明晰夢工房

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人の善意の限界はどこにあるのか?──武者小路実篤『真理先生』

 

真理先生 (新潮文庫)

真理先生 (新潮文庫)

 

 

マリ先生ではなくシンリ先生。

その名の通り、弟子たちに真理を語り聞かせる代わりに生活の面倒を見てもらい、特に働くでもなく暮らしている真理先生と周囲の人達を実篤特有の素朴な筆致で描く物語……なのですが。

 

この小説、評価はどんなものだろうと思ってamazonをのぞいてみたら、意外にも大絶賛でした。いえ、確かに読ませるといえば読ませるし、登場人物の心魂の暖かさに心を打たれる場面がいくつもあるのですが、皆あまりにも善人でありすぎるがゆえにかえって今の読者には敬遠される点があるのではないかと思っていたのです。でもそのあたりがかえって新鮮に映る読者も少なくないようです。

 

 この小説の人物がどれくらい善人ばかりなのかというと、まずは馬鹿一という人物について語らなければなりません。

この馬鹿一はひたすら石ばかり描いている奇人で、もうほとんど老人と言っていい年齢なのですが、彼の下手糞な絵を真理先生はなぜか絶賛するのです。そればかりか、当時の有名画家である白雲子までがこの馬鹿一の絵を見て彼には見どころがあるとし、デッサンをきちんと習えばものになるだろう、とまで言い出すのです。

ある種のヘタウマというか、ジミー大西のような才能の原石を馬鹿一の中に見出した白雲子は、彼のもとに杉子というモデルを派遣します。

 

最初は石にしか興味を示さなかった馬鹿一も次第に心を動かし、杉子を描くようになっていきます。杉子も馬鹿一は風変わりではあるがいい人だと言い、馬鹿一の人物画の修練に飽きもせず付き合い続けます。

しかしある日、異変が起きます。

デッサンの途中で寝落ちしてしまった杉子に馬鹿一が顔を寄せ、おもわず接吻しそうになってしまうのです。絵にしか興味がなさそうに見えた馬鹿一の中の「男」が目覚めてしまったのか?というとそうではなく、真相は杉子があまりにも赤子のように可愛らしかったため、我を忘れた馬鹿一が顔を近づけてしまった、ということでした。

 

生々しい劣情の発露など、ここには一切ありません。

慌てふためいた馬鹿一は杉子へ謝罪の手紙を書き、それを読んだ杉子も謝罪を受け入れます。普通なら気持ち悪がって二度と行かなさそうなものですが、この世界にはそんな物わかりの悪い人間は出てこないのです。

白雲子も本気で馬鹿一に大成して欲しいと思っているし、杉子も馬鹿一の善意を疑ったりはしません。誰もが本当に心から他者のためを思って行動する、あり得ないくらいの善人ばかりなのです。

 

ですが、この善人ばかりの世界にも、ほんの少しだけある種の生々しさが隙間風のように吹き込んでくる箇所があります。それは先ほど触れた杉子と、愛子という二人の若い女性の描写です。

 

愛子というのは若く美しい少女で、もともと馬鹿一は愛子をモデルにして絵を描きたがっていたのですが、愛子は馬鹿一のことを「あまり一心にこちらを見つめてくるから気味が悪い」と言っています。だから愛子の代わりとして杉子がモデルを引き受けたのです。愛子もまた善人には違いないのですが、馬鹿一を良い人とは認めつつも生理的嫌悪感には逆らえないあたりに、かすかなリアリズムを感じます。

 

これは杉子も同様で、馬鹿一の謝罪を受け入れたあとふたたび彼女はモデルとして馬鹿一のもとを訪れるようになるのですが、杉子は絵を描くときは必ず第三者を同伴させて欲しい、と主人公に頼んでいます。過ちを犯した馬鹿一の謝罪を快く受け入れた杉子でさえ、やはり馬鹿一はどこか怖いと思っているのです。この世界は決して完全無欠な善人ばかりを描いているわけではありません。

作品を通じて、馬鹿一の風貌は醜いと書かれています。年齢も年齢だし、およそ女には好かれそうにありません。作者がその気なら、私は馬鹿一さんの心の真っ直ぐなところに惚れました、という女性を登場させることも可能だったはずです。しかし、実篤にはそんなことはできなかった。これにはおそらく実篤なりの理由があります。

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実篤の『お目出たき人』は「自分は女に飢えている」という強烈な告白から始まる小説で、作品中では好きな女性に思いのたけを伝えられず延々と悩み苦しむ主人公の独白が綴られています。

この小説を読んでいる限り、実篤は女性に好かれないタイプの男にかなりのシンパシーを抱いていたように思えます。実篤自身はどうだったのかはわかりませんが、そのような男性の目を通じて描かれる女性の描写には、けっこうなリアリティを感じます。

冴えない主人公を自分を都合よく愛してくれるような女性は『お目出たき人』には登場しません。それが現実というものだということを実篤はよく理解していただろうし、その女性観はおそらくは『真理先生』にも持ち込まれています。

 

実篤は、いくら善人であってもその人の女性としての部分を無視したキャラクターを作ることができなかったのではないか、と思います。実は愛子は後に馬鹿一のモデルになっているのですが、それを引き受けたのは杉子から馬鹿一の評判を聞いたからです。他の女性から評価されているので自分も評価を引き上げる、というのも現実にありそうなことですし、またいくら馬鹿一が評価を上げてもそれはあくまで人間としての評価であって男性としての評価ではない、というあたりにも、実篤のある種の諦観をかいま見ることができる気がします。

 

どれだけ善人であっても、醜い馬鹿一は作中の女性から男として愛されることはありません。馬鹿一もそれを望んでいないので誰も不幸にはなっていないのが救いですが、このあたりが実篤の考える善意の限界だったように思います。

事実、モデルの杉子は馬鹿一と一緒に絵を描いていた別の男性と結ばれていますし、愛子もまた白雲子の息子と結婚しそうな勢いです。本作において、善意の上限は馬鹿一のような風変わりな他者を人間として尊重するところまでであって、異性として愛するところまでは達しないのです。

 

もし馬鹿一が、「いや、俺だって男なんだ。俺は尊敬されるだけでは足りない、あくまで男として受け入れられたいんだ」などと主張していたら、真理先生の形成するユートピアは崩壊してしまうでしょう。馬鹿一が『お目出たき人』の主人公のように女性を欲しがったりしない「善人」であるからこそ、この世界は成り立っています。

 

馬鹿一はひたすら絵を描きたいだけの求道者なのですが、求道者であるという点では真理先生も馬鹿一と同タイプの人間です。実は真理先生は若い頃に妻に逃げられていて、現在に至るまで独身なのですが、真理の探求と男としての幸せは両立しない、という考えが実篤にはあったのかもしれません。実際、『お目出たき人』の中で実篤は登場人物に「君のような道学者は女には好かれないよ」という台詞を言わせています。

現実では到底ありえないほどの善人ばかりが登場するこの小説にも、そうしたほんのわずかな現実が忍び込んでくる点が、この作品に独特の陰影を与えているように思えます。