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武田家滅亡の真因「高天神崩れ」とは何か?

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 長篠での敗北が決定的だったわけではない

一般的な感覚としては、武田家が信長に滅ぼされたのは長篠の戦い武田勝頼が敗北したから、というイメージが強いのですが。

 

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確かに長篠の戦いでは、武田家の家臣が数多く戦死しています。

山県昌景馬場信春内藤昌豊などの優れた家臣がこの戦いで失われたことは武田家にとって大きなダメージだったことは間違いないでしょう。

 

ちなみに、この戦いでは当時真田家の当主だった真田信綱も戦死していて、これが真田昌幸が歴史の表舞台に出てくるきっかけにもなっています。

 

しかし、武田家は長篠の戦いで敗北して、そのまま真っすぐに滅亡に向かったのか?というと、そう単純な話ではないようです。

織田信長 (ちくま新書)

織田信長 (ちくま新書)

 

 戦国時代の宗教に詳しい神田千里さんは、その著書『織田信長』の中でこのように書いています。

ただし武田勝頼は長篠の合戦により直ちに滅亡への道をひた走ったわけではない。敗戦とは言え、駿河国遠江国境地域にある武田領が揺らぐことはなかったからである。事実、翌年には中国地方の毛利家に擁された足利義昭の呼びかけにより、武田勝頼上杉謙信北条氏政の三者が同盟に向かう機運も生まれており、対織田方との関係勝頼は、少なくとも孤立していなかった。

何しろ、長篠の敗戦から勝頼が天目山に滅びるまでまだ8年の時間があったのです。

その間、常に勝頼が劣勢に立たされていたというわけではないようです。

 

それにしても、この時期になってもまだ足利義昭にこれほどの影響力があるというのが驚きです。本当は信長は義昭を京から追放するだけでなく、息の根を止めておくべきだったのかもしれません。

 

神田さんが説くようにこの期勝頼が一直線に滅亡に向かっていたというわけではなく、上野方面ではむしろ領土を拡大しています。

もっとも、それは主に真田昌幸の働きによるものなのですが。

昌幸は調略を用いて北条氏から沼田城を奪ったために北条との関係がこじれ、これが後に秀吉の小田原攻めの遠因ともなるのですが、それはまた別の話。

では、何が問題だったのか?

長篠での敗北が武田家滅亡の決定的要因でないのなら、何が問題だったのか。

再び先の『織田信長』から引用します。

勝頼の滅亡はむしろその後の政治状況がもたらしたと考えられる。天正六年に上杉謙信が急死する。その直後に起こった上杉家内の家督継承争いである御館の乱により、それまで同盟関係にあった北条氏が武田氏と断行し、織田・徳川と結んだことが、武田氏敗勢を招く政治状況の変化であったと考えられる。

上杉謙信の後継者の座をめぐって上杉景勝上杉景虎が争った御館の乱において、勝頼は上杉景勝に味方しました。

上杉景勝家督を争った上杉景虎北条氏康の息子で、謙信の養子となっていた人物です。

もし勝頼が景虎の方を支持していれば、北条氏の血を引く景虎が越後を治めることになっていたかもしれないし、その場合武田・上杉・北条の同盟関係は堅持されていたでしょう。

 

この三国の協力があれば、信長に対抗することもできていたのかもしれません。

しかし歴史はそのようには動きませんでした。

勝頼の判断により、武田家は北条氏という貴重な同盟者を失ってしまったのです。

そして「高天神崩れ」へ

勝頼の外交方針により、北条氏との協力関係が崩れ、時代の天秤は大きく織田家の側に傾いてしまいました。

勝頼は関東における北条氏と、遠江駿河方面での家康と、二方面に敵を抱えることになってしまったのです。

 

そして、武田家にとり決定的な事態が起きてしまいます。

それが「高天神崩れ」です。

 

御館の乱の二年後、徳川勢は武田家の高天神城を封鎖します。

高天神城に籠城する武士達は、家康に降参を申し出てきました。

しかし信長は、この降参を受け入れないよう家康に伝えます。

 

なぜ、信長は降参を受け入れなかったのか?

それは、勝頼が高天神城を助ける力がないことを周囲に示すためなのです。

降参を受け入れず、高天神城を攻め続けてそれでも勝頼が救援に来なければ、国境付近の国衆はもう勝頼に従う理由がないということになります。

 

徳川勢は高天神城を攻め、籠城衆は壊滅しました。

信長の狙い通り、勝頼は高天神城に救援を送れなかったのです。これは東の北条氏とも戦っていたためで、外交の失敗がここにも響いていました。

このことで勝頼は決定的に信頼を失い、木曽義昌は信長に寝返り、これをきっかけに織田軍は信濃に向けて総攻撃をかけることになります。

 

信長の周到な戦略は見事に成功しました。単に戦いに勝つだけでなく勝頼の信用を失墜させるという作戦が、絶大な効果を発揮したのです。

真田四代と信繁 (平凡社新書)

真田四代と信繁 (平凡社新書)

 

 『真田丸時代考証担当の一人、丸島和洋さんは『真田四代と信繁』の中でこう書いています。

「高天神崩れ」と言われるこの敗戦の影響は、すさまじいものがあった。 勝頼にとって不運であったのは、高天神には甲斐・信濃・上野・駿河、さらには飛騨まで、武田の全領国派遣された将兵が籠城していたことである。したがって信長の狙いは、彼自身の予想をはるかに上回る効果を発揮した。

勝頼に従っていても、もう守ってはもらえない――。

その様な声なき声が各地であがったことであろう。武田家が戦国大名として構築してきた軍事的信用が崩壊したのは、まさにこの時であったといえる。

 もともと高天神城というのは徳川方の城で、信玄ですら攻め落とせなかった城なのですが、勝頼はこの城を攻め取ったことでその武名を高めています。

勝頼の名声を高めたこの城を失ったことで武田家の衰勢が決定的になったのは、何か因縁めいたものも感じます。