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明晰夢工房

主に自分語りです。

『お目出たき人』に見る純愛とストーキングの境界線

ta-nishi.hatenablog.com

個人的には、「片思いはストーカー予備軍」とまで言ってしまうのは若干の抵抗を感じるのですが、かといってそういう心の動きを純粋で美しいものと断定するのも難しいものです。募る想いを持て余した挙句に凶行に及ぶ人も現に存在するということ自体は、否定しようのない事実なので。

 

お目出たき人 (新潮文庫)

お目出たき人 (新潮文庫)

 

 

僕が「純愛」ということを考えるときにいつも思い出すのが、武者小路実篤の『お目出たき人』です。これはなかなかに強烈な小説で、26歳の独身の主人公が片思いをしている「鶴」という女学生に対する想いを延々と綴っているのですが、冒頭から「自分は女に飢えている」というフレーズが出てきて、これが幾度となく繰り返されます。主人公はその飢えを鶴の存在で満たしたいと思っていて、二度も人づてに求婚しているのですが、結局断られてしまいます。しかしそれでも鶴への恋心を諦めきれず、主人公は延々と鶴に対する妄想を募らせていきます。この妄想というのが読んでいてなんとも辛い。

 

「自分はまだ鶴が自分を恋しているように思っている。それにもまして運命が自分と鶴とを夫婦にしなければおかないような気がする」

「鶴は自分を恋しているのだ、鶴は自分の妻になるのだ。二人は夫婦になる運命をになって生まれてきたのだ」

「自分は鶴と結婚するために他人から嘲笑されるであろう。しかしその嘲笑はやがて羨望になり、自分の結婚は理想的結婚のある雛形となりうると信じている」

 

これらは全て、全く事実に基づかない主人公の願望に過ぎません。そもそも主人公は鶴と話したことすらないのです。片思いなどこんなものだと言われてしまえばそれまでですが、それにしたって一度も話したことすらない相手に対してここまでの確信を抱けるのはやはり「お目出たき人」であるからなのでしょうか。

 

小説を読むとわかるのですが、この主人公は実に生真面目な、というか奥手な人物で、鶴に対してはどんなアプローチもすることができません。それでも鶴の姿を見たくて通学路に表れてはわざとゆっくり歩いてすれ違ってみたりするのですが、そうした行為を主人公は「鶴に逢う」と表現しています。いやいや、一方的に見ているだけの行為を「逢う」って、これはほぼストーカーの一歩手前なのでは……?いやストーカー行為そのものでしょうか。もっとも、実篤の文章にはある種の突き抜けたポジティブさのようなものがあり、この主人公は滑稽ではあってもそれほど嫌なものを感じないのも確かなのですが。

 

とはいえ、このような人物は傍目には痛々しい存在であることも確かで、実篤は主人公の知人にこんな台詞を言わせています。

 

「女は馬鹿だから自分を尊敬して愛しているような男は女々しい奴だと思ってしまう。道楽しないような男はつぶしのきかない、偏屈な男と決めつけてしまう。君が女に恋されようと思ったら、プラトニックな考えを捨てなければいけない」

 

一体どこの恋愛工学か、と思わず苦笑してしまうのですが、この時代の人も現代人と考えることはあまり変わらないのかもしれません。ともあれ、結局のところこの主人公の想いは最後まで報われることがなく、妄想は妄想のまま終わってしまいます。主人公は鶴のことは恨んでいませんし、特に誰かを傷つけてはいないので「恋愛の狂気」を描いた作品というわけではありませんが、この妄想の痛々しさは若き日の自分のことを思い返すと全くの他人事とも思えず、読んでいるとどうにもいたたまれなくなってくるのです。

 

本書を読むとわかりますが、この主人公は極めて真剣に鶴のことを想っています。しかしその真剣さの中に相手がどう思っているかということがカウントされていないので、その真剣さはひたすら空回りするしかありません。主人公は行動力がないので結果として誰かを傷つけずに済んでいますが、この妄想癖に行動力が加わっていたらどうなるのか、ということも考えてしまいます。

 

この作品の感想を知りたくて、さっき少し検索してみました。主人公気持ち悪いの一色かと思ったら意外とそうでもなく、少数ながらこの純粋さをポジティブに見る人も存在していたし、この主人公の妄想を痛々しいと思いつつ共感する人も少なくないようでした。好きな相手に勝手な妄想を抱いてしまうことは誰にでもありがちなことで、ただ経験とともにそれをコントロールできるようになるというだけのことなのかもしれません。純粋さにもしっかり手綱をつけなければいけない、ということを人は知らなくてはいけないのでしょう。