明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

「豆腐メンタル」でも文章を書き続けるには、どうすればいいのか?

ウェブで文章を書くなら批判は避けられない

ウェブで小説などを書いていると、時にはあまり聞きたくない言葉を浴びせられることがあります。オチの意味が分からないだとか、こんなものを書くなんて痛々しいにも程があるだとか、挙げ句の果てにはこういう小説は書くべきではないだとか、こちらを叩いてくる人達の言葉は実にバリエーション豊か。

 

いや、書くべきではないって何?なんでそれをアンタが決めるの?表現の自由って何だ、こっちが書きたいことを書いて何が悪いんだ、とは思いつつも、こういうことを言われるたびにやはりメンタルは削られていくものです。私みたいに大して有名でもない作者ですらこんなことを言われるのなら、もっと有名な作者は一体どれくらいの批判を浴びているのか……?これから紹介するエッセイは、カクヨム初期にファンタジーランキング1位になった作品を書いていた佐都一さんのエッセイです。

kakuyomu.jp

このエッセイ、本人の実体験を踏まえて書かれているだけあって、実に示唆に富んでいるのです。カクヨムがオープンして間もないころには様々な混乱があり、コンテストの最中には上位ランカーはさまざまな心ない言葉を浴びせられました。このエッセイは、佐都さんがそのような状況下にあって「どうすれば豆腐メンタルでも創作を続けられるか」について実践してきた内容を綴ったものです。

 

これはまさに現場からの声です。今心が傷つき弱っている人に、無責任な叱咤激励の声を飛ばす人は多いものですが、そんな外野からのアドバイスなんて大して役には立ちません。砲弾の飛んでこない安全圏からなら、どんな勇敢なことだって言えるのです。このエッセイはおもに小説を書く上での心構えについて記したものですが、ブログにも通じる部分が大きいと思うのでここで紹介する次第です。

 

悪意は立ち向かうのではなく「かわす」方がいい

「そんな弱いメンタルのままじゃプロになれないよ」とウェブ作家に向かって言う人がいます。そもそも皆がプロになりたいわけではないのですが、性格というのは生まれつきの部分も多いし、そうそう簡単に変えられるものではありません。

そこで、より実践的な方法として、このエッセイでは悪意と戦うのではなく、悪意をかわす方法を推奨しています。例えば、おかしな上から目線のアドバイスネガコメが来たら削除を推奨。悪意をぶつけたい人にまで向き合う必要はないし、逃げればいい。ツイッターで変な人に絡まれたら即ブロック。これでOK。

 

ここで、「いや、せっかく読んでくれたんだから批判的意見にも向き合わなければ」と真面目な人ほど考えがちなのですが、これこそが心が折れる原因になるのです。こちらに余裕があって、様々な意見に耳を傾けられるのならそれもいいでしょう。でも、それができるのはもともと強い人だったり、たくさん褒められていて「感情貯金」に余裕のある人だったりするのです。豆腐メンタルの人が強い人と同じ戦略を採用してはいけません。弱者には弱者なりの身の施し方というものがあるのです。

 

どうしても避けられない「嫉妬」の感情とどう向き合うか

このエッセイでは、ウェブ作家生活を続ける上でどうしても避けられない「嫉妬」の感情との向き合い方についても触れられています。全体からすればほんの一握りではありますが、ウェブの世界では参入してすぐにランキング上位に駆け上り、書籍化の栄光を勝ち取る人がいます。そこまで行かなくても、「○○PV達成しました」「○○ポイントに到達しました」など、日々成果報告がツイッターで流れてきます。

これは、そうした成果を得られていない人からすると、かなり心をえぐられるものです。ブログのPV報告や収入報告にも似たような面はあるでしょう。他人の成功報告は、時にそれができていない自分の無能さの証明であるように感じられることがあるのです。これが辛い。

 

嫉妬の感情なんて、持たなければそれに越したことはありません。しかしそう思い通りにならないのが人の心というものです。では、どうすればいいのか?詳しくは本文を読んで欲しいのですが、ここでも大事なのは「目をそらす」ことです。嫉妬心は存在しているのだから、これを無理やり叩き潰してもどうにもならない。それよりも、まず受け入れること。自分の心が折れないようにすることが何よりも大事です。

 

謙虚になって心が折れるくらいなら、傲慢になったほうがいい

これはあくまで私の場合は、ということですが、批判を受けてあまり謙虚になるのは考えものだと思っています。というのは、自己評価が低いときというのは、酷評ですら「誰も読んでくれない自分の作品をちゃんと読んでくれたんだ、感謝しなければ」と思ってしまい、ネガティブな言葉を全身で受け止めて疲弊してしまうからです。

 

ですが、これは危険な徴候です。酷評した人が見る目があるとは限らないし、仮にその人の言うことが正しいのだとしても、酷評を真に受けすぎて自分の能力まで疑うようになると、書き続けることができなくなってしまうからです。

書き続けることを邪魔するような言葉は、どんな正論でも毒です。どんな物事でも、結局続けなければ物にならないのだから、こちらの心を折ってくるような言葉は聞かないほうがいい。

 

冒頭で「貴方の話はオチの意味がわからない」と言われたと書きましたが、これは私が創作をはじめて間もないころです。その人は、良い点はほんの少しだけ、悪い点についてはずいぶん念の入った詳細な感想を送ってきました。私は何も言い返しませんでしたが、心のなかではこう思っていました。

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ちゃんとオチつけてるのにオチがないように思えるなんて、頭悪いね。自分の読解力のなさを長々と感想欄でアピールするなんて、生きてて恥ずかしくないの?こう考えたほうが私はテンションが上がりますし、どう見てもこちらの心を折りにかかっている意見にまともに向き合うだけ時間の無駄だと思っています。別にその人のために書いてるんじゃないんだから。

 

作品を読んだ人がその作品にどのような感想を言っても、それは表現の自由というものでしょう。しかし作者の側も、ネガティブな感想を受け取らない自由があるのです。メンタルを健全に保つためにも、受け取る言葉は選んでいい。エッセイ中にも書いてありますが、酷評を真に受けてこちらが書けなくなっても、向こうは責任なんて取ってくれないんだから。

 

 心が折れやすい人にこそ書いて欲しい

 実際問題、人目に触れるところで何か書いてたらいろいろと言われてしまう、それ自体はどうしようもないことです。ですが、それで心が折れるような人はブログなんて書かない方がいい、とは思いません。それだと結局炎上上等のプロブロガーみたいな人ばっかり生き残ることになるんじゃないの?とも思うからです。

 

どの世界でもタフな人が生き残りやすいのは事実で、自然とそういう人の声が大きくなりがちです。だからこそ、時にはそうでない人の声も聞きたくなるのです。運良く勝ち上がった人の生存者バイアスまみれの自己啓発書なんて世の中にはいくらでもあふれかえっているのだから、その逆のメッセージにだっていくらかの価値はあるはず。マイノリティの発言はそれだけに貴重なのだから、上手く自分を守りつつ書き続ける方向性を模索するのも悪くないでしょう。今回紹介したエッセイは、そのような人にとって大いに役立つものだと思います。