明晰夢工房

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【感想】火坂雅志『軒猿の月』

 

 

最近kindle unlimitedを使っているので、ここで読んだものの感想をいくつか。

 

軒猿の月』は火坂雅志作品としては異色の作品集になる。大河ドラマ化された『天地人』をはじめとして骨太な歴史小説を多数発表してきた著者だが、本作は歴史小説というより時代小説・伝奇小説の色合いが濃い。主人公は上杉氏に使えた忍び(軒猿)や傾奇者・木食上人など無名な人物が多く、有名人物は塚原卜伝くらいしかいない。これらの人物の目を通して描かれる戦国時代は厳しく、生きづらい。ハッピーエンドといえる作品はひとつもないが、それだけに英雄の目を通して描かれる世界とはまた違う味わいがある。

 

特に伝奇的な色合いが強いのが『家紋狩り』。太閤秀吉が菊桐紋の使用を禁じた「家紋狩り」に材をとった作品だが、作品後半で主人公が迷い込む熊野の奥地の村「皇子谷」にはみずからを南朝の貴族と信じる村人たちが住んでいる。この村には驚くべき奇習があり、主人公がほれ込んだ娘が危機にさらされる。閉ざされた世界の異常性と哀しさを存分に味わえる本作では、「伝奇作家」としての火坂雅志の腕前をかいま見ることができる。もしこの方向性に進んでいたなら、作者は山田風太郎隆慶一郎のような作家に成長していたのではないかと思うほどだ。

 

この短編集のベストはやはり8作目の『子守歌』だろう。かつて九鬼家に仕える武士だった灘兵衛はその身分を捨て、今は南紀の漁師として暮らしている。幼子を船に載せつつクエを釣りあげようと奮闘する灘兵衛は、不器用にしか生きられない自分を嘆きつつ、過去を回想する。愛妻と別れ、九鬼家を辞した理由がここで語られる。運命の理不尽さ、人の世のはかなさに打ちのめされる。それでも懸命に生きようとする灘兵衛に、さらなる過酷な一撃が待っている。これほど深い喪失感を味わえる作品はなかなか読めるものではない。これを読めただけでこの作品集を読んだ甲斐があると思えるほどの重みがある一作だった。

 

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火坂雅志の遺作となった『北条五代』では、北条家を陰から支える風魔一族と氏綱の出会いに絡んで氏綱と小太郎の妹のロマンスが描かれる一幕がある。史実のなかにフィクションを絡ませる、時代小説作家としての腕前が存分に発揮されたシーンである。この作者の一面を味わいたい読者には、『軒猿の月』は格好の作品集だ。