明晰夢工房

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【書評】信玄を外交戦で追い詰める家康、ついにはキレる信玄……三方ヶ原の戦いの全貌がわかる快著『新説家康と三方ヶ原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』

 

 

家康の印象が大いに変わる一冊だった。従来、家康には忍耐強いイメージがある。武田信玄のや秀吉のような強大な勢力に苦しめられる姿を、大河ドラマなどで何度も見せられてきたことがその原因のひとつだろう。

だが本書を読むと、決して家康が一方的に武田家の圧力に苦しめられてきたわけでないことがわかる。それどころか、ある時期にはむしろ家康が信玄に対し攻勢に出ている。家康と信玄は遠江は徳川・武田の切り取り次第と約束したうえで今川氏真の領土を侵食していたが、やがて信玄が苦境に陥っているのを知った家康は態度を一変させる。驚くべきことに、家康は武田軍が遠江に侵攻しているのを盟約違反だと責めたのである。

 

信玄の苦境を見て、家康は豹変した。永禄十二年一月早々、 家康は、北条軍と対峙する信玄のもとに書状を送り、秋山勢の遠江侵攻は重大な盟約違反だと難詰したのである。 信玄はこれに驚いたが、北条と対陣を余儀なくされたばかりか、今川方の蠢動 もますます激しくなり、背後を脅かされている状況だったから、徳川との関係悪化は 絶対に避けねばならなかった。 遠江は、徳川・武田の切り取り次第だったはず なのに、 家康はそれを忘れたかのように、 遠江は徳川が保持すべきものだとの態度を鮮明にしたのだった。 これは、明らかに、苦境に陥る信玄の弱みに付け込んだ、家康 の仕掛けだったといえる。(p36)

 

そればかりか、家康は今川氏真と和睦し、信玄と敵対していた北条氏政とも和睦した。さらには上杉謙信とも同盟を締結した。外交においては家康が攻勢に回っていて、信玄を包囲しつつあった。信玄の側は信長と同盟を結んでいるため、信長の同盟者である家康を討つことはできない。ここで信長まで敵に回せば四方を敵に囲まれることになり、武田家が滅びる恐れすらあったからだ。三章では信玄が家康を国衆扱いしていたことにも触れているが、格下と見下していた家康にここまで追い込まれるとは、信玄も予想していなかっただろう。家康はただ耐えるだけでなく、チャンスがあれば強大な敵にも積極的に仕掛けていく人物だった。

 

ここまでむしろ耐える側だった信玄は元亀三年(1572年)、ついに徳川領国に攻め込む。信玄がこの軍事行動について「三カ年の恨みを散じるためのもの」と表現していることから、いかに信玄の怒りが激しかったかがうかがえる。

この後、木原畷合戦や一言坂合戦などを経て三方ヶ原合戦に至るわけだが、三方ヶ原合戦についての新知見が本書の読みどころのひとつだ。史上有名なこの戦いについて、著者が注目しているのが水上交通だ。家康の本拠である浜松城は、浜名湖水運による物資輸送に大きく依存していたようだが、信玄はここに目をつけたと平山優氏は推測する。

本書の六章では『信長公記』の記述を引きつつ、信玄が堀江城に向かったことに注目している。実は堀江城は浜名湖水運を掌握する要所であり、ここが武田方の手に落ちれば浜松城への補給がままならなくなる。家康としては、なんとしても信玄の進軍を食い止めねばならない。家康は信玄に戦いを挑んだのではなく、挑まされたことになる。

六章では信玄が堀江城攻略に向かったこと以外にも、信玄が打った数々の布石が紹介されている。ここでの信玄の打つ手は実に的確で、名人級の将棋を思わせるものがある。このような相手に喧嘩を売ってしまった家康は、三方ヶ原で大きな痛手を被ることになる。

 

三方ヶ原合戦の詳細についてはここには書かないが、七章を読めば武田・徳川軍のそれぞれの兵力と陣容・戦場の場所や合戦の模様についてくわしく知ることができる。開戦間際の様子を知ると、信玄が臆病なくらいに慎重に家康の様子を探っていたことがわかる。家康に勝利しても、疲弊したタイミングで織田の援軍に襲われる可能性を考えて開戦を渋る信玄には、優位に驕る姿勢がまったくない。名将とはこういうものなのか。一方、家康は敗北しつつも慌てることなく撤退し、隘路で待ち伏せしていた武田兵を弓で射倒す一幕もある。いつ戦死してもおかしくない状況を切り抜けるあたり、家康はやはり「持ってる人」だと印象づけられる。強運もまた天下人の条件ということだろうか。

 

本書の七章には三方ヶ原合戦の戦死者一覧が載っているが、徳川軍は名前がわかる人物だけで94名の武将の名が載っている。当然、無名の戦死者はこれをはるかに上回る数になる。自ら虎の尾を踏みに行った代償は高くついたというべきだろうか。もっとも、大局的にみればこの敗戦には別の一面もある。本書の8章では、三方ヶ原合戦における徳川・織田連合軍敗北の最大の影響は「足利義昭織田信長と手を切り、武田・本願寺・朝倉らの反信長連合と結ぶ動きを誘発したこと」と書かれている。やがて信長が義昭を京から追放し、室町幕府復活の可能性がなくなったことを思えば、家康は予期せぬ形で新しい時代の幕を開けたといえるのかもしれない。