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【感想】平山優『戦国の忍び』で「忍者」の最新研究に触れられる

 

戦国の忍び (角川新書)

戦国の忍び (角川新書)

 

 

この本の著者の平山優氏は『真田丸』の時代考証を務めていたことで知られている。大河ドラマにかかわって以来、氏はテレビ局や出版社から忍者についての問い合わせを受けていたが、「忍び」の実像について答えられるほどの知識を持っていなかったそうだ。真田氏に関する講演会でも忍びについての質問を受けていたため、一般人の持つ「忍者」と、戦国時代に実在した「忍び」のイメージの食い違いを調べる必要があった。そして史料を探した結果、思いのほか忍びに関する史料は豊富に残されていた。本書を読めば、これらの史料からみえてきた「忍び」の実態についてくわしく知ることができる。

 

「忍び」はどれくらい重要だったのか

本書の一章において、徳川家康が称賛した軍学書『軍法侍用集』の内容が紹介されている。これは軍学者・小笠原昨雲が著わしたものだが、この本の全12巻のうち、忍びについての記述は6巻から8巻までの3巻分にも及んでいる。戦国時代の軍事において、忍びの存在がきわめて重要なものであったことがうかがい知れる。そのことは、『軍法侍用集』の以下の記述からも明らかだ。

 

大名の下には、窃盗の者なくては、かなはざる儀なり、大将いかほど軍の上手なりとも、敵と足場とをしらずば、いかでか謀などもなるべきぞや、其上、番所目付用心のためには、しのびを心がけたる人然るべし

 

どれほど戦上手であろうと、忍びを使いこなして敵の情報を知らなければ謀略を仕掛けることもできない。大将にとって軍の運用と忍びを使いこなすことが車の両輪であり、いずれが欠けても戦には勝てない、と認識されていた。敵も忍びを使ってくるのだから、こちらも忍びを雇わなければこれに対抗できない。軍学書でその必要性を強調されるほど、忍びは戦国大名にとり必要不可欠な存在だった。

 

実在していた?伊達家の黒脛巾組

武田信玄三ツ者上杉謙信軒猿北条氏康の風魔一党など、創作物には多くの忍びの集団が登場する。これらのほとんどは同時代史料には登場しないものだ。だが、伊達政宗が抱えていたという「黒脛巾組」については、本書に興味深い記述がある。

 

黒脛巾組は江戸時代の史料にしか出てこないため、平山氏も創作上の存在と考えていたようだ。だが研究を進めるうち、黒脛巾組については「木村宇右衛門覚書」が最古の史料であることが明らかになった。木村宇右衛門は伊達政宗の奥小姓を務めた人物だが、木村の覚書の中には黒脛巾組についての記述が二箇所ある。郡山合戦についての記述では、片倉景綱が黒脛巾組を引き連れて活動する姿もみられる。

 

小雨の降るある日のこと、片倉景綱は、松川与助と、黒脛巾の者二、三人を引き連れ、七つ頭(午後四時頃)、笹蓑を着て、菅笠をかぶり、いかにも里人のなりをして、佐竹の陣所に馬で向かった。敵陣の近所で、彼らは馬を隠し、佐竹の陣小屋に近付いた。様子を窺っていると、陣所の搦手脇に、水汲み口の木戸があり、そこを開けて雑人たちが盛んに水汲みのために往復していた。片倉は、松川だけを連れ、黒脛巾らには待機させ、佐竹の雑人に紛れて陣所に潜入することに成功した。

中を見回っていると、佐竹義宣の陣小屋には、家臣らが集まり、何事か細工をしている音が聞こえたという。彼らは、義宣の陣小屋を通り過ぎ、馬小屋を見つけたので、馬の繋ぎを解き、陣所に放った。これを見つけた中間や若党たちが、慌てふためき、馬を追いかけていった。

その隙に、片倉は小屋の前に立てかけてあった立派な十文字鑓の穂先を打ち折り、土産物だといって藁に包み、分捕った。負けじと、松川も小屋の中に吊るしてあった鍋を確保し、片倉も馬の鐙を分捕ったという。これで土産物は十分だと満足した二人は、小屋から出て、水汲み口から難なく脱出した。

 

このあと、松川は佐竹の陣所に火をつけている。ここでは黒脛巾組は待機させられ活動していないが、陣所への潜入や放火などは本来は黒脛巾組の仕事だったことがわかる。信頼性の高い史料に黒脛巾組の活動が記録されているのも驚きだが、みずから敵の陣所に忍び込む片倉景綱の大胆さも驚きだ。これが本当なら、彼は政治や戦のみならず、は攪乱工作という面でも有能な人物だったことになる。

どんな者が「忍び」になるのか?

このように戦国の戦には欠かせない忍びだが、こうした人材をどこから見つけてくるのだろうか。本書では、忍びの由来は悪党にあると推測している。たとえば、武田家においては「悪い子にしていると透波になってしまうぞ」という言い方がある。乱波や透波は素行の悪いものが多く、まともな武士がなるものとはみなされていなかった。

 

忍びとアウトローとの親和性の高さは、北条家における風魔一党の活動を見ていてもわかる。風魔は確実な史料においては「風間」と書かれているが、風間たちは戦場では嗅ぎ(=偵察)などの任務を帯び活躍しているものの、配置されていた村では狼藉を働く恐れがあると警戒されている。風間は素行が悪く、味方の村々での評判は散々だった。

 

そんな者たちでも雇わなくてはいけないのは、頼りになるからである。多くの戦国大名は、領内で悪事を働く悪党に手を焼いていたが、これらの悪党の取り締まりにあたったのも忍びだったのである。北条家の風間一党なども、そのネットワークを駆使して盗賊の摘発や処刑を行っていたようだ。忍びは自分たちがアウトロー出身であるだけに、悪党の手口を熟知している。なら悪党の摘発には忍びが最も適していることになる。忍びは厄介者でもあったが、これを抱え込むことは戦国大名にとり必要悪だったのだろう。

 

忍びは夜の世界の住人

本書の第五章「戦国大名と忍び」では、中世法と「夜の世界」についての記述がある。中世法が取り締まるのはおもに昼の世界であって、夜の時間帯には中世法の保護が及ばないことが多い。戦国期に入ると、夜間に提灯を持たず通行しているものは殺害しても構わないという法もつくられる。忍びの多くは夜の闇にまぎれて働く者たちであり、昼とは別の秩序の中で生きる者たちということになる。ここにもまた、忍びのアウトロー性を見て取ることができる。

 

そのためか、忍びは戦国大名にとり必要不可欠な存在であるにもかかわらず、その扱いは軽い。彼らの多くは非正規雇用であり、使い捨ての労働力である。敵地への潜入や放火、城の乗っ取りなどの活動はきわめて危険で死傷率も高い。戦場で命を落としても、彼らは気になどかけてもらえない。本書によれば、戦死したり傷ついた忍びのその後を語る史料は存在しないそうだ。武士なら戦死すれば子孫に配慮してその様子が史料に残るが、忍びは死ねばそのまま闇の中へ消える。生きていても死んでも忍びは名誉などとは無縁の存在だ。このように歴史の影に埋もれがちな忍びに光を当て、膨大な史料の中からその姿を浮き彫りにしたところに、本書の意義があるといえるだろう。