サンデルの新刊『実力も運のうち 能力主義は正義か?』が話題だ。一見実力で勝ちとったようにみえる社会的成功に、実は運が大きくかかわっている。このことをサンデルほどの有名人が指摘した意義は大きい。ところで、心の病が治る、快方に向かうことも一種の「成功」だ。だとすれば、「うつヌケも運のうち」なのだろうか。
『うつヌケ』のアマゾンのレビュー欄をみてみると、否定的な評価が少なくない。この本で取り上げられている人たちは抜きんでた才能を持っていたり、理解あるパートナーに恵まれている幸運な人たちではないか。自分もうつを患っているがそんな幸運とは無縁だ、なんの参考にもならない……というわけである。今うつの真っただ中にある人はどうしても物事をネガティブに見てしまうだろうが、(たぶん)うつではない私から見ても、この本に出てくる人たちはかなり環境に恵まれているように思える。
この本で田中圭一さんは「うつ治療の特効薬は自信を取り戻すエピソード」と書いている。このフレーズは作家の宮内悠介さんのケースの中で出てくるものだ。この事例では宮内さんが『盤上の夜』で創元SF短編賞を受賞し、作家デビューを果たしてうつが快方に向かったことが描かれているが、こういう華々しい話を紹介されると、なんだか自分とは遠い世界の話だ……という印象になるのは否めない。もうちょっと凡人でも共感できそうな、身近な人のエピソードを載せられなかったのだろうか、と思うが、紹介されている事例の多くが有名人のものなのは広く興味を持ってもらうためなのだろう。
実のところ、この本で取り上げられている人たちが運がよかったことは田中さんも認めている。17話の熊谷達也さんの事例では、教師の仕事をがんばりすぎて休職した熊谷さんに妻が「つらいなら教師を辞めればいいんじゃないか」と提案している。やめるという選択肢を考えたことすらない熊谷さんにとって、この一言が救いになり、未来が一気に開けるような解放感を味わえたという。妻の言葉でうまく気持ちを切り替えるきっかけをつくれた熊谷さんに、田中さんは「運がよかったんですよ」と語りかけている。この後熊谷さんは作家デビューを果たし、2004年には直木賞を受賞しているが、このあたりも宮内さんのケース同様、しょせん自分とは別世界の人の話だという印象を抱かせる一因になっているかもしれない。もっとも熊谷さんはこのあと東日本大震災の被災地を舞台にしたシリーズに自信が持てなくなり、うつが再発しているのだけれども。
この本で取り上げられている事例では、一旦うつになってしまった人がなんらかの形で成功したり、周りから必要とされることでうつが快方に向かう、というものが多い。理解のある家族に支えになってもらった人も少なくない。では、この本がたんに環境に恵まれた運のいい人だけの事例集で、 そんな環境にいない人にはなんの役にも立たないかというと、そんなことはない。最初に紹介される田中圭一さん自身の事例では、アファメーション(肯定的自己暗示)で自分の心を建て直すことに成功している。朝目覚めたときに自分を肯定する言葉を唱えるだけだから、誰にでも実行できる。10話の佐々木忠さんは十字真言で心の痛みを消しているが、このように信仰が心の負担を軽くする事例もある。誰にでもできることではないが、信仰は環境とは関係なく実践できる「ノウハウ」でもある。6話の大槻ケンヂさんがプラモデルを作って気をまぎらわせた事例にしても、一人でも実行できるものだ。
この本では20話にうつ対策の総まとめが載っているが、ここで田中さんは「自分を否定するものからは遠ざかり、自分を肯定してくれるものに近づこう」と書いている。となると、やはりここにも運の良しあしが関わってくる。パートナーが自分を肯定してくれる人だったり、周りから褒められるくらい仕事のスキルが高ければ、それだけうつから抜けやすくなる。だからこの20話でも「自分を肯定するものが身近にない人はどうすれば」と突っ込ませたりしている。その答えは「小さな達成感を得られる何かを見つける」だ。大槻ケンヂにとってのプラモデルがこれにあたる。これだって症状が重ければ実行は難しそうだし、誰もが熱中できる趣味をみつけられるとは限らないが、このような方法もあると示しておく意味はあるのだと思う。
他のすべてのことがそうであるように、「うつヌケ」できるかどうかにも運が関わっていることは否定できない。だとすれば、まずその運をよくすることはできないだろうか。運のいい人を増やすには、うつ病の当事者より、周りの人がこの本を読むのがいいかもしれない。この本には、うつになりやすい人の特徴が書いてある。それは以下のようなものだ。
本当に怖いこと。一度うつ病になると、せっかく回復しても60%の人が2年以内に再発すると言われてる。「完璧主義」「自分に厳しい」「全部自分で何とかしようとする」「相談できない」「頼まれると断れない」人は要注意。なってからでは遅い。自分の体と心以上に、大事なものはないよ。
— 川畑翔太郎|UZUZ(ウズウズ)専務|20代若手(第二新卒/既卒/フリーター)のキャリア支援10年目 (@kawabata_career) 2021年5月10日
このことを知っておけば、部下やパートナーがこのような性格だった場合、あまり思いつめないよう配慮することはできる。また近しい人物がすでにうつになっていたとしても、この本に出てくるような理解のあるパートナーや家族の行動を取り入れることはできる。自分の気づかい次第で、身近な人を「運のいい人」にすることは可能だ。
リチャード・ワイズマン博士は『運のいい人の法則』で、運がいい人の条件のひとつとして「チャンスを最大限に広げる」をあげている。運のいい人はチャンスの存在に気づき、チャンスにもとづいて行動する、というのだ。『うつヌケ』は確かに環境に恵まれた人の事例集だが、だからといってまったく恵まれていない人の役に立たない、というわけではない。だが、はじめから「どうせ運のいい人の話だから参考にならないだろう」と決めつけてこの本を読むと、参考になりそうな部分も見落としてしまう。私も一度目はそう読んでいた。どうせ私には関係ない本だろうと思っていると、使えそうなノウハウが載っているのにも気づかず、実生活に活かすこともないから、本当に運が悪くなってしまうのだ。
とはいえ、うつになるとどうしても物事をネガティブに見てしまうわけで、この本に参考になりそうな箇所があったとしても、それが見えにくくなる。あるいは見えていたとしても実行する気力がわかないかもしれない。その意味では、うつは「運を悪くしてしまう病気」だともいえる。であるとすれば、できれば周りがその人をサポートすることで「運のいい人」に変えていくのが望ましい、ということになるのではないだろうか。