明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】藤沢周平『蝉しぐれ』が時代小説の最高傑作である理由

 

蝉しぐれ (文春文庫)

蝉しぐれ (文春文庫)

 

 

なんという完璧な小説だろう。藤沢周平作品にどれもはずれはないが、その中でもこれは最高傑作として推せるものであり、今なお色あせることのない時代小説の金字塔だ。

 

すぐれた小説というものは、その中にいくつもの貌をもっている。『蝉しぐれ』は主人公・牧文四郎の人間的成長を描いたビルドゥングスロマンであり、幼なじみのふくとの淡い恋を描く恋愛小説でもあり、道場のライバルである犬飼兵馬や興津新之丞などの剣客との戦いを描く剣豪小説でもあり、そして海坂藩上層部の対立抗争を描くサスペンス小説でもある。これらすべてが渾然一体となり、『蝉しぐれ』という堅牢な建築物の構成要素となっているのだ。

逸平や与之助など幼いころからの仲間との熱い友情、意外な人物から授けられる秘剣「村雨」、藩の抗争に巻き込まれた父との別れなどなど、この作品にはあらゆるエンターテイメント要素が詰めこまれていて、読者を飽きさせることがない。もとより時代小説は古びにくいジャンルではあるのだが、それでも昭和の終わりに発売されたこの小説が今なおこれだけ楽しめるというのは驚きだ。小説が巧いとはどういうことか、その答えがここにはある。

 

 たしかに、今読んでみるとこの作品のそれぞれの構成要素には新しさは感じない。剣豪で勇者型の文四郎に豪傑型の逸平、そしてインテリの与之助という仲間の組み合わせはいろいろな時代小説でよく見かけるものだし、世継ぎをめぐって藩内で派閥争いが起きる設定も時代小説の定番中の定番だ。幼なじみのふくが藩主の側室となり、派閥抗争に巻き込まれてゆく展開にもまた既視感がないわけではない。

だが、これはあたりまえのことなのだ。そもそも多くの時代小説が藤沢周平作品の影響を受けて書かれているのだから、後続作品を知っていれば既視感があると感じるのは当然のことなのである。『蝉しぐれ』を読んでこれってどこかで見た話だよね、というのはシェイクスピア作品って格言ばかり出てくるよね、と言うようなものなのだ。

既視感を感じつつも、それでもこの作品をどんどん読み進めていけるのは、『蝉しぐれ』を構成する青春要素や恋愛要素、サスペンス要素などの各部分のレベルが恐ろしく高いからだ。藤沢周平は短編の名手でもあるが、この小説の各章は完成度の高い短編としても読めるような部分もあり、それらが積みあがって全体としての物語が立ちあがってくる。

 

これを「青春小説」として読むなら、やはり文四郎と逸平、与之助との関係性に注目することになる。豪傑型で細かいことにこだわらない逸平と、線が細く学問に秀でている与之助との友情がこの小説を貫く鍵であり、やがてこの3人は海坂藩を揺るがす陰謀と対決する際にも力を合わせることになる。

文四郎の父は派閥争いに巻き込まれて切腹することになり、牧の家は石高を減らされて文四郎は辛酸を舐めることになるが、それでもこの三人の友情はゆらぐことがない。一心に剣の腕を磨き、やがて秘剣「村雨」を伝授された文四郎は、この秘剣を頼りに藩を牛耳る里村一派と戦うことになるのだが、ここには努力・友情・勝利という(一昔前の?)少年漫画に必須の要素がちりばめられた熱い展開が待っている。なんだかんだといって、皆こういうものが好きなのだろう。求められている王道をそのままに書けるのが大衆作家の手腕である。

キャラごとの役割分担もおもしろい。与之助はいかにもインテリらしく、その知恵で文四郎を助けているのだが、豪傑型の逸平は剣も学問も大したことがなく、それほど大した働きができるわけではない。最後の戦いにも参加してはいるものの自分では剣を振るっていない。だが、逸平はおおざっぱで細かいことを気にしないので、いつも文四郎の心を晴らしてくれる。与之助に遊びを教えてくれるのも逸平だし、かと思えば父が切腹して落胆している文四郎の悲しみを「男には泣かねばならないときもある」と受けとめる優しさも見せてくれる。実は逸平は癒し系なのだ。

 

 恋愛という面に着目するなら、やはり注目すべきは文四郎と幼なじみのふくとの関係性だ。お互いを憎からず思っているこの二人は、しかし若いので接し方はどこかぎこちないものとなる。読んでいてもどかしさを覚える二人の距離感は、だからこそ尊いものと読者には感じられる。二章の夜祭のシーンなど、現代の小説にも似たような演出はありそうだ。

しかし、ふくの美貌に目をとめた藩主が側室として召し出したため、文四郎はもうふくと会うこともかなわなくなってしまう。これは、文四郎の青春の終わりを象徴するものだ。やがてふくは藩主の子を産み、派閥抗争に巻き込まれていくことになるのだが、このように恋愛や青春、政治が複雑にリンクするところに藤沢作品の構成が優れていることを見てとれる。家老の里村一派と対決するにことになり、やがて文四郎はふくとの再会を果たすことになるのだが、文四郎は側室となったふくとはもう対等な口を利くことはできない。文四郎とともに読者が切ない思いを抱く瞬間である。

物語の最後にいたり、この二人の関係性にはようやくけりがつくことになる。二十年の時を経て、文四郎はようやく若いころのふくの想いを聞かされることになる。ふくは文四郎が思っているほど子供ではなかった。ここでふくの語る、ありえたかもしれない未来に、読者は文四郎とともに思いを馳せることになる。海坂藩で派閥争いが起きなければ、この二人は夫婦になっていただろう。だが二人が生きているのは多くの人命が犠牲になり、ようやく諸悪の根源がのぞかれた未来だ。この世界では二人はこんな儚い交わりしかできないのだ、という無常感に読者はとりつかれ、深い余韻を味わうことになる。

 

そんなめんどくさい男女の交情なんて読みたくない、という読者にも、本書は多くの愉しみを提供してくれる。『蝉しぐれ』は剣豪小説としても一級品だからだ。ビジュアルを欠いていることが小説の一番の弱点なのだが、それでも「天与の一撃」の章での興津新之丞との息詰まる攻防は、バトルを楽しみたい読者は必読だ。作家はその気になれば、文章だけでこれだけの緊張感あふれる剣のかけ引きを描くことができる。

そしてこの後、文四郎がある意外な人物から授けられた秘剣「村雨」を使う機会が、ストーリー終盤にいよいよやってくる。里村一派の選りすぐった剣客相手に、文四郎の秘剣が炸裂する。「逆転」の章での文四郎は文字通りの剣鬼だ。そして文四郎が里村家老相手にみせた技の冴えは、読者の留飲を大いに下げるだろう。

 

これだけの、娯楽の満漢全席ともいうべき小説でありながら、『蝉しぐれ』は高い気品を保つ作品に仕上がっている。この作品の品格は、あとがきを書いている秋山駿が言う「清朗さ」により保たれているのだろう。文四郎とその友は、ときに迷いも打ちのめされもするが、最終的にはつねに正しい決断をし、こぎみよい行動をとる。要所要所で差し込まれる風景描写も抜群で、これが作品全体に豊かないろどりを添えている。これほど内容豊かな作品にはそうそうお目にかかれない。巨匠・藤沢周平のすべてが詰まったこの一冊を、ぜひ手に取ってみてほしい。