明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

貧困、アルコール中毒、ドラッグ……アメリカの「最底辺」で苦悩するネイティブアメリカンを描く一冊。鎌田遵『ネイティブ・アメリカン』

アメリカ社会の「最底辺」に位置するネイティブ・アメリカン

これは衝撃的な一冊だ。

居留地では社会への閉塞感からアルコール依存症に苦しむ人が少なくない。

失業率も高く、ナバホ族の37%は貧困線を下回る生活を送っている。

親族にドラッグを売る売人すら存在する。

他のどの人種よりも糖尿病に罹る人も多い。

ある先住民の居留地では5,6人に一人がギャングとなっている。

 

ネイティブ・アメリカン―先住民社会の現在 (岩波新書)

ネイティブ・アメリカン―先住民社会の現在 (岩波新書)

 

 

これが、アメリカの先住民だったネイティブ・アメリカン(インディアン)の現実なのだ。

自然との共生や精神世界の豊かさを強調されがちなネイティブ・アメリカンの直面している現実を、本書は真正面から描いている。

 

彼らの中でアルコール依存に陥る人は、インディアン寄宿舎学校に送られて虐待を受けた人が多いと言う。

トラウマを引き起こしたのは、強引な同化政策における暴力である。

アルコール依存の親がいるネイティブアメリカンの家庭では、子供が将来アルコール依存に陥る可能性が高くなる。

こうした負の連鎖が、今でも続いているのだ。

ダンス・ウィズ・ウルブズ』では描かれないネイティブアメリカンの実態は、実質的にアメリカ社会の最底辺に位置していると著者は言う。

 

実際に、アメリカ合衆国で最も古くから生活してきた彼らは、近年増加しているヒスパニック系移民よりも、奴隷として連れてこられた人たちの子孫である黒人よりも、さらに高い割合で貧困層に属している。経済的にアメリカ社会の最底辺にいると言っても過言ではない。

 

アメリカに最も古くから住んでいた人達が、アメリカで最も恵まれない立場にいる。

不条理の極みのような話だが、これが現実だ。

なぜ、こんなことになってしまったのか?

その歴史的経緯についても、本書を読めば知ることができる。

 

先住民を全く考慮に入れていなかった「民主主義」

19世紀に入り、アメリカでは白人の西部への移住熱が高まっていた。

まだ見ぬフロンティアに多くの人が憧れを抱いていたのである。

「孤高の詩人」として有名だったヘンリー・デイビッド・ソローもまた、西部へ熱い視線を送り続けた一人だった。

西部に開拓者として住み続ければ、土地の所有権が認められる。

それはヨーロッパのような階級社会とは違い、万人にチャンスが認められた民主主義的な社会なのだ、と彼らは考えていたのだ。

 

しかし西部は無人の荒野ではない。

もともとそこにはネイティブアメリカンたちが住んでいたのだ。

西部で独立農園主となるアメリカンドリームは、ネイティブアメリカンの排除と表裏一体だった。

かくして、平民出身のアンドリャー・ジャクソン大統領は、1830年に「インディアン強制移住法」を制定することになる。

 

先住民はこの法律により、肥沃な土地を追われ、政府が一方的に決めた居住区へと追いやられた。

この移住の途中でクリーク族は1万5000人のうち、3500人が命を落とした。

こうした犠牲の上に成り立っていたのが、「ジャクソニアン・デモクラシー」だった。

白人の考える「民主主義社会」では、先住民の権利など認められていなかった。

やがてカリフォルニアで金鉱が発見されると西部への移住熱はさらに加速し、先住民は居場所を奪われ続けることになる。

 

「良いインディアンは死んだインディアンだけ」

 そのようなネイティブアメリカンへの迫害の中で生まれたのが、この言葉である。

これは先住民との戦争で名を上げたフィリップ・シェリダンの言ったことだ。

バッファローを殺し尽くし、先住民の生活基盤を根こそぎ破壊したこの将軍からすれば、先住民は死ぬことでしか白人の国家建設に協力することはできなかったということだ。

 

もちろん、こうした白人の行為に対しては激しい抵抗運動が展開された。

一方、白人に協力する先住民も存在した。

ジョージ・カスター将軍の偵察兵として功績を上げた先住民に、ブラディ・ナイフと言う若者がいる。

 

アメリカ先住民社会では珍しい農耕部族の民だった彼は、父方の狩猟部族の社会で虐めを受けていた。

彼の二人の兄弟は、父方の部族の若者に暴行されて殺されている。

この部族同士の対立が、ブラディ・ナイフを白人の協力者に変えた。

彼は復讐のために、部族社会の裏切り者の汚名を着る道を選んだのだ。

 

彼が協力したカスター将軍は後にリトル・ビッグホーンの戦いで戦死し、後にブラディ・ナイフもまた戦死している。

彼は白人の協力者として、「良いインディアン」になることができたのだろうか。

ニューメキシコ州に住んでいる子孫は、今でもブラディ・ナイフのことを誇りに思っているという。

 

先住民を苦しめる同化政策

この後、先住民に待っていたのはアメリカの強引な同化政策だった。

寄宿舎に入れられた先住民の子どもたちは徹底して英語を叩き込まれ、聖書以外の本を読むと独房に連れて行かれた。

寄宿舎では暴力と虐待が横行し、部族の言葉を話すと口に洗剤を入れられて「悪魔の言葉を話す吐く口」と罵倒された上で洗われた先住民もいたという。

 

このような教育は多くのネイティブアメリカンに深刻なトラウマを植え付け、80歳を超えた今もなお悪夢に苦しめられる人もいる。

先に述べたように、このような苦しみから逃れるためアルコール依存に陥る人も出てくる。

こうした苦痛は時に家庭内暴力となって噴出し、暴力はさらに弱い者へと向けられる。

暴力の連鎖が止まらなくなってしまう。

ネイティブアメリカンの文化を全否定した同化政策は、今でも先住民の生活に影を落としているのだ。

 

政治的正しさの必要性について考えさせられる

トランプが大統領に選ばれた理由として、「ポリコレ棒」が行き過ぎた結果だと指摘する声があった。

その分析が正しいのかどうかはわからない。

だが自分は本書を読んでいて、このような過去を背負っている国ならマイノリティへの差別に厳しい政策を取るのもやむを得ないのではないか、と思うようになった。

 

政治的正しさについての是非は議論されなくてはいけないのだろうが、どんな考えにもそれが生まれるだけの理由というものがある。

本書では政治的正しさについては一言も触れていないが、これを読めばなぜそういうものが必要とされてきたのか、ということも見えてくる。

アメリカにおけるマイノリティは移民だけではない。

苦境に立たされているネイティブアメリカンの現状を見ることで、初めて立ち現れてくるアメリカがある。

 

amazonのレビューでは「薄い人」の感想を知ることができない。

スポンサーリンク

 

 

モンスター数がかなり減ってしまった、色違いが多い、などなどの理由であまり評判の良くないドラゴンクエストモンスターズジョーカー3

amazonでの評価も散々です。

そのせいで値崩れを起こしてしまっていますが、たまたま店頭で見かけたので買ってプレイしてみました。

 

 

うん。

いやこれ、悪くないと思うよ?

少なくともクソゲーと言わなければいけないほど酷い出来ではない。

 

モンスターのオスメスの区別がなくなったから配合もしやすくなったし、ライドシステムもなかなか面白い。

「このモンスター、乗ったらどういう感じになるんだろう?」という素朴な楽しみがある。

モンスター数を気にしないのであれば、普通に楽しくプレイできると思います。

 

とはいえ、これはモンスターを集めるゲームだから、その肝心なモンスター数が大幅に減ってしまったら不満に思う人が多いのも、それはそれで当然。

酷評する人も何も間違ってるわけではない。

コレクションの楽しみが奪われてしまってるわけですからね。

 

結局、作品の評価は全て主観なので、このゲームにどういう思いを抱こうが、どの感想もそれぞれ全部正しい。

ただ、amazonにこのゲームのレビューを書き込むのがどういう人か?を考えると、ドラゴンクエストモンスターズというシリーズにかなり思い入れの強い人達であるはず。

だからこそ自然、否定的なレビューが多くなる。

このシリーズが好きな人にとって、モンスターの数を減らされるのは許し難いことだから。

 

一方、僕のようにあまりこのシリーズに思い入れがなく、特に不満も感じていないような「薄い人」は、あまりレビューを書き込むようなことはないはずです。

レビューするという行為が基本面倒だし、レビューはレビューする対象に熱を持っていなければできない。

世の多くを占めているはずの「薄い人」の意見は、こういう場には出てこない。

 

と、いうことは。

amazonに限らないけれど、こういう場のレビューというのがどれくらい世の大勢を反映しているのか、というのがわからなくなるんですよね。

わざわざレビューを書く時点で、その人はもう「普通の人」ではないから。

「ウェブで意見を言う」という時点で、すでにある種の偏りが生じてしまっている。

ネットで叩かれてるけど大ベストセラーになっている本などの場合、実はその「ネットで叩かれてる」というのは世間の評判のごく一部でしかなくて、大多数の人はその本を好意的に見ていたりする、ということもあるわけで。

 

 当たり前のことですが、ウェブをいくら検索しても、「ウェブには存在しない意見」を知ることはできません。

これはわざわざ書くほどでもない、と思ってる人の意見は見えないんです。

だとすれば、普通の人の意見ほど知るのは困難なのだろうか。

いずれにせよ、1件の見える感想の背後には、何十倍、何百倍もの見えない感想がある。

 

いつだったか、発言小町のあるスレッドで「幸せな人はひっそり暮らしているので、あまりこういう場には出てこないものです」という発言があったことが強く印象に残っています。

こういう場には不満の強い人の意見ばかり出てくるから、あまり鵜呑みにしてはいけませんよと。

ある「場」自体にすでにバイアスのかかった意見しか出てこないのに、いつもそこに入り浸っているとそこが世界のすべてであるかのように勘違いしてしまう。

自分が普段見ている場はどういう場なのか、ということを時々考え直す必要があるのかもしれません。

 

 少し時代を遡れば、「ネットは不幸な人の溜まり場」だと思われていた時代もあるわけで。

いや、今でも言われてますかね。

最近もこんな分析を見たばかりです。

togech.jp

ネットに出てくる意見はどうしてもネガティブな方にバイアスがかかってしまうという分析ですが、商品のレビューに関してもこういうところは確かにあるように思います。

もっとも商品の場合、こういう悪意のある攻撃ばかりではなく、「濃い人だからこそ粗がよく見える」ために評価が低くなってしまう、という事が多いのだと思うのですが。

 

ただ、その評価をそのまま信じていいのかどうかは別問題です。

自分はこのレビュアーと同じくらい濃い人なのか?

この評者と同じレベルのものを求めているのか?

自分がネットには出てこない「薄い人」の側ではないのか、という問い直しは、時折やってみる必要があるかもしれません。

ウェブという「特殊な環境」の意見に流されないためにも。

大河ドラマには出せない黒田官兵衛のブラックな所業を描く小説。葉室麟『風渡る』

スポンサーリンク

 

 

黒田官兵衛と言えば、信長の将来性をいち早く見抜き、主君の小寺政職に毛利ではなく織田に付くように進言した人、というイメージがあるのですが、どうもこうした人間像は小説や大河ドラマで作り上げられたもののようで。

 

軍師の境遇 新装版 (角川文庫)

軍師の境遇 新装版 (角川文庫)

 

 

僕が黒田官兵衛という人についてはじめて知ったのは、高校時代に読んだ松本清張『軍師の境遇』だったんですが、この小説に出てくる官兵衛も従来のイメージ通り、官兵衛だけが小寺家中で信長の力量を性格に見定めている賢い人物という感じに描かれています。

 

「天才軍師」だからこそ凡人とは目のつけどころが違う、みたいな演出ですね。

 

ところが実際には、黒田官兵衛よりも早く、小寺政職に信長に付くよう進言した人物が存在したのです。

それが山脇六郎左衛門という人物です。

 

 山脇六郎左衛門が織田につくよう政職に薦めたのはは天正元年(1573年)のことですが、これによって小寺家での主導権を握ることを狙っていたようです。

しかし、山脇の主張が気に食わない政職は家臣に彼の暗殺を命じました。

何と、この暗殺を実行したのが黒田官兵衛だったのです。

 

風渡る (講談社文庫)

風渡る (講談社文庫)

 

 

 官兵衛は最初は信長派どころか、信長派を粛清する立場だったということです。

この行為について、葉室麟氏は『風渡る』の中でこう書いています。

官兵衛はこのような時、暗殺という手段をためらわない男だった。武門である以上、殺されるのは油断したほうが悪いと思っている。時により非常になるのも、官兵衛にしてみれば、悪人の才ということになる。

この時代の価値観からしたらそうでしょうが、こりゃ大河ドラマではスルーされるしかないでわけすね……

何しろ軍師官兵衛では、終始「戦のない平和な世を作る」ってずっと官兵衛は言っていたし。

その割には信長が死んだ時にはひどい悪相で秀吉に「ご運が開けましたぞ!」とか言ってみたりして、どうもあのドラマの官兵衛は人物像が今ひとつ定まらないところがあったように思います。

 

その官兵衛が信長派に立場を変えるのは天正3年(1575年)になってからです。

この年、信長は長篠で武田勝頼の軍に大勝しています。

ここでようやく信長の強さに気付いたということでしょう。

官兵衛が他の家臣より先見の明があったから信長につくことを主張した、というわけではないようです。

 

何でも先を見通している天才軍師、と言うのは結局ドラマの中の存在でしかないわけですね。

そもそも官兵衛がそんなに先の見える人物なら荒木村重に捕まったりしないだろうし。

 

山脇六郎左衛門の暗殺については、こちらの記事に詳しく書いてあります。

kurokanproject.blog.fc2.com

個人的には、大河ドラマの主人公をそんなにいい人にする必要ってないと思うんですけどね。

真田丸のいいところは昌幸のブラックなところをほぼ史実通りに描いていたところだし、そういうところにこそ時代劇の面白さがあると思うので。

室町バーサーカーが江戸時代に消え去った理由とは何か?磯田道史『徳川がつくった先進国日本』

スポンサーリンク

 

 

togetter.comこれを読む限り、室町時代ってのはそれはそれは怖い時代だったようで。

 

下女の商売上のトラブルから町中での喧嘩が始まり、最終的には軍隊同士の衝突まで起きるという地獄絵図のような世界が上記のまとめでは紹介されていますが、一介の町人から武士に至るまで、全員が修羅の国の住人のような世界が室町という時代の空気だったようです。

 

で、戦国時代というのも当然室町に続く時代なので、やはり民百姓に至るまでこの殺伐とした空気を受け継いでいます。

真田丸の一話でも、真田郷に帰ろうとしている真田兄弟を土民が襲っていましたよね。

弱ければ身分がどうだろうが殺される。所詮この世は弱肉強食。

志々雄真も生まれる時代が400年ほど遅かったのではないでしょうか。

 

あの時代の百姓は腰に大小の刀を差していて、相手が武士だろうが弱っていると見れば容赦なく襲い掛かってきます。

明智光秀も落武者刈りで命を落としました。

七人の侍』に見られるような、侍に命を守ってもらうしかない弱々しい百姓なんて、現実の戦国時代には存在しなかったわけです。

 

江戸幕府が成立し、天下が平和になってもこの気風は急には変わりません。

戦国を生き抜いたバーサーカー達は、何か事が起こるたびに野獣のような本性を露わにします。

その様子を、磯田道史さんは著書の中でこのように書いています。

 

徳川がつくった先進国日本 (文春文庫)

徳川がつくった先進国日本 (文春文庫)

 

  過酷な年貢に思いあまった百姓たちが藩へ直訴するという事件が起きます。「お前のところの百姓たちが、年貢があまりに重すぎると言って訴えてきているが、どうするのか」と藩主に問われた家老は、「いよいよとなったら、すべて”なで切り”にして殺すから大丈夫」というような返答をしたといいます。なで切りとは、稲をなぎ倒すように、すべて斬り殺すという意味です。

 

 「文句言うやつなんて皆殺しにすればいいよね?」なんて家老が平気で言ってしまうのが江戸時代初期の空気だったようです。上の人間がこれなんだからそりゃ百姓だって大人しくしてるわけがないんです。

いや、百姓が凶暴だからお上がこうなってしまうのか?

どっちが先かはわかりませんが、とにかく上から下までバーサーカーがそこら辺に棲息していたのが室町から江戸初期という時代だったようです。

 

 では、このモヒカンだらけの世紀末世界が、どのようにして変わっていったのか?

これには何段階かの転機があるわけですが、磯田さんによれば第一の転機は島原の乱だそうです。

 

この戦いでは、幕府軍は12万の軍勢のうち8千人ほどが死傷したと言われています。

全国の武士の数が120万程度なので、武士の100分の一ほどが島原の乱で死傷したことになります。

それだけの犠牲を払ってようやく鎮圧できたのが、島原の乱だったわけです。

 

当然、一揆側にも多数の犠牲者が出ました。

籠城していた一揆勢は女子供まで皆殺しにされましたが、領民が激減したことで、ようやく幕府側は「民を失っては国が保てない」という事実に気付きました。

これだけの数の領民が一度に亡くなったのですから、島原・天草の人口は激減して農村は荒廃の一途をたどります。これは幕府にとって大きな教訓となりました。つまり領民を殺戮しすぎると領地から年貢を納めてくれる領民がいなくなり、その地を治める武士たちが食えなくなるという、実にシンプルな理屈です。

 一揆勢面倒臭すぎ→じゃあ皆殺しにしよう→あ、年貢を払う民がいない……

いやそれ、実行するまでわからないんかい!

この当たり前の事実を虐殺の後にようやく理解するほど、当時は人の命は軽かったということですね。

 

 この教訓から、ようやく幕府や大名は武断的な統治方針について考え直すようになっていきました。

ここで目覚めてきたのが、「愛民思想」です。

簡単にいえば、これは民を大切にするということです。

民は国の根本であり、牛馬のようにこき使ってはいけない。

この思想は、後に徳川幕府のある政策として実を結びます。

それが生類憐れみの令です。

 

綱吉の生類憐れみの令というのは、犬だけを大事にする法律ではありません。

大切にするべき命の中には人間も入っています。

老人を山に遺棄してはいけないとか、行き倒れの人を放置してはいけないといった法令も生類憐れみの令には含まれています。

こうした「仁」の心を世に行き渡らせることが綱吉の目的でした。

 

「仁」とは儒教の徳目です。

綱吉は自ら講義を行うほど儒教に精通した将軍でした。

室町・戦国時代の殺伐とした空気を振り払い、生命を尊重するという価値観を生み出すためにはこの法令は欠かせなかったのです。

 

生類憐れみの令にはたしかに弊害もありました。

獣を殺してはいけないので、猪が田畑を荒らして百姓が困るという事態も起きています。

ですが、そうした副作用を伴ってでも、綱吉は平和な世の中を作らなければいけないと考えていたわけです。

 

磯田さんは綱吉の文治政治について、「未開から文明への転換」と評しています。

綱吉の改革にはそれくらいのインパクトがありました。

この改革を経て、バーサーカーの闊歩していた室町の空気は消えていったのです。

日本の国柄や価値観の最も大きな変革は、明治維新であったと言われますが、ある意味、江戸時代初期に実現したこの変化は、明治維新よりも大きかったと私は考えています。

 

江戸と明治よりも、戦国と江戸の間に起きた価値観の変化のほうがはるかに大きいというわけですね。

 

この後も宝永地震天明の大飢饉など、幾つかのきっかけを経て日本社会は成熟の度合いを増していきます。

ただ年貢を搾り取る対象であった民に対し、次第に幕府の側が行政サービスを行うように政治が変わっていくわけです。

 「愛民」思想の定着です。

 

大震災が起きて生活が根こそぎ破壊されてしまっても、粛々と行動する日本人の起源は、どうやら江戸時代にあるようです。

戦国以前は、同じ日本であっても全く別世界のようにすら感じます。

日本がどのように今の日本になったのか?を考える上で、本書は外せない一冊です。

『ど根性ガエルの娘』15話を読み、「編集される現実」について考えた。

世の中には、聞くとどうにも心の奥がざわつく言葉がある。

「やらせ」なんてのもその一つだ。

結局、世の中は全部やらせじゃないのか?なんて思ってしまうからだ。

 

この世界には多くの「感動実話」が流通している。

それらの多くが、嘘ではないにしても事実を脚色されたり、ある部分をカットすることによって商品として成り立っている。

知ったら泣けなくなるような事実は表に出ることはない。

 

そして、そのような作り手の事情を、消費する側でもある程度は了解している。

ノンフィクションとして流通している作品も、事実をすべて伝えているわけではないことくらいは皆知っている。

事実は、読者が飲み込みやすいように必ず編集される。作為の手が入らないノンフィクションなんて存在しない。

そのようなお約束の上に、事実ベースの作品というのは成り立っている。

 

スポンサーリンク

 

 

しかし、いくら編集する必要があるとしても、作品として致命的に重要な部分をカットすることはその作品の価値を大きく削ぐことになる。

ど根性ガエルの娘』は、父親のプライドを保つために娘が犠牲になる」という構造的問題が大月さんの家庭にあったことをずっと描いてきたが、過去の掲載誌ではこの問題を「過去の出来事」として描くよう大月さんに求めている。

 

対談の途中でも父親が激怒して退席してしまったのもなかったことにし、あくまで今は家族とは良好な関係を築いているかのように現実を編集しようとしているのだ。

しかし、15話でのカレーのエピソードでも明らかなように、この家族の体質自体は根本的には変わっていなかった。

 

大月さんにとっては、常に父の顔色をうかがわなくてはいけないという問題は現在進行形で起きていることなのに、それをすでに終わってしまったこととして描くのは重大な嘘だ。

その事実を伏せ、この漫画を「家族の再生ストーリー」としてしまうことは、大月さんにはどうしても納得の行かないことだったのではないかと思う。

 

大月さんの家族が「再生」するかどうかは全てこれからの問題であって、現時点でこの話を「感動実話」として締めくくるわけにはいかない。

 

この話の15話の凄いところは、過去に散々自分を苦しめた父親であっても、それでもどうしようもなく愛されることを望んでしまうという大月さんの心の動きを余すことなく描いているところだ。

機能不全家族の問題というのはまさにここにある。

子供が酷い目に合わせる親の顔色をうかがい、親の価値観に合わせてしまうために、家族の構造的問題がそのまま維持されてしまう。

そのことまできちんと描き尽くしているために、この『ど根性ガエルの娘』は、他の「感動実話」の類にはない異様なまでの迫力を出すことに成功している。

 

 

しかし世の多くのノンフィクションは、こうした舞台裏の事情は描かない。

「感動実話」には表に出ない部分がたくさんあるんだろうな、とはいってもこうも赤裸々に舞台裏を見せられてしまうと、世に出回っている感動ストーリーはどれだけの闇の部分を隠しているのだろうか?と考えてしまう。

 

南極物語

南極物語

 

南極物語』という映画がある。

これは、日本の南極探検隊がアクシデントのため連れて行ったカラフト犬とはぐれてしまい、一年後再び南極に戻ってきた探検隊が生き残った二匹、タロとジロと再開を果たすという物語である。

この話は事実だし、見渡す限りの雪原をタロとジロが駆け寄ってくるラストシーンは確かにとても感動的だ。ヴァンゲリスの音楽もこの再会シーンを盛り上げる。

傑作と言って良い映画だと思う。

 

しかしSF作家の星新一は、この映画を評してこう言った。

「犬に食べられたペンギンの立場はどうなる」

 

犬だって生き物なのだから、何か食べなければ生きていけない。

幸い、南極には飛ぶことができず、容易に捕獲できるペンギンが大量に棲息していた。

タロとジロはペンギンを食べることで生き延びたのだ。

その部分を一切描かないことで、この映画は「感動実話」の顔をすることに成功している。

 

このことに憤慨した星新一はペンギンの立場に同情し、『探検隊』というショートショートまで書いている。

確かにペンギンの立場からすれば、タロとジロは突如現れたエイリアンのような存在だっただろう。

ペンギンから見れば、これは平和な雪原に獰猛な捕食者が出現した、というストーリーになるのだ。

そのペンギンの立場に同情する者だっていて良いはずだ、と星新一は言ったのだ。

 

大月さんが『ど根性ガエルの娘』の15話でやったこともまた、この「ペンギンの立場」を描くということだ。

自分自身が現在進行形で感情を押し殺さなければいけない立場にいるのに、その現実をカットして「感動の家族再生ストーリー」などにされてしまってはたまらないだろう。

徹頭徹尾抑圧されてきた自分自身の立場から描くのでなければ、この作品は意味を為さなくなってしまう。

父親との和やかな対談をでっち上げて終わりでは、この家庭の問題点は温存されたままになってしまうからだ。

 

僕は今でこそ小説をよく読むようになったが、少し前までは「しょせん全て作り物にすぎない物語を読んでも仕方がないのではないか」と思っていたこともある。

しかし、今回この『ど根性ガエルの娘』を読んだことで、フィクションの価値に改めて気づいた。

フィクションは全部嘘なので、「これは本当は嘘なのではないか」と疑う必要が無いのだ。

 嘘だからこそ、隠されている真実などないと安心して読めるし、必ずきりのいいところでストーリーは終わる。

心地良い満足感とともに本を閉じることができるのだ。

 

しかし、人生というノンフィクションは人生が終わるまで完結することがない。

ハッピーエンドの場面で物語を締めくくっても、その後も人生は続いていく。

シンドラーのリスト』だって、彼が事業に失敗して自殺したことはナレーションで伝えるだけだ。

ノンフィクションという形で提示されるのは、読んでいて面白い部分だけなのだ。

読者に伝わる事実の陰に、膨大な伝えられない事実がある。

 

ど根性ガエルの娘』は、そういう読者が薄々知ってはいても目をそらしがちな現実を我々の目の前に突きつけてきた。

今後ノンフィクションを読む時は、いつもこの作品のことが頭をかすめることになるだろう。

これは、それくらいの存在感を持っている作品だ。

「真田丸ロス」に思う。

スポンサーリンク

 

真田丸ロス」というものがあると聞くけれど、本当にそういう状態に陥ってる人がいるんだろうか?

ふとそんなことを思い、ツイッターで「真田丸ロス」で検索してみた。

すると、ハンドルネームが「○○@真田丸ロス」になっている人達がたくさん出てきた。

 

おー、やっぱりいるんだなあ。

自分はそこまでハマらなかったけど、あれだけ盛り上がったんだから無理もないか。

ところで、真田丸ロスって具体的にどういう状態になるんだろう?

岩波新書が赤備えに見えたり、財布の五円玉が六文銭に見えたりするんだろうか?

そこまで行かなくても、もう真田丸が放映されないことで落ち込んでいる人は結構たくさんいるのかもしれない。

 

ペットロスとはご存じの通り、ペットが死んでしまうことで起きる喪失感だ。

しかしコンテンツはペットと違って死んだりはしない。

真田丸を観たければ、録画した映像なりブルーレイなりを何度でも観ればいい。

そのたびに「黄泉の国から戦士たちが帰ってきた!」という気分になれるんじゃないか?

 

……いや、これはそういう問題じゃないのだ。

確かにコンテンツは同じものを何度でも味わうことができる。

草刈パパの儂は決めたぞ!だって黙れ小童!だって好きなだけ繰り返し楽しむことができる。

だが今それをしたところで、それを一緒に笑ってくれる仲間はもういない。

コンテンツそのものは失われなくても、そのコンテンツが栄えていた頃の時代の空気は永遠に失われるのだ。

 

コンテンツの価値とは、「その盛り上がりを同時代に体験できた」ということまで含むものだと思う。

待っていれば安くなることがわかっていても、定価で小説や漫画を買う価値もそこにあるのだ。

古本で100円で買える漫画がいくら面白くても、それが流行っていた頃の盛り上がりまで追体験できるわけではない。

過去の作品は同時代性を含んでいないから安いのだ。

あまりアニメを観ない僕が珍しくハマった作品に『戦姫絶唱シンフォギア』がある。

実はこの作品には放映当初から嵌っていたわけではない。

一期の評価はニコ動ではあまり芳しくなかった記憶がある。

作画も割と微妙だったし、必殺技のカットインもかっこいいのか笑うところなのか戸惑った感じもある。

メインキャラの一人が目から血を流しているシーンまであったし、これは一体何なの?と思った人も多かったかもしれない。

 

そんなわけで僕は割と早く脱落してしまったのだが、ある時ふと思い立ってこのアニメを最終話まで観てみることにした。

するとこれが実によく出来た、熱い作品であることがよく解った。

作中に歌が出てくるアニメは結構多いが、それをここまで上手く演出として組み入れている作品はなかなかないのではないかと思う。

 

 それは良かったのだが、実はこのアニメを最後まで視聴する気になったのは、後でこの作品の評価を知ったからだ。

世間の評価が確定した後に、後追いで観たということだ。

それだって悪くはないが、その感動は当時リアルタイムで追いかけていた人達には遥かに及ばないだろう。

まだこのアニメが海のものとも山のものともわからないうちから追いかけていた人達が、最後にメインキャラ全員で「逆光のフリューゲル」を歌っているのを聞いた時の気持はどんなものだっただろう?と思うと、このアニメを早々に切ってしまった自分の不明を恥じるばかりだ。

 

どんなコンテンツであれ、良い作品の価値は時が経とうと色褪せるものではないと思う。

だが、時が経つことで「あの盛り上がりを同時期に体験できた」という付加価値はなくなってしまうのだ。

後追いではその部分は決して味わうことができない。

 

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

 

 

僕が真田丸で良かったと思っているのは、作品自体の面白さもあるが、時代考証の方達がドラマの解説をツイートしていて、そこから戦国時代に関する知見をたくさん得られたことだ。

真田氏や武田氏関連の本も色々と買ったし、それらの本は今でも時々読み返している。

こちらはドラマではないので、あとから読んでも虚しくはならない。

歴史を趣味にしたりしているのは、これが流行り廃りとは関係がない趣味だからかもしれない。

 

いずれにせよ、放映が終わったらロス状態に陥るほどに愛されたコンテンツは幸せだろう。

だが、もっと幸せだったのは、同時代にそのコンテンツで盛り上がることのできた自分自身だ。

後追いで良いとされているコンテンツを追いかけても、ロスに陥ることはできない。

これをリアルタイムで味わえた人が羨ましい、という静かな侘しさがそこにはあるだけだ。

 

大きな幸せを失うと、反動で大きな喪失感がやってくる。

それ自体はもう、どうしようもない。

だが逆に言えば、後でロスに陥るほどに価値の高い体験を、その人はすることができたのだ。

それは得難いことだし、そこまで何かにのめり込むほどの感受性を自分が持ち合わせていた、ということでもある。

 

もし今何らかのコンテンツが提供されなくなってしまって喪失感に浸っているのなら、そこまで何かを愛することのできた自分を評価してみてもいいのではないだろうか。

それを愛することができる限り、自分がそのコンテンツを生かし続けている、と考えることもできるのだから。

saavedra.hatenablog.com

ウメハラの言うことなんて聞くな。

一昨日、慶応大学でプロゲーマー・ウメハラの講演会がありまして。

その一部始終がtwitchで中継されてたんですが、いやあ……凄かった。

講演自体もすごく面白かったんだけど、その後の質疑応答コーナーでの回答する時のアドリブ力が本当に凄い。

どうしてこう、こんなに次から次へとよどみなく答えられるのか。

トーク力完全に極まってますね、これは。

いかに彼が普段から物事を深く考えているのか、よくわかる内容だったと思います。

 

スポンサーリンク

 

 

講演はこちらから聞くことができます。

強キャラで勝っても楽しくない

実はこの講演会、もともとはタイトル通り「一日一つだけ強くなる」という話をする予定だったようですが、直前に話す内容を変えたそうです。

なぜかというと、ウメハラが数日前にあることに気付いたから。

その「気付いたこと」というのは、「人の期待に応えてはいけない」という事。

(内容としては1時間位目からの話です)

 

これだけ聞くと何だそれは?と思ってしまいますが、話を聞いているとこれが実はかなり深い話だということがわかってきます。

 

ここ2年ばかり、ウメハラはどうも毎日が充実してなかったそうです。

いよいよ中年クライシスがやってきたのか、格ゲーを極めすぎてもう強くなれないと悟ったのか?と思ったんですが、どうもそういうことではないらしい。

 

飲み会に行けば楽しいし、ゲームだって今でも真剣に取り組める。

深刻な不安に襲われるというわけでもない。

でも、何かがつまらない。楽しくない。

そのつまらなさの正体が「他人の期待に応えようとしていたからだ」と彼は言うわけです。

 

最近、ストリートファイター5ではキャラのバランス調整が行われています。

ここで、ウメハラのメインキャラであるリュウは弱くなりました。

代わってガイルがとても強くなった。

これ、自分では直接触ってないから詳しいことはわからないんですが、とにかくガイルは強くなったのでウメハラも一時期サブキャラとしてガイルを使っていたわけです。

 

ウメハラはプロゲーマーであり、試合では勝つことを求められています。

だからガイルが強くなったのなら、ここはガイルを使うのが「プロ」としては正解、ということになる。

 

でもウメハラはその道は選ばないんです。

なぜかわからないけれど、弱くなったはずのリュウを使っている方が、楽しい。

子供の頃に味わった充実感を今でも味わえる。

たったそれだけの理由で、彼はリュウを使い続けることを選ぶ。

 

ウメハラが言うには、強キャラになったガイルを選んでも、それは「自分で決めていないことになる」んです。

勝つことを求められているから強キャラを選ぶのなら、それは他人の期待に応えているだけで、自分は納得していない。

スポンサーだってついているのだし、プロゲーマーとしてはより勝てそうなガイルを選ぶべきなのかもしれない。

 

でも結局、ウメハラは自分の気持ちに従ってリュウを選んだ。

それで今、人生が楽しくてしょうがないんだ、とまで言ってるんです。

自分で決めるというのがここまで大事なことだったのかと。

 

こういうことができるのは、彼が一面では「プロゲーマー」でありつつ、もう1本の軸足を「一個人としてのゲーマー」に置いているからではないかと思います。

「プロ」としての自分が全てなら、強キャラを使って結果を出さなくてはいけない。

しかし1ゲーマーとしてはそれでは楽しめないし、その状態で戦い続けるのは本当にいいことなのか。

 

それを考えていくと、「プロであり続けるためには、アマチュアとしての自分の気持も大事だ」ということになるのかもしれません。

ゲームはプロゲーマーにとっては仕事であると同時に、娯楽でもある。

そのことを忘れてしまってはいけない、ということなのかもしれない。

 最強のハイスペ男を選ぶのが「正解」か?

で、ここでウメハラが引き合いに出している話がこれまた面白いんです。

彼の知人の女性で、とにかく母親が彼氏に高条件を求めてくる、という人がいる。

今付き合ってる人がいるのに、常にもっといい条件の相手を探せるように努力しなさい、なんてことを言われるんだそうです。

そのために常に出会いの場に顔を出せと。

 

凄い親もいるものだなと思いますが、出会いを探し続けた努力の成果なのか、ついに彼女の前に完璧な条件を備えた男が現れたのです。

東大卒で一流企業に勤めていて高収入、背も高いし話も面白い。

家柄もいいし食事の趣味も合う。

しかもどうやら彼は彼女のことが好きであるらしい。

 

もうこれ以上は望みようがないくらいのハイスペ男ですね。

スト5でいえばガイルに匹敵する強キャラ。

条件面だけ考えれば、選ばない理由がない。

 

でも結局彼女はその男性は選ばず、別の男性と付き合い始めたのです。

その人は東大ハイスペ男と比べればお金も持っていないし、別にかっこいいというわけでもない。

彼は条件面だけ考えれば、全てにおいて東大ハイスペ男には勝てない。

でも何か「話が面白い」。一緒にいてしっくりくる。

ただそれだけの理由で、彼女は親が推奨するハイスペ男ではなく、その男性を選んだ。

ウメハラが「ちょっと弱くなったけど、面白そう」という理由だけでリュウを選んだように。

 

ここでウメハラは言います。

「学歴が高いとか家柄が良いとか顔が良いとか、それは全部他人の価値観ですよ」と。

そこには、一番肝心なはずの「自分の気持」がどこにも入っていない。

自分の本音を押し殺して、他人に合わせて生きて、それで楽しいのか?と彼は問うているわけです。

 

ここで、「いや、付き合う相手は全部自分の気持で決めてもいいけど、仕事は結果を求められるんだからそうはいかないだろ?」という疑問が出てくる人もいると思います。

そういう人に対する回答も、実はウメハラはちゃんと用意していました。

そのことが、質疑応答できちんと示されています。

 「やりたいこと」と「やらなければいけないこと」の折り合いをどうつけるのか

質疑応答のコーナーに移って、最初に出た質問がこれです。

理系の大学生が、「自分のやりたいことは世間には認められないことだけれど、本当はその道に進みたい。でも大学の授業にも出なければいけないし、そのあたりをどうバランスを取っていけばいいのか」と質問しています。

これに対するウメハラの回答が、実に振るっている。

 

この質問に、ウメハラはまず「本気でやりたいことがあるのなら、折り合いなんてつけてる場合じゃない」と答えます。

でもこれが必ずしも「正解」でないことも、ウメハラはよく理解している。

自分がリスキーな生き方をしてきたことはよく知っているから、「でも、普通にサラリーマンをして平和な家庭を築くのもいい人生だし、そう思うのなら社会人とやりたいことを平行してやっていけばいい」と彼は言う。

 

徹底してやりたいことだけを追求するのもいいし、社会人としての基盤をしっかり築きながら、余った時間でやりたいことをするのもいい。

どちらを選ぼうが、正解ということはないんです。

ここで大事なことは、「自分で決める事」だとウメハラは言います。

 

そしてここから先が凄いところなんですが、

「もしやりたいこととやるべきことは分けた方がいいと思うのなら、そうすればいい。でもその『折り合いをつける』というのが、人からそう言われたからそうするのか、自分の経験から得た人生哲学でそうするのかによって、あとで後悔するかどうかが違ってくる」とウメハラは語っています。

 

これ、言い方はすごく柔らかくて丁寧なんだけど、要するにウメハラ「俺の言うことになんか従うな」って言っているわけですよね。

やりたいことと現実に折り合いをつけるか、やりたいことをどこまでも貫くのか。

別にどっちを選んでもいいんだけど、「ウメハラが好きに生きろと言ってるからそうする」というのは駄目なんです。

それは自分の肚から出てきた言葉ではないし、ウメハラという「権威」に縋っているだけだから。

それで結果として失敗したら、「俺はウメハラの言う通りにしたのに!」と、自分の失敗を責任転嫁することになるかもしれないですからね。

 

だから、「仕事は結果を求められるから、他人の期待には応えないといけない」ってその人が心から思うんだったら、そこはやはりそうするべきなんですよ。

弱いけどリュウを使うというのは、あくまでウメハラにとっての正解。

ガイルは強キャラなんだから俺はこいつで勝つ、と思うのなら、ガイルを選ぶべきなんです。

結局いちばん大事なのは、自分の決断に責任を持つ、ということだから。

 

リュウを使って最大のライバル・infitrationに勝ったウメハラ

 

今のところ、TOPANGAリーグではリュウを使って苦戦しているウメハラですが……

今後、彼がどのような進化を遂げていくのかはまだ楽しみにしています。

と言うのは、彼は以前韓国の格ゲーチャンピオンinfirtrationにリュウで勝っているからです。

 

2013年の時点では世界最強の豪鬼だったinfirtrationの豪鬼

誰もが彼に勝ちたいと、虎視眈々と狙っていました。

このバージョンのスーパーストリートファイター豪鬼は最強キャラの一角でしたが、このときもウメハラリュウ豪鬼に挑んでいます。

 

東大生プロゲーマー・ときども使っていた強キャラの豪鬼

リュウだって弱くはありませんが、キャラランキングでは豪気よりは評価が低い。

しかしウメハラはinfirtrationの動画を見て研究を重ね、満を持して勝負を挑み、見事infirtrationを破ります。

 

この試合には本当に感動しましたよ。

最強キャラを最高の人間性能で操る男を、格下のリュウで倒すんですからね……

ウメハラの語るリュウの楽しさというのは、こういう所にあるのかもしれません。

最強キャラで普通に買っても、それは当たり前のことが起きているだけ。

普通でないことをしてみせるという心意気が、ウメハラの考える「プロゲーマー」なのでしょう。

 

ウメハラは終始一貫「成長する方法」しか語っていない

 

勝ち続ける意志力 (小学館101新書)

勝ち続ける意志力 (小学館101新書)

 

 ウメハラという人は最初の著書から「どうすれば人は成長することができるのか」ということを一貫して語り続けているわけですが、それはこの講演でも一切ぶれていませんでした。

 

世の成功者の多くは、成功者になってしまうと「成功する方法」を語り始めます。

世の中がそれを求めるからだろうし、商売としては成功ノウハウは一ジャンルを形成しています。

でもウメハラはそういう「他人の期待」には応えず、ひたすら成長する方法だけを語り続ける。

 

彼がどこまでもストイックに成長だけを追求していくのは、結局、後悔せずに生きて行くにはそれしかない、と考えているからでしょう。

ウメハラは「好きなことをすれば成功する」みたいな、薄いライフハッカーが言うようなことは一切語りません。

何しろ彼にとって好きなことというのは、「解けない呪い」だから。

 

いくら好きなことを追求しようが成功は望めないかもしれないし、それどころか世間的な成功からは遠ざかることもある。

こういうところから目をそらさないのは、彼の誠実さだと思います。

本当に責任感の強い人は、成功なんて請け負わない。

saavedra.hatenablog.com

 結局、成功と言うのは結果に過ぎないし、こうすれば確実に成功できる、というノウハウなんてどこにもありません。

そんなものがあれば、世の中の人間は全員成功しているでしょう。

でも、成功という結果はコントロールできなくても、どんな道を歩むかを自分でよく考えて決めれば納得の行く人生を生きることはできるし、成長を求め続ければ日々を充実させることもできる。

それは十分自分でコントロールできることなんだ、と彼は言っているわけです。

 

成長し続ければ、結果として成功もついてくるのだ、という人もいます。

でもそれだって、約束できるようなものでもありません。

だとすれば、追求できるのはやはり成長しかない。

PS2の名作『大神』の中でオキクルミが語っているように、 一つの道を歩き続け、己を磨き続けることに価値がある。

それを自分の生き方として見せているからこそ、ウメハラの言葉に多くの人が耳を傾けるようになったのだと思います。

 【追記】現在のウメハラ

ご存じの方も多いと思いますが、今はウメハラリュウではなくガイルを使っています。

一時はTOPANGA LEAGUEにリュウで参戦したものの戦績は振るわず、結局強化されたガイルにキャラを変えることで、インドネシアで開催されたAbuget Cup 2017ではミオごと優勝を果たしています。

 

やはりプロとしては強くなったガイルを使わないと勝てないと判断した、とういことでしょうか。リュウを使えば楽しいかもしれないけれど、やはりプロゲーマーとしてウメハラに求められていることは勝つことでもあります。

いろいろと葛藤もあったでしょうが、それも含めてやはり自分で決めたことでしょうし、やはりこちら側としては強いウメハラが見たいというのも事実です。

「他人の期待に応えてはいけない」という考えは変わったのか?変わっていないのか?

それはこちらにはわからないことです。

ただ確かなことは、これから行われるCapcom cup 2017でのウメガイルの活躍を、私はとても楽しみにしているということです。

 

Capcom cup 2017は、アメリカで12月8日から12月10日の3日間に渡って開催されます。