「すげえものを見た。すげえものを見た」
これは、北方水滸伝で花英が敵将を一矢で仕とめるのを見た男が叫んだセリフだが、このマンガを読み終えた今、そんな気分になっている。
本当にすごいものを見せられると、人はIQが100以上低下し、語彙力を失い、ただ感嘆の言葉をうわごとのようにくり返す肉塊と化してしまうのだ。
『図書館の大魔術師』は内容が濃密で、1巻を読んだだけで重厚な映画を観終えたかのような感動と満足感を味わえる。
キャラは皆魅力的で、描き込みは極めて細かく、セリフの一言一言も丁寧に考えられている。
「楮紙は手でちぎった方が修復跡が目立たない」などの本にまつわる薀蓄も面白い。本好きのためにあるような漫画だが、かといって本好きでなければ楽しめないようなものでもない。
妖精のような姿をしたココパ族や主人公の親友である一角獣ククオ、そして「図書館」のオリジナル漢字など、ファンタジー好きならたまらない要素も満載だ。
しかし、この作品の魅力はそれだけにとどまらない。驚くべきはこのマンガ、1巻の時点ではなんとプロローグが終わっただけなのだ。
マンガのなかの世界では主人公が生まれ育った村、アムンから一歩も出ていない。
にもかかわらず、なぜこれほどの充実感を味わえるのか。
IQと語彙力を取り戻しつつ、この作品の作りこみのすごさについて語っていくことにしよう。
「書物への渇望」を軸として組み上げられる緻密な世界観
『図書館の大魔術師』は、タイトルのとおり、図書館と書物がストーリーの中核をなしている。
この世界には世界のすべての本がそろっている中央図書館があり、そこで働いている司書(カフナ)は大陸中に図書館を配備することを仕事のひとつとしている。
この世界では活版印刷術が普及していて、本を大量に印刷することはできるが、それでもまだ本は高価なものだ。庶民がたくさん買えるものではない。
そこで、本に触れる場所として図書館が重要な存在になる。特に子供にとり、小説が無料で読める図書館は大事だ。
この世界では、小説こそが最も子供が楽しみにしているフィクションだからだ。
しかし、主人公シオ=フミスは貧民であるため、図書館長から図書館への立ち入りを禁止されている。
一番物語を読みたい年頃に、かれは物語の世界から排除されている。
混血児で耳が長いためいじめを受けているシオは、教育こそ受けられているものの、現実世界でも差別されている。
つまり、シオは世界から二重の排除を受けている。差別を受けているシオにとり、狭いアムンの村は生きづらい。彼には逃げ込む先としての本の世界が必要だ。
しかし、シオにはそれすら許されていない。当然、本の世界へのシオのあこがれは、他の子供よりもはるかに強いものになる。
そんなシオの前に現れ、彼の運命を変えるきっかけになるのが中央図書館のカフナであるセドナだ。
なぜセドナはかっこつけてばかりいるのか
セドナは同級生からいじめを受けているシオの前に現れ、彼の窮地を救う。
セドナは小説のような芝居がかった台詞を吐くのが特徴で、そのことを同僚のピピリにいつもからかわれている。
セドナがこのようなキャラクターであることは、非常に重要だ。シオはセドナに憧れて、カフナになることを決意するからだ。
シオはカフナに、「僕はこの村が嫌いなんです」と涙ながらに語る。
ここでのシオの台詞にははわざわざ「村」に「せかい」とルビがふられている。
シオにとって、世界はアムンの村だけだ。この狭い世界でシオは生きづらさを感じ続けている。混血の異民族であるため虐げられ、加えて貧民なので図書館にも入れてもらえない。
この世界では、本は世界そのものだ。まだ幼く、村の外に出る手段を持たないシオにとり、本を読むことが唯一別世界へアクセスする手段だ。それすらもアムンの図書館長に禁じられているのだから、シオがアムンを好きになれるはずがない。
セドナがかっこつけたことばかり言うのは、もともとの性格もあるが、このシオの境遇のつらさをよく理解しているからだ。
生きづらい者ほど、人生に物語が必要だ。たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、「これは神の与えたもうた試練だ」と考えることで現実の意味が変わり、苦難に耐えることができる、ということがある。
だからこそ、セドナは物語の登場人物のようにふるまい、シオを導く役割を果たさなくてはならない。セドナはこの年頃の少年が何を求めているか、よく理解している。
シオは、魅力的な人物に導いてほしいのだ。アムンの村だけが世界ではないと、劇的な言葉で伝えてほしいのだ。
だからその要望に応え、セドナは言う。
「己の力で物語を動かし、世界を変えろ」と。
本は人を変え、世界を変える
シオは貧民なので図書館への立ち入りを許されていないと書いたが、実はこれは許されない行為だ。
この世界の図書館法第4条では「図書館はいかなる民族・性別・社会的または経済的身分の違いにおいて貸し出すものを選んではならない」と定められている。
アムンの図書館長はこの法を破っているので、司書アンズに鬼の形相で怒られる。
アンズが怒っているのは、単に図書館長が法を破ったからではない。
図書館で本を読み、本に育まれた子供の中から未来を救う英雄が現れると司書は信じているからだ。
『図書館の大魔術師』はファンタジーだから「本が英雄を育てる」ということになっているのだが、現実に置き換えてみても、これは決して荒唐無稽な話とはいえない。
たとえば、貧しいため教育の機会に恵まれない、多くの本を読めない子供にとり、図書館は知力をはぐくむために重要な場所だ。
貧しいものは本を盗むかもしれないから、という理由でその子供に本を貸すことを禁止すれば、その子は豊饒な知の世界から排除されることになる。
もし、その子が天才的な資質を持っていて、将来的に世界を変える発明をする能力があったとしても、その芽を摘んでしまうことになるのだ。
本を読めなくする、ということは、それほど罪深いことだ。
だから、図書館はあらゆるものに対して開かれていなくてはならない。
主人公に必要なのは「主人公としての振る舞い」
『図書館の大魔術師』では、セドナがシオにこういうことを言う場面がある。
「振る舞いとは思考から始まる。思考は次に言葉に変わり、言葉は行動に、行動は習慣に、週間は性格に、性格はやがて運命に変わる」
気高い人は初めからそう生まれるのではなく、気高く振舞うからそういう人になれるのだ、とセドナは言っているのだ。
つまり、物語の主人公は最初から主人公として選ばれているのではなく、主人公らしいことをするから主人公になれるのだ、ということでもある。
この考え方が、『図書館の大魔術師』1巻を貫くテーマだ。
この1巻では、実はシオ=フミスは最初は名前を明かされず、単に「少年」と表現されている。
しかし、物語終盤が近づくと、セドナがシオに貸してくれた本にある危機が迫る。
ここで、シオは本を救うべく大胆な行動に出る。
それが何かはネタバレになるのでここでは書かないが、こういうことをするのは、シオがセドナに感化され、主人公は主人公らしく振舞わなくてはならないと自分自身に言い聞かせているからだ。
先に書いた「僕はこの村が嫌いなんです」という台詞は、ことが一段落した後にシオがセドナに言ったことだ。
このあと、セドナは「私はきみ(主役)の名を知らない」と言っている。
もうただの村人Aなどではないのだから名を名乗れ、ということだ。
ここに至って、ようやくシオは主人公たる資格を得ることになった。
もちろん、物語上の立ち位置は今までもずっと主人公なのだが、シオの在り方が主人公にふさわしいものだ、と、明確に示されたのだ。
それまで名前すらない一モブキャラに過ぎなかったシオは、ここにおいてようやく物語のスタートラインに立てたことになる。
ここから、シオが司書を目指すための長い旅がはじまる。
物語の中で、シオは水を扱う魔法のような力を持っていることが示されているが、シオはその力によって主人公に選ばれているわけではない。
シオはもともと、好きな冒険小説の主人公シャグラザットのような存在に、小さな世界から連れ出してもらうことを願う夢見がちな少年に過ぎなかった。
だが、セドナはジャグラザッドではなく、シオをアムンの村から連れ出してやることはできない。
だから、セドナはシオが自ら立ち、行動し、主人公となるべく導いた。
これは、平凡な少年が主人公になるまでの物語なのだ。
ようやくシオが(真の意味での)主人公の資格を得たあと、このマンガではあるすばらしい演出がある。
ここまでの話がすべてプロローグに過ぎなかった、ということがよくわかる演出だ。
それが何なのか、ぜひこの作品を手に取って確かめてみてほしい。
このページを見たとき、なぜか頭の中で壮大な音楽が鳴っているかのように感じられるほどだった。
これはニコ動で流れていたら「いい最終回だった」というコメントがつくような場面だろう。
もちろん、これは最終回などではない。そもそもまだ何もはじまってすらいない。
にもかかわらず、これだけの満足感を味わえる作品は稀有だ。 間違いなく傑作。これを読まないのはもったいない。