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確証バイアスが「日本人は集団主義的」という文化ステレオタイプを生んだ──高野陽太郎『日本人論の危険なあやまち ―文化ステレオタイプの誘惑と罠―』

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「日本人は集団主義的である」という通説は間違っている、という記事が一部で反響を呼んでいた。この記事の参考文献としてあげられている高野陽太郎氏の『「集団主義」という錯覚 ― 日本人論の思い違いとその由来』は、2008年に刊行されている。10年以上前に、日本人=集団主義的というイメージが誤りであることはすでに指摘されていたことになる。

にもかかわらず、いまだに多くの人々が「日本人は和を重んじるため、個性が抑圧される」「出る杭は打たれる」などといった「日本人論」をなんとなく信じている。エビデンスの裏付けがなにもないこうした偏見が、なぜ信じられているのか。高野氏の著書『日本人論の危険なあやまち ―文化ステレオタイプの誘惑と罠―』を読むと、これらの偏見が定着した歴史的経緯を知ることができる。

 

 

日本人論の基礎をつくったパーシヴァル・ローウェル

本書によれば、「日本人は集団主義的」という見方の源流は、明治16年に来日したアメリカ人パーシヴァル・ローウェルに行きつく。ローウェルは著書『極東の魂』で日本人の特徴を「個性がないこと」だと強調している。なぜローウェルは、日本人の個性を感じることができなかったのか。著者は、ローウェルの日本語能力にその原因を求めている。人の個性は言葉を通じて感じ取られるので、一年ほどしか日本語を学ばなかったローウェルには日本人の個々の違いを感じにくかった、というわけだ。

 

こうした事情にくわえ、ローウェルは、民族は西から東へ行くにしたがって没個性的になる、という考えを持っていた。つまり、「アメリカファースト思想」である。さらにローウェルは「人間は進化するほど個性的になる」というハーバート・スペンサーの主張の影響も受けている。これらの説に従えば、個性の乏しい日本人は遅れた民族ということになってしまう。こうした様々な偏見にもとづいて書かれた『極東の魂』には、その後の日本人論の原型ともいうべき主張がみられる。「個我が共同体の精神に溶け込んでしまう」といった記述などがそうだ。「日本人は中国やインドの文化を輸入し模倣してきたが、独創性には欠ける」という主張もあるが、これも雑な日本人論ではいまだによく見かける。「日本人は子供の段階で止まっている」という指摘は、本書によればマッカーサーの「日本人は12歳の少年のようだ」という見解にも影響を与えているのだという。日本人論のベースをつくった『極東の魂』はアメリカでは広く読まれ、この本によってアメリカにおけける日本人のイメージが形成されていった。

 

菊と刀』は和辻哲郎柳田國男に批判されていた

こうしたアメリカにおける日本人のイメージが、日本に定着するきっかけを作ったのがルース・ベネディクトの著書『菊と刀』だ。文化人類学の名著といわれるこの本には、「集団主義」という言葉は出てこない。だが『菊と刀』は日本文化を「恥の文化」と位置づけている。周囲の人々の目を気にし、恥ずかしくないよう行動する日本人はまさに集団主義的だ。ここで描かれる日本人は、神が定めた「罪」を犯さないよう行動する西洋人とはまったく異なっているように思える。

だが、和辻哲郎は『菊と刀』について「我々の側からは、そういう結論を不可能にするための同数の反対のデータを容易に並べることができる」と批判した。柳田國男もまた、多くの日本人が「罪」という言葉を口にしていたことを指摘している。ベネディクトの日本文化論は根拠に乏しいものだった。なにしろベネディクトは日本語も話せず、来日したこともない。彼女は当時はアメリカの敵国だった日本を研究していたため、文化人類学には欠かせないフィールドワークも行えなかった。このため、それまでアメリカ人が抱いていた「集団主義的」な日本人像を踏襲せざるを得なかった、と本書の6章では書かれている。

 

では、なぜ『菊と刀』の内容を多くの日本人が信じたのか。著者は理由のひとつとして、「挙国一致」のスローガンのもと、日本人が戦争を遂行していたことをあげている。『菊と刀』の邦訳が出版されたのは1949年だが、この数年前まで日本が軍国主義一色に染めあげられていた過去をふりかえれば、「日本人は集団主義的」という言説はすんなりと受け入れられる。アメリカの占領下にあった日本において、アメリカを見習わねば未来はないと考えていた日本人にとり、ベネディクトの言葉が「天の声」に聞こえた、とも著者は指摘している。民主主義は個人の自立の上に成り立つ。民主化した日本にとり「集団主義的」な文化は、乗り越えるべき過去の遺産と受けとめられていたのかもしれない。

 

だが本書によれば、「集団主義的」な行動はどの国にもみられるものだという。アメリカでは第二次大戦中、12万人もの日系移民を強制収容所に監禁した。戦後には赤狩りの嵐が吹き荒れ、数多くの学者や芸術家・官僚が尋問を受けた。これらの人々は議会に召喚されただけで世間から白眼視されたと6章では書かれている。ここだけ読めば、アメリカも日本同様、世間による抑圧の強い国だと思えてくる。「集団主義的」な出来事だけを恣意的にとりあげれば、どんな集団も集団主義的だと言えてしまう。

ある仮説を立てると、その仮説に都合のいい事例ばかりが見えてしまうことを「確証バイアス」と呼ぶ。「日本人は集団主義的だ」という先入観を持っていると、日本人の集団主義的な行動ばかりが目につく。「アメリカ人は個人主義的」と思っている場合も同じことが起こる。本書の7章では、和辻哲郎によるベネディクト批判は、彼女が確証バイアスにとらわれていたことの指摘だと書かれている。研究者ですら確証バイアスにとらわれることがあるのだから、知的訓練を受けていない一般人は余計に信じたいことだけを信じてしまう。

 

確証バイアスが生む「文化ステレオタイプ」の危険性

確証バイアスが危険なのは、それが文化ステレオタイプを生んでしまうからだ。著者によれば「日本人は集団主義的」といった日本人論は典型的な文化ステレオタイプになる。ステレオタイプは当然事実に反するから、文化の正確な理解をさまたげる。それどころか、他国への敵意を煽るのに利用されることもある。本書の9章では、日米貿易摩擦において文化ステレオタイプが利用されたことを指摘している。対日貿易赤字の膨らむアメリカでは、日本に自主規制や数量制限などの要求を吞ませるため「日本は自由貿易のルールに従わない特殊な国だ」という認識を必要としていた。日本の特殊性とは、今までさんざん言われてきた「集団主義」だ。日本異質論は日本を叩くための格好の武器になり、反日感情が煽られた結果、東芝のラジカセを叩き壊す議員まで現れた。ここまで叩かれていても、叩かれる側の日本人までが「日本人は集団主義」という幻想を信じていた。文化ステレオタイプの呪縛はここまで強いのか、と驚くような話である。

 

東京大学がわざわざ「日本人は集団主義的であるという通説は誤り」と題する研究成果を公開するのは、いまだにこれを信じる人がたくさんいるからでもある。根拠に乏しい説でも多くの人がそれを信じていれば、影響力を持ってしまう。血液型性格診断に科学的根拠がないことなどずいぶん前から指摘されていたが、つい最近まで血液型で大まかな性格がわかると信じる人は少なくなかった。「日本人は集団主義的」という偏見が力を持たなくなるまでどれくらいかかるだろうか。「日本人は日本人論が好きだ(これもステレオタイプかもしれない)」といわれるが、「日本人は特殊だ」という言説に需要がある限り、ステレオタイプな日本人論は今後も出てくる気がする。今のところは高野氏の本を読んで、ステレオタイプを再生産する側にならないよう努めるしかなさそうだ。