しく、武者などを乗せて疾駆している様子がありありと窺われる。

 

番組中で使っていた木曽馬は、胸の筋肉がすこし足りなくて坂を降りきれなかったのではないかと騎手の方は推測していた。重い鎧兜を着た武士を乗せていた源平時代の馬は、現代の馬よりずっと筋肉も多かっただろうし、旧勾配の坂道も難なく降りられた可能性もある。

 

本郷和人氏はこの番組のなかで、一ノ谷の戦い関ヶ原の合戦のようなもの、と語っていた。平家物語の記述が史実に近いものであるとするなら、義経が馬の力を有効利用できたために鎌倉幕府成立への道が開かれたことになるが、義経が若い日々を過ごした奥州もまた古代から馬産で知られた土地だ。平泉の風土と義経馬術にどれほど関係があるかわからないが、東北に生まれた者としてはこのあたりのことを誰かが研究してくれないものか、と思うこともある。

半藤一利『昭和史 1926-1945』と近衛文麿の評価について

 

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

 

 

語りおろしなので読みやすいが、それでも読み終えるまでに1週間かかった。一読して印象に残ったのは、いかにこの時代のマスコミが戦争を煽っていたか、ということだ。これは満州事変の時点からすでにそうで、毎日新聞の政治部記者・前芝確三は「事変の起こったあと、社内で口の悪いのが自嘲的に毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争”などといっていましたよ」と語っている。

満州事変の報道には朝日も毎日も臨時費100万円を使い、朝日では自社制作映画を1500箇所で公開し、号外を数百回も発行している。戦争は、新聞社が儲けるための最大のネタだったのだ。新聞社の幹部は陸軍の機密費でごちそうを食べさせてもらい、朝日新聞では出征軍人への義捐金として十万円を陸軍に寄付している。こうしたマスコミの動きが日本に軍国主義的な空気を根付かせるのに一役買っていた、と半藤氏は語る。

 

だいたいこの昭和六年、七年、八年くらいに日本人の生活に軍国体制がすっかり根付いてきて、軍歌が盛んに歌われ、子供たちのあいだでは「戦争ごっこ」がやたらに流行ります。そういえば私も、物心ついた頃には毎日やっていました。それから水雷艦長といって、帽子のツバを前にすると艦長で、後ろにすると水雷艇で、横にすると駆逐艦という遊びをずいぶんやりましたから、確かにそういう風潮だったんですね。

 

ウォール街の株価大暴落が引き起こした世界恐慌により日本も不景気だったため、戦争景気を国民が待ち望んでいたことも、戦争への期待を高めた。国民の期待に応えているからこそ新聞の戦争報道が歓迎されていたのだし、軍部もそれをわかっていてマスコミを利用していた。日本が戦争に勝ち続けている限り、この空気は容易には変わらない。

 

半藤氏は本書の最後に「国民的熱狂に流されてしまってはいけない」と語っている。日本が戦争を待ち望む空気に満ちていたとしても、その空気に従えばいいというものではない。では、昭和の日本の指導者で、一番国民的熱狂に流されてしまった人物とは誰か。それは近衛文麿であるように思われる。福田和也氏は『総理の値打ち』のなかで、近衛文麿をこう評している。

 

総理の値打ち (文春文庫)

総理の値打ち (文春文庫)

 

 

 組閣直後、盧溝橋事件が起こると、現地で和平の工作が進んでいるにもかかわらず、わざわざ官邸に記者を招いて会見を開き、中国にたいして断固とした措置をとる、と発表して事態を混乱させた。南京占領後には「国民政府を相手にせず」声明を出して和平の道を閉ざした。つまりは世論受けする攻撃的な姿勢を打ち出すことで人気を取るばかりで、自体の収集には一切責任をもたなかった。

 

日中戦争を長引かせ、日本を疲弊させたのは近衛の責任であるということだ。現場の軍人が和平したがっているのに中央政府が強硬であるのは奇妙にも感じるが、それは福田氏が評するとおり、近衛が「元祖ポピュリスト」であったかららしい。このような人物であるため、近衛文麿の評価は『総理の値打ち』では全56人の総理のなかでも17点という最低の評価となっている。

 

戦前の昭和史の中でなにが決定的な誤りだったか、を言うことはむずかしい。ただ、蒋介石政権を見放し、米英との協調路線を捨て日本を世界から孤立化させた近衛の責任は重い。半藤氏もこの近衛の失策を「愚の骨頂」と書いている。近衛ではなく、「反軍演説」において日中戦争を正面から批判した斎藤隆夫のような人物が総理だったならこの後の昭和史もずいぶん違ったものになっていたのではないか、と思ってしまう。

 

日中戦争以降もひたすらに重苦しい話の続く『昭和史 1926-1945』だったが、最後に戦争を終結させた老宰相・鈴木貫太郎が登場したことでようやく一息つくことができた。鈴木は近衛とは逆に、国民的熱狂などとは無縁の人物だった。半藤氏はこの人に思い入れが深いようで、『幕末史』では鈴木が「賊軍」出身であることを強調している。『総理の値打ち』でも鈴木貫太郎の評価は71点と、この時期の総理としては高い。2.26事件以降軍国主義への道を突き進んだ日本だったが、この事件で鈴木が九死に一生を得たことが唯一の救いであったと言うべきか。半藤氏は『日本のいちばん長い日』において、この老宰相をこう評している。

 

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)

 

 

たしかに国民的熱狂というクレージーになっていたあの時代に、並の政治的手腕なんか役に立たなかった。政治性という点だけから見れば、もっと人材はいたことであろう。岡田啓介近衛文麿若槻礼次郎木戸幸一。その人びとに鈴木さんはとても及ばなかった。むしろ政治性ゼロ。しかし、その政治性ゼロの政治力を発揮できた源は何か、といえば、無私無我ということにつきる。”私”がないから事の軽重本末を見誤ることがなかったし、いまからでは想像もつかぬ狂気の時代に、たえず醒めた態度で悠々としていられたのである。

 

 

松沢裕作『自由民権運動』が描き出す自由民権運動のカオスな実態

自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)

自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)

 

 

これは大変面白い本だった。字面だけを見れば民主主義を日本に根付かせるための運動と思える自由民権運動も、その実態を見てみると相当にカオスで、ときに時代錯誤的ですらある。たとえば本書の冒頭で取り上げられている秋田立志会は、なんと封建制社会の復活や徴兵制の廃止を唱え、会員へ永世禄を与え、士族とすることをアピールしている。これのどこが「自由民権運動」なのかと驚くような事例だ。

 

しかし、自由民権運動の担い手の来歴を見ていくと、運動がこのようなものになっていく理由もみえてくる。民権運動家として著名な板垣退助河野広中は、それぞれ土佐藩三春藩の出身で戊辰戦争で活躍した人物だが、かれらは明治維新後の社会において、満足する地位を獲得できなかった。なにしろ明治維新というもの自体が身分制をなくしてしまうものなので、戊辰戦争の勝利による家格の上昇も戦後は無意味なものとなってしまうからだ。高知藩では「人民平均」と称して士族の特権を次々と廃止し、等級制もなくしているが、この時点では板垣はまだ等級制の廃止に反対していたことが知られている。

 

しかし、こうした板垣の態度は、単に旧来の家格制度への執着とのみ評価することはできない。士族等級の廃止が高知藩内にもたらす困難の原因について、谷干城は次のように回想している。戊辰戦争の功績によって家格を上昇させたものが多数おり、板垣その人も抜群の功績によって過労角の地位を与えられた人物である。そのように軍事的功績によってせっかく獲得した家格が、等級制廃止によって一挙に失われてしまうことになるところに困難がある、と。

 

身分制をなくすことで、戊辰戦争で獲得した既得権を失ってしまう人びとが多数出てくる。それは板垣や河野のような藩の幹部だけではなく、戊辰戦争に参加した名もなき兵士にしても同じことだ。戊辰戦争には都市の下層労働者や博徒なども多数参加していたが、かれらは自分たちの活躍にふさわしい処遇を求め、自由民権運動に参加していくことになる。

 

このような自由民権運動の動きを、著者は「戊辰戦後デモクラシー」と呼ぶ。この見方は慧眼であると思う。本書にも書かれているとおり、近代日本におけるデモクラシーという現象は、大きな戦争の終結後に起きている。戦争は国民に大きな負担をかけるため、そこでつのった不満が戦争指導者に対して吹き出すからだ。日露戦争第一次大戦終結後に大正デモクラシーの流れがあり、太平洋戦争終結後に戦後民主主義が興ったのと同様に、戊辰戦争後に自由民権運動が起こったのだ、ということだ。江戸時代の身分秩序が解体していくなかで、「ポスト身分制社会」を作り出そうという時代のうねりが自由民権運動を生んだということである。

 

征韓論という主張もまた、この「ポスト身分制社会」を求める動きのなかで出てきたものだと本書では解釈される。板垣退助西郷隆盛とともに征韓論を唱えていたことはよく知られているが、西郷が危惧していたのは徴兵制の実施で存在意義を失いつつあった士族が反乱を起こすことだった。かれらの不満を国外へ向けることが必要だ、というわけである。征韓論は本質的には外交問題ではなく、内政の問題だった。明治六年の政変に破れ征韓論を実現できなかった板垣は西郷とともに下野し、以降自由民権運動をスタートさせることになる。

 

このように、自由民権運動というものが戊辰戦争における「勝ち組のなかの負け組」とでも言うべき層に率いられていたことが、この運動の性質を規定している。自由民権運動はやがて激化し武装蜂起へと向かっていくが、冒頭に取り上げた秋田立志社も富裕者の家に押し入り強盗殺人の罪を犯している。立志会が資金難に陥ったことがこの「秋田事件」の原因とされるが、会員を集める手段として士族の待遇が得られることや封建制の復活を唱えたりするあたりにこの運動の限界を感じる。インテリの指導者層はともかく、会員の多くは士族になって良い暮らしをすることを夢見ていたのだろう。「ポスト身分制社会」を求める側の頭の中が、江戸時代とあまり変わっていないのだ。

 

本書を読んでいると、月並みな言い方だが結局人は急には変われないのだ、ということを痛感させられる。撃剣に力を入れ、飲むたびに刀を振り回す民権運動家の実態を見ていると、かれらは結局武士になりたかったのではないか、という気がしてくる。多くの人は、過去の延長線上に未来を思い描く。だとすれば民権運動が理想とする未来が禄をもらい、武士として生きることになったとしても仕方がないということになるだろうか。ポスト身分制社会で生きづらくなった人びとがかえって過去の身分制社会を求めてしまうのは、明治という急ごしらえの近代国家を作ることがいかに困難だったか、ということのひとつの証左でもある。

 

彼らのイメージする苦痛からの開放のなかには、身分制社会を前提とした「武士になる」というイメージが含まれている。新しい社会の像を描くにあたって、「禄が支給される」という武士のイメージを用いることがおこなわれた。過去に経験したことのある手持ちのイメージが、誰も経験したことのない未来のユートピアを描くために使われるのである。

 

万人敵・震天雷・流星錘……バラエティ豊かな中国史上の兵器を網羅した『Truth in FantasyⅧ 武器と防具 中国編』

 

武器と防具〈中国編〉 (Truth In Fantasy)

武器と防具〈中国編〉 (Truth In Fantasy)

 

 

表意文字である漢字の強みは、字面だけで雰囲気を出せることだ。中国史には実にバラエティ豊かな武器が存在し、「震天雷」「迅雷銃」「神火飛鴉」などなど、本書にはどこかファンタジーめいた名称の武器がたくさん登場しているが、これらはすべて実在したものばかりだ。この『武器と防具 中国編』では前近代の中国史上の武器と防具についての簡単な解説と、それらが用いられた歴史的経緯について知ることができるので、すこしでも中国史に興味のある読者にとっては楽しく読める一冊に仕上がっている。

 

技術者としての諸葛亮の役割

本書では射撃兵器について一章が設けられているが、なかでもとりわけ興味を惹かれるのが連弩だ。同時に多数の矢を発射する連弩は戦国時代から存在しているが、これを個人で使用できるよう改良を加え、連弩を装備した部隊を編成したのが諸葛亮だ。かれの開発した連弩は「元戎」とよばれているが、元戎は魏の騎兵に対抗するために開発されたと解説されている。魏の軍事力にに対抗するためのハードウェアが元戎であり、ソフトウェアが八陣とよばれる軍隊の運用方法だった。

明代には諸葛弩とよばれる連弩も存在しており、10本の矢を連続発射できる兵器なのだが、元戎を推定して作ったため考案者である諸葛亮の名前を借りたとされている。

 

倭刀と鳥銃と戚継光

本書を読むと、日本の武器が中国史に与えた影響力の大きさに驚く。まず倭刀の項目では、もともと美術品として輸入されていた日本刀の切れ味のよさが倭寇との戦いで知られるようになり、戚継光などの明の将軍が自分の部隊へ装備させるようになったと書かれている。日本刀は明代末期から清の軍隊にも取り入れられ、中国でも日本刀が生産されるようになっている。それだけ日本刀が武器として優秀だったとうことであり、明が倭寇に苦しめられていたということでもある。戚継光は倭寇に対抗するために狼筅という枝葉のついた槍も開発しているが、この兵器もちゃんと解説されている。

 

中国武将列伝〈下〉 (中公文庫)

中国武将列伝〈下〉 (中公文庫)

 

 

戚継光は田中芳樹が『中国武将列伝』の中で名将のひとりに数えている人物だが、戚継光は鳥銃(火縄銃の一種)も導入しており、彼の考えた編成では歩兵部隊の鳥銃の装備率は40%となっている。ほぼ同時代の信長の軍隊での鉄砲の装備率が8%に満たなかったことと比較すると、こちらのほうが断然多い。しかし鳥銃は騎兵に対抗する決定打とはなり得なかったようで、サルフの戦いにおいて朝鮮の鳥銃隊が後金の騎兵隊に対抗できなかったことも解説されている。よく銃の発達が騎士を時代遅れなものにしたといわれるが、事実はそう単純ではない。

 

「火薬帝国」としての明王朝

 本書を読めば、中国における火器の発展もひととおり学ぶことができる。火薬はもともと神仙道の実験の副産物として発見されたものだが、五代の時代にすでに火槍という火炎放射器が出現している。宋代には火器を専門に制作する部署が存在し、モンゴルが西アジアを制覇すると火器の技術はイスラム世界へと伝わった。本来、中国は火器の先進国だった。

明の永楽帝の時代になると、神機営という砲兵部隊が登場する。火器の威力を早くから評価していた明帝国だが、使用法が国家機密であったため兵士がその使い方をよく知らず、土木堡の戦いでは火器が役に立たなかった、などという史実もある。

 

末期の明を支えていた兵器は大砲、とくに紅夷砲だ。後金を興したヌルハチも寧遠城攻略の際にこの大砲に味方を打ち崩され、ヌルハチ自身も負傷したと言われている。この痛手に懲りた後金が大砲の生産を開始し、また明軍の降参兵も砲兵隊に組織したことが、清の中国征服に大いに貢献している。明は火器によって守られ、火器によって滅びた。ウィリアム・マクニールはオスマン帝国ムガル帝国モスクワ大公国などを大砲の運用によって栄えた「火薬帝国」と名付けているが、これらの帝国ほどではないにせよ、明もまた火器の力に依存している帝国だった。

 

水滸伝に出てくる武器も調べられる

世の中にはこんなものが本当に存在するのか、と思うようなものも案外実在している。水滸伝を読んだ人なら「鉄笛仙」の馬麟を知っていると思うが、暗器の項には本当に鉄笛という武器が出てくる。これは実際に楽器としても使えるので武器だとは見抜かれにくい。水滸伝で有名な武器といえば呼延灼の「双鞭」だが、これは鞭ではなく金属製の棒のことなので、打撃武器の項に書かれている。知っている人は知っているのだろうが、昔横山光輝のマンガで読んだ呼延灼は二本のムチを使っていたので、ああいうものなのだろうと思っていた。ほんとうの双鞭は三國無双太史慈が使っているようなものだということである。

 

創作の資料としても有効

このように、本書では中国史上の兵器を幅広く扱っているので読み物としておもしろいだけでなく、歴史ものの創作をする上でも参考になる。今まで挙げたようにこれらの兵器の名前はインパクトがあるため、中華風ファンタジーを書くときも役に立つだろう。ここに挙げられているものを参考に、独自の兵器を考案してみるのも面白いかもしれない。センスは知識の集積から生まれるので、こういう知識を持っておいて損はない。

 

大英帝国の中でハイランダーはどう生きたか──井野瀬久実恵『大英帝国という経験』

 

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

 

 

これは興亡の世界シリーズの中でも注目されるべき一冊であるように思う。というのは、本書ではスコットランドアイルランド奴隷解放、移民やレディ・トラベラーなど、大英帝国の中の周縁やマイノリティについてまんべんなく記述されており、最盛期のイギリスを多角的な視点から捉えることができるからだ。イギリスの政治史について一から学べる本ではないが、基本的な政治史を知っているなら本書で大英帝国の社会や文化についてより深い理解を得ることができる。

 

本書を読んでいてとりわけ興味を惹かれたのは、第2章「連合王国と帝国再編」で書かれているスコットランドアイルランドの境遇だ。ここでは近世のスコットランド史について簡潔に触れられているが、普通は「無血革命」といわれる名誉革命スコットランドにおいてはグレンコー事件という凄惨な虐殺を生じていたことがわかる。この事件はスコットランドハイランダー(ハイランド住民)に激しい憎悪を引き起こし、のちにカロデンの戦いにおいてイギリス軍とハイランダーが戦う事態にまで発展した。この戦いを指揮し、ハイランダー掃討を展開したカンバーランド公BBCが2005年に「最悪のイギリス人」18世紀部門に選んでいる。

 

このカロデンの戦いの後、スコットランド人は5つの「M」ではじまる職業で活躍したといわれる。中でもハイランダーが活躍したのはmilitary、つまり兵士だ。連合王国政府がハイランドの氏族を解体し、土地から追放してしまったためである。イギリス人にとり陸軍兵士はどんなに貧しくともなりたくない職業だったが、そういう食に就かなければいけないほどハイランド人は苦しい境遇にあった。ハイランド部隊の男たちは七年戦争アメリカ独立戦争の最前線で活躍し、死んでいった。ハイランダーの勇敢さはイングランド人の将校も感動させたといわれる。

 

このようなハイランダーの活躍は、第9章「準備された衰退」でもふたたび描かれている。ボーア戦争南アフリカ戦争)の捕虜収容所に居合わせたアリス・グリーンは、ボーア軍のドイツ人の証言として、このような発言を記録している。

 

イングランド人は財産保全を約束しながら、将校たちまで略奪に加わった。ほしくないものまで彼らは略奪した。それに比べて、スコットランド・ハイランド連隊の兵士たちがどれほど勇敢に戦ったことか!彼ら以外の兵士は、戦闘など気にもせず、略奪に夢中だった。

 

大英帝国の都合につき合わされているハイランド人が敵にまで称賛されるほど勇敢であり、イングランド人は野蛮であった。この捕虜収容所では、アイルランド人兵士に対しても多くの好意的な証言が得られている。大英帝国の周縁で苦しめられた人びとのほうが立派であったというこの事実は、何を意味するのか。イングランド人のほうが狡猾であったからこそ、彼らを支配することができたということだろうか。いずれにせよ、こうしたスコットランド人やアイルランド人の姿はもっと知られていいのではないかと思う。

 

saavedra.hatenablog.com

 近世のスコットランドが背負った労苦については岩波新書の『スコットランド 歴史を歩く』が詳しい。グレンコー事件についてはこれを読めばより深く知ることができる。

観応の擾乱に災害が及ぼした影響とは?亀田俊和『観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』を読んで

 

 

あとがきに書いているように、著者の亀田俊和氏は天邪鬼なところがあり、中世史の本でもほとんどのものがあまり言及していない観応の擾乱が気になり、研究対象とするようになったのだという。結果として、本書のようなとてもわかりやすい入門書ができた。本書は呉座勇一氏の『応仁の乱』とともに中世史ブームの一環をなす本としてよく売れたが、 亀田俊和氏の研究成果は呉座氏が『陰謀の日本中世史』の中でも肯定的に引用しているほどで、それだけ有益な知識を読者に提供してくれているということである。この『観応の擾乱』もまたこの複雑な騒乱をわかりやすく整理しつつ、最新の知見を提示してくれるので、これを読めば観応の擾乱をよく知らない人はこの乱の経緯と結果を理解することができるし、知っている人も中世史の知識を最新のものにアップデートできる。

 

saavedra.hatenablog.com

足利尊氏とその弟直義、そして尊氏の息子直冬、直義の執事高師直など多くの人物が入り乱れて戦う観応の擾乱の流れはそれなりに複雑だ。直義が一時南朝に降伏していることが余計に事態をややこしくしている。足利直冬が武将としての力量に恵まれていたことも騒乱の長引いた原因だろう。足利一門には有能な人物が多いのに、こうして互いに争っていることでどれだけの時間や人的資源が無駄になったかわからない。

 

とはいえ、雨降って地固まるとでも言えばいいのか、まさにこの争乱の結果として室町幕府の支配体制が盤石なものとなっていく。騒乱の原因のひとつとして恩賞の不足があったため、争乱の終結後は恩賞が充実し、「努力が報われる政権」ができあがった。半済令を実施し、守護の支配を強化したことも武士の利益を重んじたためとここでは解釈される。直義が最終的に尊氏に敗北したのも、直義が寺社勢力の権益を養護し、武士の利益を重んじなかったためであるから、これに鑑みれば当然武士が報われる政権を作らなくてはならない。足利義満以降続く室町幕府の全盛期の基礎が、この時期に固められたことになる。

 

ここで慧眼と思われるのが、亀田氏が南北朝時代の災害の多さについて言及している点だ。荘園が水害で被害を受ければ、当然取り立てられる年貢は減ってしまう。ただでさえ恩賞が少ないのに、災害でろくに年貢が徴収できないとなれば、さらに幕府への不満はつのる。これもまた観応の擾乱を長期化させた原因ではないか、というのである。元号の由来をみれば明らかだが、日本が自然災害大国であることが、ここにも影響している。

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観応の擾乱は日本史上のイベントとしてはマイナーな部類に属するが、後世に与えた影響、歴史的意義はとても大きい。中世史への関心が集まっている今、日本史の知識の空白を埋めてくれる著書の需要が高まっているが、この『観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』は、読者の知的好奇心を満たすだけでなく、この騒乱をきっかけに中世史の深い沼へと誘ってくれる好著だ。

阿部正弘という人物をどう評価するか?半藤一利・出口治明『明治維新とは何だったのか』

 

 

幕末史や昭和史に関する著書を多数発表している半藤一利氏と世界史の著作の多い出口治明氏の対談。半藤氏の語りを出口氏が聞くという体裁になっているが、出口氏が世界史レベルの視点から半藤氏の発言を補う箇所が多く、広い視野から明治維新についてとらえなおすことのできる良書となっている。

 

世界史という視点からみれば、ペリーの黒船来航は、日本を中国市場への足がかりにするため、ということになる。大英帝国アメリカが中国市場をめぐって争っているなかで、アメリカは寄港地としての日本に目をつけた、ということらしい。出口氏にいわせれば、アメリカの武力は商売のためのものであって、使わないのであればそれに越したことはない。ヴァイキングも本当はイングランドやフランスが不公平な取引をするため、やむなく武装したのだという知見もここで披露される。こういう過去の事例との比較はおもしろい。

 

アメリカに戦う気がないとしても、やはり黒船は日本にとっては脅威だ。では、日本はアメリカの圧力に押されてやむなく開国したのか。二人の意見は異なる。半藤氏と出口氏は、阿部正弘開明的な人物であったため、富国強兵のために積極的に開国をしたのだという。事実、阿部の開明性は海軍伝習所や蕃書調所の設立にも具体的に現れている。海軍伝習所が勝海舟榎本武揚五代友厚佐野常民などの人材を輩出したことからわかるとおり、阿部の近代化政策の意義は大きい。

 

半藤:だから私も、阿部さんがもっと長く生きていたら、幕末はずいぶん違う流れになっていただろうと思います。この人が早く死んじゃったおかげで、幕末のゴタゴタがよりおかしくなっちゃうんですよ。

 

出口:本当に立派な人ですよね。有為な人材登用や人材育成策は、お見事の一語に尽きます。また開国に当たっては、朝廷や雄藩の外様大名にも意見を求めている。市井の声も聞こうとしている。まさに「万機公論に決すべし」を地で行っている。一八五四年に創設された福山藩の誠之館では、藩士に限ることなく身分を超えて教育を行おうとしています。

 

幕末において、日本のグランドデザインを描くことができた数少ない人物のひとりが阿部正弘、というのが二人の見解だ。もし、安倍がもっと長生きしていたらどうなっていただろうか。井伊直弼のような強権的な政治手法を好まない阿部が幕政の中心に居続ければ桜田門外の変も起こらず、幕府の権威が失墜しないため、徳川幕府が存続したまま日本の近代化が成し遂げられていたかもしれない。ただしその場合、武士政権である幕府に廃藩置県のような徹底した改革が行えるだろうか、という疑問は残る。

 

saavedra.hatenablog.com

もっとも、このような阿部の高評価は、半藤氏の「反薩長」の立場から導かれるものでもあるかもしれない。「官軍」という呼称が嫌いでわざわざ「西軍」という言い方をするほど薩長が嫌いな半藤氏からすれば、とうぜん薩長と対決した幕府側の評価が高くなる。とはいえ本書では薩長が不当に低く評価されているわけでもなく、大久保利通阿部正弘と並ぶビジョンをもった政治家と評価されている。大久保が暗殺されてしまったために山縣有朋が表舞台に登場し、日本が軍国主義への道を突き進むことになった、という評価は『幕末史』の見方をそのまま受け継いでいる。

 

本書の内容は幕末から出発しているが、その射程は広く近代史全般を話題にしている。出口氏は、近代日本の過ちは日露戦争で勝利し、欧米との協調路線(=開国)を捨てたことだと言っている。この開国路線を敷いた阿部の功績が、ここでふたたび強調されている。徳川の祖法である鎖国を中止した阿部の功績は、もっと知られてもいいものかもしれない。