明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

AKBの被災地訪問と、握手会襲撃の衝撃。『AKB48、被災地へ行く』

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もともとアイドルに興味のない自分でも、152ページで震えましたよ、これは。

忘れもしない2014年のAKB握手会の襲撃事件、起こった場所は岩手県だったのです。

AKBの人達はこの時の握手会会場だった岩手県滝沢市を訪れるちょうど1週間前にも被災地の石巻を訪れていて、まさにそんな時期にこの事件が起こってしまった。

もっとも犯人は岩手県の人物ではなかったのですが。

 

こういう事件が起きたので、当然翌月の被災地訪問をどうするかが議論になり、結局「こんな卑劣な事件のせいで、これまで積み上げてきた被災地訪問活動を中止したり延期したりすることはできない」という結論になったわけです。

この後、AKBの被災地訪問スタッフは目立たない黒ではなくピンクの服を着て「ソフトな抑止力」を発揮することにしたのだそうで。

自分達もトラウマ背負ってでも活動を続けなきゃいけないんだから、アイドルも大変です。

仕事とはいえ、自分達だってショックを癒さなければいけない時期だっただろうに。

 

あの握手会襲撃事件では、僕は犯人の人間像や動機ばかりに注目していて、これが東北の、しかもAKB48が継続して行っていた被災地のチャリティー活動の途中に起きた事件だったことには全く気付いていなかったのです。

 

www.akb48.co.jp

アイドルのことを知らないと、こういう活動が行われていたことも何も知らない。

こういうものについて色々と思うところがある人もいるでしょうが、実際AKBのファンというのは全国にいるし、来れば喜ぶ人はいますからね。

芸能人は知名度を利用してやれることをやればいいのだし、それで何も悪いことはない。

 

なぜ最近の(でもないですが)アイドルグループはこんなにメンバーがたくさんいるのか?と以前から思ってたんですが、ことこういう被災地訪問のような廻る場所が多い活動になると、メンバー数が多いと便利なんですよね。

幾つかのグループに分けて多くの場所を回れるし、そもそもメンバーにも東北出身の人がいるし、被災地出身のメンバーまでいたりするからそれだけ被災地の人に近づくこともできるわけで。

 

実際、阪神淡路大震災の被災地訪問では関西出身のメンバーを中心にしてチームを作っているわけで、こういうところは多人数のアイドルグループの強みなんだろうなと。

本が出たのは2015年ですが、この年に新潟でNGT48が結成されていて、今後中越地震の被災地訪問の機会が増えるだろうと書いてあります。

 

岩波ジュニア新書も最近はこういうアイドルの本を出すのか、というのが結構な驚きではありますね。

中身は東日本大震災の復興という真面目なテーマだから何もおかしくはないわけですが。

写真もたくさん載っているし、そのあたりはファン向けだったりするんでしょうかね。

 

内容はほとんどがチャリティーコンサートやファンとの交流についてで、割と地味といえば地味。

この淡々とした活動報告の中に、突然握手会襲撃事件の話が出てきたからボディーブローを食らったような衝撃だったわけです。

多くの人に知られるということは、あのような人物の目に止まってしまうリスクを抱えることにもなる。

それでも人前に出ないと仕事にならないし、それをまだ20歳にもならないくらいの人達がやるんだから、これは並大抵のストレスではないだろうなと思いますね。

最もメンバーが「被災地に行くことで、かえって私達が元気をもらっている」と言っているところは救いではあるわけですが。

 

で、こういうことが起きてしまうと、やっぱり地元の人もショックな訳ですよ。

東北のファンからもこれで岩手を嫌いにならないで欲しい、とうい声が随分寄せられたのだそうで。

地元の人間でもない者のせいで悪印象を擦り付けられちゃたまらないですからね。

 

 

震災の話とはちょっと離れますが、この話を読んでいて、例えばブログ運営などについて考えたりすることもあるわけです。

誰かが下らないネガコメを残していって、それにショックを受けてブログを畳みたくなったとする。

何をどうしようが自由なのだから、そこでやめるのも一つの手ではある。

何も言わなければ、難癖をつけられる心配もないんだから。

 

でもそこでやめてしまったら、それはAKBの襲撃犯におびえて握手会やめるようなものであって、それこそ正にネガコメ付けるようなヤツの思う壺になってしまうわけですよ。

それで一番喜ぶのは、一体誰なのか?

そんなブログやめちまえという人の何十倍もブログを楽しみにしてくれる人がいるのに、そっちは無視していいのか?

 

そういうことをトータルで考えてみるのも大事だと思うんですよね。

当人が強いショックを受けて何も書けなくなったのなら仕方ないけれども、そこでブログを畳むのは少し待ったほうがいいかもしれない。

はてなならプライベートモードにするという手もあるし。

 

いずれにせよ、ブログに変なコメントが来たとしても、ファンと触れ合える場であるはずの握手会で異常者に襲われることに比べたら全然大したことはない。

自分よりずっと若い子がそんな大変なことしてるんだから、こっちも詰まらないことでいちいち凹んでる場合ではないんじゃないか。

とまあ、妙なところで気分を上げてくれる一冊でした。

森岡正博氏の『草食系男子の恋愛学』について

d.hatena.ne.jp

生命学者の森岡正博氏が恋愛工学の批判を展開している。恋愛工学のような女性蔑視的なノウハウに対して、森岡氏が「女性蔑視でない本物のアプローチ」として持ち出しているのがご自身の著書である『草食系男子の恋愛学』だ。

 

出版当時は結構話題になった本で、当時読んだ時にはあまりこの本に対する感想をうまく言葉にできなかったのだが、今改めて読み返してみるといろいろと思うところもある。

せっかくなので、この場でこの本の感想を記しておきたい。

 

全体を貫く真摯なトーン

まずこの本は「反恋愛工学」を主張する森岡氏の手になるだけあって、全体として非常に真摯な書き方となっている。

 

対象としている男性は「草食系男子」というよりは「女性とのコミュニケーションを苦手としている男性」で、そのような人のために女性を気遣うとはどういうことか、会話する上で気をつけなくてはいけないのはどういうことか、といった基本的な事柄が解説されている。

 

このような本にありがちな「モテ男が上から目線で説教する」といった雰囲気もないし、全体として女性が苦手な男性の気持ちにかなり寄り添うような書き方になっているため、雰囲気としては好感が持てる。

マッチョになれない男性に無理に自分を変えろと脅迫してくるところもないし、男性の魅力というのは多様なものなのだというメッセージも、自分に自信を持てずに苦しんでいる読者には福音となるかもしれない。

あとがきに書いてある著者の暗かった青春時代の告白についても、共感的に読める人は多いのではないだろうか。

 

「実用書」として見た場合には物足りなさもある

しかしその一方で、この本を「実用書」として見た場合、疑問符のつく点もいくつかある。

例えば本書には、「髪型などのちょっとした変化に気付いてそれを伝えること」を推奨している箇所がある。しかし、こうしたことをした結果、かえって気持ち悪いと思われてしまった男性もいるし、職場で同僚の女性にこうしたことを指摘するのはセクハラになる可能性もある。

 

また、相手との関係性がもっと進んだ場面で、女性に自分の弱さを告白することが大事だと説いている部分がある。

女性は、自分が内面告白の相手として選ばれたことに、特別なうれしさを感じる。「私だけにさらけ出してくれる」というのは、素敵なことである。自分の弱さを見せてくれる男なら、女性の側の弱みもきっと肯定してくれるだろうから、この男のそばに自分の「居場所」が見つかるような気がする。これは、弱くなることによって男と女はつながっていけるという話でもある。

 このように書いてあるのだが、実際に女性にネガティブな部分を告白したら「ありのままの自分を受け止めてくれというのか」と嗤われてしまうというケースも存在している。

anond.hatelabo.jp

まあ、これは少々やりすぎてしまったのだろうが、このように自分の弱みを告白すると「なぜ営業マンから自社製品の欠陥を聞かされなくてはならないのか」と反応する人もいる。

以前、「男の弱さは弱さをさらけ出せないこと」と分析しているエントリが話題を読んでいたが、さらけ出せないのはこのように言われてしまうリスクがあるからだということを理解しなければあまり意味のある分析にはならないのではないかと思う。

 

本書は「反恋愛工学」の書と位置づけられているだけあって、相手に対してとにかく誠実であることを説いているのだが、この点が本書の長所であると同時に弱点でもある。世の中には「優しいだけの男は物足りない」といったことを主張する女性も少なからず存在するので、そうした女性には本書の方法では対応できない。

誠実であることが何より大事であるのなら、この世に不倫をする人間など存在しないのだ。

 

詳しいことはわからないが、恐らく恋愛工学にはそういう「物足りない男」にならないためのノウハウも存在しているのではないかと思う。恋愛工学の女性蔑視を指摘するのは良いが、恋愛工学に対して誠実さ一点張りの本書の内容が実用性という点で対抗しうるのかと言われるとそれは疑問だ。

もちろん、実用的だからと相手を貶めてはいけないというのは全く同意。

 

想定している女性像が偏っていないか

本書を読んでいると、「女性がいかに男性を脅威に思っているか」という点が何度も繰り返し語られる。一般論として男性の方が女性より力が強く、体格も良いのでそのことを否定するつもりはない。

 

しかし、そこまで女性が男性を脅威に思っているのなら、威圧されそうな高身長の男性が好まれるのはおかしくはないか、という疑問も出てくる。

そんなに怖い男性に女性から近寄っていくということもあり得ないだろう。

しかし実際問題、女性の方から男性に積極的に近寄っていくことなどいくらでもあるわけで、どうもそうした女性は本書では想定されていないような節がある。

 

はっきり言えば、本書は男性が怖くて、かなり強い警戒心を持っているタイプの女性を想定しているのではないかと思う。

本書の感想として「これは純真無垢な女性にしか効果がないのではないか」というものをいくつか見かけたが、確かにそうした女性は男性が怖いと思っていることは多いだろう。

時折差し込まれる著者自身のジェンダー

本書は男女関係を成功させるための実用書であるはずなのに、要所要所で森岡氏自身のジェンダー論が入り込んでくる場面がある。

女性がいかに社会的に抑圧を加えられているかということが語られ、男性はそうした女性の立場を理解しなくてはいけないという主張が展開されるのだが、こうした主張を余計なお説教だとして押し付けがましく感じる人もいるようで、amazonでは一部こうした部分に対して反発するレビューもあった。

 

個人的にも、これは「実用書」と森岡氏は位置づけているのだから、そうしたことを説くスペースをもっと「技術」の解説に割くべきではないかとは思ったが、恐らくこの本は実用書の体裁を借りた森岡氏のジェンダー論なのだろう。女性の社会的抑圧を男はよく理解し寄り添りそえるような存在であれ、ということなのだが、そうした個人的主張をこの場に混ぜるのはどうか。

それは森岡氏が個人的に推奨する倫理であって、恋愛成就という実用の話とはまた別問題だろう。森岡氏が男性に政治的に正しい存在であることを求めるのなら、それはノウハウとは別枠で語るべきことではないだろうか。

 

本書ではテクニックに走る男性は止められない

色々と書いたが、自分は本書の通奏低音である誠実さを前面に出すという姿勢には好感をもっている。ただそれは「人として」そのような人は自分には好ましくみえると言うだけで、その姿勢が恋愛における成功と結びつくかどうかは別問題だ。

 

恐らく恋愛工学に走るような人は本書の推奨するやり方が綺麗事としか感じられないのだろうし、実際問題、誠実さ一点張りでは上手く行かないことは現実にはいくらでもある。

そのような人達に対応する術を、本書は持っていない。

id:Ta-nishiさんがこちらのエントリで書かれている通り、森岡氏の「正しい」言葉は、その正しさが通用しなかったと感じている人には届かないのではないかと思う。

ta-nishi.hatenablog.com

恋愛工学に限らず、世の中には 女性心理をつかむとする心理テクニックはいくらでも流通している。

森岡氏はそうしたものを悪しきものと考えているようだが、これらが誠実さだけでは上手く行かない人を補完するものである限り、それらは求め続けられるだろう。

 

いくら有効であってもモラハラを含むテクニックは使用すべきでないという主張には同意する。

しかしその対極として誠実さを持ち出すのも、どうにも胡散臭いものは感じる。

倫理を守ることと、成功や幸福が得られるかはまた別の話だろう。

誠実であることは人として大切なことだが、それで万事うまく行くなら誰もノウハウなんて求めることはない。

 

この辺のことについては、こちらのツイートの内容がよくまとまっている。

 

 

 

北方謙三『水滸伝』の面白さとは何か?大ベストセラーの魅力を紹介。

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とにかく理屈抜きで熱中できて面白い小説は何かないか?と言われれば、僕はまず北方水滸伝を推します。

前提となる中国史の知識も特にいらないし、文章も簡潔で読みやすく、登場人物もかなり多いにも関わらず全員キャラが立っていて混同することがないからです。

大河小説が好きな方なら間違いなくのめり込む内容だと思います。

 

北方謙三の大ベストセラーである『水滸伝』は『楊令伝』『岳飛伝』と続編が発売されていて、岳飛伝は2016年2月に完結しています。

このシリーズは『水滸伝』までしかちゃんと読んでいませんが、北方版『水滸伝』はもともと中国で書かれた水滸伝とはかなり内容が異なり、オリジナル度の強い内容になっています。

 

このシリーズが気になっていて、これから読んでみようかと思っている方のためにこれは何が面白いのか?知っておけばより楽しめる知識はないか?という点について解説してみようと思います。

 

歴史小説が苦手な人でも読みやすい

これは『三国志』や『楊家将』などにも共通する北方作品の特徴ですが、この水滸伝では時代劇特有の持って回った言い回しや、難しい単語などは出てきません。主人公の一人称も「俺」「私」だけです。

著者の文体はセンテンスが短いので読みやすく、特に引っかかるところもありません。

 

水滸伝は中国の宋王朝を舞台として繰り広げられる物語ですが、ただそういう国があったんだな、ということだけ知っておけば読めます。必要な知識は物語中で全部説明されるので前もって知っておかなければいけないことは特にありません。

ただし、知っておいたほうがさらに楽しめることもあります。

従来の水滸伝とは全く違う物語

北方水滸伝とは、一言で言えば「革命」の物語です。

 

作中の人物は、腐敗した宋王朝に対抗して梁山泊に事実上の独立国を建設し、その影響力を広げていくというのがストーリーの骨格です。

本来の水滸伝では犯罪者だったり野盗だったりと、社会のアウトローが他に居場所もないので梁山泊に流れていくというパターンが多いのですが、北方水滸伝では多くの人物が最初から宋とは別の国家を作るという理想のために動いています。

 

水滸伝の中でも有名なキャラクターに花和尚の魯智深という人物がいます。

この男は本来は力自慢で暴れ者の坊主と言った感じの人物ですが、北方水滸伝においては梁山泊へ人材をリクルートしてくる役割を背負わされています。武術の達人であることは同じですが、人を説得しなくてはいけないのでかなり知的なキャラクターに変えられています。

 

梁山泊は小国家のように描かれているので、経済的基盤についても考えられていて、梁山泊は闇塩を売ることで成り立っていたことにしてあります。

中国は漢の武帝以来、塩を専売にしていたため官製の塩は高く、闇商人が一種の義賊のような存在でしたが、そこを上手く設定に生かしているのです。

 

この塩の闇ルートを取り仕切っているのが玉麒麟盧俊義です。

盧俊義は本来は大商人の旦那で、かなり終盤になってから梁山泊に加わる人物ですが、北方水滸伝では梁山泊の裏方を支える地味だが重要な役割を担っています。

このように、原作の水滸伝を知っていれば、原作とのキャラクターの書かれ方の違いも非常に楽しめる内容になっています。

 

主要キャラクターの紹介

北方水滸伝は、多くの魅力的なキャラクターが登場します。

終盤までずっと出てくる重要人物を何人か紹介します。

 

宋江……梁山泊の頭領。特に強いわけではなく、戦争で前線に立つこともないのでなぜリーダーなのか最初は理解できなかったが、人の苦しみに寄り添えるカウンセラー的な優しさを持っていることが次第にわかってくる。地味だがカリスマ。

 

林冲……おそらくは梁山泊最強の人物。黒騎兵を率いて抜群の指揮能力を発揮する。梁山泊の騎兵部隊の中核。妻を青蓮寺(宋の諜報組織)に殺されたトラウマを背負っている。

 

魯智深……梁山泊リクルート担当仏僧。宋江の著書「替天行動」を手に多くの人物を梁山泊へ誘う。武術の達人だが粗暴なところはなく冷静な人物。

 

王進……史進の武術の師匠。梁山泊に入山した者で性根が曲がっているものはとりあえずこの人のところに送られ、棒で叩きのめされて性根を入れ替えることになっている。

王進の母は優しく未熟者を教え諭す役割で、母子二人で若者の更生を担当している。

 

呉用……梁山泊の「軍師」だが実際には事務方のトップで軍事より内政面での功績が多い。前線の武将からは嫌われている。

 

楊志……剣の達人で林冲と互角の強さを誇る。祖先の楊業は北方謙三の『楊家将』の主人公。二竜山の山賊を退治し、ここを梁山泊の一拠点として発展させていくがやがて……

 

盧俊義……闇塩の製造・販売を取り仕切り、梁山泊の経済基盤を支えている人物。若い頃に役人に男根を切り取られる刑を受けており、宋朝を憎んでいる。

 

武松……虎を素手で撲殺できる武術の達人。兄嫁である潘金蓮に横恋慕したあげく○○してしまったため傷心して死のうとするが死にきれず、魯智深梁山泊へ誘われる。後に魯智深とともに人材勧誘を担当する。

 

騎馬隊の活躍する戦闘シーン

歴史小説の醍醐味といえばやはり戦争です。

北方謙三作品といえば「黒い一頭の獣のような騎馬隊」などの表現に見られるように、騎馬隊の描写が凝っていることが有名ですが、本作でも林冲の黒騎兵・史進の赤騎兵・索超の青騎兵などの騎馬隊が戦場で大活躍します。

史進などは棒を振るたびに敵兵が何人も吹っ飛ぶと書かれているので、この世界では三國無双並みの強さのようです。

 

戦術面だけでなく戦略面でも後半は楽しめるところがあり、梁山泊の陣容が厚くなってくると宋の主要都市を攻略してしまうほどスケールの大きな話になってきます。

梁山泊の脅威に対して、宋側がどう対抗するのか?12巻で官軍の関勝が仕掛ける作戦には度肝を抜かれました。

 

108星はそろうことがない

幻想水滸伝でもおなじみですが、水滸伝と言えば108星です。

しかし北方水滸伝では108星が一堂に会する事はありません。

そろう前に死んでしまう人物がいるからです。

作中でも108星という言葉は使われていないので、おそらくこの世界には108星という概念がないのでしょう。

 

誰が死ぬのかは書きませんが、その人物だけでなく、この世界では主役級のキャラもどんどん死んでいきます。

このあたりの容赦のなさはゲーム・オブ・スローンズにも通じるものがあります。

後半などは、「次は誰が死ぬのか?」が楽しみのひとつだったりします。

死に様はどのキャラも壮絶で、強い印象を残すものばかりです。

どう死ぬかでその人間を表現する、というのもこの作品の特徴です。

伝奇要素は存在しない

水滸伝は中国の「四大奇書」のひとつであり、妖術が登場するなどファンタジー要素も強い作品です。

ですが、本作において伝奇要素は一切ありません。

公孫勝は本来は妖術師として活躍する人物ですが、この作品では致死軍という特殊部隊のリーダーとして暗殺や拷問などの汚れ仕事の一切を引き受ける役回りになっています。

ハードボイルドを得意としてきた著者だけに、こうした組織の闇の部分もしっかり描くのが北方水滸伝の魅力のひとつです。

 

とにかくキャラクターが魅力的で熱い

この水滸伝のあとがきで、馳星周氏が「北方謙三が108人いるようだ」と書いているように、時に熱苦しいとも言えるほど熱いキャラが多数出てきます。

林冲史進のような戦場で活躍する主役級のキャラだけでなく、脇を固めるキャラも非常に魅力的に書かれています。

原作ではただのスケベ医師だった安道全も、医龍のような硬派な医者になってしまいました。

 

女もまた漢です。饅頭売りの顧大嫂は自称「特技は料理と人殺し」

この世界には漢しか存在を許されません。

 

ただ熱いと言うだけでなく、各キャラの特徴や個性が際立っているのも特徴で、書き分けが非常に巧みです。

二丁斧の達人で、喜々として人を殺すのに料理が得意な黒旋風の李逵

茫洋としているが石積みの罠を作る達人・陶宗旺。

剣が得意だが気が弱く人を斬れないので薬師をやっている薛永。

ここにはとても書ききれないほどの個性的な人物が次々に登場し、決して飽きることがありません。

 

各キャラクターの強さも魅力ですが、弱さの書き方もまた絶妙です。

梁山泊には杜興という鬼軍曹のようなキャラクターがいて、この人は調練の途中で兵士を殺してしまうほど厳しいのですが、心根には優しい部分があり、親友を戦争で失ったためトラウマで戦えなくなる兵士を「治療」する場面があります。

杜興は友を失っても泣けないと訴える兵士に対し、「友が死んで泣かないのはおかしい」と言い、兵の背中を強く押します。

杜興が力を込めるうちに兵士は感情を表に出し始め、やがて人目をはばからず号泣します。

心のなかで凍っていた感情を吐き出させることで、杜興は見事に兵のトラウマを取り除くのです。

こうした人間味あふれる描写にも、非常に光るものがあります。文章は簡潔でドライなのに、描かれる場面は時にウェットすぎるくらいウェットなのです。

 

特筆すべきは、この作品にはラスボスが設定されているということです。

それが宋朝最強の軍神童貫です。

童貫は実在の人物ですが、本来はあまり大した人物でもなくせいぜい小悪党と言った程度のキャラでしかありません。

ですが本作での童貫の存在感はたいへん大きなもので、宦官でありながら極めてストイックな人物として描かれており、超一流の指揮能力を持つため梁山泊の名将が束になっても敵わないほどの活躍を見せます。

これほどまでに手強く、魅力的なラスボスにはなかなかお目にかかれません。

真打ちが満を持して登場するという、大河ドラマに誰もが求めている場面が見事に表現されています。

童貫と梁山泊軍との正面衝突が描かれる最終巻は必見です。

組織の裏面も描ききる

先にも書きましたが、この水滸伝では林冲史進のような強い部将が繰り広げる官軍との戦闘だけでなく、致死軍のような暗殺や拷問を担当する部門もきちんと描いています。

梁山泊という小国家を運営するのは綺麗事だけではありません。

梁山泊を経済的にどう成り立たせるのかという点も闇塩の販売を行うことで説得力を持たせており、著者が梁山泊の組織運営についてもかなり力を入れて考察していることがわかります。

 

印象的な場面として、官軍の将軍だった秦明が梁山泊に入山した時、最初にチェックしたところが厠だったということです。

リアリティというのはこういう細かいところに出てきます。

伝奇小説と決別し、リアルな革命の物語を書くという著者の気概が伝わってきます。

 

また、官軍にも闇塩ルートを妨害したり、諜報工作を行う人物が登場します。

宋朝には青蓮寺という梁山泊における致死軍のような組織があります。

梁山泊宋朝は表立った戦争だけでなく、常に裏面では致死軍と青蓮寺との暗闘が繰り広げられていて、スパイ小説のような楽しみを味わえる場面も多くあります。

このように組織の暗部についてもきちんと書いていることが、本作に厚みを持たせています。

 

 試みの地平線メソッドも登場する

 面白いことに、やはり作者が北方謙三であるため、水滸伝でも作中で試みの地平線メソッドが炸裂します。

時代劇なので、具体的には「遊郭に行け!」ということになります。

具体的に誰が行くことになるのかは読んでのお楽しみです。

 

事前にこれを読んでおくともっと楽しくなる

北方水滸伝は中国の水滸伝とは違うので、比較することで「これをこうアレンジするのか!」 という楽しみが増えるので面白さが何倍にもなります。

例えば醜郡馬の宣賛という人物がいますが、この人は原典の水滸伝では強いが容姿が非常に醜いため出世できなかった武人ということになっています。

 

これが北方水滸伝では、もともとは水も滴る美男だったが役人に嫉妬され、拷問を受けて鼻を削ぎ落とされ容姿を醜く変えられてしまったという設定になっていました。

梁山泊での役回りも武将ではなく軍師になっています。

こういうアレンジを見るたびに、そう来たか!という驚きを味わうことができるのです。

北方水滸伝の楽しみを増すために、読みやすい水滸伝の入門書を紹介しておきます。

 

1冊で水滸伝を理解したい方にはこれです。

人物の取り上げ方もバランスが良く、これで水滸伝の大まかなあらすじは理解できます。

ただ、陳舜臣氏の書き方の特徴で比較的淡々としているところがあるので、熱中して読めるようなものではないかもしれません。

もっと物語的に盛り上がるものが読みたい方にはこちら。

 

はっきり言って、こちらも北方水滸伝に劣らないほど面白いです。

自分が高校時代に一番ハマっていた小説なので。

ただ、執筆中に著者が亡くなってしまったために完結していないというところが難点。

文章も現代人の感覚からすると少々古臭く感じられるかもしれません。

しかし歴史小説の巨匠の作品であるだけに、その価値は今なお衰えていません。

個人的には宮本武蔵三国志よりずっと面白いと思っています。

 

小説は長すぎるという方には漫画もあります。

ただこの光輝版水滸伝、少々改変の多い作品でもあって、赤髪鬼の劉唐がなぜか妖術使いになっていたり(本当はただの山賊)、宋江が飛刀の達人になっていてかなり強いなど結構オリジナルな部分もあります。

とはいえ長さも文庫本で6冊と適度ですし、何より読みやすいのでこちらもおすすめです。

 

 とはいえ、これらはあくまで「読んでおくとより楽しめる」という程度の話で、別に無理して読む必要もありません。

事前の知識など何もなくても楽しめるのが北方水滸伝の良いところです。

もし面白い物語に飢えているなら、ぜひ一度この小説を手にとってみて欲しい、と願っています。

プロイセンは「移民の作った国」だった。『フリードリヒ大王 祖国と寛容』

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プロイセンは宗教に寛容な国家だった

 

「すべての宗教は等しく、良いものである」

「トルコ人や異教徒が来て入植したいと言うなら、モスクでも教会でも建てよう」

 

これは現代の欧州の政治家の台詞ではない。

プロイセンの「啓蒙専制君主」フリードリヒ2世の台詞だ。

信教の自由を打ち出したフリードリヒ大王は、官房令において大切なのは実直な人間かどうかであって、宗教ではないと明確に言い切っている。

このような啓蒙の精神がフリードリヒの生涯を貫いていた、というのが本書の主張だ。

 

トランプ大統領が打ち出した移民政策を見ていると、本書に記されているプロイセンの歴史について語りたくなる。

フリードリヒ自身もそうだたが、もともと宗教に寛容なのはプロイセンの国風とも呼ぶべきものだった。

 

プロイセンブランデンブルク選帝侯国時代に、選帝侯ヨーハン・ジギスムントがカルヴァン派に改宗している。

これが1614年のことだが、まだカトリックプロテスタントが血で血を洗う三十年戦争を繰り広げる以前のこの時代において、領民はルター派カルヴァン派かを選ぶことが認められ、プロイセンではカトリックの信仰まで認められた。

驚くべきことに、領民がカルヴァン派への改宗を求められなかったため、この国ではトップの選んだカルヴァン派の方が宗教的マイノリティだった。

 

この宗教的寛容は後の世代にも受け継がれ、プロイセンの基礎を作ったフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は1664年に寛容令を発し、カトリックプロテスタント双方が他宗派の信条を非難することを禁止している。

宗教的寛容が上から強制されたのだ。

寛容であったことはユダヤ人に対しても同様で、神聖ローマ皇帝に追放されたユダヤ人をブランデンブルクに呼び寄せる、ということもしている。

 

ただし、こうした寛容な政策は実利を見込んだ上でのことだった。

プロイセンが移住を認めたユダヤ人は一万ターラー以上の財産を持つ家族だけで、移住した後は毛織物産業で働くことを求められた。

そこには、商才のあるユダヤ人の力で国を富ませようという思惑が働いている。

ただ信念のために宗教に寛容だったというわけではない。

 

ユグノーが作った国家・プロイセン

このようなプロイセンの寛容の精神は、やがてフランスからユグノーを呼び寄せる。

フランスの新教徒であるユグノーは1685年にルイ14世がナントの勅令を廃止し、信仰の自由が認められなくなると、2万人がプロイセンに亡命した。

このうち1万5000人がベルリンに住み着いたため、ベルリンの人口の3割がユグノーになった。

ベルリンは「移民の町」になったのだ。

ユグノー三十年戦争で荒廃したプロイセンの復興に大いに貢献し、この国の産業発展の基礎をつくることになる。

 

寒冷で土地が痩せていて、湿地帯の多いプロイセンが発展したのは、こうした移民の力によるところが大きい。

ユグノーには商人や手工業者が多かったため、ユグノーを受け入れることはプロイセンに商工業の発展をもたらし、人口も増えた。

 

そして、幼いころのフリードリヒを教育したのもまたユグノーラクール婦人だった。

この夫人がフリードリヒに文学的影響を与えたため、大王は詩作を好む文人的資質を身に付けることとなる。

しかしフリードリヒの「文化系」志向は、後に「軍人王」である父、フリードリヒ・ヴィルヘルムに忌まれる原因を作ってしまう。

 

大王の父、フリードリヒ・ヴィルヘルムは粗野な人物で、詩作やフルートに傾倒するフリードリヒを軟弱な王子だと考えていた。

王子は父からはこうした趣味を禁止され、見つかれば鞭打たれた。

ユグノーがフランスからもたらした文化は認められず、フリードリヒは父から虐待に等しい扱いを受けながら成長する。

このことがやがて、父子の間に決定的な亀裂を生んでしまう。

王太子フリードリヒがイギリスへの亡命を決行したのだ。

 

フリードリヒの亡命は失敗に終わったが、最初はこのことは「若気の至り」で済む程度のことだったらしい。

しかし王子の親友であるカイト少尉がイギリスに亡命してしまったため、事態は急展開を迎える。

この頃プロイセン宮廷では神聖ローマ皇帝派と英仏派が対立していて、王がカイト少尉の亡命に英仏派の陰謀を見て取ったからである。

 

フリードリヒは父から厳しい査問を受け、親友のカッテ少尉は処刑された。

大きな挫折を味わったフリードリヒはやがて父と和解することになるのだが、軍務に復帰したフリードリヒが率いることになった第15歩兵連隊は、三分の一をユグノーが占めていた。

移民は商工業だけでなく、軍事力においてもプロイセンを支えていたということになる。

 

プロイセンの軍事力を支えたのもユグノー

この第15歩兵連隊は大王直属の精鋭部隊で、フリードリヒ自らが率いている。

フリードリヒはユグノーが多数在籍する軍を率いて、オーストリア継承戦争七年戦争を戦い抜いた。

移民の力がどれだけプロイセンにおいて重要であるかを、フリードリヒは身をもって理解していただろう。

そんな大王が言ったことが、冒頭に引用した台詞だ。

宗教的寛容が国力の増大をもたらすというプロイセンの気風は、大王のこの台詞に結実している。

 

当時の大国であるオーストリアを敵に回し戦い続けたフリードリヒは「軍人」のイメージがあり、後にヒトラーも彼を神格化し軍神のように扱っている。

しかし、余暇には著作にふけりフルートの協奏曲を作り、無憂宮へヴォルテールを招いた大王の資質は、本来は文人肌だったようにも思える。

ちなみにCiv4ではフリードリヒ大王の志向は「創造・哲学」。完全な文化人扱いだ。

そのような大王の資質がユグノーの傅育官によって培われたものだとすれば、改めてプロイセンにおける移民の力の大きさというものに思いを致さざるを得ない。

 

フリードリヒという人は、実はアメリカとも大いに関係がある。

七年戦争プロイセンに味方していたイギリスは、戦費調達のため北アメリカ植民地に重税を課したため反発を招き、これが独立戦争までつながっている。

フリードリヒの引き起こした戦争は、アメリカ誕生の遠因になっているのだ。

プロイセンが移民の力を活用して強国にならなければアメリカ合衆国は生まれず、トランプも歴史の表舞台には出てこなかったかもしれない。

自らの行為が遠い将来において、自国とは全く逆の移民政策を採る大統領を生むとは、この時代随一の君主にも予想すらできなかっただろう。

最近、ブログばかり書いてしまう。

今となってはほとんど知る人もいないだろうが、このブログはもともと創作について思うことや小説を書く上での心構えなどをメモするところだった。

別に小説をやめたわけではないので、今でも時折そういうことを書くこともある。

しかし最近は創作の話などよりも、最近読んだ本や漫画について書くことが多くなっている。

 

どうしてか?と言われれば、おそらくは創作の話などよりもそのほうが読まれるだろうと思ってしまうからだ。

もちろん、読まれそうなことを書くのは何も悪いことではないし、今だって何も自分を殺しながら書いているわけではない。

たくさんある書きたいことの中から、反応がありそうだと思えるものを優先して書いているということだ。

人に見せる記事なのだから、どうせなら読まれたほうがいい。

反応はないよりあった方がいいに決まっているのだ。

 

しかし、こういうことを意識して記事を書くようになってきたのも、やはりどこかで「読まれない文章に価値はない」と考えてしまっているからなのだろうなあ、と思っている。

ブクマ数やPV数で記事の価値が決まるわけではないように、ウェブ小説だってたくさん読まれているものほど価値が高い、というわけではないかもしれない。

しかし、大して反応をもらえなければモチベーションが落ちるというのも事実だ。

だからこそ、人は反応をもらえるようなことを書きたがる。

このブログを始めた頃はPV数や収入の報告記事をあまり良く思っていなかったが、今ではそういう記事を書く側の気持ちも多少はわかるつもりだ。

結局、そういう記事には需要があるからだ。

需要があるからには書けば誰かの役に立てるし、貢献感を持てると言う意味でも需要を考えて書くというのは大事だ。

 

「一切反応をもらえなくても、一円にもならなくても書きたいことが本当にその人の書きたいことだ。そういう内なる衝動に従うべきだ」といった考えがわからないわけではない。

書きたいという気持こそが大事なのであって、他人からの評価なんてどうでもいいじゃないですか?と言う人もいる。

しかしブログにしろ小説にしろ、こうした内的衝動だけで走り続けることができるものではないのではないか、と言う考えに今は傾きつつある。

やはり何らかの反応があり、手応えが得られるというのは大事だ。

どのボタンを押し、どんなコマンドを入れてもキャラが動かず見える世界が何も変わらないゲームを進んで遊びたい人はいないだろう。

 

最近ブログをよく書くようになったのも、どうやら自分にとっては小説よりもブログのほうが反応が得られやすいゲームらしい、ということがわかってきたからだ。

これはあくまで現時点の話なので、将来的にはどうなるかはわからない。

反応が欲しければ反応がもらえるように書かなければいけないのだが、読んでもらえる小説を書くのはつくづく難しいものだな、と今は感じている。

誰も暇ではないのだから、よほど上手く気を引かなければ文字だらけの素人の物語なんて読まれはしない。

 

人を煽るようなエントリばかり書くブログについても、それがいいことだとは全然思わないものの、そうする人の気持ちもわかるような気がする。

その人は、それが一番反応を得られる方法だと信じているのだ。

真面目な記事を書いても大して反応を得られなかった人が、煽ったら叩きであれ反応してもらえたとしたら、それを成功パターンとして学習してしまうのではないだろうか。

だとすると、人を煽るエントリは相手にせず、煽る人を成功させない心構えが読む側には求められているのかもしれない。

それができない限り、炎上は何度でも繰り返される。

 

いずれにせよ、どんなジャンルであれ、やはり読者受けというものは無視できないということを身に沁みて感じている。

これから先、湧き上がる衝動にただ突き動かされるような、内的欲求に身を任せるような文章を書くことはできるだろうか。

読者の方ばかり見ていると、今度は逆にそういうことがしたくなるのかもしれない。

 

ただ、それはその時の話だ。

今後しばらくは、読まれる記事とはどういうものなのか?ということを頭の隅に置きつつ記事を書くことになるのではないかと思う。

趣味であれ小説を手がける者としては、「面白いとはどういうことか?」ということから逃げることはできない、と思うからだ。

 

伝わる・揺さぶる! 文章を書く (PHP新書)

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恐山は「死者への想いを預かるロッカー」だ。南直哉『恐山 死者のいる場所』

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恐山には「極楽浜」と呼ばれる場所がある。

硫黄の匂いが立ち込める「地獄谷」や「賽の河原」と呼ばれる荒涼とした風景を抜けると、美しい湖のほとりに白砂の浜があり、数限りない風車が数百メートルにわたって立ち並ぶ。

もともとは、幼くして亡くなった子供が遊ぶためのものらしい。

 

この奇観の中で、いい年をした男女が父の名や母の名を、あるいは子供の名を大声で叫ぶ。

極楽浜の「魂呼び」だ。

湖に向かって一斉に放たれた声は湖に反射し、この世のものとは思えない残響が周囲に鳴り渡るのだという。

 

この湖の向こうに、本当に死者がいると皆が信じているわけではないかもしれない。

しかしこの場に来ると、誰もが自然に死者の名を呼びたくなるのだという。

恐山、それは死者に会える場所なのだ。

 

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

 

 

『恐山 死者のいる場所』の著者・南直哉師は恐山菩提寺院内を勤める禅僧。

この人ほど、この場所を語るのにふさわしい人はいないだろう。

恐山を訪れる人達に向き合い続けたという意味においてもそうだし、何より「死とは何か?」ということを、誰よりも真摯に考え続けてきた人だからだ。

 

南直哉という人は、僧侶としては相当な変わり種だったらしい。

何しろ、永平寺で二十年も修行僧として過ごしている。

普通なら、永平寺での修行はどこかの寺の住職になるためのプロセスにすぎない。

その永平寺にできれば一生いたいと願っていたというのだから、この人は住職という地位が欲しかったのではなく、心から仏道とは何かを追求したかったのだろう。

実際、後進の指導があまりにも厳しかったために「永平寺ダース・ベイダー」なんて仇名までつけられている。

 

そんな南直哉師も、やがて永平寺を降りる時がやってきた。

恐山に向かったのは、下山を決意する時、恐山山主の娘を紹介されたためだった。

最初にこの結婚話が持ち上がったのは八年前で、その人は直哉師が下山するまでずっと待っていてくれたのだという。

下山のきっかけは、道元禅師の七五〇回忌だった。

 

南直哉師の印象は、宗教家というよりも哲学者に近い。

実際、本人も自分は言葉で物事の本質に迫りたい人間なのだと語っている。

本書でも、仏教用語はほとんど用いず、明快な言葉で恐山という場所の本質が語られている。

そんな「語る禅僧」の目には、恐山はどういう場所に写っているのだろうか。

彼は言う。恐山は「死者への想いを預かる場所」なのだと。

 

 自分にとってどんな存在であれ、いずれ人は必ず死ぬ。

死ねば物理的存在としてのその人物は消えてしまう。

しかし、人は死んでも「関係性」は残る。

かつてその人が親であったり子であったり夫婦であったりした、という自分との関係性は、相手が死のうがずっと変わらない。

 

よく、「生きているうちに親孝行しておけばよかった」と言われる。

また、「生きているうちにあの人に詫ておけばよかった」と後悔する人もいる。

このような場合、相手が死んでしまうことで、むしろ自分との関係性が強化されてしまう。

しかし人は、死者との「不在の関係性」を一人で持ち続けられるほど強くはない。

生者が存在しない相手とのことを日夜考え続けると、日常生活すら困難になってしまう。精神に異常をきたすかもしれない。

 

だからこそ、恐山のような場所に「死者を預かってもらう」必要があるのだ。

普段は死者との関係性をいったん記憶の隅において、日常生活を送る。

そして時折恐山を訪れることで、死者との関係性を結び直す。

恐山が「死者のいる場所」であるというのは、そういう意味だ。

だからこそ、普段は押し込めている死者への思いを、人は極楽浜で叫びたくなるのだろう。

 

いつだったか、南直哉師がテレビでこう語っているのを見たことがある。

 

「人は死んだらそれで終わりというわけではない。相手が死んだら、そこから死者との新たな関係を築いていかないといけないんです」

 

恐山に生き、死の意味を問い続けた禅僧のたどり着いた言葉がこれだ。

死者と向き合う人々を見つめ続けて来た人でないと、 これは言えない。

本書の中で南禅師は「体験は言語化されて初めて意味を持つ」と語っているが、氏が恐山に初めて入山したときの「嫌な感じ」を「ここには死者がいる」と言語化するまでには、二年の時間が必要だった。

 

人の肉体は消滅しても、死者は人の心の中でずっと生き続ける。

その存在の重さは、時に人を苦しみの中に突き落とす。

そうした人々から死者という荷物を預かるために、恐山という場所は存在し続けているのだろう。

 「恐山は巨大なロッカーである」とも言えるでしょう。想い出というのは、預けておく場所が必要です。よく「過去を引きずるな」といわれますが、それは「死者の想い出を生者が持ちきれない」からです。「死んだ人のことは忘れなさい」と言われますが、忘れられるわけがありません。それが大事な人だったらなおさらのことでしょう。その思い出は死者に預かってもらうよりほかないのです。

 

貧困、アルコール中毒、ドラッグ……アメリカの「最底辺」で苦悩するネイティブアメリカンを描く一冊。鎌田遵『ネイティブ・アメリカン』

アメリカ社会の「最底辺」に位置するネイティブ・アメリカン

これは衝撃的な一冊だ。

居留地では社会への閉塞感からアルコール依存症に苦しむ人が少なくない。

失業率も高く、ナバホ族の37%は貧困線を下回る生活を送っている。

親族にドラッグを売る売人すら存在する。

他のどの人種よりも糖尿病に罹る人も多い。

ある先住民の居留地では5,6人に一人がギャングとなっている。

 

ネイティブ・アメリカン―先住民社会の現在 (岩波新書)

ネイティブ・アメリカン―先住民社会の現在 (岩波新書)

 

 

これが、アメリカの先住民だったネイティブ・アメリカン(インディアン)の現実なのだ。

自然との共生や精神世界の豊かさを強調されがちなネイティブ・アメリカンの直面している現実を、本書は真正面から描いている。

 

彼らの中でアルコール依存に陥る人は、インディアン寄宿舎学校に送られて虐待を受けた人が多いと言う。

トラウマを引き起こしたのは、強引な同化政策における暴力である。

アルコール依存の親がいるネイティブアメリカンの家庭では、子供が将来アルコール依存に陥る可能性が高くなる。

こうした負の連鎖が、今でも続いているのだ。

ダンス・ウィズ・ウルブズ』では描かれないネイティブアメリカンの実態は、実質的にアメリカ社会の最底辺に位置していると著者は言う。

 

実際に、アメリカ合衆国で最も古くから生活してきた彼らは、近年増加しているヒスパニック系移民よりも、奴隷として連れてこられた人たちの子孫である黒人よりも、さらに高い割合で貧困層に属している。経済的にアメリカ社会の最底辺にいると言っても過言ではない。

 

アメリカに最も古くから住んでいた人達が、アメリカで最も恵まれない立場にいる。

不条理の極みのような話だが、これが現実だ。

なぜ、こんなことになってしまったのか?

その歴史的経緯についても、本書を読めば知ることができる。

 

先住民を全く考慮に入れていなかった「民主主義」

19世紀に入り、アメリカでは白人の西部への移住熱が高まっていた。

まだ見ぬフロンティアに多くの人が憧れを抱いていたのである。

「孤高の詩人」として有名だったヘンリー・デイビッド・ソローもまた、西部へ熱い視線を送り続けた一人だった。

西部に開拓者として住み続ければ、土地の所有権が認められる。

それはヨーロッパのような階級社会とは違い、万人にチャンスが認められた民主主義的な社会なのだ、と彼らは考えていたのだ。

 

しかし西部は無人の荒野ではない。

もともとそこにはネイティブアメリカンたちが住んでいたのだ。

西部で独立農園主となるアメリカンドリームは、ネイティブアメリカンの排除と表裏一体だった。

かくして、平民出身のアンドリャー・ジャクソン大統領は、1830年に「インディアン強制移住法」を制定することになる。

 

先住民はこの法律により、肥沃な土地を追われ、政府が一方的に決めた居住区へと追いやられた。

この移住の途中でクリーク族は1万5000人のうち、3500人が命を落とした。

こうした犠牲の上に成り立っていたのが、「ジャクソニアン・デモクラシー」だった。

白人の考える「民主主義社会」では、先住民の権利など認められていなかった。

やがてカリフォルニアで金鉱が発見されると西部への移住熱はさらに加速し、先住民は居場所を奪われ続けることになる。

 

「良いインディアンは死んだインディアンだけ」

 そのようなネイティブアメリカンへの迫害の中で生まれたのが、この言葉である。

これは先住民との戦争で名を上げたフィリップ・シェリダンの言ったことだ。

バッファローを殺し尽くし、先住民の生活基盤を根こそぎ破壊したこの将軍からすれば、先住民は死ぬことでしか白人の国家建設に協力することはできなかったということだ。

 

もちろん、こうした白人の行為に対しては激しい抵抗運動が展開された。

一方、白人に協力する先住民も存在した。

ジョージ・カスター将軍の偵察兵として功績を上げた先住民に、ブラディ・ナイフと言う若者がいる。

 

アメリカ先住民社会では珍しい農耕部族の民だった彼は、父方の狩猟部族の社会で虐めを受けていた。

彼の二人の兄弟は、父方の部族の若者に暴行されて殺されている。

この部族同士の対立が、ブラディ・ナイフを白人の協力者に変えた。

彼は復讐のために、部族社会の裏切り者の汚名を着る道を選んだのだ。

 

彼が協力したカスター将軍は後にリトル・ビッグホーンの戦いで戦死し、後にブラディ・ナイフもまた戦死している。

彼は白人の協力者として、「良いインディアン」になることができたのだろうか。

ニューメキシコ州に住んでいる子孫は、今でもブラディ・ナイフのことを誇りに思っているという。

 

先住民を苦しめる同化政策

この後、先住民に待っていたのはアメリカの強引な同化政策だった。

寄宿舎に入れられた先住民の子どもたちは徹底して英語を叩き込まれ、聖書以外の本を読むと独房に連れて行かれた。

寄宿舎では暴力と虐待が横行し、部族の言葉を話すと口に洗剤を入れられて「悪魔の言葉を話す吐く口」と罵倒された上で洗われた先住民もいたという。

 

このような教育は多くのネイティブアメリカンに深刻なトラウマを植え付け、80歳を超えた今もなお悪夢に苦しめられる人もいる。

先に述べたように、このような苦しみから逃れるためアルコール依存に陥る人も出てくる。

こうした苦痛は時に家庭内暴力となって噴出し、暴力はさらに弱い者へと向けられる。

暴力の連鎖が止まらなくなってしまう。

ネイティブアメリカンの文化を全否定した同化政策は、今でも先住民の生活に影を落としているのだ。

 

政治的正しさの必要性について考えさせられる

トランプが大統領に選ばれた理由として、「ポリコレ棒」が行き過ぎた結果だと指摘する声があった。

その分析が正しいのかどうかはわからない。

だが自分は本書を読んでいて、このような過去を背負っている国ならマイノリティへの差別に厳しい政策を取るのもやむを得ないのではないか、と思うようになった。

 

政治的正しさについての是非は議論されなくてはいけないのだろうが、どんな考えにもそれが生まれるだけの理由というものがある。

本書では政治的正しさについては一言も触れていないが、これを読めばなぜそういうものが必要とされてきたのか、ということも見えてくる。

アメリカにおけるマイノリティは移民だけではない。

苦境に立たされているネイティブアメリカンの現状を見ることで、初めて立ち現れてくるアメリカがある。