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プロイセンは宗教に寛容な国家だった
「すべての宗教は等しく、良いものである」
「トルコ人や異教徒が来て入植したいと言うなら、モスクでも教会でも建てよう」
これは現代の欧州の政治家の台詞ではない。
信教の自由を打ち出したフリードリヒ大王は、官房令において大切なのは実直な人間かどうかであって、宗教ではないと明確に言い切っている。
このような啓蒙の精神がフリードリヒの生涯を貫いていた、というのが本書の主張だ。
トランプ大統領が打ち出した移民政策を見ていると、本書に記されているプロイセンの歴史について語りたくなる。
フリードリヒ自身もそうだたが、もともと宗教に寛容なのはプロイセンの国風とも呼ぶべきものだった。
プロイセンはブランデンブルク選帝侯国時代に、選帝侯ヨーハン・ジギスムントがカルヴァン派に改宗している。
これが1614年のことだが、まだカトリックとプロテスタントが血で血を洗う三十年戦争を繰り広げる以前のこの時代において、領民はルター派かカルヴァン派かを選ぶことが認められ、プロイセンではカトリックの信仰まで認められた。
驚くべきことに、領民がカルヴァン派への改宗を求められなかったため、この国ではトップの選んだカルヴァン派の方が宗教的マイノリティだった。
この宗教的寛容は後の世代にも受け継がれ、プロイセンの基礎を作ったフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は1664年に寛容令を発し、カトリック・プロテスタント双方が他宗派の信条を非難することを禁止している。
宗教的寛容が上から強制されたのだ。
寛容であったことはユダヤ人に対しても同様で、神聖ローマ皇帝に追放されたユダヤ人をブランデンブルクに呼び寄せる、ということもしている。
ただし、こうした寛容な政策は実利を見込んだ上でのことだった。
プロイセンが移住を認めたユダヤ人は一万ターラー以上の財産を持つ家族だけで、移住した後は毛織物産業で働くことを求められた。
そこには、商才のあるユダヤ人の力で国を富ませようという思惑が働いている。
ただ信念のために宗教に寛容だったというわけではない。
ユグノーが作った国家・プロイセン
このようなプロイセンの寛容の精神は、やがてフランスからユグノーを呼び寄せる。
フランスの新教徒であるユグノーは1685年にルイ14世がナントの勅令を廃止し、信仰の自由が認められなくなると、2万人がプロイセンに亡命した。
このうち1万5000人がベルリンに住み着いたため、ベルリンの人口の3割がユグノーになった。
ベルリンは「移民の町」になったのだ。
ユグノーは三十年戦争で荒廃したプロイセンの復興に大いに貢献し、この国の産業発展の基礎をつくることになる。
寒冷で土地が痩せていて、湿地帯の多いプロイセンが発展したのは、こうした移民の力によるところが大きい。
ユグノーには商人や手工業者が多かったため、ユグノーを受け入れることはプロイセンに商工業の発展をもたらし、人口も増えた。
そして、幼いころのフリードリヒを教育したのもまたユグノーのラクール婦人だった。
この夫人がフリードリヒに文学的影響を与えたため、大王は詩作を好む文人的資質を身に付けることとなる。
しかしフリードリヒの「文化系」志向は、後に「軍人王」である父、フリードリヒ・ヴィルヘルムに忌まれる原因を作ってしまう。
大王の父、フリードリヒ・ヴィルヘルムは粗野な人物で、詩作やフルートに傾倒するフリードリヒを軟弱な王子だと考えていた。
王子は父からはこうした趣味を禁止され、見つかれば鞭打たれた。
ユグノーがフランスからもたらした文化は認められず、フリードリヒは父から虐待に等しい扱いを受けながら成長する。
このことがやがて、父子の間に決定的な亀裂を生んでしまう。
王太子フリードリヒがイギリスへの亡命を決行したのだ。
フリードリヒの亡命は失敗に終わったが、最初はこのことは「若気の至り」で済む程度のことだったらしい。
しかし王子の親友であるカイト少尉がイギリスに亡命してしまったため、事態は急展開を迎える。
この頃プロイセン宮廷では神聖ローマ皇帝派と英仏派が対立していて、王がカイト少尉の亡命に英仏派の陰謀を見て取ったからである。
フリードリヒは父から厳しい査問を受け、親友のカッテ少尉は処刑された。
大きな挫折を味わったフリードリヒはやがて父と和解することになるのだが、軍務に復帰したフリードリヒが率いることになった第15歩兵連隊は、三分の一をユグノーが占めていた。
移民は商工業だけでなく、軍事力においてもプロイセンを支えていたということになる。
プロイセンの軍事力を支えたのもユグノー
この第15歩兵連隊は大王直属の精鋭部隊で、フリードリヒ自らが率いている。
フリードリヒはユグノーが多数在籍する軍を率いて、オーストリア継承戦争・七年戦争を戦い抜いた。
移民の力がどれだけプロイセンにおいて重要であるかを、フリードリヒは身をもって理解していただろう。
そんな大王が言ったことが、冒頭に引用した台詞だ。
宗教的寛容が国力の増大をもたらすというプロイセンの気風は、大王のこの台詞に結実している。
当時の大国であるオーストリアを敵に回し戦い続けたフリードリヒは「軍人」のイメージがあり、後にヒトラーも彼を神格化し軍神のように扱っている。
しかし、余暇には著作にふけりフルートの協奏曲を作り、無憂宮へヴォルテールを招いた大王の資質は、本来は文人肌だったようにも思える。
ちなみにCiv4ではフリードリヒ大王の志向は「創造・哲学」。完全な文化人扱いだ。
そのような大王の資質がユグノーの傅育官によって培われたものだとすれば、改めてプロイセンにおける移民の力の大きさというものに思いを致さざるを得ない。
フリードリヒという人は、実はアメリカとも大いに関係がある。
七年戦争でプロイセンに味方していたイギリスは、戦費調達のため北アメリカ植民地に重税を課したため反発を招き、これが独立戦争までつながっている。
フリードリヒの引き起こした戦争は、アメリカ誕生の遠因になっているのだ。
プロイセンが移民の力を活用して強国にならなければアメリカ合衆国は生まれず、トランプも歴史の表舞台には出てこなかったかもしれない。
自らの行為が遠い将来において、自国とは全く逆の移民政策を採る大統領を生むとは、この時代随一の君主にも予想すらできなかっただろう。