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【感想】吉川弘文館東北の中世史5『東北近世の胎動』

 

東北近世の胎動 (東北の中世史)

東北近世の胎動 (東北の中世史)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/02/19
  • メディア: 単行本
 

 

吉川弘文館から刊行されている『東北の中世史』の最終巻だが、これは東北の城郭や伊達氏の統治に関心のある方にはぜひ読んでもらいたい。というのも、本書の2章では奥羽における近世城郭がどう発展していったかが書かれていて、特に伊達氏の築城技術について詳述されているからだ。個人的にはこの個所を読めただけでも大いに収穫があった。

 

東北地方ではもともと戦国時代に特徴的な「土の城」が建てられていて、石垣は部分的にしか使われていなかった。だが伊達政宗関ケ原合戦後の論功行賞で苅田郡をあたえられると居城を仙台へと移し、近世城郭としての仙台城を築くことになる。仙台城は主要部に石垣が用いられているが、石垣を用いた築城を可能にしたのは、普請に際して織豊系の石垣技術者集団を用いたからである。

仙台城普請で総奉行の一人を務めた金森内膳は蒲生氏郷の旧家臣で、氏郷の死後に会津を去り政宗に召し抱えられている。蒲生氏郷は中世城郭である黒川城を改修して近世城郭の若松城を建てた実績があるが、こうした城郭を作った技術者を政宗は抱えたことになる。

 

少し時をさかのぼると、伊達政宗朝鮮出兵の際にすでに西国の進んだ石垣技術にふれている。渡海した武将が朝鮮で築いた「倭城」の普請は政宗は免除されていたが、特に願い出て金海竹島倭城の築城に参加している。この城の普請の責任者は鍋島直茂・勝茂父子だったが、かれらは名護屋城の築城した経験から高い築城技術をもっていた。政宗はこの技術を吸収したことになる。

政宗は朝鮮から母の保春院に、伊達氏の石垣技術は西国の諸大名に少しも劣らないと自慢しているのだが、倭城普請をつうじて織豊系の最先端の築城技術を手に入れたことで自信をつけていたらしい。話はそれるが、わざわざ遠方からこんな手紙を出すくらいだから、ほんとうは政宗と保春院の仲は良かったのではないか。

 

伊達氏の城郭構造についての言及も興味深い。本書の二章では、仙台城の虎口に「馬出」が設けられていたことが指摘されている。戦国時代に城郭の防御力を増すためにつくられていた「馬出」は真田丸にも用いられていたものだが、これは従来東北地方の城郭にはあまり見られないものだった。武田氏や徳川氏が用いていた「丸馬出」は岩出山城や佐沼城にも導入されたが、仙台城の馬出は枡形から形態が変化したものである。仙台城の馬出は戦争がなくなりつつある時代に建設されたものであるため、軍事的必要性よりも政治的意図(示威目的?)から作られたもののようだ。

 

このように、城郭建築においては先進的な技術を取り入れた伊達氏だったが、その統治形態がいまだ中世的なものだったことも言及されている。その理由はここで引用するにとどめておく。

 

近世に入ると多くの藩では武士を城下町に集住させ、給与として蔵米や金銭を与える方式を採用していくことになるが、仙台藩では武士を仙台城下に集住させることなく、直接土地を与えて経営させる、中世以来の地方知行制を維持していた。

これは政宗が奥羽仕置にともなう所領没収と移封によって、従来の約半分ほどの石高へと大幅に減封されたため、すべての家臣を仙台城下に集住させて養うことは、事実上不可能であったことがその理由である。また、新たに移封された旧葛西・大崎領は広大な荒蕪地が存在していたことから、家臣たちに土地を与えて直接経営させ、家臣団の維持と領内の開発を図ったのである 。