明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

作家もまた「サービス業」である。

出版とはただのビジネスに過ぎない

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電子書籍か紙の本かみたいな議論にはあまり興味はないんですが、この増田を読んでいて心に残ったのがこの部分。

新刊が出るのもそれが配本されるのも面白い本がでるのも、全部ただの商行為であって、信仰とか正義とか哲学とか、そういうのとは何の関係もありません。出版業界人は自分たちに文化人な変なプライド持ち過ぎだと思いますし、読者側は出版や自分の読書ライフを絶対視し過ぎではないでしょうか?

そう、本当にこれなんですよ。

出版というのはただのビジネスに過ぎないし、紙の本というものが売れないのであれば、それは単に廃れていくと言うだけのこと。

 

書店や紙の本を愛好する者としてはそれが寂しいと思う気持ちは大いに共感するし、できることならそういう出版文化を残しておいて欲しいものだとは思うけれども、事業とはそんな個人的感慨とは何の関係もないものです。

いくらこちらが書店というのは地方においては文化の主張所みたいなものなのだ、と思っていたところで採算が取れなければ廃業するしかないし、誰も慈善事業として本を作ったり売ったりしているわけではない。

 

そして、出版というものがビジネスであるように、作家という商売もまた多くの仕事の一つに過ぎず、それは何よりまずお金を稼ぐ手段であるわけです。

 

何の番組か忘れましたが、いつだか村上龍氏がアナウンサーに「貴方にとって小説とはなんですか?」と訊かれた時に、彼は「生計を立てる手段ですね」と答えました。

アナウンサーは多分もっとかっこいい回答を期待していたんでしょうが、僕はこの正直な返答を逆にとても格好いいと思いました。

変な気負いがないのに逆に好感をもったんでしょうね。

 

ここで彼が「日本の文学界を改革したいんです」みたいなことを言っていたら、一気に嫌いになっていたかもしれません。

まあ、村上龍がそんなことを言うわけがないのですが。

 

村上氏の回答はある種の照れ隠しだったかもしれませんが、作家にとって小説が「生計を立てる手段」であるというのは間違いのない事実です。

そうである以上、まずは小説が売れるということが作家にとっては何よりも大事なはず。

 

読者を啓蒙するだとか、読むことで人間的成長を得られるだとか、そんなことは本来二の次三の次で、作家で食べているのならとにかくある程度売らなければどうしようもない。

でも、小説というものに思い入れが強ければ強いほど、人はそこに「生計を立てる手段」以上の意味を求めてしまいます。

例えばこんな具合に。

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小説は読者を気持ちよくさせるだけではダメなのか?

このまとめの中で野尻抱介氏は、「異世界チートハーレム物っていうのは世界一かっこわるい文化で、耽溺してるとコンプレックスを強めるだけ」とまで言っています。

そういう小説は「悪書」であるときちんと言わなくてはならないと。

 

つまり、野尻氏の中では「読者を気持ちよくさせるだけの小説」は「悪書」で、ご本人が挙げているような「未来少年コナン」のようなきちんとした苦労や葛藤があり、視聴者を成長させるような作品が良い作品だということなのでしょう。

 

実は上記のまとめ、読んでいる時は割と野尻氏には共感したんです。

転生先で奴隷ハーレムを作ります、みたいな話を見せられると何だかなあ……と思ってしまうところはあるし、そこまで欲求をダダ漏れさせるのか、と感じることもある。

 

でも小説だって村上氏が言うように、単なる「生計を立てる手段」であって、ハーレム物だって単に読者が必要としているから作者が需要に合わせて書く、というだけの話なんですよね。

別に小説は高尚なものでなければいけないという決まりはどこにもない。

出版だってビジネスなのだから、売れればそれが正義。

そして、高尚な欲求より俗な欲求を満たす作品のほうが、いつだって売れるものです。

 

読者側だってこの時代、決して豊かとはいえない財布の中から貴重なお金を払って小説を読むわけです。

「俺は金を払ったんだから、その分こっちを精神的に気持ち良くしてくれよ」と考えても、その欲求自体は別に間違っているわけではない。

現実はままならないものだから、せめてフィクションの中くらいいい思いをさせてくれたっていいじゃないか、というのも、それはそれでわかります。

 僕だって上記の野尻さんの説教のようなものが一冊の本にまとまったとしても、まず買わないでしょうから。

 

読者の要求に奉仕するような作品は低級で、読者を精神的な高みに導くような作品が高級なのだという価値判断がわからないわけではありません。

しかし、本もまた商品である以上、まず売らなくてはいけません。

野尻氏がどう思おうと、『このすば』は売れているのだから、出版社にとっては「良い小説」です。

売れるからと言って明らかな科学的誤りやヘイトスピーチを含む本を売ったら問題ですが、ハーレムラノベはそういうことをしているわけではないのだから、「悪書」とまで言っていいのかどうかは甚だ疑問です。

 

作家というのも、「読者に面白い小説を提供する」という意味においては、一種の「サービス業」です。

チートハーレムなんてけしからんと言ったところで、そこに需要がある限りそうした物語は供給され続けます。

もちろん、高尚な物語にはそれはそれで需要があります。

どちらを選ぶにせよそれは買い手の自由だし、買い手は自分にとって価値の高いと思うものを買うだけで、別に何かの哲学に従っているわけでもありません。

他人が何を言おうが、人は欲しいものを買う。それだけのことです。

本を読む人ほど、本の影響力を過大評価している

この素晴らしい世界に祝福を!』がそもそも本当にコンプレックスまみれの読者を癒やす作品なのか?ということは、僕は読んでいないので何も言えません。

ただ、仮に世の中に人のコンプレックスに寄り添うだけの「悪書」が存在するのだとしても、それがそんなに人を堕落させるのか?ということには大いに疑問があります。

 

作家というのは、この世で最もたくさん本を読む部類の人達です。

それくらい本に思い入れがなければ小説なんて書きません。

当人は何かの小説に影響されて作家になったから小説の影響力を重く見るんでしょうが、はっきり言って普通の人にとってそこまで小説の影響力は大きくありません。

 

普通の人は、日常生活で会社なり学校に行き、オフでは友人知人と交流する時間があったり、あるいは他の趣味をする時間や雑事をこなす必要があり、その余った時間でようやく小説を読みます。

一日のうち、小説に関わる時間なんてごく一部でしかないのです。

一日30分から1時間程度読む小説の内容が「コンプレックスに寄り添うだけ」のものだったとしても、その程度のことで人生が根本的にダメになったりはしないでしょう。

もしそういう小説を読む人がダメな生活を送っているとしたら、変えなければいけないのは読む小説の種類ではなく生活そのものの方であるはずです。

 

逆に、主人公が苦労したり葛藤したりする「良書」を読んでも、現実の人生の方まで改善されるのかはわかりません。

もし本当に「人間的成長」がしたいのであれば本なんて読んでる場合じゃない、ボランティアでもして他人に尽くせという議論だって成り立ちますし、実際問題、「良書」を読むよりも仕事なり学業なりに打ち込む方がよほど人間的に成長するはずです。

 

良くも悪くも、しょせんはフィクションにすぎない小説がそこまで現実には影響しません。

作家は小説に影響されて作家になるくらい人生が変わっているから、他人も同じくらい影響されるだろうと思っているだけです。

また、自分が書いている小説は影響力が大きいはずだという願望も混じっているでしょう。

 

しかし、人生を変えるために自己啓発書を読んでも変えられない人の方が多いのだから、小説の影響力なんてたかが知れています。

 読書という行為には、過剰な意味が付与されすぎている

本来小説を読むのも売るのもただの商行為でしかないはずなのに、「ちゃんとした小説を読まなければダメだ」と説教をする人がいるのは、「読書とは本来立派な行為である」という前提があるからなのでしょう。

 

本好きな人には、「読書は自己形成に役立つものだ」と主張する人が少なくありません。

 例えばこの本などはその典型です。

読書力 (岩波新書)

読書力 (岩波新書)

 

「読書は自己形成に役立つ」ということは、逆に言えば「自己形成に役立たないような本を読むのは、読書とは言えない」ということになります。

そう考える人が、ハーレムラノベを批判したりするんでしょうね。

 

しかし、そもそも読書というのはそんなに立派な行為なのか?という疑問が、僕の中にはあったりします。

齋藤孝さんはこの本の中で「司馬遼太郎を読めるかどうかが読書力があるかどうかの分水嶺となる」といったことを書いているのですが、その司馬遼太郎作品にしても、松本清張から「主人公に葛藤がなさすぎる」と批判を受けていたりするのです。

これってある意味、「ハーレムラノベは主人公が苦労しないからダメ」と言っているのとよく似ています。

実際、『国盗り物語』の主人公だって戦争にも女にも強くて頭も切れる、典型的な無双チート物語とも読めますからね。

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 司馬作品だって本質的には娯楽だと思うのですが、それを読むことが立派な読書にカウントされるのだとすれば、それは司馬作品が時の経過とともに権威化されているからでしょう。

ハーレムラノベが時が経過したら立派な小説と評価されるとは思いませんが、そうした作品も司馬作品も「娯楽」であるという意味においてはそれほど変わらないように思えます。

 

読書によって精神が豊かになるとか、自己形成が促されると言った効果を全否定するわけではありません。

でも少なくとも僕はそういう目的で本を読むわけではありませんし、読書を高尚なものと考えすぎることで読書の幅を狭めることになりはしないか、とも思っています。

 

だいぶ昔の話ですが、アニメ劇場版ストリートファイターの監督が「この映画は、なんかスカッとしたけど映画館を出た瞬間にどんな話だったっけ?と内容を忘れてもらっていい映画です」と話していたことがあります。

読書にも、そういう類のものがあってもいい筈です。