明晰夢工房

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歎異抄における「善人」「悪人」とは何か?『NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ』 (kindle unlimited探訪5冊目)

 

 

kindle unlimitedを利用するメリットのひとつが、100分de名著シリーズがいろいろ読めることだ。いきなり古典に挑戦するハードルが高すぎるなら、まずこれから入ってみるのがいい。各界の著名人のわかりやすい解説が、古典を身近なものにしてくれる。シリーズ一冊目として、歎異抄を選んでみた。実家が曹洞宗の檀家なので、自力の禅宗と真逆?の浄土真宗についても知っておいたほうがいいと思ったからだ。

 

歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の一節はあまりにも有名だ。「悪人正機説」として知られるこの一節は、何を言おうとしているのか。釈徹宗氏の解説を読んでみると、歎異抄における「善人」「悪人」の定義が現代人の考えるものとは異なっていることに気づく。それぞれの定義は以下のようなものだ。

 

・善人……自力で修業して悟りに至れる人

・悪人……煩悩まみれで自力で悟りを開けない人

 

阿弥陀仏はここでいう「悪人」を憐れみ、救おうとしている仏だ。煩悩だらけで悟りなんて開けない人をこそ救済の対象にしているのだから、まず「悪人」こそが救われなくてはいけないことになる。そのうえさらに、阿弥陀仏は本来救うべき対象でない「善人」までも救ってくれる、というのである。歎異抄は別にむずかしい話などしていない。自力で泳げず溺れている者は他力でしか救えない。そのような人こそが「正機(=仏の救いを受ける本当の対象)」なのだ。

 

「悪人」こそが救われるという浄土仏教の教えは、一般的な社会通念とは異なる。釈徹宗氏は、ここにこそ宗教の本領があると主張する。通常の社会通念からこぼれてしまう者を救ってこその宗教だ。社会と同じ価値基準しか持たないなら、「悪人」は救えない。「悪人」をまず救う浄土仏教の教えは、「選択一神教」といわれることがある。この本では「弱者のための宗教は総じて一神教傾向が強くなる」と書かれているが、弱者や愚者のための教えである浄土仏教もまた一神教に近い性質をもつことになる。己の愚かさを自覚すればこそ、仏の前に我と我が身を投げ出すことができるのだろう。

 

そして親鸞こそは、愚者としての自分を強く意識していた人だった。この本では、歎異抄第九条の中で、唯円親鸞に「念仏を唱えていても喜びの気持ちがわき起こってこないがどうしたらいいか」と相談する場面を紹介している。『無量寿経』によれば念仏者の心は喜びに充ち溢れるはずなのに、そうならないのはどうしてなのか、というわけである。親鸞はこの問いにこう答えた。

 

すると親鸞は、なんと「わしもそうなんだ」と言い放つのです。若い唯円からしてみれば、親鸞にこの問いを口にすること自体、相当な勇気が必要だったと思います。それにすぐさま同意してみせた親鸞という人物の特性を感じる場面です。そして親鸞は、本来喜びが湧き上がるはずなのに、喜べないからこそ、私たちは救われるのだ──と説くのです。

 

浄土に早く往生したいという心が起こらず、少しでも調子が悪いと死ぬのではないかと心細い、と親鸞は正直に心中を吐露する。こうした心の動きは、すべて煩悩のなせる業である。だが、まさにそのような煩悩を断ち切れない者をこそ、阿弥陀仏は救ってくれるのだ、と親鸞は説いている。煩悩が尽きることなく湧き上がってくる親鸞だからこそ、同じく煩悩が尽きない者の悩みに寄りそうことができる。悟っていないことが親鸞の強みであり、人間的魅力でもあったのだ。