明晰夢工房

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アドラー心理学『嫌われる勇気』を読んでいて気になったこと

以前から気になっていたこの本なのですが、最近ようやく読むことができました。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 大体どのブログを読んでもほぼ絶賛されている本なのですが、僕のような人間からすると気になる点ばかりがたくさん出てきて到底これを手放しで褒めることはできません。良いことも書いてあるとは思うのですが、それ以上に問題点がたくさん浮かびあがってきたので、その点について以下にまとめてみたいと思います。もう十分なくらい賛辞を浴びているでしょうから、こういう記事がひとつくらいあってもいいでしょう。

 

というわけで、以下に書く事は主に『嫌われる勇気』に対する批判です。アドラー心理学が好きな方、著者の岸見さんのファンの方は読んでも不愉快になるだけだと思いますのでここから先は読まないことをおすすめします。

 

トラウマは存在するのではないか

この本はおそらくは著者の岸見さん自身であろう「哲人」と、哲人のもとを訪ねてくる「青年」との対話によって進んでいきます。この青年というのが何というか、自意識過剰で屈折して自分が嫌いで……と一昔前のはてな民を煮しめたような感じのキャラ付けでなんだか苦笑してしまうのですが、それはそれとして。

 

この本ではまず最初に、アドラー心理学の特徴である「目的論」について解説されます。これはフロイトの考えたトラウマが現在の自分を作っているという「原因論」とは逆の考え方です。この目的論とは感情とははある目的のために自分自身が「使う」のだ、という考えで、人は自分自身を変えないために過去の辛い出来事を持ち出すのだ、と哲人は青年に解くのです。例えば哲人はこうした議論を展開します。

哲人「外に出ることなく、ずっと自室に引きこもっていれば、親が心配する。親の注目を一身に集めることができる。まるで腫れ物に触るように、丁重に扱ってくれる。

これは明確なトラウマの否定です。社会に出ていくことの恐怖は何らかのトラウマがあってそういう感情が出てきているのではなく、引きこもっている当人が自分に注意を向けさせるという「目的」のために自ら作り出しているのだ、と哲人は主張するのです。

 

一見なるほど、と思える議論です。しかし、東日本大震災やアフガン戦争などでも実際にPTSDの症状が出ている人が実在するわけですし、「トラウマは存在しない」と決めるけることはできないのではないかと思います。目的論の立場に立つなら、震災で不安症状が出るようになった人も周囲に心配して欲しくてそういう症状を出しているのだ、という話になりそうですが、このような事を言っては今トラウマに苦しんでいる人に対する二次加害になりかねないのではないでしょうか。

 

いやそういう人の話をしてるんじゃない、あくまで不幸アピールをして同情を引こうとする人の話をしているんだと言われるかもしれませんが、ある人の苦痛や不幸の訴えが苦しさのあまりそうしているのか、同情を引きたくてそうしているのかを判別するのは容易ではありません。僕はトラウマは存在するという立場ですし、現にそうしたことで苦しんでいる人がいる以上、「トラウマを否定せよ」という本書の主張には慎重にならざるを得ません。

 

この本では「フロイト的な原因論に立つ限り、我々は何もすることができない」とも主張されているのですが、これもおかしな話です。過去に原因があったら過去は変えられないからどうにもならないという話のようですが、トラウマは存在するという立場でも効果を上げている心理療法は数多くありますし、そもそも「人は目的のために感情を作り上げる」というアドラーの説が本当に正しいのかもわかりません。

 

以前、ある有名ブロガーが「今不幸を感じている人は、実は不幸でいることをどこかで楽しんでいるのだ」と主張していたのを見たことがあります。おそらくアドラー心理学を下敷きにした主張なのでしょうが、アドラーの目的論を自分自身について深く了解するために使うならともかく、このように今苦しんでいる人を嗤う目的で使うのには強い抵抗を感じます。もっともこの本では「自分と他者の課題を分離せよ」ということも言われているので、他人事をそんな風に上から分析するのはアドラー的には良くないことなんでしょうが。

 

承認欲求を否定して良いのか

この本では、哲人が「承認欲求を否定せよ」と解きます。なぜ否定するべきなのかというと、承認されることを目的として生きると常に他人の顔色を伺うことになり、他人の人生を生きることになってしまう。それは不健全な人生だからだ、ということです。そもそも他者に好かれるかどうかなど自分でコントロールできないことなのだから、そんな「他人の課題」は切り捨てて「自分の課題」に集中せよ、そういう「課題の分離」こそが大事なのだ、と哲人は言うのです。

 

これなども一見もっともらしいのですが、特に創作などについて考える場合、僕は承認欲求は適度にあったほうが良いと思っています。というのは、「人に認められる作品を書きたい」という欲求があってこそ、作品のクオリティを上げようという意思が生まれるからです。承認欲求がなければ人に褒められる必要がないから独りよがりな作品を書くかも知れないし、まあ褒められなくても不満がないのならそれもメンタルヘルス的には大変良いかもしれませんが、やはり他人の評価などどうでもいい、と割り切ってしまうのは難しいですし、他者の承認を求めることがそこまで不健全な行為であるとは僕には思えません。

 

どうもこの本って、議論の進め方が1か0かなんですよね。アドラー心理学をマスターした人生の達人である哲人が、感情的になりやすく若く未熟な青年と議論を重ねて教え導いていくという構成になっているのですが、どうも二人とも極論をぶつけ合っているように思えてならないのです。承認をめぐる話にしても、青年は「承認欲求は人間の基本だ」というのに対し、哲人は「他者の期待を満たすことは自分に嘘をつくことだ」などと言うのです。いや、そこは間を取って「他者の期待を満たすのを第一に考えなくてもいい」くらいの考えにはならないの?どうしてそこまで頑なに我が道をゆく生き方を推奨しなくてはいけないのか。中庸という考え方がこの本には一切欠けている気がします。

saavedra.hatenablog.comこちらのエントリでも取り上げましたが、小池龍之介さんは上記の本の中で「精神の自給率を上げる」という方法を推奨しています。これは、メンタルヘルスを他者承認だけに頼ると精神が安定しないので、自分で自分を承認してやる割合を増やしていきましょうということなのですが、ここで目安とされている自給率は50%です。俗人には完全に自分で自分を承認することは難しいので、残りの50%くらいは程よく他人とコミュニケーションして受け止めてもらえばいいじゃない、ということです。これくらいが妥当な落としどころだと思いますし、承認欲求を全否定するよりよほど現実的だと思います。

 

世界はシンプルではない

目的論の考え方やトラウマの否定などもそうなのですが、どうもアドラーの人間観として、決めつけが多いように感じます。「全ての悩みは人間関係」といった点もそうです。例えば重病による苦痛などは人間関係の悩みではありません。良い友人に恵まれていれば多少はその苦痛が和らぐかもしれませんが、苦しみの本質は病気です。

 

本書では「世界はシンプルで、人生もまたシンプルだ」という主張が繰り返されます。目的論や「課題の分離」といった考え方、「共同体の声を聞く」といったアドラーの主張自体は確かにシンプルなものです。しかしこれはアドラーのフィルターを通じてみれば世界はシンプルに見えるということであって、現実の世界がシンプルであるわけではありません。少なくとも僕はアドラーが説くように皆が何らかの目的のためにトラウマを作り出しているとは思いませんし、トラウマが原因で生き辛くなっている人もたくさんいると思っています。そうした人を見ないようにするか、「いや、あいつは変われない言い訳のためにトラウマなんて持ち出しているだけだ」と解釈するようにすれば確かに世界はシンプルでしょう。そのシンプルさが何を切り捨てた上に成り立っているのかを考えなければ。

 

貧困・格差論との相性は?

 アドラーによれば、結局幸せになれるかどうかは環境ではなく自分の意思次第なので、「貧困や格差の存在が不幸感を増している」といった主張は間違いだということになりそうです。共同体に貢献し、「いまここ」を生きるようにすれば環境はどうあれ幸せになることができるのだ、とこの本には書かれているので、貧困だから不幸だという人は言い訳をしているに過ぎず、不幸でいたいがためにそう主張しているだけなのだということになりそうですが、では貧困や格差は解消しなくてもいいのでしょうか。どんな環境であれ気の持ちようで幸せになることはできるのだから、そんな社会問題など些細なことだと言われてしまいそうです。

 

僕自身はこうした社会問題は明らかに人の不幸感を増すものだし、できることなら解消されるべきだと思うのですが、アドラーの考えを取る限りは社会問題を不幸の原因とすることができません。どんな環境下でも幸せになれるのだという考えは確かに希望をもたらすものではありますが、この考えは構造的要因によって起きる不幸に対して非常に冷淡です。幸福など結局気の持ちようですまされてしまうのなら、極端な話、社会なんて改善する必要はないということになってしまわないでしょうか?

 

著者自身の考えはどこにあるのか

この本を読んでいて、哲人は終始一貫して「アドラーは……」という言葉を繰り返します。アドラー心理学を紹介する本なんだから当たり前なのですが、僕はこの本を読んでいる間ずっと「アドラーがそう言っているのはわかったけど、貴方の考えはどこにあるの?」という違和感を拭うことができませんでした。もっとも後書きを読むと、この本に書いていあるのはアドラーそのものというよりも、著者流の味付けをほどこした「岸見流アドラー心理学」とでもいうべきもののようなのですが、アドラーの原典に当たったことのない僕にはアドラーとこの本の差異はわかりません。

 

意地悪な言い方をすると、僕にはこの哲人が「アドラーがこう言っているのだからこれは正しいのだ」と主張しているように感じられたのです。本当はそんなことはなくて、単にアドラーの考えに著者が完全に賛同しているからそのまま紹介しているだけなのでしょうが、アドラーだってユングフロイトと同時代の人なんだから、もうそろそろ批判的に乗り越えられてもいいんじゃないの……?とも思うのです。

 

 是々非々で取り入れればいい

なんだか文句ばっかりになってしまいましたが、さすがにベストセラーになるだけあって、本書はいろいろといいことも言ってはいるのです。「課題の分離」といった考え方はストレスを減らすうえでは確かに役立ちそうですし、どこかの大学生が4ヶ月で大学をやめて起業することにした、なんて話はそれこそ「他人の課題」でしかないんだから放っとけばいいし、こちらの人生には一ミクロンも関係ありません。そういう意味では確かにアドラーは「使え」ます。

 

でもここまで書いてきたように納得できない点は多々ありますし、アドラーという権威だからといって言ってることが全て正しいとは全く思わないので、この本については抵抗なく受け入れられるところだけ取り入れればいいと思います。アドラーの言うことだから聞かなければダメだ、というのならそれこそ他人のために自分自身を売り渡していることになるし、それはアドラー的にもダメなことになりそうなので。