『新九郎、奔る!』のおもしろさは言語化しにくい。7巻の時点でも新九郎はまだ若く、本格的な戦いを経験したこともない。領地経営の苦労話も地味だし、舞台背景となる応仁の乱も英雄らしい英雄も出ないままだらだらと続いてしまっている。それほどこちらの心を激しく揺さぶってくる出来事がたくさん起きるわけでもなく、比較的淡々とストーリーは続いている。新九郎が伊豆に討ち入り、華々しい活躍をするのはまだまだ先のことになるはずで、しばらくは荏原での新九郎の苦闘の日々が続くことになりそうだ。
それでもこの漫画を読みすすめてしまう理由はなんなのか。ひとつには、新九郎の目を通じて描かれる室町末期の政治や社会のディテールの細かさ、解像度の高さにあるのだろう。新九郎はまだほんの若造にすぎず、政局を動かせる力などない。だが、ゆうきまさみは彼を細川勝元や山名宗全などの大物と絡ませ、これらの政治家の実態をときにユーモラスに、そしてシニカルに描いてみせる。7巻での宗全は68歳と当時としては高齢ではあるものの、80歳にもみえるほどの老けこみようだ。そのせいか宗全も少し弱気になり、本心では勝元との和睦を望んでいる。平和や大義のためなどではなく、こうした生々しい理由で戦乱が収束に向かっていくところがなんともリアルだ。そう、このような「室町のリアル」を新九郎の目を通じて体験させてくれるところに、『新九郎、奔る!』の愉しみがある。
老境に入った宗全は一族の行く末が気になる。細川勝元は家督を実子の聡明丸と野州家から迎え入れた勝之のいずれに継がせるか悩んでいるが、ここで伊勢貞宗は新九郎に問題を出す。お前なら誰に家督を継がせるか、というのだ。筋道からいえば先に嫡男と決めた勝之を跡継ぎにするべきだが、聡明丸は山名家の血縁だ。勝元が宗全と和睦する気なら、跡継ぎは聡明丸の一択になる──と貞宗は説く。このように、新九郎は室町の複雑な政局をながめつつ、当主は政治家としてどう立ち回るべきか、を学んでいく。さまざまな形で人の欲望が噴出した応仁の乱は、新九郎にとって政治を学ぶ最高の「教材」だっただろう。戦国大名としてしたたかに生き抜いた早雲の原点はこの大乱にあるのかもしれない。
だが、新九郎が学ばなくてはならないのは政治だけではない。彼は備中荏原郷に所領をもつ「経営者」でもあり、政界遊泳にだけ長けていればいいわけではない。民の生活も苦しさも知らなくてはならない。荏原で新九郎はこれまでもさまざまな苦労をしているが、7巻ではじめて疫病が身近に迫ってくる。京における疱瘡の流行は本格化し、社会的弱者から先にその命を奪っていく。新九郎も身内の不幸を通じ、疫病の恐ろしさをその身で感じた。
京での疱瘡の流行はすさまじく、後土御門天皇すら感染してしまっている。『応仁の乱』は、疱瘡が流行する京の惨状をこのように記す。
文明3年(1472)七月、京都では疱瘡が大流行した。十四日に経覚が一条兼良に聞いたところによると、烏丸季光、武者小路種光、日野勝光の息子などが疱瘡によって死去したという。疱瘡は地方にも広がり、人々は恐怖におののいた。お札に「麻子瘡之種我作」と書いて背中に貼れば疱瘡にかからないというおまじないの存在を知った経覚はさっそくお札を作って、周囲の人間に配っている。
同二十一日には後土御門天皇が疱瘡にかかり、治癒の祈禱がおこなわれた(「親長卿記」「宗賢卿記」「内宮引付」)。翌八月には足利義尚が病に倒れた。この頃、足利義政・日野富子夫妻は喧嘩をして、義政が小川の細川勝元邸に、富子が北小路殿に移っていたが、息子の重病を知ってあわてて室町殿(将軍御所)に戻っている。しかし、この二人も流行病にかかったらしく、腹を下している(「経覚私要鈔」「宗賢卿記」)。(p180)
『応仁の乱』によれば、文明3年の疱瘡と赤痢の大流行は「旱魃と戦乱のダブルパンチによるもの」だ。飢餓と軍事徴発で食糧が不足し、大量の餓死者が存在したことが衛生悪化を招き、疫病の温床になった。多くの人が飢えていて抵抗力を欠いていため、命を落とす人が続出した。将軍までもが感染していることが、状況の事の深刻さを物語っている。
だが、疫病は誰にでも同じ力でふりかかるわけではない。高貴な者は栄養状態がよく、免疫力も高いため生き残る確率も高い。河原者など貧しい者は次々と命を落としているのに、義政は無事回復している。このような残酷な「健康格差」までもさらりと描いてみせるのも『新九郎、奔る!』の魅力だ。これもまた「室町のリアル」なのだが、こうした厳しい世界を描きつつもあまり深刻な読後感にならずにすむのは、ゆうきまさみのどこか軽妙な作風のおかげでもある。
これほどの災厄をもたらした疫病を前にしても、義政は「生き死には仏神の裁量なのだ」とどこか他人事だ。一方、身内を病で失った新九郎にとり、疫病はまさに自分事だ。疫病だけではない。城の装備品をみずから点検し、家人に雑巾がけの指南をし、読み書きまで教える新九郎にとってはすべてのことが自分事だ。政治に倦み、虚無的になっていく義政と、下々の者の生活に細かく気を配る新九郎は好対照をなしている。それは落日を迎えた室町幕府と、やがて台頭する後北条氏との対比でもある。
家人に読み書きまで教える新九郎のやり方は、荏原の武士からはまじめすぎる、人として面白くないといわれている。だが、後北条氏の領国経営のきめ細かさは、戦国研究者に大いに役立っている。黒田基樹氏の『戦国大名』は後北条氏を中心に戦国大名の領国統治や税制・戦争などについて解説しているが、これはそれだけ北条氏の文書が多く残されているからだ。とくに検地については、そのやり方が具体的にわかっているのは北条氏だけなのだそうで、ここにも北条氏が内政に力を入れていたことが見てとれる。検地をはじめたのは北条早雲だから、若き日の早雲、つまり新九郎も細かいことに気がつく、領地経営に意欲的な人物として描かれているのだろう。のちの北条早雲像や北条氏の領国統治のあり方から想像して「早雲エピソード0」を描いているのが『新九郎、奔る!』なのだとすれば、この作品が面白いのも当然のことといえる。