明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

映画『マイケル・コリンズ』感想:アイルランド独立の闘士の生涯はひたすらに重い

 

ひたすら苦く、重苦しい。

リーアム・ニーソン演じるアイルランド独立運動の闘士マイケル・コリンズのイギリスを相手取るゲリラ戦が映画の前半では描かれているが、 これに対するイギリス側の報復は実にひどい。フットボールの試合中に装甲車で乗り込み、選手や観客にまで発砲している。ロシアとは別の「血の日曜日事件」は映像で見ると相当にショッキングだ。

 

のちにコリンズはイギリスと交渉に臨み、英愛条約を結んでアイルランドの独立を勝ち取ったものの、結果として北部の州がイギリスについたことやアイルランド自由国がイギリスに忠誠を誓わなくてはいけないことになったため、今度はアイルランドで内戦が起こってしまう。

作中でコリンズが「条約を拒めば戦争になる。それは悲惨なものになるだろう。自由と平和の代償としての汚名ならば、喜んでかぶる」と言っている通り、コリンズはこれ以上アイルランド人の犠牲を増やさないために不本意ながらイギリスと条約を結んだのだが、これを理解しない急進派の共和主義者のため最終的にはコリンズ自身が犠牲になってしまった。

 

作中でダブリン城を受け取るため、アイルランド総督との面会に7分遅刻したことをとがめられたコリンズが「アイルランドは700年待たせられたんだ、7分くらい待て」と返しているが、約700年前にはイギリス王ヘンリー2世がアイルランドに侵攻している。古来より統一王国を持たなかったアイルランドヴァイキングやイギリスなどの外来の勢力に対しつねに守勢に立たされてきたが、この島国が独立を勝ち取るにはこの傑出した戦術家であり、自称「破壊担当大臣」の登場を待たなければならなかった。大量のアイルランド人が殺され、仲間も多く命を落としていくこの映画において、コリンズの陽気さが唯一の救いというべきだろうか。

映画『第九軍団のワシ』感想:ローマ軍人とブリガンテス族の少年の友情を描いた良作

 

第九軍団のワシ スペシャル・エディション [DVD]

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最近の作品に比べれば地味な映画だが、とても良かった。

サトクリフの原作とはストーリーが少し違うようだが、未読の私にはどこが違うのかわからない。

いずれにせよ、古代ローマに多少なりとも関心のある人なら楽しめる作品ではないかと思う。

 

主人公はローマの軍人マーカス。軍の象徴であるワシの紋章を奪われた父の恥を雪ぐため、属州ブリタニアへ赴いたマーカスはブリガンテス族相手に戦功をあげるものの、足を負傷して除隊となってしまう。

傷心のマーカスは剣闘士の試合で殺されそうになっていた少年を助けるが、少年はローマに恨みを持つブリガンテス族の出身だった。しかし命を助けられた恩から、少年エスカはマーカスへの忠誠を誓い、ワシを取り戻すマーカスの旅の供を買って出ることになる。

 

映画に出てくるハドリアヌスの城壁は思ったよりも立派だ。同時代の万里の長城よりよほど立派なのではないだろうか。「ここが世界の果てだ」というローマ兵の言葉通り、長城の北に広がっている世界は未開そのもので、自然の描写も美しい。アザラシ族という肌を灰色に塗っている部族が出てくるところなどは若干ファンタジー色も感じるが、ほんとうにこういう部族が存在したのだろうか。

マーカスとエスカの敵味方を超えた友情が軸となるストーリーはごくシンプルなものだが、元が児童文学の名作であるだけに今なお古びないすがすがしさを感じさせる。大規模な戦闘シーンは冒頭とラストくらいしかないが、つねに陣形を組むローマ兵と見境なく突っ込んでくるケルト人の戦い方の違いも楽しめる。いずれ原作もじっくり読んでみたいと感じさせる作品だった。

 

水戸藩にラーメンが伝わった事情とは?『水戸黄門の食卓 元禄の食事情』

 

現在では室町時代にすでにラーメンが食べられていたことが知られていて、水戸光圀は「日本で最初にラーメンを食べた人」ではなくなってしまいましたが、それでも茨城には水戸藩ラーメンの伝統が今でも生きています。

r.gnavi.co.jp

この『水戸黄門の食卓』の「元禄のラーメン」 の箇所には水戸光圀が中国の儒者朱舜水から教えてもらったラーメンの作り方が書いていあります。中国で唐の時代から用いられている藕粉という澱粉をつなぎに使った麺を用い、火腿(豚のもも肉を塩漬けにしたハム)でダシを取り、五辛という5種類の薬味を入れて食べる料理です。

 

とはいっても、朱舜水は何もラーメンの作り方を光圀に教えるために来日したわけではありません。本来、朱舜水満州族に滅ぼされた明を再興する資金を得るため、長崎に来ていたのです。本場の儒者を招きたいという光圀の願いを受け、朱舜水と光圀は寛文5年(1665年)にはじめて対面しました。

食通の光圀は江戸に住むことになった朱舜水をもてなすため、手製のうどんを作っています。この時代では江戸でも蕎麦よりうどんのほうが流行していました。光圀が麺好きであることを知った朱舜水は、光圀への返礼として中国の麺を紹介したのです。うどんを作っていた経験から麺打ちに自信のあった光圀は朱舜水に麺打ちを習い、朱舜水は光圀のために澱粉を取り寄せて献上しています。朱舜水水戸藩に伝えた知識は儒式礼法や農業、造園技術など幅広いですが、その百科全書的な知識のひとつがラーメンの作り方だったということです。

 

映画『アレクサンドリア』(感想)

  

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ここまでキリスト教の負の側面をはっきり描いている映画もあまりないんじゃないかなぁ……というのが正直な感想。
クォ・ヴァディス』などのように主にキリスト教徒側が迫害される映画をたくさん観てきた私には、これは驚きだ。


この『アレクサンドリア』作品中でもキリスト教徒側が迫害される描写はあるのだが、古代ローマ末期のこの時代にはすでにキリスト教は国教で、皇帝のテオドシウスもキリスト教徒だ。そのためかアレクサンドリアで暴動を起こしたキリスト教徒は結局無罪になっている。
それどころか、皇帝の命によりアレクサンドリアキリスト教徒の手に渡り、図書館に蓄えられた古代の叡智の多くが失われることになってしまった。
主人公の女性哲学者ヒュパティアはキリスト教徒もできるだけ公平に扱うよう主張していたのに、これはあまりの仕打ちだ。
古代の神々の石像を破壊し、ユダヤ人を迫害する彼らの姿はまるで過激派テロリストのようだ。昔のこととはいえ、ここまで一宗教の実態を悪く描いて大丈夫なのかと心配になるほどだが、史実だから仕方がないのか。

 

ヒュパティアはこの惨状を目にして「あなた方の神は、かつての神々に比べ公平でも慈悲深くもない」といっている。最後まで哲学と天文学を愛した彼女は魔女とされてしまった。冒頭で彼女が学生と闊達に議論を交わす姿が魅力的だっただけに、この結末は残念でならない。彼女が罰せられたことで自然科学という古代の最後の輝きが失われてしまったようにすら感じられるほどだ。これが信仰の代償なのかと思うと深い喪失感にとらわれる。

ヒュパティアの最期はこの映画で描かれているよりずっとひどいものだったようだが、だからこそ映画ではダオスにあのような役回りをさせたのだろうか。史実のような残酷な死を回避できたことだけがこの作品の唯一の救いだ。

明・清と同時代のモンゴルやチベットの歴史を知りたい人におすすめの講談社学術文庫『紫禁城の栄光』

 

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

 

 

 明・清代の歴史の概説書としては講談社の中国の歴史シリーズ、古くは中公文庫の世界の歴史に収録されているもの、また陳舜臣の『中国の歴史』などいろいろありますが、この時代を1冊で理解したいなら間違いなくおすすめなのがこの『紫禁城の栄光』です。

なにしろこれ、まず読み物として面白い。講談社学術文庫から出ているからといって構える必要はまったくありません。政治史が中心で文化史の記述はそれほどありませんが、歴史はまず政治史をしっかり押さえることが大事なので入門書としてちょうどいい。

そして、他の本にはあまりない特色として、明・清時代のモンゴルやチベットの歴史がよくわかる、という長所がこの本にはあります。実は元代にはモンゴルが中国の農耕地帯と遊牧地帯を統一していたため、この両地域は商業で結びつけられていました。しかし明代になりモンゴルが中華世界の北に追いやられて北元となり、このふたつの世界は分裂しました。

明はこのふたつの世界の再統一を目指し、永楽帝は自ら兵を率いて出征しています。しかし農耕民族である漢民族遊牧民であるモンゴルには対抗しきれず、明は元の領域を回復することはかないませんでした。

 

なぜ、農耕民族では遊牧民に対抗しえないのか。この理由について本書の冒頭で解説がなされていますが、これは単に明朝についてだけあてはまるわけではなく、古代から長きにわたって中国史を規定してきたものでもあります。

遊牧民の軍隊の特徴は、きわめて安上がりなことである。だいたい俸給というものがなく、戦利品の十分の一を戦争指導者たる皇帝の取り分としてさしだしたのこりは全部個人の所得になる。補給も楽で、輜重隊がなくてすむ。出陣の際は、兵士はめいめい腰の革嚢にチーズや乾し肉をいれて出かけるが、それで約3か月間は行動できるのである。 (p30)

 このような特徴があるため、いくら漢人のほうが人口が多くて文明度が高くても、そう簡単に遊牧地域まで支配することはできないのです。このため、中国史匈奴の昔から遊牧民が優勢であり、明代に入ってもまだモンゴルの侵攻に悩まされています。それどころか、土木の変では皇帝が捕虜にされてしまっています。このような事情があるため、中国史を語る上では遊牧民の歴史も合わせて語らなくてはいけないのです。

 

そして、明代以降はモンゴルはチベットとの関係性を深めています。本書では北に撤退した北限の歴史をひととおり語ったあと、モンゴルの英傑アルタンがラマ教ゲルク派に帰依するところを描いていますが、このとき僧ソェナムギャムツォにアルタンがダライ・ラマの称号をささげています。これがダライ・ラマの誕生です。転生をくり返すダライ・ラマはモンゴルや中華世界の政局にも大きな影響を与えるようになり、17世紀には不世出の政治家であるダライ・ラマ5世が出ています。

やがて清朝の時代になり、モンゴル全域は清の支配下にはいりチベットも保護下に入ることになりますが、明代は「シナ」の領域しか支配していなかった王朝がモンゴルとチベットを勢力下におさめることで、現代の中国とほぼ同じ領域を手に入れることになります。この「シナから中国へ」が、本書の歴史叙述の流れになります。この過程で中華世界とモンゴル、そしてチベットの歴史が有機的に結び付けられているところが、本書の画期的な点です。 

 

海と帝国 (全集 中国の歴史)

海と帝国 (全集 中国の歴史)

 

 

このように、なにかと有益なこの『紫禁城の栄光』ですが、著者の一人がモンゴル史の専門家であるためか、どちらかというと視点が内陸に偏りがちである点は否めません。これに対し、『海と帝国』では商業ネットワークの観点から海上交易に重きを置いた叙述となっています。

もうひとつ、本書に欠点があるとすれば、清帝国が崩壊しいていく過程までは語られていないということです。それは近代史の書籍に譲るということでしょう。満州人に困窮するものが増え、白蓮教徒の乱が起きるところまでは書かれていますが、本書ではあくまで清帝国の斜陽を匂わせるだけです。タイトルが『紫禁城の栄光』である以上、清の没落までは書かないということでしょうね。

天理教徒の暴動はいちおう鎮圧されても、中国社会の諸矛盾はなんら解決されていなかし、それにはるか海上からはイギリスを先頭とする欧米諸国のあたらしい強力な勢力がしだいにせまってきていた。だがそうした世界史の歯車の大きな動きになお気づかぬままに、すぎし日の栄光の夢さめぬ紫禁城の瑠璃瓦は、秋の夕陽に照りかがやいているのであった。(p332) 

 

感想をもらっても返さない側の言い分

 

anond.hatelabo.jp

私はまったく無名の人間だけれど、ウェブで小説めいたものを何年も書いていれば感想ももらうことはあるし、時にはほめてもらえることもある。でも、私はほめてくれた人が作者の場合、こちらもお礼に読みに行ってほめなければ、とは思わない。増田氏から見れば薄情な人間だろう。そう思われて構わないが、なぜ感想を返さない人がいるのか、その行動原理が理解できないだろうと思うので、ここでは私が感想をもらっても返さない理由について書いてみたい。(ちなみに、私は感想が欲しいと自分から言ったことはない)

 

まず、自分の基本原則として、人を束縛したくないし、束縛されたくもない、ということがある。私も人の小説にレビューを書くことがあるが、それは書きたくて書いているのだから、お礼などは一切求めていない。そのかわり、これだけ褒めてあげたんだからこっちも褒めてくれよ、☆を入れてあげたんだから☆をくれ、といった要望に応えることもない。もちろんあからさまにそんな要求をしてくる人はいないが、そんな姿勢が見え隠れする人に対してはそう接する、ということだ。

 

社交の手段としてレビューや感想を書く文化圏が存在するということは私も知っている。ただ、そういう文化圏のルールに皆が合わせてくれるとは限らない。そういう「褒め合い文化圏」に所属すると感想などはもらいやすくなるが、感想を書くことが義務になってしまう。私はそれを望まない。私が人を褒める時は本心からそうしているのだと思ってもらいたいからだ。こうした「褒め合い文化圏」の人からの好意的な感想は、人によってはむしろマイナスに思うこともある。褒めてもらえたと喜んでいたのに、相手はこっちも褒めてくれという取引を持ちかけていただけだった、と知ることがショックなのだ。

 

このため、ウェブ小説界では「作者からの評価は信用できない、読み専からの評価だけが本当の評価だ」という人もいる。作者からの評価は利害が絡むこともあるからだ。実際、なぜこの人は私の書いたものをこんなに不自然なほどに絶賛してくるのだろう?と思ってその人の作品を見に行くと、なんらかのコンテストに参加している最中だったりする。つまり私の票が欲しいのだ。

 

こういうことがあるので、わざわざ投稿サイトのプロフィールで「レビューに対するお返しは必要ありません」と明言する人さえいる。こう言わなければレビューの信頼性が損なわれてしまうからだ。社交のために感想を書いているのではない、と断っておかないと相手がそう考えるかもしれない。私は褒め合い文化圏の人間ではありません、と明言しておくことで、感想を送られた相手はそれを負担に感じることなく素直に受け取ることができる。

 

news.goo.ne.jp

私も書く側の人間なので、感想が欲しいしできることなら褒められたい。ただ、「こんなに大変な思いをして感想を書いているのに」という負担を感じてまで感想を書いてほしくはない。私が感想を書くのは単に好きでやっていることだし、自分が好きでやっていることはその時点で自己完結しているから、見返りは必要ない。だから感想を書く側の人にも好きなように書いたり書かなかったりしてほしいと思っている。これは社交を重んじる側の人からすれば冷たい考え方だろうが、ここには自由がある。自由と社交の楽しさはトレードオフだ。自由を重んじるほど人は孤独になる。しかし孤独な人でも、感想は欲しい。それなら読んだ人が進んで感想を書きたくなるような強い文章をこちらが書くしかない。感想と感想を交換するのではなく、作品自体を「おみやげ」としてさしだせるようになれれば、そこではじめて社交辞令ではない、本当の感想を受け取ることができるようになる。

『魔法少女まどか☆マギカ』を今頃観て「名作を後から知るメリット」について考えた

 

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アマゾンのレビューで、この作品について「放映当時、これを何の知識もない状態で観ることができた人がうらやましい」というものを見かけた。

確かに、一切の事前情報がない状態でこの作品にふれたほうがなにかとショックは大きいだろうし、より深くこの深遠な作品の魅力にはまり込むことができるのかもしれない。どんな作品でも周りが盛り上がっているときにリアルタイムで視聴するほうが強く記憶に刻み込まれるし、それはこれほどの作品であればなおさらのことだ。

 

ただ、なにかとショッキングな場面の多い『魔法少女まどか☆マギカ』のような作品の場合、評判が確立したあとから作品にふれるメリットも結構大きいのではないか、と、12話の視聴を終えたあとで感じた。

まったくこの作品のことを知らない自分のような人間でもこの作品が放映されていた2011年当時のことはよく覚えていて、3話での巴マミの運命に多くの人がショックを受けていたこと、キュウべえがどうやらとてもひどい奴であるらしいこと、などなどの情報がすでに頭に入っていたので、この作品に入る前に対ショック姿勢を取ることができた。

 そのおかげで、3話の内容はそれほど衝撃を受けなかったし、のちにキュウべえが明かす魔法少女の身体の秘密についても残酷な話だとは思いつつも、まあそれも理屈ではあるよな、と思いながら観ていた。もっとも、契約する前にあらかじめ言っておかなかったのはひどい話ではあるのだが。

 

年齢のせいなのか、最近観ていて疲れる作品にはあまり触れたくなくなってきた。ある程度予定調和のなかでおさまるストーリーが精神によいと感じられるようになってきたのだ。それなら虚淵作品なんて観るなよという話なのだが、そうはいってもやはり名作といわれるアニメも知っておきたいわけで、そんな私にはまどマギが現状「適度にネタバレされている状態」があっていたような気がする。

 

有名作品はあちこちでネタにされるので、「こんなの絶対おかしいよ」「もう何も怖くない」など放映当時言われまくっていた台詞の意味が今頃わかるのもけっこう楽しかったりする。みんなこれの話をしていたのか、とあとから知るのも面白い。のじゃロリおじさんの「それはとっても世知辛いなって」の元ネタがこのアニメであることもはじめて知った。子供のころゲーム機を持つことを禁止されていたので、大人になってからドラクエを遊び始めてブルーオーブだとかルビスの守りだとか皆が話題にしていた言葉の意味がようやくわかったが、あれと同じ気分だ。未履修の必須単位をようやく取得できたような、妙な安心感がある。

 

視聴している途中、自分の感性が古びていることも感じた。劇団イヌカレーの魔女の絵はあまりアニメとマッチしていない気がして、ここは普通のアニメでいいだろうと思った。2011年当時なら、こんな風には思わなかったのかもしれない。こういうところにも、変化や逸脱を嫌う最近の自分の鑑賞傾向が出ている。もう少し視聴が遅れていたら、こういう細かいところに引っかかって最後まで観ることができなかったかもしれない。始めるのに遅すぎることはないとはいえ、こちらが変わってしまうことで名作の良さを味わえなくなってしまうということはやはり、ある。

 

まどマギは人間のエゴだとか奇跡とその代償、自己犠牲の限界など普遍的なテーマを扱っている作品だが、それでも8年前の作品なので細かい描写に古びたところを感じることもないではない。たとえば早乙女和子は30代で独身なのを焦っているような描写があるが、2019年の今ではあまりこういうことをいじる空気はない。ポリコレに敏感な人なら批判するかもしれないところだ。やはり2011年の作品にはその時代の空気が閉じ込められている。シュタインズ・ゲートの@ちゃんねるのネタがあの当時のネットをそのまま表現しているだけに、今では懐古的に楽しめるのと同じことだ。こういう、現代と当時とのギャップを知ることも過去作品にふれる楽しみのひとつであったりする。

 

ついでに言うと、PC版のマギアレコードが事前登録受付中なので登録しておいた。アプリ版が発表された時点でファンからはもう遅すぎる、と言われていたのだが、今本編を観たばかりの人間からすればちょうどいいタイミングだ。視聴するタイミングがずれると思わぬところでこういう恩恵があったりする。当時の盛り上がりを周りと共有できなかった人間には、代わりにこれくらいのご褒美があってもいい。