明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

エマ・ワトソンのスピーチに関する雑感

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今日は以上の記事を読んで思ったことを記しておこうと思う。

 

世の中には、総論賛成各論反対、みたいなことが多い。どこの記事だったか忘れたが、「男性も無理せず弱みを見せられるようになればいい。無理に男らしさに縛られる必要はない」といった記事が多くの賛同を集めているのを見たことがある。

 

そして、エマ・ワトソンの演説というのも、大意はそういうことを言っている。男も女も、ジェンダー規範に縛られずに自由に生きてよい。誰もが「らしさ」を押し付けられないような社会にするべきだ、と彼女は言っているのだ。大雑把に言えば「みんな違ってみんないい」だ。

 

これ自体には特に反論するような点は見当たらない。多様性は尊重されるべきだ。これは一般論として全く正しい。だからこそ多くの人が賞賛しているし、確かにこの演説には耳を傾けるべき価値がある。では、せっかくいいことを言っているのになぜ反発する人がいるのか。ここで思い出すのがこの記事だ。

 

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 エマは、「弱いと思われるのが嫌だから」と言って、男性は心が弱っているのに助けを求めようとしません。その結果、イギリスの20歳から49歳の男性は、交通事故、ガン、心臓疾患よりも自殺によって命を落とす方が圧倒的に多いのです」とスピーチの中で語っている。無理に男らしくあろうとすることが男性に多大なストレスとなっていることをちゃんと認識しているのだ。無理をして自殺するくらいなら男らしくする必要などない、全くもっともな話である。

 

しかし、男性が男らしさの鎧を脱ぎ捨て、女性の前で自分の弱みを語ると、上記のようなことになってしまうのである。これから付き合おうという相手になぜマイナス面ばかり見せられなくてはいけないのか、営業マンが自社製品の欠陥など語るな、というこの増田の言い分には多くの人が賛同するだろう。つまり、総論として「男らしさに縛られる必要はない」としても、実際の男女関係という各論の部分では、やはり男は弱みなど見せてはならない、ということになる。そのようなことをしてはパートナーを獲得する上で決定的に不利となってしまうからだ。

 

「男らしくなくてもいい。でも個人的にそんな人はパートナーには欲しくない」という女性が大半なのであれば、やはり多くの男性は男らしさから降りることは難しい。パートナーの欲しい男性は女性の需要に合わせなくてはいけないからだ。結婚などどうでもいい人なら降りても問題はないが、そういう男性はエマに言われるまでもなくすでに降りているだろう。

 

社会規範というものは、単に上から押し付けられるだけのものではない。個人の自然な嗜好が積み重なって社会規範ができるという一面もある。それが「個人的なことは政治的なこと」ということだ。エマがそのことを知らなかったか、知っていても語らなかっただけなのかはわからないが、いずれにせよ男らしさという規範を緩めたいのであれば、それを男性に求める人達(女性だけではない)にも語りかけていく必要がある。エマのスピーチにはこの点は確かに欠けていた。

 

デートでサイゼリヤに連れて行くような男は駄目だ、みたいな話を最近見たが、これは「男は女をうまくリードするべきだ」という男らしさが今でも求められているということだ。エマの演説に反発していた人達は、この現状で男らしさなど捨てたら一人負けになるだけではないか、と危惧しているのではないかと思う。そのような危惧を取り払うには男らしさを求める人達の意識も変えなくてはいけないのだが、そんなことが本当に可能なのか、という疑問も拭い去れずにいる。

 

少し話はずれるが、アドラー心理学では健全な人は他人を変えようとしない、変えられるのは自分だけだと説いているが、その見地からするとエマのように男性に変わって欲しいと訴えるような人は不健全なのだろうか。自分はそうは思わないし、時には他人に変わってもらうことも必要ではないかと思うのだが、このブログではよくアドラーの批判をしているのでこんな蛇足めいた話を付け加えたくなってしまった。

『王様でたどるイギリス史』

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『パスタでたどるイタリア史』は面白い本だったが、それに比べるとこれはかなり個性は控えめな印象。パスタやお菓子など、あまり普通の歴史書ではテーマにならないものから一国の歴史をたどるところに面白みのあったこのシリーズだが、為政者を軸に歴史を語るのはごく普通の政治史でしかない。

 

イギリス史はわかりにくい。この本もジュニア新書だけあってわかりやすく記述してあるとは思うが、それでもわかりにくいのは、イギリス史というものがブリテン島の内部で完結しないからだろう。中世の時点でノルマン・コンクェストや百年戦争など大陸と深い関係を持っているのがイギリス史で、近世に入ってからはオランダやアメリカとも深い関わりが出てくる。結局、イギリス史は他国との関係性の中で書かざるをえないため、川北稔は世界システム論を用いて名著『砂糖の世界史』を書いた。

 

 

多くのトピックが語られていて面白いことは面白いが、少々詰め込み過ぎな感もあり、あまり内容が頭に入ってこない。イギリス史にそこまで関心がないこともあるだろうが、やはり王の個性で英国史を語るというコンセプトに無理があったか。これを読んでいても、今までわからなかった清教徒革命のことはやはりわからない。こちらにキリスト教の知識が不足していることはあるだろうけれども。

 

一番印象に残ったのは近世のイギリス人の好戦性だ。決闘を好み、喧嘩っ早いことが良しとされる風潮が紳士の国であるはずのイギリスには存在し、ナポレオンの時代に軍隊の鞭打ちを廃止するキャンペーンもイギリスでは定着しなかった。パブリック・スクールでも体罰が横行している。17世紀末ころからイギリスでは憂鬱症や心気症が多くなっているが、これはこうした好戦性の裏返しであると著者は言う。イギリスで推理小説の名作が生まれたのも、死と隣り合わせの好戦性が原因ではないかと書かれている。

 

イギリス史で一番新しいトピックと言えばEU離脱だが、失業や貧困の原因をEU移民に押し付ける議論が横行していたと簡潔に触れられている。イギリスは本来大陸とは距離を起きたい国で、EUには功利主義から加盟していたにすぎないと書かれているのだが、実利を重んじるイギリス人からすればそんなものなのだろうか。

「挫折した貴方は魅力的ですよ」とあの人は言った。

 

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第二回カクヨムウェブ小説コンテストの結果は、周囲に大きな波紋を投げかけた。

僕の知人でも大賞を受賞した人もいるし、結果に落胆して筆を折ると言い出した人や、もうウェブでは戦えないので公募に切り替える、と宣言する人も見た。

 

自分自身はこのコンテストに関してはほぼ傍から見ているだけだったが、それにしても三部門は大賞どころか特別賞すら該当者なしという結果に終わったことには驚きを禁じ得ない。SF部門・ラブコメ部門・ドラマ・ミステリー部門では、大いに健闘した作品も書籍化の栄誉は与えられなかった。

 

また、他ジャンルでは僕がこれは大賞を取るのではないか、と思っていた作品が特別賞にも届かなかった。作品の評価というものは本当にわからない。いくら読者の支持を集めようが、ウェブ上で人気作となろうが、賞は取れないときは取れない。文学賞はいつだってごく一握りの勝者に栄光を、圧倒的多数の参加者に敗北感を植え付けることになる。

 

僕は夢を諦めることが悪いことだとは思っていない。

冷静に見れば作家というのはそれほど旨味のある商売ではないだろうし、首尾よくデビューを飾ることができたとしても大変なのはそれから先だ。

作家になることができる人はそれなりに存在するが、作家であり続けることのできる人は多くはないのだ。

 

しかし大事なことは、一度は情熱を賭けていたことを諦めるということを、自分の中でどう納得するかということだ。

挫折するのは仕方がない。人のモチベーションは無限ではないし、身になるかどうかもわからないことをやり続けるくらいなら、もっと確実に手応えのあることにリソースを割いたほうがいいのかもしれない。

だが、ずっとエネルギーを注ぎ続けたことをやめるのには、心の中でそれなりの手続きというものが必要だ。その対象が小説であれ何であれ、夢を断念することは、その先に続いているかもしれない人生の可能性を捨てることを意味するからだ。

 

 こういう時、あの人ならどう言うだろう?と気になる人がいる。

子供の頃から夢中になってきたことを仕事にしているような人の言葉は、やはり心に響く。

たとえばウメハラが以前講演会で語っていたようなことも、大いに参考になるだろうと思う。

saavedra.hatenablog.com

しかし、こと「挫折」ということになると、ウメハラの話で思い出すのはまた別のことだ。

以前、アマゾン本社で行われたウメハラの講演会がニコ生で中継されていたことがある。確か二冊目の著書の出版記念講演だったと思うが、この時の講演会にも質疑応答のコーナーがあった。うろ覚えだが、このときに会場にいた人から「自分はある夢(確か服飾関係の仕事だったと思う)に向けて努力していたが、その夢は叶わなかった。こういう時、精神的にどう折り合いをつけていけばいいのだろうか」といった質問が出た。

 

こういう質問に、どう答えればいいのか。

「それまで何かに打ち込んでいた経験は他の分野にも活かせる」といったことなら誰にでも言えそうだし、現実を見据えて「時間をかけてもものにならないジャンルからは足を洗ったほうがいい」ということもできる。事実、為末学はそういう感じのことも言っている。

 

しかし、この時ウメハラが言ったことは全く予想外の一言だった。

彼はこう言ったのである。

 

「挫折している人って、魅力的なんですよね」

 

これは、アドバイスといえるようなものではない。

しかし、およそどのようなしたり顔のアドバイスよりも胸に染み入る言葉ではないかと思う。

実際、この言葉をリアルタイムで聞いたときには本当に驚いた。こんな優しいことを言える人がいるのか、と思ったからだ。

 

あまりはっきり覚えていないが、ウメハラが言っていたのはこういうことである。

 

「挫折するということは、それだけ物事に真摯に取り組んでいたということだ。その道に自分を賭けていない人は挫折という感情を味わうことはない。だから挫折している人は素敵なのだ」

 

この手の話では、多くの人は落ち込んでいる人を励まそうと通り一遍なことを言うか、あるいは根性論を持ち出して説教をするか、ということになりがちだと思う。しかしウメハラのかけた言葉はどちらでもなかった。

役に立つような台詞でもないが、このように肯定してもらえれば、挫折したことによる負の感情もほどけていくものなのではないだろうか。

挫折したことも役に立つのだとか、落ち込んでいても前には進めないのだとか、そんなことは当人だって百も承知なのである。その上で、自分でもどうにもならない敗北感に当人は打ちのめされているのだ。だとすれば、その人に必要なのはその感情を解きほぐし、身軽にしてやることだ。

 

ウメハラという人がそういう効果を狙ってこう言ったのかはわからないし、それこそ単に個人的な感想を漏らしたにすぎないのかもしれないが、それにしたってこういう場でこの台詞はなかなか出てこない。この場で求められる優等生的な回答をしよう、という発想がここにはまったくないのだ。

 

もっとも、こういう台詞もウメハラが言うからこそ意味のあることではある。よく知りもしない人から「挫折している人って魅力的ですよね」なんて言われていてもバカにしているのか?とも取られかねない。結局この種の言葉は、誰が言うかだ。今勝っている人間だからこそ、言えることがある。そのことを彼はよく自覚しているのだろう。

saavedra.hatenablog.com

ウメハラ 結局のところ、おまえ、いい人生を送ってるじゃん」って言えるのは、自分以外にはいない。

ちきりん ですね。……なんだけど、その「外からの評価じゃない。自分で自分を評価すればいいんだ」っていうのも、勝ち組だから言えることだったりしない?

ウメハラ そうですね。うん、やっぱりこれは「勝ち組の人生論」でしょう。

ちきりん おっ、言い切った!

 

新海誠氏の不倫報道を見て、人格と作品の関係性について考えた

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今朝、新海誠氏の不倫報道が流れていたことを知った。新海氏はそのような事実はない、とこれを否定している。

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この件自体にはそれほど関心があるわけではないのだが、こういう報道があったとき、氏の作品評価にどれほど影響が出るだろうか、ということは考えたりする。深海氏のツイートには監督を信じますというリプライがたくさん飛んでいるが、この件は置いておいて一般論として作者が不倫などの不道徳な行為をしていた場合、そのことをもって作品の評価まで下げてしまうことは妥当だろうか。

 

よく「作者の人格と作品の評価は分けるべき」であると言われる。原則としてはその通りだろうと思う。僕なら仮にアニメの監督や漫画家が不倫をしていたとしてもそのことで作品を読まなくなったり敬遠したりすることはない。ASKAが逮捕されても僕は彼の曲のファンであることはやめなかったし、彼のしたことがどうであれ、彼の作った曲の価値がいささかも変わるものではないと思っている。

 

 

しかしそうは言っても、物事には自ずから限度というものがあるだろう、とも思っている。たとえ当人が過去に到底受け入れがたい行為を行っていたとしても、そのことと作品自体を切り離して評価できるか?それは大変難しいということを、この本のレビューは示している。

 

この本の元になった『絶歌』にはあまりリンクを張りたくないのでこちらを張る。こういうことをする時点で、僕自信が作者の人格と作品自体を切り分けられていない。

 

アマゾンで『絶歌』のレビューを読んで頂ければわかる通り、この本に対する批判の多くは、「元犯罪者を印税で設けさせてはいけない」といった、本の内容とは別の部分に関するものである。そういう批判が出てくる事自体は大いに頷けるのだが、本の評価はあくまで内容自体について行われるべきであるとするなら、そうしたことをレビューに書き込むのはふさわしくないということになる。

 

もっとも、この本はノンフィクションであるので、当人の反省が足りない、といった倫理的観点からこれを批判するのはいいだろうと思う。逆にそういう点こそが資料として価値があると評価しているレビュワーもいるが、こういうものを評価することで傷つくのは誰か、ということを考えれば、やはりこうした本を評価することは心情的に難しい。その意味で、作品と著者の人格とを簡単に切り分けられないこともあるのだ。

 

著者が嫌いなので、作品の評価も下げてしまう。これは例えば文学賞の選考委員であるなら許されない態度であろうと思う。しかし一消費者なら、坊主憎ければ袈裟だって憎くもなる。僕自身は作者が嫌いなので決してこの人の本は読まない、と思っている人は一人しかいないが、やはり人格と作品を完全に切り分けることは難しいのだ。その人は麻薬に手を出したこともなし、不倫だって多分したことがないだろうが、インモラルな行為をしていなくてもどうしても受け付けない人というのはいる。

 

さらに言うと、世の中には「作者と作品を切り分けられない本」というものがあると思っている。例えばこういうものだ。

 

 こういうものは、小池氏に好感を持っている人しかまず読まない。もちろん色々と味のあることが書いてあるのだが、こういうものはまず誰が言うかが大事だ。銀河英雄伝説の中でヤンがユリアンに「それはアーレ・ハイネセンが言うからこそ意味のある言葉だね」みたいなことを言っているシーンがあるが、名言の多くはそういうものだ。尊敬できる人格とセットでなければ、名言の多くは心に響かない。

 

原則論として、やはり作者の人格と作品とは切り分けるべきなのだろうと思う。しかし近年それが難しくなっているのは、今はツイッターなどのSNSで作者の人柄に触れる機会が多くなっているからだ。作者に幻滅して作品まで読みたくなくなるような事態を避けるには、こちら側でなるべく作者の情報を近付けないような工夫が必要な時代になっているのかもしれない。

『嫌われる勇気』に対する真摯な批判

『嫌われる勇気』の最大の問題点は何か

先日、宇樹義子さんによるこちらのエントリを読んだ。

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このエントリでは、『嫌われる勇気』によって有名になったアドラー心理学のデメリットについて簡潔かつ丁寧に解説されている。このブログでも以前『嫌われる勇気』の気になった点について指摘したが、こちらのエントリの方がまとまっているので『嫌われる勇気』の内容に疑問を持った方はぜひ読んでみて欲しい。

saavedra.hatenablog.com

個人的に宇樹義子さんの上記のエントリでもっとも重要な点は、岸見一郎氏のような「トラウマは存在しない」という主張は、重篤なトラウマを持つ人への二次加害になりかねないという部分ではないかと思う。『嫌われる勇気』を読んでいて一番気になった点もここだ。こちらのエントリでも紹介されている通り、実際に専門家からこのような指摘が出ている。

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人の苦悩に対してどういうアプローチをするのか、<原因論を取るのか、目的論を取るのか>ということと、<トラウマがあるのか、ないのか>という考えを混同しないでほしいと思います。

自分の治療的な立場が目的論<のみ>で(実際にそれでいけるということは、素晴らしいセラピストであるか、重篤なトラウマサバイバーの治療を行なったことがないか、あるいは壮絶な被害を体験した直後の方にも出会ったことがないか、のどれかであると思われます)あったとしても、もし、その治療法のみでうまくいっていたとしても、一般的に「トラウマという現象がない」というような安易な机上の論考をしないでほしいと切に願います。

 

僕は以前、アドラーを愛読しているあるブロガーが「今不幸を訴えている人は、実は不幸に浸ることが好きなのだ」というエントリを書いているのを見たことがある。これはまさに「不幸な人は不幸でいることを選択しているのだ」という『嫌われる勇気』の主張とも重なる。

『嫌われる勇気』の中では、トラウマとは周りの注意を自分に引きつけるために出しているものだ、という目的論の解説が行われているが、これは要するに「トラウマなんて訴える人はかまってほしいだけだ」と言っているのだ。文中ではもう少しマイルドな言い方になっていたが、意味しているのはそういうことだ。

 

これを読んだ人が、「ああそうか、トラウマなんて言ってる人は単に被害者アピールをして自分に優しくしてほしいだけなんだな」と思うことはあり得る。そうした見方が、深刻なトラウマを持つ人にとり二次加害となり得るという懸念があるということだ。

 

目的論が正しいとしても

僕はそもそもアドラーの目的論自体があまり正しくないのではないかと思っているが、仮にアドラーの目的論を正しいとするとしても、岸見氏の書き方に問題があるとする立場もある。元アドラー心理学会会長で現アドラー・ギルド代表の野田俊作氏はこのように指摘している。

 たとえば、岸見氏が、「不安だから、外に出られないのではなくて、外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」という意味のことを言われるのは、理論的にはそのとおりだと思います。しかし、治療現場で患者さんに向かって、「あなたは外に出たくないから、不安という感情を作りだしているんですよ」というようなことを言うのは、ほとんどの場合に反治療的だと思います。アドラー心理学の目的は、「人間を知る」ことではなくて、「人間を援助する」ことです。「人間を知る」のは、あくまで「人間を援助する」ためです。ですから、ものの言い方にはいつも敏感でなければなりません。

 三たび野田俊作氏が口を開く 岸見氏の問題は「手術じゃなくて解剖」 : 正田佐与の 愛するこの世界

 

たとえアドラーの目的論が正しいとしても、今苦しんでいる人に「貴方は自分で不安を作っているだけだ」と直接指摘することが効果的かは別問題だ。野田氏からすると岸見氏のしていることは「手術ではなく解剖」だという。理屈自体は正しくとも、その伝え方には慎重でなければときに「それ以上いけない」という事態にもなりかねない。(『嫌われる勇気』を読んでいるときにも、これは何度も感じた)

 

 人間のために心理学がある。その逆ではない

結局のところ、心理学や自己啓発というのは人を生きやすくするために存在しているのであって、その逆ではない。あくまで主体は人間であり、心理学は道具だ。人間のほうが道具に振り回れるようではいけない。

 人はひとりひとり違う存在だし、そのひとりだって、日々どんどん変化していく存在だ。だから、ままならない自分をなんとかしようとして読んでみた心理学本や自己啓発本がいまいちしっくりこなかったり、あるいは「お前のせいだ」と言われたようで苦しくなったりしたときは、単に「自分に合わなかったのだ」と思って放り投げてしまっていいはずだ。

残念ながら、人生に対する魔法の杖も、唯一解も存在しない。でもそれは逆に言えば、私たちが世の中のあらゆる「正解」から完全に自由であっていいということなのだ。

 なので、宇樹さんのこのスタンスには全面的に賛成する。アドラーを読んで苦しくなる人にアドラーは必要ないし、これは他のすべての心理書にも言えることだ。

 

 なぜ『嫌われる勇気』はここまで売れたのか

こういうことを分析するのは「なぜけものフレンズは大ヒットしたのか」を考えるようなもので、結局後付の感は拭えない。それを承知の上で書くと、この本がヒットした理由は「色々なことを断言してくれているから」ではないかと思う。

世の中には、自分で考えるよりも他人に決めてほしい人の方がが多い。平成ももうすぐ終わろうとしているこの世の中ですらまだ朝の番組で占いコーナーがあるのも、今日着ていく服の色も誰かに決めてほしい人が多いからだ。そうした些事から人生はどう生きるべきかという問題に至るまで、人は権威ある他者の言葉に答えを求める。

 

この点、『嫌われる勇気』はとにかく明快だ。どういう過去があろうがトラウマなんてものはないのだし、全ては自分次第。他人にどう思われようが、そんなことは「他人の課題」なので関係はなし。幸福になりたければ共同体に貢献し、今ここを生きるようにすればいい。実にシンプルでわかりやすい。明快に言い切ってくれている。

 

しかしこうしたシンプルさこそが、実は危険な点ではないかと思う。『嫌われる勇気』では「世界はシンプルで、人生もまたシンプルだ」と書かれているが、それはアドラー心理学のフィルターを通じて見た世界がシンプルだということだ。重篤なトラウマで苦しんでいる人を見ないようにし、共同体に貢献すると言っても共同体そのものが狂っている時はどうすればいいのか?ということを考えないようにすれば、たしかに世界はシンプルだ。法則に合致しない人や事象を視界から外せば、世界は法則通りに運行されているようにみえる。しかしこうした態度は、寝台からはみ出た旅人の脚を切り落とすプロクルステスにも似た暴力性を容易に孕む。

 

人生はシンプルではないし、世界は複雑だ。人はどう生きるべきかということには簡単には答えられない。しかし世の中の不可解さ、わからなさの前に佇むということができなくなっている人が多いのかもしれない。安易なスピリチュアル本などに比べれば、アドラーは人生の難題に対する回答としては上質な部類ではないかとは思う。しかし合わないと感じたら従う必要もないし、捨て去ってもかまわない。

平井堅『ノンフィクション』を聴いた

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優しいというのはこういうことではないか、と思った。


平井堅という人は僕の中ではラブソングの人、というくらいの雑なイメージしかなかったが、この曲でそのイメージは大いに修正された。自ら命を絶った友人のために作った曲らしい。

それだけに内容は重い。しかし、良い。
何が良いと言って、この歌は人間のネガティブな部分も含めて全肯定したい、という意志にあふれているからだ。



一時期、自己啓発書を読みふけっていた時期があった。
それらの本には気持ちを常にポジティブに保っておくことが大事であるとか、プラス思考で考えよだとか、同じ出来事でもそれに明るい意味付けをするようにせよ、といったことがよく書かれていた。


それらも時には大事なことなのだろうし、全否定する気もないが、こうした本は読めば読むほどに違和感が募っていった。なぜ、ここまで人間の負の部分を拒否するのだろう?ネガティブな部分を心の中から完全に追い出せという、ある種の強迫観念にも似たこの押し付けがましさは何なのだろうか?という気持ちばかりが強くなり、いつしかこの手の本は全く読まなくなった。



僕が成功本の類にどこか苦手意識があるのは、「キラキラしていなければ本当の人生ではない」と言った価値観があの種の本の根底にあるからだ。今あなたの人生がうまく行っていないのであれば、この本を読んで自分を変えましょう。本来あるべき栄光を手に入れましょう。そういったメッセージを刷り込まれる。輝いていない今のあなたはダメなんですよ、という前提がそこにはある。



「ノンフィクション」から流れてくるのは、これとは真逆のメッセージだ。成功が全てなのか?といきなり切り込んでくるのだから。描いた夢はかなわないことのほうが多い。それが現実だ。ならば成功を請け負おうとする人々は誇大宣伝をしているのだ。この歌を聴いていると、その手の本を読むよりも、この歌のように「みすぼらしくても欲まみれでも、ただ貴方に会いたいだけ」といったメッセージのほうがよほど大事なのではないか?と思えてくる。成功している自分、ポジティブな自分を手に入れるため努力するということは反面、そうしたネガティブな部分は切り捨てるということでもあるからだ。負の部分も含めて一人の人間であるはずなのに、そこを否定することがほんとうの意味でポジティブだと言えるのか。


自己啓発書に代わり、時おり仏教関係の本を読むようになった。仏教は根本に「人生は苦だ」という見方がある。これが合うかどうかは人によるが、僕なんかはこの価値観だと世の中への期待値が下がってかえって生きやすくなるようなところがある。とにかくこちらを変えてくるよう求められる成功哲学の類よりも、まずは負の部分もひっくるめて自分を認めてしまったほうが楽だ。


とはいえ、100%自分で自分を肯定していくのには限界がある。そういうときに支えになったりするのが文学や音楽の力だ。醜くても正しくなくてもいい、というこの曲のメッセージは、今の自分を受け入れられない人には大いに救いとなるメセージではないだろうか。


高橋祐一『緋色の玉座』感想:スニーカー文庫で読める東ローマの歴史小説

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こういう作品がスニーカー文庫から出るというのがまず驚き。

東ゴートやヴァンダル、ササン朝の地図が見られるラノベはなかなかない。

 

表紙を飾る主人公は東ローマ帝国の名将ベリサリウス(ベリス)で、隣りにいるのがベリスの書記官を務めたプロコピオス(プロックス)。登場人物が全員実在の人物で、脇を固めるシッタスやユスティン(ユスティニアヌス)、テオドラ、アナスタシアなどのキャラクターも魅力的に書き分けられている。

 

本書の特徴は、ストーリー自体は骨太な歴史小説でありながら、キャラクターはラノベであるということ。テオドラの妹であるシアは魔法が使え、これがストーリーにも関わってくる。とはいえそれほど全面に出てくるわけでもなく、ストーリーの核となっているのは主人公ベリスの軍人としての強さと「軍師」であるプロックスの頭脳だ。

 

時代は後に東ローマ皇帝となるユスティンが即位する前の時点から始まる。

戦記ファンタジーらしく冒頭はペルシアとの戦いから始まり、戦争が集結すると一転して帝都コンスタンティノープルで探偵のようなこともやる。ここで後にユスティンの皇妃となるテオドラの怖さも存分に描かれる。まさに魔性の女。

 

そして再びペルシアとの戦いが描かれ、王子であるホスローも登場するが、この王子がまた敵役としての魅力に富んでいる。まだまだシリーズは続くようなので当然決着はついていないが、この先のベリスの戦いについて大いに期待の持てる一巻だった。

 

史実のベリサリウスはユスティニアヌスにとってはまさに至宝とも言うべき家臣で、名称中の名将だ。劉邦にとっての韓信、シャルル五世にとってのデュ・ゲクランのようなものである。しかしベリスの活躍を史実通りに描くなら、結局最期は悲惨なことになってしまうのでは?という危惧もある。とはいえそこは小説なのでうまくまとめてくれるだろう。

 

本作ではベリサリウスの書記官を務めたプロコピオスが軍師役になっているため、そのぶんベリサリウスが純粋な武将タイプと言った感じになっていて、戦士としてもかなり強い。このプロコピオスは『秘史』という書物を著しており、この中では「自ら実見した皇帝と妃テオドラ、将軍と妻アントニナらの悪行を暴露した」とある。そのせいか、本作でもプロコピオスはかなり癖の強い人物になっており、とにかく口が悪い。だがベリスの力量は認めていて、彼がローマ皇帝になることを願っている。

 

 あとがきを見ると、すでに二巻の発売は決定しているようだ。べリスとプロックスが今後どのような活躍を見せてくれるのか、大いに期待したいシリーズだ。