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明晰夢工房

主に自分語りです。

「優しい人間」って何だろうね

雑感 読書

今日はこの辺を読んだ雑感などを。

anond.hatelabo.jp

この独白と同じような意味合いで、「お前は本当は優しい人間ではない」と他者を非難する人というのはいます。「お前は確かに人を傷つけるようなことはしないけれど、それは気が弱くて他人の顔色を伺っているだけだ。お前だって内心では他人を攻撃したいと思っているんだろ」といった感じに。

 

この場合、「優しくない」というのは内心の問題になっています。いくら表面的に優しく振舞っていても、本音が別のところにある限りそれは優しいとは呼ばない、という人間観がそこにはあります。どれだけ他人に親切にしてみたところで、お前が心からそうしたくてそうしているのでない限りそれは偽善なのだ、という含みがある。

 

はてなには割と人の精神分析をしたがる人というのが多くて(僕もそうですが)、そこには醜い人の本音を暴きたてたいという欲求が働いているのですが、そもそも本音レベルで醜い心を持っていたらその人は「優しくない」のか。この事を考えるたびに、僕がいつも思い出す小説があります。

 

詩羽のいる街 (角川文庫)

詩羽のいる街 (角川文庫)

 

 この小説の1話には、漫画家志望の主人公が考えた『衛星高度の魅佑姫』という作品が出てきます。主人公である魅佑姫には幽体離脱ができ、幽体となった世界では人の「想い」が見えるという特殊能力があります。実現できなかった夢や叶わなかった恋など、衛星軌道をさまざまな人の想いが飛び交う中、魅佑姫は「城主」と名乗る男に捕らわれて拷問にかけられてしまいます。

 

男の夢は猟奇殺人者になることでした。現実の男は気が弱くて誰も傷つけることができないような人間でしたが、本音の「想い」としては他者を傷つけてみたかったのです。幽体の世界では「想い」がそのまま現実になるので、魅佑姫は男に捕らえられてしまいました。しかし魅佑姫は男の鎖を引きちぎって「城主」を叩きのめします。敗北した城主は「俺を夢見ていた男は、現実では何もできない意気地なしだった」と自嘲の言葉を漏らします。あの男の人生はただ善人を演じきって死んだ、それは空しい人生だったのだと。

 

しかし魅佑姫は「それは違う」と言います。「現実には誰も傷つけなかったのなら、その人は本当に善人だったのよ。きっとその人は、本当に女の子を傷つけるなんて耐えられなかったと思う。あなたが弱いのはそのせいよ。本気で誰かを傷つけようなんて思っていないから」本音でどう思っていようと、現実の行動として人を傷つけなかったのなら、それでいいではないか、と。

「優しい人間」とは「優しく振る舞える人間」という視点

大げさに言えば、この人間観は僕にコペルニクス的な転換をもたらしました。以前は僕も割と「優しさ」というものを内心の問題と捉えていたのですが、ここでは優しさとは振る舞いの問題だ、と捉えられているのです。つまり「優しい人間」とは優しい行動を取れる人のことなのだと。

 

例えば僕が妊婦だったとして、目の前の青年にできれば席を譲って欲しい、と思っていたとします。その青年が「俺は席を譲って感謝されたいし、周囲の人にもいい人だと思われたいから席を譲ろう」とするか、「人に褒められたいがために席を譲るなんて偽善だから、俺は席を譲らない」と考えるか。優しさは内心の問題だとすると、前者の青年は別に優しい気持ちを持っているのではなく、自分がどう思われるかだけを気にしている偽善者かもしれない。むしろ後者の青年の方が嘘がなくて好感すら持てるかも知れない。

 

でも妊婦の側からすれば、そういう内心の問題なんてどうでもいいのです。彼女にとって「優しい人」とは、実際に席を譲ってくれる人でしょう。相手からすれば、その親切な行為が本当に親切心から出た行為かどうかなんてわかりようがありません。仮にわかったとしても、とにかく席を譲ればそれで助かる人はいます。その事実の前では、これは偽善か否かなどという問いは大した意味を持ちません。

振る舞いだけで判断するのにも無理がある

しかし、では単純に「本音など問題ではない、要は振る舞いなのだ」と結論を下して良いのか。そこにも僕としてはためらいを感じます。それだと、親切にしたいという気持ちがあっても不器用で上手く振る舞えない人は優しくないのだ、ということになってしまう。

 

この人間観だと、コミュニケーション能力が高くて女性を喜ばせることに長けていれば、たとえ次々と女性を乗り換えているような男でも「優しい」ということになります。少なくともその場面場面においては。もし彼女のことを真剣に想っていて、あんな男はやめておけと忠告する男がいたとしても、彼がその男よりも容姿やコミュニケーション能力が劣っていれば、人の恋路を邪魔する「優しくない男」でしかない。彼には優しいと感じさせる振る舞いができていないからです。しかし彼は本当に「優しく」ないのか。そう断定するのにもまた疑問を感じるところです。

多くの人は「気持ち」を評価して欲しい

振る舞いだけで優しさを評価することに抵抗を感じてしまうのは、おそらくは人に好かれようとして功利的に振舞う人に対してあまり好感を持てないからなのでしょう。これは僕だけではないと思います。最近はどうかわかりませんが、漫画などでは洗練された立ち居振る舞いができるイケメンに、不器用だけれど誰よりもヒロインを強く想っている主人公が最終的には勝ったりします。そういう主人公が描かれるのは、結局多くの人の願望を投影しているからでしょう。「俺の方が気持ちでは勝っている」と思いたい人が多いのです。現実では気持ちなんて評価されないことのほうが多いからでしょうね。

本当は皆、理解している

そして、そういう願望はおそらくフィクションの中でしか達成されないということを多くの人は理解している。だからこそ、書店に行けばコミュニケーション能力を高めるための本が山積みになっているのです。振る舞いに反映されない優しさには意味がない。だから本音など一旦脇に置いて、とにかく好かれるような振る舞いをするしかない。

 

そうしたドライな人間観の極北にあるものが「恋愛工学」であるような気がします。確かに誠実さがあれば男女関係はうまくいくなんて綺麗事は現実では通用しないかもしれないし、そんなことより実際に好かれるノウハウが大事なのだ、という人が出てきても何も不思議はない。

 

一方で、恋愛工学に対しては多くの批判もあります。そもそもノウハウとしておかしいのだとか、女性を馬鹿にしているだとかいろいろな論点を見かけましたが、どれもそれなりに正しいように思えます。ですが、そうした批判の背景には、「テクニックだけで女性をものにできるというのはおかしい、やはり誠実さがもっと評価されるべきだ」という願望も含まれているように思います。コミュニケーションというものをひたすら「スキル」の問題として捉えることで置き去りにされる「気持ち」の部分が、こっちもちゃんと見てくれと声を上げているのかもしれません。

 

コミュニケーションを単に気持ちの問題として捉えると、独りよがりに陥る可能性がある。しかしスキルの問題として割り切ろうとすると心が乾く。多くの人がこの両者の狭間で葛藤しているというのが、現代のコミュニケーションの実相であるように思います。