明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

「作りたい」のか「褒められたい」のか

president.jp

この記事の中で為末氏は、アカデミー賞を取りたい動機が「作りたい」か「褒められたい」か、まずはそこを問い治すことだと言っている。 どちらであるかによって取るべき行動は変わってくるのだと。

 

創作したい欲求の正体が「作りたい」なのか「褒められたい」なのか。何か創っている人なら一度は考えたことがあるのではないかと思う。しかし、これは簡単には分けられない。この両者は密接にリンクしていて、褒められればモチベーションが上がるし、喜んでもらえるからこそ作りたいという欲求も沸くのである。

小説をいくつか発表していると、時には褒められることもある。最初の動機は間違いなく「作りたい」だったし、とにかく書き終えただけでも満足感はあったが、幸い評価してくれる方も少ないながら居たので、今でも書き続けるモチベーションを保っていられている。もし誰も認めてくれなくても同じ心境でいられたのかはわからない。純粋に「作りたい」だけで駆動している人だって、褒められたくない人などいないのだ。

承認欲求ばかり膨らませているととにかく受けを狙うことが第一となり、自分が何を書きたいかも見失ってしまうので「褒められたい」を第一目標に置かない方がいいと思うが、実際問題、賞賛されたいというのは強烈な創作のモチベーションになる。誰も認めなかろうが好きなものを書ければいいのだ、だけでどこまで走り続けることができるのだろうか。本当はそれができれば理想なのだけれど、人間褒められるとどうしても欲が出てくるものだ。

この「褒められたい」の中身にもいろいろなものがある。先の相談事例のようにアカデミー賞が獲れなければいけないというものから、身近な人に認めてもらえればそれでいいという程度のものまで、願望のサイズは様々である。サイズが小さい人は志が低いからダメという話ではない。為末氏が「人参は適切な距離に置かれたときに最も効果を発揮する」と書いているように、せいぜい数人に褒められればいいという人が無理に文学賞など目指すとかえって不幸になってしまうかもしれない。自分が望む成功のサイズはどの程度なのか、を見誤らないことが大事だ。

今のところ、自分の中での願望の適正サイズは「面白いと言ってくれる人を最低一人は確保すること」だ。自分の中の「面白い」を共有してくれる人が皆無でなければ、まずはそれでいい。いくら「作りたい」がメインであっても、「褒められたい」を完全に放棄してしまうと、誰にも読んでもらえない作品になるかもしれない。もちろんそういうものを書く自由もある。ただそういうものは私は書きたくないし、低いハードルでもハードル自体は設置しておいたほうが緊張感を持ちつつ書くことを楽しめるのではないかと思っている。