明晰夢工房

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門井慶喜『かまさん』感想:函館共和国が敗北した理由とは何か

 

かまさん 榎本武揚と箱館共和国 (祥伝社文庫)

かまさん 榎本武揚と箱館共和国 (祥伝社文庫)

 

 

榎本武揚といえば、私は『土方歳三最後の一日』で片岡愛之助が演じていたあのきざったらしい男をまず思い浮かべる。しかしこの『かまさん』における榎本は気風のいい江戸弁をあやつる、遊び心にあふれた男だ。この作品での榎本の印象はオランダに留学したエリート官僚というよりは、喧嘩っ早い江戸っ子そのものなのだ。

 

自負も闘争心も強い榎本が薩摩の軍艦と戦うところからこの小説ははじまっているが、慶喜が新政府に恭順する以上、榎本が独断で薩長と戦うわけにはいかない。ご存知のとおり、こののち榎本が向かうのは蝦夷地だ。

榎本は、蝦夷地とはふしぎな因縁がある。榎本の屋敷の近くには松前藩邸があり、ために少年時代からかれは蝦夷地への関心を育てていた。長じて日本最強の軍艦・開陽丸の艦長となり、旧幕臣からの人望も得た榎本は蝦夷地をまるごとわが物とし、共和国となすことを決める。そして函館府を守るのが酒色にふけるしか能のない公家・清水谷公考であったとなれば、もはや蝦夷地という舞台が榎本を待っていたとしか思われない。

 

オランダに留学し、オランダで造った開陽丸をあやつる榎本は蘭学の申し子だ。そのオランダがスペイン相手に80年戦って独立をかちとった史実にならい、蝦夷共和国もまた80年間ねばりぬく必要があると 榎本は考える。五稜郭だけでは心もとないので松前と江刺を榎本は押さえることになるが、江差の海岸で開陽丸が座礁してしまう。順調だった榎本の前途に不吉な影がさした。

この一隻だけで津軽海峡制海権を握ることができる、といわれていた開陽丸を失った時点で、蝦夷共和国の未来はなかば決していたように思えなくもない。オランダ造船技術の粋であり、我が子同様にいつくしんできた開陽丸を失った痛手はきわめて大きかった。新政府軍最強の軍艦・甲鉄の強奪にも失敗し、海軍力でも差をつけられた蝦夷共和国にはもう未来はなかった。

 

結局、五稜郭を奪い松前を制圧したあたりが榎本の最盛期だったのだろう。天皇を擁する新政府軍とはちがい、蝦夷共和国には大義名分がない。榎本その人が傑出したリーダーであってもその力のみでこのにわかづくりの国家の「国民」を束ねていくことはむずかしい。

すなわち函館共和国には、何もなかった。

近代的な天皇はなく、愛国心はさらになかった。この結果、兵士の意識にみだれが生じ、何のために戦うのかがわからなくなった。むろん釜次郎自身には、

「共和国独立のため」

という明快かつ具体的な目標があるけれど、これは当時の一兵卒にはあまりにも理解しがたい概念だった。理解以前にそもそも共和国というものを頭に思い描くことすらできないのだからどういう求心力のみなもとにもなり得なかった。

(p322) 

 ということであるなら、榎本は新政府軍に戦う前から負けているのだということになる。結局、共和国を建国した時点で榎本の運は尽きていたのかもしれない。それでも共和国軍はけっこう善戦しているのだが、それは燃え尽きる前の蝋燭が一瞬大きく燃えあがるようなものでしかない。敗北を受け入れ、それでも生きることを決め恭順を選んだ慶喜の偉大さをはじめて知った榎本はひとまわり大きな男になることができた、といえば、それは奇麗事にすぎるだろうか。