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土橋章宏『幕末まらそん侍』(映画サムライマラソン原作)感想:安心して楽しめるエンタメ時代小説

 

幕末まらそん侍 (ハルキ文庫)

幕末まらそん侍 (ハルキ文庫)

 

 時代小説というジャンルに期待することがあります。それは、良い人間には良いことがあり、悪い人間にはそれなりに報いがあるということ。つまり、「現実はこうあってほしい」をフィクションのなかで実現するということです。世の中の不条理さや残酷さを克明に描写するのもいい。理不尽な現実を読者に突きつけるのもいい。ただ、そういうものを見たくないときというのがある。現実というものをいっさい忘れて、ただ楽しいフィクションの世界に浸りたいときというのがある。この『幕末まらそん侍』はそんな読者におすすめの作品です。

 

とはいっても、この小説の題材になっている「安政遠足」というマラソンのようなもの、これ自体は史実です。安中藩藩主・板倉勝明が藩士を鍛えるために1855年に行った遠足(とおあし)は日本のマラソンの発祥とも言われるもので、本作ではこの遠足に出場する侍たちのドラマが連作短編の形で描かれます。

 

1章の『遠足』は主人公の片桐裕吾と黒木弥四郎が、優勝者に姫が与えられるという思い込みから競争する話。黒木をなんとか出し抜こうとする片桐の策がセコすぎて笑える。片桐は正攻法で勝とうとはしていないのに、なんだかんだで黒木との友情が生まれたりいい感じで終わったりする……と思ったらオチでまた吹く。こういうコメディが得意なのはさすが『超高速!参勤交代』の著者というところか。

 

2章の『逢引き』は遠足よりも夫婦の人情話といったところ。安中藩一の剣士である石井正継は、嫁の飯のあまりの不味さに藩を出奔することを決意するが、実は……という話。やはり胃袋を握ったものが強いということだろうか。石井の剣の腕前は別の話で役に立つことになるが、ここでは出番はない。

 

3章の『隠密』はタイトルとおり、隠密として安中藩の動向を探っている唐沢甚内が、あまりにも波風のない自分の職務に疑問を抱き始めるという話。藩主の板倉勝明がここではじめて登場するが、なかなか面白みのある人物として描かれている。石井政継はここで再登場。

 

4章の『賭け』は、全5章のなかで一番マラソン小説らしい話。安中藩一の俊足を誇る足軽・上杉広之進は貧しいため、もし負けてくれれば10両を差し上げるという町人の賭けの話に乗ってしまいそうになる。現金を取るか、誇りを取るかの選択を迫られるストーリーはありがちではあるものの、やはりこうあって欲しい、という結末に落ち着く。

 

5章の『風車の槍』は親切心から財産を失ってしまった老侍・栗田又衛門が父親を失った伊助を鍛える話。下手な親切など無駄と考えていた又衛門が伊助との交流で変わっていく話でもあり、伊助の成長譚でもあるが、最終話だけに今までの話に出てきた人物が総登場している。幕府の陰謀も絡んでいる話だが、このあたりは創作だろうか。石井の剣の見せ場があり、片桐ですら活躍している。大団円にふさわしい話だった。

 

映画『サムライマラソン』では唐沢甚内を佐藤健、上杉広之進を染谷将太、栗太又衛門を竹中直人が演じるほか、板倉勝明を長谷川博己が演じることが決まっています。

目立たないことを身上としている唐沢役が佐藤健では目立ちすぎでは……?とは思いますが、そこは演じ方次第でなんとでもなるんでしょうかね。栗太又衛門は竹中直人よりもう少し枯れた感じの人のほうがいい気もしますが、特に不満もなし。

 小説の中では年寄りっぽいイメージのある板倉勝明ですが、長谷川博己ではちょっと若すぎるのでは?と思いましたが、実際には遠足が行われた時点で勝明が46歳くらいなのでそれほど年齢が離れているわけでもないからいいんでしょうか。小説中では藩政改革に熱心な「名君」というイメージなので当人の印象ともそれほど離れてはいなさそうです。

 

土橋章宏原作の『超高速!参勤交代』も映画化されていますが、こちらもノリ的には似たような感じのものになるかな、と(走っているし)思われるので、安心して楽しめる映画になりそうです。