明晰夢工房

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石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』で中世史を学ぶ

岩波新書の『後醍醐天皇』を読もうとしたがあまり内容が頭に入ってこない。南北朝時代の基本的な史実が頭に入っていないせいだ。こういうときはビジュアルがあるものがいいだろうというわけで、石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』を手にとってみた。このシリーズは以前古代史の部分を読んだらとても面白かったので、これがいいだろうと思った。

 

マンガ 日本の歴史〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ (中公文庫)

マンガ 日本の歴史〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ (中公文庫)

 

 

足利尊氏室町幕府を作った人、なのだが、そのキャラクターづけはいまいちはっきりしない。室町時代に今ひとつ親しみが持てないのはこのせいかもしれない。戦国時代や江戸時代とちがって、室町時代を取り上げたドラマや小説が少ないため、人物像がつかみにくいのだ。信長にせよ秀吉にせよ、多くの人はフィクションによりある程度明確なイメージをもっている。それが必ずしも歴史学的に正しいものではないにせよ、読者に興味をもたせ、学問の入り口に立たせる効果はある。

 

ではなぜ、足利尊氏にはあまりこれというイメージがないのか。このマンガを読んでいると、その理由の一端が見えてくる気がする。結局、尊氏という人が何をしたいのか、その行動原理がよくわからない部分があるのだ。だからフィクションの主人公になりにくいし、結果としてイメージが定着しない。たとえば、尊氏は鎌倉幕府の残党を鎮圧したあと、鎌倉で自立する気配を見せる。しかし、それでいて後醍醐の派遣した新田義貞とは戦いたがらない。野心があるのかないのか、傍目にははっきりしないのだ。

 

この漫画では触れられていないが、尊氏が後醍醐の討伐軍と戦わず浄光明寺に引きこもった行動について、中世史家の佐藤進一は「尊氏が遺伝性の躁うつ病だったから」と説明している。この説は『陰謀の日本中世史』で呉座勇一氏が批判しているのだが、いずれにせよ尊氏の行動には信長のように天下布武に向けてひた走るようなわかりやすさはない。

 

マンガ日本の歴史 (19) (中公文庫)

マンガ日本の歴史 (19) (中公文庫)

 

 

結局、後醍醐と尊氏が相容れないため南北朝時代が始まってしまうが、ここを描いているのが19巻だ。ここでさらに自体をややこしくしているのが尊氏と弟の直義の対立(観応の擾乱)で、直義が南朝方と組んだりするので一向に戦乱が収まる気配がない。どの勢力にも大義名分らしいものが何もなく、ただ権力欲だけがむき出しになっている、という印象を受ける(後醍醐には宋学イデオロギーがあるのだが)。とにかくどの勢力にも感情移入できない。これが幕末史だったら倒幕側であれ佐幕側であれ、誰かしら共感できる人物がいるのだが、この時代だとどの勢力にもつきたくないと思ってしまう。あえていえば、楠木正成の終始一貫した勤王ぶりには好感は持てる。尊氏と和を結べと後醍醐に諫言する勇気もあり、現実的な戦略も考えられる人なのに報われないのが悲しい。

 

マンガ日本の歴史 (20) (中公文庫)

マンガ日本の歴史 (20) (中公文庫)

 

 

まったく光のみえない18、19巻を過ぎ、20巻の主人公は足利義満に交代する。この巻は面白い。というのは、義満が「日本国王」になりたがった理由が描いてあるからだ。義満は17歳のときに明との通交を願い使者を派遣したが、天皇の臣下からの使者であるためまったく相手にされなかった。そのことを恨み「日本国王」となるため天皇家から王権を奪取することを願うようになった、というわかりやすいストーリーが展開される。

この巻の義満は、尊氏よりもよほどキャラが立っている。有力守護を分裂させて勢力を弱める政治手腕は狡猾そのもので、義満の政略が尊氏にあれば南北朝時代はもっと早く終わったのではないかと思うほどだ。かと思えば戦陣に立ち敵を追い詰める能力もあり、実に隙がない。ひとりで尊氏と直義の資質をあわせ持っている。最後は太政大臣にまで上り詰めた義満の人生は、将軍権力の確立という点で一貫している。このマンガで描かれているように義満が帝位簒奪まで狙ったかどうかは議論のあるところだが、義満がそのような「怪物」であったと考えるほうが面白くはある。

 

中世史の本は今でも売れ行きが良いらしく、中公新書の『応仁の乱』に続き『観応の擾乱』も好評だ。しかしこうして室町幕府の成立に至る流れをみてくると、その中身は実に混沌としている。どこかに感情移入できるような正義があるわけでもなく、あまり颯爽とした英雄も登場しない。読んでいてなんとなくすっきりしないのだ。だが、それだけにリアルな人間がここに息づいている、ともいえる。むしろそうしたところが人気を呼ぶ原因であったりするのだろうか。先行きの不透明な現代日本を生きる読者からすれば、むしろこのような混迷の時代にこそ現在を重ねることができるのかもしれない。高度成長期の日本のように、司馬遼太郎の書いた「明るい」戦国時代に今を投影できた時代はもうとうに過ぎた。

 

余談だが、このシリーズの感想を検索していたら、歴史作家が勉強のためこのマンガを読んでいるというツイートを見かけた。90年代の頃、大人が電車の中で漫画を読んでもいいのかという議論があった気がするが、今はマンガは学習の手段としても認められているのか、と思うと感慨深いものがある。ちなみに、石ノ森章太郎はマンガは「漫画」ではなくあらゆる事象を表現できる「萬画」なのだと巻末で主張している。それこそあらゆる事象をその中に含む歴史を描くには「萬画」こそがもっともふさわしい表現方法なのだ、という巨匠の矜持の現れだろうか。