明晰夢工房

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【感想】テンプル騎士団を知りたいならまずはこの本。佐藤賢一『テンプル騎士団』

 

テンプル騎士団 (集英社新書)

テンプル騎士団 (集英社新書)

 

 

アサシンクリードでは悪役側で、とかく怪しげなイメージを持たれがちなテンプル騎士団だが、その実態はどんなものだったか?それを知りたいなら、まずはこの本がいい。西洋歴史小説の第一人者・佐藤賢一が、テンプル騎士団の発祥から十字軍における活躍、組織のありようから金融活動の実態まで、わかりやすく解説してくれている。

 

この本は作家が書いたものらしく、第一部「テンプル騎士団事件」はテンプル騎士団の崩壊という劇的な場面から筆を起こしている。フィリップ4世の時代、13日の金曜日にパリのタンプルに踏み込まれ、総長ジャック・ドゥ・モレー以下138人のテンプル騎士団員が一斉に捕縛された。パリのみならず、フランス全土でこのような逮捕劇がくり広げられたが、パリで逮捕された騎士団員は拷問を受け、38人が痛みに耐えかねて死んでいる。異端の疑いをかけられたとはいえ、ここまで仮借のない弾圧を加えられるテンプル騎士団とは一体なんなのか、という興味が、読者の心には沸く。

 

ここから、話は第1回十字軍へと飛ぶ。フランス王にも目をつけられるほどの脅威となったテンプル騎士団も、その始まりはごくささやかなものだった。ユーグ・ドゥ・パイヤンとゴドフロワ・ドゥ・サントメールという二人の騎士が巡礼者の保護や巡礼路の警備をはじめたのがテンプル騎士団の起源だが、かれらは二人で一頭の馬に乗ったともいわれるほど貧しかった。騎士の数はしだいにふえていったものの、それでもテンプル騎士団は貧乏所帯の小集団に過ぎなかった。

 

だがユーグ・ドゥ・パイヤンの旧主・シャンパーニュ伯ユーグが俗世を捨て、テンプル騎士団の活動に身を投じるにいたり、フランスでは俄然テンプル騎士団への関心が高まった。さらに修道院改革の旗手・聖ベルナールの激賞を受け、ますますテンプル騎士団の評判は高まっていく。トロワ会議ではテンプル騎士団は新しい修道会と認定され、会則も整備された。修道会と認められればかれらは教皇の直属の組織となり、十分の一税を納める必要もない。堂々たる特権団体である。しかも独自の徴税権まで認められている。目を見張る躍進ぶりだが、テンプル騎士団にはあてにされるだけの理由がちゃんと存在していた。 

 

テンプル騎士団が重宝された理由として、それが強力な戦力だったことがあげられる。かれらは修道会の規則に従い禁欲的で、戦いに臨めばとにかく勇猛だ。十字軍として当方に派遣されてくる軍隊は、ほぼ封建軍である。封建軍は年40日間しか戦わせられないという縛りがあり、 騎士は家名のため戦うので集団行動に適さない。頭数だけそろえても足並みがそろわないのである。対して、テンプル騎士団は己の名誉のためではなく、神のために戦う。修道士でもある彼らはエゴの克服を求められており、日本風にいえば「滅私奉公」を体現する軍隊なのである。

ために、テンプル騎士団は死を恐れず戦う。しばしば総長以下、ほぼ玉砕に等しい無謀な戦い方すらする。しかも封建軍と違い、かれらは西方に帰ることがない。騎士団の支部に帰るだけなのである。味方とすればこれほど心強い戦力はない。封建軍が主体の中世において、テンプル騎士団はいわば常備軍のような存在だったのである。

 

これほど使い勝手がよく強力な集団なので、テンプル騎士団は多くの諸侯の支持を集め、その組織はより強力になっていく。テンプル騎士団はヨーロッパ各地に多くの管区を持ち、それぞれが居館や荘園をそなえ、テンプル騎士団の活動を支える拠点となる。ヨーロッパの管区は戦いの最前線でないとはいえ、テンプル騎士団は戦闘集団なので、それぞれの支部は城塞としての役割も果たす。配置されるのは老兵や怪我をしたもの、あるいは新米騎士などで、兵力としてはいささか頼りない。しかしそれでも常備軍ではあり、封建軍とくらべても劣るものではないのである。

テンプル騎士団支部ネットワークは強力だ。テンプル騎士団はただ点として管区を支配しているのではなく、水運も押さえていて、フランスの川沿いの上流から下流までを繋ぐ形で支部を置いていた。さらには「テンプル街道」と呼ばれる陸路まで建設し、物資輸送の便をはかっている。治安の悪い中世において、テンプル騎士団支部が連なるテンプル街道なら安心して輸送が可能だ。これは画期的なことである。戦いの最前線である東方ではさまざまな物資がいる。もちろん現金も要る。これらを安全に運べる街道があるのだから、当然流通は活性化される。自然、テンプル騎士団も商取引に手を出すことになり、パリでは自ら肉屋も営業していたという。

 

このテンプル騎士団の密接なネットワークは、ただ流通網として役立ったわけではない。謹厳な修道騎士の集まりであるはずのテンプル騎士団は、なんと金貸しにも手を染めていた。東方からヨーロッパ各地に多くの支部を持ち、しかも各支部は堅固な城塞をそなえ武力で守られているからには、テンプル騎士団は金庫として大いに役立つことになる。手形一枚あれば、ある支部で預けた金を別の支部から引き出すこともできる。安全な預け先だから多くの現金がテンプル騎士団に集まることになり、この資金を元手に貸し出しも行える。ルイ9世やジョン王などもテンプル騎士団から借金している。もはや中世ヨーロッパの銀行である。たった二人の騎士からはじまったテンプル騎士団は、気がつけば巨大な経済力を持つ特権団体に成長していた。

 

ここまで描写したところで、話は冒頭に戻る。フランス王フィリップ4世からすれば、このような集団は目障りでしかたがない。フィリップ4世美王は教皇ボニファティウス8世と争い、アヴィニョン捕囚事件を起こしたことでも知られる。王権を強化したい側からすれば、国家を横断する中世的権威など邪魔でしかないのである。フランス国内にテンプル騎士団が盤踞しているぶんだけ、フランス支配には穴が開く。税収も減る。軍事力と組織力と経済力をあわせ持つこの集団を、どうにかして潰さなくてはならない。フィリップ4世にとってのテンプル騎士団は、信長にとっての本願寺のようなものだっただろうか。いや、結局本願寺と和睦した信長より、フィリップ4世ははるかに苛烈だった。総長ジャック・ドゥ・モレーを火刑に処したフィリップ4世と3人の息子が次々と逝き、カペー朝が断絶したことがテンプル騎士団の呪いと噂されたのも、必然というべきだろうか。

【感想】金成隆一『ルポトランプ王国2 ラストベルト再訪』と南部白人の「ディープ・ストーリー」

 

ルポ トランプ王国2: ラストベルト再訪 (岩波新書)

ルポ トランプ王国2: ラストベルト再訪 (岩波新書)

 

 

前作に引き続き、大変読みごたえのあるルポだった。著者はラストベルトと郊外、バイブルベルトの3カ所を訪ね歩き多くのトランプ支持者へのインタビューを行っているが、できるだけ著者の主観を交えずに支持者の生の声を拾っているので、そこから「トランプ王国」の姿が立ちあがってくる。

 

どのインタビューも興味深いものだが、本書の中では2本のロング・インタビューが特に内容が濃い。これはアメリカの「今」を知るうえでは必読ではないかと思う。特に二人目のアーリー・ホックシールドのインタビューは、アメリカ南部の保守的な人々の心性をよく説明してくれている。

ホックシールドによれば、これらの保守派の人々の心の奥底に流れる「ディープ・ストーリー」が存在するという。これは、簡単に言えばアメリカン・ドリームの達成を黒人や女性・移民・難民などが邪魔してきたというものである。

 

そんな時に、誰かが前方で行列に割り込んだのが見えた気がしました。ディープ・ストーリーの第二幕です。おかしなことが前方で起きているように感じました。きちんと順番を待ちなさいと幼少期に教わったのに、それに反したことが起きた気がした。黒人や女性に対し、積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)などで、歴史的に阻まれていた雇用や教育への機会が用意されました。その結果、白人や男性はしわ寄せを受けた。続いて移民が行列への割り込みを始め、難民も加わり、公務員も横入りして必要以上の厚遇を受けているように見えた。しまいには海洋汚染の被害を受けた、油で汚れたペリカンまでもが環境保護政策によってヨタヨタと行列の前の方に加わり始めた。(p256)

 

そして最後には、高学歴者が列の最後に並んでいる自分たちを指して「お前たちは人種差別主義者だ」といっているような気がした、というのである。だがこの「ディープ・ストーリー」には抜け落ちている点がある。もともと彼らよりさらに列の後ろに並んでいた有色人種や貧困層のことが、このストーリーには書かれていない。白人が黒人や移民より先に並んでいたのは、政府に優遇されていたからだという事実をみたくないからである。トランプはかつてバーサー運動を展開し、オバマアメリカ大統領になる資格がないと宣伝していたが、これは「行列の先頭に立っている」オバマを列の最後尾に戻そうとする試みである。そしてトランプは「皆さんを列の前に入れてあげます」というメッセージを支持者に送ってきた。

 

とはいえ、トランプ支持者を人種差別主義者と呼ぶことにホックシールドは警鐘を鳴らしている。南部の人々はリベラル派が南部の白人を笑いものにする番組や、銃を持った若者がマクドナルドに入る姿を笑いものにするコメディアンを見ている。彼らはエリートから南部への偏見や、文化的な蔑みを受け取っているのである。このような人々に差別主義者とレッテルを張っても分断が深まるだけだとホックシールドは考え、積極的に南部の人々の声に耳を傾けてきた。その成果が、『壁の向こうの住人たち』にまとめられている。この本は全米でベストセラーになった。

 

壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き

壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き

 

 

 本書の6章ではバイブルベルトの住人へのインタビューを行っているが、中には「白人特権」という言葉に拒否反応を示す人もいる。それだけ苦労しているからである。PTSDを抱える戦場帰りの父と薬物依存症の母に育てられれば、自分になんの特権があるのかと疑問を持つのも当然だろう。自らを「ホワイト・トラッシュ(白いゴミ)」と蔑むほどに、白人でも貧困に苦しむ人は多く存在している。これらの人々に「あなたはマイノリティより列の先に並んでいたのだ」といったところで、その主張が受け入れられるのは困難だろう。

 

日本に置き換えてみれば、「男は生まれながらに特権をもっている」というジェンダー学者の主張を、貧困で苦しむ男性が受け入れられるかということである。白人は特権をもっているという主張に対し、インタビューに答えた人は「人種で判断しないでほしい」と言っていたが、男性特権という言葉に対して「生きづらさに性別は関係ない」といいたくなる人だっているに違いない。特権をもっているとされる人々でも、(少なくとも主観的には)苦労している人は多いのだ。ホックシールドが主張するように、これらの人々にも訴えかける政策が実現できなければ、「壁の向こうの住人たち」との対話は永遠に閉ざされたままになる。

 

民主党にも、「壁の向こう」に語りかける必要性を理解している人はいる。話は前後するが、本書の1章でマホニング郡の民主党委員長デビッド・ベトラスは「トランプや支持者を、人種差別主義者や外国人嫌い、バカなどと侮辱すれば、彼らは二度と民主党には戻らない」といっている。彼は民主党が労働者のための党から高等教育を受けたインテリのための党に変質したことをよく理解していて、少数派の権利擁護だけを前面に出していてはトランプに勝てないと主張している。

 

不満を抱く人々、(偏見や差別に)抑圧された側に立つ。それが民主党の存在意義です。でも、順番を間違えてはいけない。雇用や賃金などの労働問題は、万人にとって最大の関心事。これが中央になるべきです。夕食の卓上を想像してください。人工妊娠中絶や性的少数派の権利擁護、「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命も大切だ)」運動など、今のリベラル派が重視する争点はどれも大切ですが、選挙ではメインではなく、サイドディッシュです。卓上の中央はつねに肉か魚で、労働者の雇用と賃金という経済問題であるべきです。トランプが「今晩のメインディッシュは大きくてジューシーなステーキです」と売り込んでいるときに、民主党は「メインはブロッコリー。健康にいい」といっているように聞こえてしまったのです。(p37) 

 

民主党支持からトランプに鞍替えした労働者の多くは自分をリベラルと認識していたわけではなく、最大の関心事は雇用と賃金だ。しかしシリコンバレーの超富裕層からもっとも献金を受けている今の民主党は、ブルーカラーの人々の雇用を最大の争点にしていない。だからデビッドは「両手を汚して働いている人に敬意を伝えるべきです」と説く。民主党がふたたび労働者のための党だと認識されれば、トランプ支持に回った人々の票を取り戻せるのだろうか。実のところ、ホックシールドが指摘しているように、トランプだって最低賃金を引き上げたわけでも、労働組合が活動しやすくしたわけでもない。ただ失業率はきわめて低く、景気がよいことがトランプ政権の追い風となっている。トランプが再選されるかには民主党が労働者階級に訴えかける候補を立てられるかどうかも影響するだろうが、それ以上に景気動向が決め手になるのかもしれない。

【感想】吉川弘文館東北の中世史5『東北近世の胎動』

 

東北近世の胎動 (東北の中世史)

東北近世の胎動 (東北の中世史)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/02/19
  • メディア: 単行本
 

 

吉川弘文館から刊行されている『東北の中世史』の最終巻だが、これは東北の城郭や伊達氏の統治に関心のある方にはぜひ読んでもらいたい。というのも、本書の2章では奥羽における近世城郭がどう発展していったかが書かれていて、特に伊達氏の築城技術について詳述されているからだ。個人的にはこの個所を読めただけでも大いに収穫があった。

 

東北地方ではもともと戦国時代に特徴的な「土の城」が建てられていて、石垣は部分的にしか使われていなかった。だが伊達政宗関ケ原合戦後の論功行賞で苅田郡をあたえられると居城を仙台へと移し、近世城郭としての仙台城を築くことになる。仙台城は主要部に石垣が用いられているが、石垣を用いた築城を可能にしたのは、普請に際して織豊系の石垣技術者集団を用いたからである。

仙台城普請で総奉行の一人を務めた金森内膳は蒲生氏郷の旧家臣で、氏郷の死後に会津を去り政宗に召し抱えられている。蒲生氏郷は中世城郭である黒川城を改修して近世城郭の若松城を建てた実績があるが、こうした城郭を作った技術者を政宗は抱えたことになる。

 

少し時をさかのぼると、伊達政宗朝鮮出兵の際にすでに西国の進んだ石垣技術にふれている。渡海した武将が朝鮮で築いた「倭城」の普請は政宗は免除されていたが、特に願い出て金海竹島倭城の築城に参加している。この城の普請の責任者は鍋島直茂・勝茂父子だったが、かれらは名護屋城の築城した経験から高い築城技術をもっていた。政宗はこの技術を吸収したことになる。

政宗は朝鮮から母の保春院に、伊達氏の石垣技術は西国の諸大名に少しも劣らないと自慢しているのだが、倭城普請をつうじて織豊系の最先端の築城技術を手に入れたことで自信をつけていたらしい。話はそれるが、わざわざ遠方からこんな手紙を出すくらいだから、ほんとうは政宗と保春院の仲は良かったのではないか。

 

伊達氏の城郭構造についての言及も興味深い。本書の二章では、仙台城の虎口に「馬出」が設けられていたことが指摘されている。戦国時代に城郭の防御力を増すためにつくられていた「馬出」は真田丸にも用いられていたものだが、これは従来東北地方の城郭にはあまり見られないものだった。武田氏や徳川氏が用いていた「丸馬出」は岩出山城や佐沼城にも導入されたが、仙台城の馬出は枡形から形態が変化したものである。仙台城の馬出は戦争がなくなりつつある時代に建設されたものであるため、軍事的必要性よりも政治的意図(示威目的?)から作られたもののようだ。

 

このように、城郭建築においては先進的な技術を取り入れた伊達氏だったが、その統治形態がいまだ中世的なものだったことも言及されている。その理由はここで引用するにとどめておく。

 

近世に入ると多くの藩では武士を城下町に集住させ、給与として蔵米や金銭を与える方式を採用していくことになるが、仙台藩では武士を仙台城下に集住させることなく、直接土地を与えて経営させる、中世以来の地方知行制を維持していた。

これは政宗が奥羽仕置にともなう所領没収と移封によって、従来の約半分ほどの石高へと大幅に減封されたため、すべての家臣を仙台城下に集住させて養うことは、事実上不可能であったことがその理由である。また、新たに移封された旧葛西・大崎領は広大な荒蕪地が存在していたことから、家臣たちに土地を与えて直接経営させ、家臣団の維持と領内の開発を図ったのである 。

 

明智光秀「仏のうそを方便といい、武士のうそを武略という」←なぜここだけ抜き出すのか

 

武士の日本史 (岩波新書)

武士の日本史 (岩波新書)

 

 

明智光秀が「仏のうそを方便と云い、武士のうそを武略と云う」と公言したという話が『老人雑話』には載っている。このことが『武士の日本史』の4章で紹介されているのだが、この話は武士は名利を求めるものだ、ということを述べる文脈で出てきている。名とは名誉、利とは利益のことだが、武士が利益を求めるのは当然という話がこの章にはたくさん出ていて、朝倉宗滴話記の「武者は犬と言われようが、畜生と言われようが、勝つことが基本」という話も紹介されている。武士とはエゴの塊であり、光秀もそう認識していたのだという話である。

 

ただ、光秀のこの台詞をここだけ抜き出すのは少々アンフェアな印象がある。この部分だけ読むと、光秀が武士とは嘘をつくものだと開き直っているように思えるからだ。だがこの台詞には、「これを見れば、土地百姓は可愛きことなり」という台詞が続く。僧侶も武士も嘘をつくのに、百姓が年貢をごまかすくらいかわいいものではないか、ということである。つまり、これは光秀のいい人ぶりを示す台詞なのだ。

 

『老人雑話』は江戸時代初期に書かれたものなので、のこのエピソードの真偽はわからないが、光秀はこういうことを言いそうな人だというイメージを持たれていたのだろう。一方、フロイスは『日本史』のなかで、光秀のことを謀略が得意で狡猾、と評している。こちらは上記のエピソードとは正反対の光秀像だが、『麒麟がくる』はどちらの路線で行くことになるのかはまだわからない。

 

ついでに言うと、この『武士の日本史』では貝原益軒の『文武訓』の文章を紹介しているが、この本のなかでは18世紀の兵法家が「日本は武国だから、中国のように正直で手ぬるいことでは功を挙げられないし、日本の風俗に合わない」といったと書かれている。中国の戦い方が日本より手ぬるいとは考えられないが、江戸時代の兵法家がこのように考えていた事実は興味深い。

【感想】十二国記『白銀の墟 玄の月』1~2巻

 

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

正直なところ、『白銀の墟 玄の月』の1巻については、これが十二国記でなければ最後まで読みとおせた自信がない。なにしろ、物語の舞台となる戴国の様子があまりに陰陰滅滅としていて救いようがないのだ。とりあえず王である驍宗は生きているようではあるもののその姿は見えず、国土は荒廃し、いたるところに難民があふれ、治安は悪化する一方。官吏は民の窮状を知りつつも手を差しのべてくれるわけでもなく、厳しい冬をむかえつつある戴国の民は国から見捨てられつつあった。この巻の雰囲気は、途中何度も出てくるこの古歌によくあらわれている。

 

おれのため 烏のやつに言ってくれ

がっつく前にひとしきり もてなすつもりで泣けよって

野晒のまま、ほら、墓もない

腐った肉さ 一体全体どうやって お前の口から逃げるのさ?

 

野垂れ死にする自分を哂ってしまうほどに、戴の民の心はすさみきっている。1巻の内容は、ほぼすべてこのような戴国の窮状をえがくことに費やされている。といって、決してつまらないというわけではない。どこまでも精密に、精緻に作りこまれた十二国の世界はあいかわらず魅力的で、異世界ファンタジーの醍醐味をぞんぶんに味わえる。十二国記を読むのがひさしぶりなのでかなり設定を忘れかけているのだが、それでも泰麒のまっすぐさや彼をとりまく項梁や李斎などの武将、道士の去思の実直さやひたむきさは魅力的であって、荒廃した戴国をどうにかして救おうとする彼らの姿だけが、この鬱々とした世界に唯一光明ををもたらすものなのである。

 

『白銀の墟 玄の月』1巻だけをとりあげるなら、エンターテイメントとして楽しいものとは言いがたいだろう。なにしろ1巻まるごと使って戴国がどれだけ悲惨な状況に陥っているかを書いているのだから。しかしこれは十二国記である。これまで小野不由美が長きにわたって紡ぎあげてきた、絶対安心のブランドなのである。この巻においては何一つ希望が見えなくとも、いずれかならずこの国を覆う暗雲が吹き払われ、胸のすくようなラストを迎えることができるのだろう──と、何度も自分に言いきかせる。作者への圧倒的な信頼があるからこそこれだけ鬱々とした物語でも読みすすめていけるし、小野不由美もまた読者がついてきてくれることを知っているからこそ、これだけ執拗に戴国の窮状を描けるのだ。この巻全体に小野不由美の読者への信頼が横溢しているのである。ならば、こちらも主上を信じてついていくしかないのだ。

 

白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

1巻はほぼ戴国の窮状を描くことに費やされていると書いたが、それでもこの物語を牽引してくれるものはある。それはミステリ要素だ。白雉が落ちていないからには驍宗は生きているようだが、それなら今どこで何をしているのか。そして、今王座にいる阿選は何をたくらんでいるのか。1巻の後半において、泰麒は項梁とともに白圭宮へと乗り込んでいるのだが、宮城内の様子があまりにもおかしい。阿選はまつりごとに携わっている様子がまるでなく、官吏は魂を抜かれた幽鬼のような姿となり果てている。一体この国で何が起こっているのか──という好奇心が、ページをめくらせる。

 

この謎は、2巻においてようやく阿選が登場するに至ってもなお解けることがない。阿選はもともと驍宗と並び称されるすぐれた将だったのだが、この巻における阿選はどうにも精彩を欠いている。泰麒を試すためいきなり斬りつけるようなショッキングな場面もあるのだが、王に即位する気もないようで、結局何をしたいのかがわからない。わからないといえば、泰麒がなんのために阿選を王だといったのかもはっきりとはわからない。実はこのあと、泰麒はある大胆な提案をしているが、この提案がそのまま通るとも思えない。結局、真意は最後までわからないままなのだ。

 

一方、驍宗のゆくえを探す李斎一行の旅路もまた困難の連続だ。命の危険にこそ直面していないものの、土匪とのトラブルにも巻き込まれ、驍宗探索の旅はまったく順調に進まない。土匪の朽桟の口から、戴の惨状がふたたび雄弁に語られる。土匪もまた血の通った人間であり、家族を食わせていくためやむを得ず裏家業に手を出していることがよくわかる。誰もが食うために必死で、そのためには他人の物資を奪うしかないところまで追い詰められた人々が、戴国、とくに文州にはあふれている。

朽桟からは土匪をあやつっていたのが阿選であるらしいという情報は得られるものの、結局事の全貌はまだ見えないままである。驍宗の痕跡もわずかながら見つかるものの、はっきりした手掛かりが得られるわけでもない。困難な旅路の末に、やがて李斎一行は老安という里にたどりつく。ここにいたり、ようやく決定的な証拠をみつけられたかと思うと、それもまた疑わしい。結局驍宗は生きているのか死んでいるのか。死んでいるとしたら、阿選に従わなくてはならないのか。驍宗麾下の武将にとってはひたすらに重苦しい状況が、二巻の巻末に至るまでつづいている。泰麒は王国立て直しのための人材登用にようやくとりかかっているものの、戴国をとりまく状況は依然厳しいものがあり、まだまったく希望を持つことができない。

 

正直、2巻を丸ごと使ってよくこれだけ徹底的に、戴国の惨状を書きつくしたものだと思う。なるほど戴国からすべての希望が取りのぞかれたわけではない。去思のように民のため尽くそうとする道士がおり、神農のネットワークも健在で、李斎のような心ある武将もまだ多く生きている。朽桟のような土匪ですら根っからの悪人ではなく、世が変わればもっとまっとうに働く心づもりもある。泰麒にも戴を立て直す策があるようだ。

とはいうものの、この『白銀の墟 玄の月』1・2巻は終始陰鬱な空気に包まれており、カタルシスを得られる場面はどこにも見あたらない。まだその時期ではないということだろう。この2巻を読み終えた段階で、私はすっかり戴の荒民としてこの国の冬空の下に放り出されたような気分になってしまった。この国に正当な王が戻り、光がさしこむ日は一体いつくるのか。そんな飢餓感で心の中がいっぱいになる。ここまで読んできて、そういえば十二国記ってこういうものだったなあ、と過去作品をしみじみと思い出す。陽子も祥瓊も鈴も、皆物語前半では大変な思いをしていたではないか。そこを耐えきった読者だけが、終盤の高揚感を味わえていたではないか。

そういう信頼感があればこそ、この『白銀の墟 玄の月』も最後まで読みすすめることができた。この「溜め」の長さは、シリーズ中でも最大のものだ。ここから先、戴にどのような未来が待ち受けるのか、楽しみにしつつ巻を措くことにする。

 

【感想】小林昌平『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』は思想書のダイジェストとしては使える

 

その悩み、哲学者がすでに答えを出しています

その悩み、哲学者がすでに答えを出しています

 

 

アリストテレスベルクソン、シッダールタ、ラカンハンナ・アーレントなどなど古今の哲学者の思想でさまざまな悩みを解決できますよ、というコンセプトの本。竹田青嗣はよく「哲学は悩みの解決に役立つ」と著書の中で書いているが、彼の本を読んでもあまり役立つように思えなかったので(こちらの理解力の問題もあるだろうが)、もっとかみ砕いている感じのこの本を手に取ってみた。

 

さて、この本の「実用性」はどうだろうか。以下、印象に残った個所についていくつか取りあげてみる。

 

まずは「やりたいことがあるが、行動に移す勇気がない」という悩みについてのデカルトの答え。この本では『方法序説』の「私が取り組む難しい問題のそれぞれを、できるかぎり多くの、しかもそれを最もうまく解くために要求されるだけの数の小さなパーツに分割すること」という思考法を引用しつつ、「困難は分割せよ」と説く。大きな目標を掲げたら、それを実行可能な小さなサブゴールに分ければいいということだ。

これ自体はいろいろなライフハック本に書いてあることなので実用性はあるだろう。デカルトが学問の再構築のために考え出した「分割」のノウハウを、ここでは行動に応用している。それなりに納得できる話ではあるものの、「やりたいことを実現しようと思う我々のすべての行動の裏に、デカルト的思考が憑依しているべき」というこの本の主張は少々大げさでは、と思わなくもない。

 

次いで、「自分の顔が醜い」という悩みについてのサルトルの回答を見てみる。ここではサルトルの実存哲学がかんたんに説明されている。人間は他の動物と違い、先天的に決められた「生きる目的」が存在しない。だから好きに生きることができるし、その状態をサルトルは「自由に呪われている」と表現した。

この哲学を顔の悩みに応用するなら、容姿がよくなくても恋愛や結婚ができないとあらかじめ決められているわけではないのだから、他の部分を磨いてなりたい自分に近づけばいいのだ、ということになる。自分がどういう存在であるかは自分で決めていいということだ。まあそうかなと思うけれども、結論からいえば「容姿がだめなら他の部分を磨きましょう」というごく普通の人生相談であって、それを実存哲学風に味付けしてるだけなのでは?という気もしてくる。

ちなみに、この本ではサルトルは身長や斜視などにコンプレックスを抱えていて、それでもモテるために哲学を学んでインテリになったと書かれているのだが、ほんとうだろうか。ついでに言うと、個人の行動は結局世界の構造の中で決定づけられているというレヴィ=ストロースによるサルトル批判もこの本の注で紹介されているが、それを言ったらこの回答の意味がなくなってしまうのでは、とも思う(哲学史の勉強としては役に立つとしても)。

 

次に、「他人から認められたい、ちやほやされたい」という悩みへの回答を読んでみる。これに答えるのはジャック・ラカンだ。ラカンによれば、「小文字の他者(=現実の個人)」に認めらるだけでは、人はほんとうに承認欲求を満足させることはできないのだという。ブログをバズらせたり、インスタ映えのする写真を撮れてもダメなのだ。結局、大文字の他者に認められる実感が得られなくてはいけない。「大文字の他者」とは象徴的な大きな他者のことであり、神もここに入るが、神なき現代人にとっては「大きな権威」くらいのものになるらしい。大義だとか、後世の人びとの評価も「大文字の他者」になる。

この本では、「大文字の他者」に認められることをめざした著名人として、伊藤若冲を挙げている。「具眼の士を千年俟つ」といってひたすら画業に打ち込んだ若冲が世に認められたのは没後200年くらいであって、これこそがうわべだけの相互承認を超え、長期的な価値を生み出した例なのだという。

言ってることは正しいかもしれないが、これなどは実行できる人がかなり限られる気がするし、実用性という点ではこの回答には疑問を持ってしまう。多くの人は「小文字の他者」からの承認に餓えたりそれなりに満たされたりしつつ、どうにかやっていくしかないのではないだろうか。この回答は「共同体に貢献することで幸せになれる」というアドラー心理学の話とも重なるところがあるように思うが、こちらも誰にでも実行できるかという点にやはり疑問を持つ。立派なことをしようとするのはいいのだが、ちやほやされたくて苦しいのならまずSNSを覗く回数を減らしたほうがいいのではないか。自分以外の人がちやほやされているのを見るから悩みが発生するのだし。

 

そして、「不倫がやめられない」という悩みへの回答を出しているのはカント。この種の悩みに答えるのに適切な人選なのだろうかと疑問には思うものの、とりあえず読みすすめていくとカントの定言命法が紹介される。サンデル先生の本にも出てくる「あなたの意志の根本方針が、つねに同時に、普遍的立法の原理となるよう行動することだ」である。すべての人がそれをやっても問題ないのか、ということだが、この判断基準で不倫を普遍化できないと考えるならやめるべきだ、ということになる。欲望に流されず、あなたの中の道徳法則に従いましょうということだ。

理屈はそうだが、べき論で不倫がやめられるだろうか。不倫がやめられないという人は、不倫を普遍化していいわけがないことくらい百も承知で、だからこそ悩んでいるんじゃないのか……と思っているとそこは著者もわきまえていて、この話の後に「別解」として親鸞の回答も用意されている。すなわち、他力に身をゆだねよ。自力でできることなど限られているので、阿弥陀仏の空と縁起の世界に煩悩深い身をまかせるしかないとのことなのだが、正直この回答で大丈夫なのかという気もする。結局物事はなるようにしかならないのだ、と言われればそうかもしれないけれども。

 

 ちょっと文句が多くなってしまったが、良いと思える回答もある。この本ではアリストテレスの言葉として、『ニコマコス倫理学』から『快楽は本来、「活動(エネルゲイア)」にほかならず、それ自身目的なのである』という一節を引用している。これは、今自分が楽しく充実している状態がそのまま「なしとげた成果」になるということで、今この瞬間の行為に没頭することで、いつの間にかその行為自体が楽しくなるという状態を指している。

将来の目的をいったん脇に置き、今この場を楽しみつくすことで、結果的に高いパフォーマンスを発揮するのはよくあることだ。なにかに没頭することで、もやもやとした頭の中の不安を振り払うことができる。この「エネルゲイア的な行為」をすることは「将来食べていけるか不安」という悩みに対して推奨されているものだが、これはむしろ「他人から認められたい、ちやほやされたい」という悩みへの回答で紹介された方がよかったのではないだろうか。人に認められたいという人は人目ばかり気にして今に没頭できていないのだから、結果を度外視して何かに没頭することそれ自体を快楽とできればこの悩みは解決できる。そして没頭したことで高いパフォーマンスを維持し、よい結果が出せれば結局人から認められるかもしれない。

 

saavedra.hatenablog.com

全体を通してみると、この本は実用性という部分ではやや疑問符はつく。古今東西の哲学者が束になっても鴻上尚史一人にかなわないのか、とは思うものの、もともとこの人たちは人生相談が本業ではないのだから仕方がない。そもそもこの本は悩み相談の体裁で古今の哲学者の思想をダイジェストで紹介するものだろうから、あまり実用性に文句を言ってもしかたがない。これはあくまで思想の入門書として読んだ方がいいのだろう。そういう目で見ると、巻末の参考文献はかなり充実しているし、さまざまな思想の入り口として役立ちそうな一冊ではある。

ハンセン病療養所の絵画クラブ「金陽会」の絵画

NHKEテレ「新日曜美術館」で、ハンセン病療養所の絵画クラブ「金陽会」に所属する人たちの絵画を紹介していた。

紹介されているものの中には絵画表現として一流のものもあれば、上手くはないが独特の味があるものなどさまざまなものがあるが、全体としては明るい雰囲気のものが多かった。

これらの作品はハンセン氏病の患者が描いたもの、というフィルターを通さなくても見るだけの価値があるものだったのではないかと思う。

絵画の一部はこちらの動画で紹介されている。

 

 

これらの絵画は、「キャンバスに集う~菊池恵楓園・金陽会絵画展」と題する展示会で今年の4月から7月にかけて展示されている。

 

togetter.com

番組中では、子供の時から親と隔離され施設に収容された患者たちの生涯も紹介されている。

一度は施設を脱走して働いたものの再び発病し、施設に戻ってきた人もいる。

社会と切り離された患者たちにとって絵画は貴重な自己表現の場だったのだが、紹介されていた絵からは社会への怒りや恨みのようなものはあまり感じられない。明るい色調のものが多いからだろうか。

案内人の小野正嗣氏は「人はほんとうに絶望しているときは、絵も文章も書けない」と語っていたが、自分自身を救うものとしての芸術の効用は、もっと見直されていいだろう。

中には70歳を過ぎてから本格的に絵画に取り組んでいる人もいるのだが、創作意欲が沸いたのは金陽会の絵が高く評価されているのを知ったからだという。芸術家にとり社会的評価がいかに大事かを考えさせられる。

 

これらの絵画を純粋に芸術作品として評価するなら、ハンセン氏病の患者が描いたもの、というバックボーンは忘れるべきなのだろうか。

「重い病を背負っていても、人はこれだけ素晴らしい作品を生み出せる」といったものの見方は、ともすれば「感動ポルノ」として批判されがちなものでもある。

だが、番組の最後で小野正嗣氏が語っていたように、社会から否定されてきた人々が人や世界を肯定する絵を描けるようになるということは、この絵を見る人に希望をもたらすものではないだろうか。

患者の一人が描いた絵のなかに、仔馬が母馬の乳を吸っているものがあったが、この絵は見るものが子供時代に親と引き離され隔離された患者の人生を知っているからこそ、深い感慨を呼び起こすという一面がある。辛く苦しい思いをしたからこそ生み出せる表現というものは、やはりあるだろう。