明晰夢工房

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【感想】佐藤厳太郎『伊達女』にみる歴史研究と歴史小説の幸福な関係

 

伊達女

伊達女

 

 

歴史小説には「そう来たか」がほしい。ここで言う「そう来たか」とは、史実(とされているもの)を意外な方向で解釈する、ということだ。この作品を読む人の多くは、伊達政宗の生涯についておおむね知っているだろう。だから、新味を出すには政宗の生涯を彩る出来事をどれだけ新しい視点から書けるか、が勝負になる。その点、本作『伊達女』は実にうまくやっている。これを読めば、政宗の母義姫や妻の愛姫、娘の五六姫などについて、新しいイメージを持つことができるだろう。歴史小説はこうでないといけない。

 

一番印象に残ったのは、義姫が主人公の『鬼子母』。義姫について、一般的にどんなイメージがあるだろうか。大河ドラマ独眼竜政宗』で岩下志麻が演じた、気丈で冷厳さすら感じる母の姿を思い浮かべる人は多いかもしれない。片目を失い、醜い姿になった政宗を愛することができず、ついには毒すら盛った鬼女。通俗的な義姫のイメージは今でもこんなところだろうか。本作『鬼子母』では、義姫は気丈なイメージは引き継いでいて、女の身ながら戦場に現れ、伊達と最上の仲介をする大胆さをみせつける。ここは史実通りだ。

 

では、政宗に毒を盛った話をどう処理するか。ネタバレになるのでここには書けないが、読者にとってはかなり意外な展開が用意されている。政宗の機知と、義姫が政宗を思う気持ちがよく表れている。気丈な義姫がわが子を失いかけ、動揺する脆さも見ることができる。本作での政宗母子の関係性はあたたかなものであり、案外この二人は仲が良かったのではないか、と考えたくなるほどだ。少なくとも私にとっては、こうあってほしいと思う親子の姿がここにあった。 

  

もちろん、歴史小説はフィクションであり娯楽であって、歴史の真実はこうだった、と主張するためのものではない。だが、本作で描写される義姫母子の関係性には、ある研究成果が反映されている。伊達家の正史『貞山公治家記録』では政宗が自分に毒を盛った母を殺す代わりに、母の愛する弟・小次郎を殺害したことになっている。ところが、大悲願寺の過去帳には、小次郎の生存が記録されているというのである。このことが、本作の最後に記されている。小次郎が生きていたとするなら、義姫が政宗に毒を盛ったのは本当なのか、という疑問が出てくる。本作は、この疑問に小説というかたちで答えている。なぜ小次郎が死んだことにされたのか、これも本作の読みどころのひとつだ。

 

 

『素顔の伊達政宗』によれば、政宗は膳に毒を盛られた後も、何度も義姫と手紙を交わしている。手紙の内容はいずれも親子の情愛を感じさせるものだという。朝鮮に出兵した折などは、「ぜひ無事に日本に戻って、もう一度お会いしたい」とまで書いている。とても毒殺をたくらんだ母に送る内容には見えない。『鬼子母』で描かれる強い絆で結ばれた義姫母子の関係は、史実に近い可能性もある。

 

歴史小説がつねに歴史学の最新知見を活かすべきだとは思わない。その知見が娯楽にとってプラスになるとは限らないからだ。だが、すぐれた作家は作品をおもしろくできるものは何でも貪欲に取り入れる。その中には当然、歴史研究の成果も含まれる。同じ人物や時代を書く作家が数多くいるなかで、どうやってオリジナリティを出していくかが歴史作家には問われているのだが、本作『伊達女』は歴史学の知見を活かすことで伊達家の女性たちの新しい一面を描くことに成功した一例といえる。

 

saavedra.hatenablog.com

佐藤厳太郎作品では芦名家の興亡を描いた『会津執権の栄誉』も強くおすすめしたい。こちらでは政宗は敵側として登場する。