明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

なぜ格言を使う人はおっさん臭いのか

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世の中にはこういう記事がよく出回っている。つまり、みんなおじさん臭いと思われたくないのだ。しかしおじさん臭くないように振る舞おう、と無理して若造りしてしまうあたりがまさにおじさんの悲しさであって、実はそういう行為が一番おじさん臭いような気もする。実年齢がおじさんである以上、おじさんは何をしてもおじさんであることから逃れられない。

 

とはいっても、やはりいかにもおっさん臭い行為というのはある。私が考える一番おっさん臭い言動は、やたら格言を使うことだ。何、仕事で行き詰まってるって?艱難汝を玉にすっていうじゃないか。石の上にも十年だよ。一念岩をも通すんだから一意専心、目の前の仕事に全力で取り組みたまえ。これこそ自分を磨くチャンスだよ。山中鹿之助も我に七難八苦を与えたまえって言ってただろう?これくらいのことが言えれば、立派なおっさんになれるのではないだろうか。

 

ところで、どうして格言を並べるとこんなにおっさん臭くなれるのだろう。説教臭いからだろうか。でも説教臭いのは必ずしもおっさんの属性ではない。まだ若いプロブロガーだって会社に隷属するなとか、もっと自由に生きろとか説教する人もいる。説教臭いだけでは立派なおっさんにはなれないのだ。では、どうして格言で説教するとあんなにおっさん臭いのだろう?

 

ここでちょっと自分語りをする。今よりずっと若いころ、つまりはまだ私がおじさんではなかったころ、私は結婚式場でアルバイトをしていた。ビデオカメラでカップルを撮影する係だった。この仕事中私がよく思っていたのは、最近は新郎もよく泣くんだな、ということだった。男は人前で涙を見せてはいけない、というジェンダー的抑圧から開放されるのはたいへん良いことではある。しかしこの時、ふと私の頭の中にこんな声が聴こえてきたのだ。

 

「まあ、新婦の流す涙は感動の涙だろうけど、新郎の流す涙はもう他の女の子とは遊べないっていう後悔の涙なんだろうなあ」

 

とても妙な感じがした。自分で思い浮かべたことなのに、何かすごい違和感がある。これ、一体誰が喋ってるの?これは本当に俺の考えか?何かが俺の頭を侵食してきていないか?そんな得体のしれない不安に心をつかまれた。

 

今思えば、あれは何かのマンガで読んだ台詞が自動的に頭の中で再生されていただけだったのではないかと思う。それが自分が新郎の涙に対して思っていたこととは違うから、心がある種の免疫反応を起こしていたということだ。自分の考えでもないことに頭を占領させるな、お前はお前だろうが、という警報が頭の中に鳴り響いていたのだ。

 

若い人というのは、自分が自分であることにこだわろうとする。だから、自分とは違う考えが心に侵入してくると、敏感にセンサーが違和感を検知して警報を鳴らす。しかしだんだん世間擦れしていくにつれて、人は世間の言い分を内面化していく。それが社会に適応するということの一側面でもあるし、年をとるにつれて感性がしだいに摩耗していくからどんどん世間の侵入を許してしまう、ということもある。世間に内面を侵食され、そのことに疑いを持たなくなったのがおっさんという存在だ。

 

格言というのは人生の教訓であり指針だ。そういうものを知るのはいい。しかし多くの場合、格言を他人に対して適用しようとするとき、人は複雑な現実を格言の「型」の中に押し込めてしまっている。そこで格言を用いようとするのはそれが権威として確立し、世間に通用しているからだ。人を格言に従わせようとするとき、その人は世間の側に立っている。この自分の言葉で語るのではなく格言に語ってもらうという姿勢が、世間の体現者であるおっさん臭い振る舞いなのだ。そういう私も、電車の中でスマホゲームに興じる若者を見ればそんな暇があるなら本を読め、光陰矢の如しだ、とついつい考えてしまう凡庸で保守的な人間になりつつある。

 

 人は常に自分の頭で考えることができるわけではないし、ある程度までは他人の頭で考えることは仕方がない。それは世渡りのための知恵というものだ。しかし年経りてもうすっかり心を世間に喰われつつあるこの私がこれ以上自分で思考することをやめてしまったら、それこそ正真正銘のおっさんの出来上がりだ。これ以上おっさん化を進行させないためには、手垢のついた格言を安易に用いることをやめなくてはならない。そして、常に学び続けることだ。ヘンリー・フォードも「学び続ける人は、たとえその人が80才でも若いと言える」と言っているのだから。

永田カビ『一人交換日記』最終回に思ったこと

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pixivコミックで連載されていた永田カビさんの『一人交換日記』が11月に最終回を迎えていた。

この最終回は一応ハッピーエンド……なのかな。

読む人によっていろいろと思うところがあるだろうけど、家族との関係が良くなったのならそれはやはり祝福すべきことなのだろうと思う。

「愛がこの病気の薬なら、きっと良くなる」という最後の言葉も、永田さんの心境が好転している証拠だと受け止めたい。

 

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『寂しすぎてレズ風俗に生きましたレポ』については、以前こういう感想を書いた。理由はよくわからないけれど、永田さんには自己肯定力のようなものがかなり不足していて、「感情貯金」が足りないために生きづらいのだ、と自分は感じた。

そんな永田さんもレズ風俗に言ったり、漫画が世間に受け入れられることでしだいに「感情貯金」が溜まってくる。とくに漫画が認められたことは決定的だったらしく、その体験は「甘い蜜が大量に口に注ぎ込まれた」ように感じられたと永田さんは書いていた。

 

ここで終わっていれば、ハッピーエンドで全て良かったことになる。しかし人の人生はどこまでも続いていくし、永田さんの人生にも「その後」がある。人並みの自己肯定感をようやく得られた永田さんがその後どうなったのか?を描いているのが、『一人交換日記』だ。これは『寂しすぎてレズ風俗に生きましたレポ』の続編と言ってもいい。

 

一人交換日記 (ビッグコミックススペシャル)

一人交換日記 (ビッグコミックススペシャル)

 

 この漫画は『レズ風俗』に比べると明確な主張があるわけではなく、どちらかというと「私小説のマンガ版」みたいなものだ。家族との葛藤や孤独の辛さの表現などはあいかわらず巧みで、呼んでいるこちら側もひりつくような痛みを味わう。共感できるところもできないところもあるが、「生き辛さ」を描いた作品として、自分の中では『レズ風俗』とともに長く記憶に刻まれる作品になるような気がしている。

 

実はこの『一人交換日記』の感想を検索しているとき、かなり手厳しい批判を目にした。書いている人はまったく永田さんには共感できないようだった。書いている人は精神的にはかなり健全(という言い方も何だけど)な人のようだった。この漫画は明らかにそういう人に向けては書かれていないと思うのだけれど、話題作になると想定外の読者も読むから、拒否反応が出てくる人もいる。

「この漫画は自己肯定感の高い方には不快な内容が含まれています」というゾーニングは可能だろうか。私はたぶんあまり精神が「健全」ではない方なので、永田さんの描いていることには共感できる部分も少なくなかった。こういうものは正しいとか正しくないとか判断を下すものではないと思っているので、多少なりとも感情移入できる部分があればそれでいいと思っている。

 

こういうものに共感できる人とそうでない人の差はなんだろうか。今十分に人間関係に恵まれている人は、あまりこういう悩みはわからないかもしれない。もっと親から自立しなければいけない、という人もいるだろう。ところで自立とはなんだろうか。最近、こんな言葉を聞いた。

 自立とは誰にも頼らないことではなく、依存先を分散させることだ、ということである。依存先がたくさんあればひとつひとつの関係性は弱くてもいいし、あまり誰か特定の人の顔色をうかがわずにすむ。成長するに従って依存先が親から友人だとかパートナーだとか趣味の集まりだとか、あるいはなんらかのフィクションだとか、次第にバラけていくのが「普通」の人の生き方なのだと思う。

 

漫画を読む限りでは永田さんは親以外との人間関係があまりないようなので、それだけ親からの愛情が多く必要になっている、ということのように思える。永田さんに親から自立するべきだ、という人は誰にも頼っていないわけではなく、うまく依存先を分散することができているために一見誰にも依存していないように見えるのかもしれない。

 

永田さんの漫画は家族のこともそのまま描いてしまうので、漫画を見せられた母親はショックで泣いている(このことも漫画に描かれている)。母親の愛情を誰よりも必要としているのに、生活の糧となる漫画が親を傷つけるかもしれないとなると、これはしんどい。この作風はどれだけ続けられるものなのだろうか?と思っていたらやはりと言うか、永田さんは精神の調子を崩して入院している。この病院の描写もまたしんどい。こういう環境ではちっとも気が休まらないのではないだろうか。

 

私の基本的な人間感として、「人間はわりと簡単に壊れるものだ」というものがある。もちろんその壊れやすさについて、個人差はあるだろう。ただ、やはり人間はカーズ様のような完全生命体ではないので、他者からの肯定や承認がいくらかは必要になる。そういうものがうまく得られない、あるいは得られたと感じることができないとどうなるのか、ということを永田さんの漫画は教えてくれているように思う。

 

今のところ、たぶん私は永田さんほど生きていて辛いわけではない。ただそれは私のほうが頑張っているからとか、精神的に強いからだとか、そういうことではないと思う。知らず知らずのうちに周りからなんらかの感情的報酬を得ていて、そのおかげで壊れずにすんでいるだけのことではないだろうか。本当のところはわからないが、今どうにか生きていられるのは幸運のおかげなのだ、と思ったほうが、他者の痛みには寛容にはなれる。自己責任論を採用してこういう漫画を味わえなくなるくらいなら、自分は運がいいのだと考える方がいい。

ニシンとタラが大航海時代を支え、世界史を作った。『魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ』

 

魚で始まる世界史: ニシンとタラとヨーロッパ (平凡社新書)

魚で始まる世界史: ニシンとタラとヨーロッパ (平凡社新書)

 

 

司馬遼太郎塩野七生の作品を好む人が多いことからもわかるように、多くの人は優れた資質を持つ英雄こそが歴史を動かすと思っている。それもひとつの真実だ。しかし、たとえば『銃・病原菌・鉄』で書かれている通り、資源や環境が歴史を作る要因になっているという観点から書かれた書物も多く存在している。歴史をマクロに見るなら、この観点は外せない。

 

歴史を作るキーアイテムとなったモノは数多く存在するが、本書『魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ』では、その中でも特にニシンとタラに着目したユニークな一冊だ。日本人にもなじみ深いこの魚の群れが、ヴァイキングの大移動やハンザ同盟の興隆、大航海時代の幕開けからアメリカ植民地の発展にいたるまで、深く関わっているということが本書を読むとよく理解できる。

 

なんとなくヨーロッパ人といえば肉食、というイメージがある。しかし魚の需要も馬鹿にはできない。というのは、キリスト教には「フィッシュ・デイ」が存在しているからだ。キリスト教では断食するべき日が決められていて、これが一年の半分ほどを占めているのだが、実はこの日は魚を食べることが許されていた。

キリスト教の断食においては、肉は肉欲と結び付けられるため徹底的に避けるべきものだった。しかしガレノスの体液理論では「熱い」肉とは反対に水の中に棲み「冷たい」魚は肉欲を抑えるためにふさわしい食物と考えられていた。断食の目的は肉欲を抑えることだったため、魚なら食べてもいいというわけである。こうした事情もあり、魚もまたヨーロッパの食卓には欠かせない食べ物だった。

 

このフィッシュ・デイにおいて巨大な需要が生じたのがニシンの塩漬けだった。本書ではヨーロッパ史を魚が動かした例として、まずヴァイキングとニシン漁との関係が語られる。リンディスファーン修道院襲撃に始まるヴァイキングのイギリス襲撃の背景には、実はニシンの回遊コースの変化があったというのだ。魚を主な食料としていたヴァイキングにとり、ニシンは極めて重要だ。イギリスでヴァイキングが定住した地域も、もともとすでにニシン漁が栄えていた地域らしい。だとすれば、ニシンの群れがスカンジナヴィアからヴァイキングをイギリスに呼び寄せたことになる。

 

 ヴァイキングに代わり、バルト海の覇者として台頭してきたのがハンザ同盟だ。ハンザの中心都市であるリューベックの東にあるリューゲン島の岸にはニシンの大群が押し寄せる。ハンザはこのニシンの加工技術を持っていて、塩漬けニシンは樽に詰められてコグ船で各地に運ばれた。一四世紀までのハンザの繁栄を牽引したのは、積載量に優れたコグ船だった。

 

しかし、ハンザの繁栄を支えていたニシンの群れは、一六世紀にはバルト海から北海に移動してしまう。この北海でニシン漁を行ったのが次の海洋の覇者、オランダだ。沿岸部で押し寄せてくるニシンを獲っていたハンザとは違い、オランダは大型のバス船を駆り積極的に魚群を追いかけ、スコットランドイングランドのすぐそばを掠めるように漁を続ける。この「大漁業」によって栄えたアムステルダムは、「ニシンの骨の上に建つ街」と呼ばれることになった。

このオランダの「大漁業」を対岸から指をくわえて眺めているだけだったイギリスがオランダを圧倒するには、オリバー・クロムウェルの登場を待たなくてはならない。後にピューリタン革命で勝利したクロムウェルは航海法を成立させてオランダの中継貿易に大打撃を与えた。オランダはスペインからようやく独立を勝ち取ったわずか4年後に、イギリスに繁栄の座を明け渡した。

 

そして、アメリカ植民地の発展にもまた魚が関わっている。まず大前提として、大航海時代が始まらなければアメリカにヨーロッパ人がたどり着くこともなかったわけだが、この大航海時代を支えていたのもまた魚だった。この時代の航海を支えていた食料は、保存性の高いストックフィッシュ(天日干しにしたタラ)である。長ければ五年は持つストックフィッシュは遠洋航海には欠かせない。

タラに支えられ海を渡ったヨーロッパ人の渡ったアメリカでも、魚が植民地の発展の鍵を握った。ニューイングランドでは冬季にもタラ漁が可能だったため、夏に農業や林業を行い、冬にはタラ漁に出ることができた。やがて西インド諸島で砂糖のプランテーションが確立すると、重労働を強いられる奴隷のために塩辛い食物が必要になり、タラの干物がこの需要を満たすことになる。後にイギリスに産業革命を起こす利潤を蓄えた三角貿易を支えたのも、また魚だった。

 

こうして見ていくと、ニシンとタラという地味な魚がどれだけ深く世界史に関わっているかがわかってくる。シェイクスピア研究者の著者は『テンペスト』のなかに「お前を干し鱈にしてやるからな」という台詞が出てきたことに着目し、それが本書を執筆するきっかけになったと書いているが、歴史の覗き窓とも言える文学の一節から発想を広げ、ここまでダイナミックな世界史を描いてみせる著者の手腕には感嘆する。人物を中心とした既存の歴史書に飽き足らない読者にはぜひおすすめしたい好著だ。

新撰組は「農村的」な組織だった──英雄たちの選択「土方歳三“明治”に死す 盟友・近藤勇の生死を握る決断」

昨日放映された英雄たちの選択「土方歳三“明治”に死す 盟友・近藤勇の生死を握る決断」が興味深かったのでメモしておく。

 

隊士の多くが武士ではなかったがゆえに、誰よりも武士らしくあろうとした集団──新撰組にはそんなイメージがある。しかしこの番組によれば、実際にできあがった新撰組というのはとても農村共同体的なものだったらしい。

新撰組の隊規は厳しく、士道不覚悟は切腹である。処分された隊士は40人ほどにのぼるが、これが本当の武士なら切腹にいたる前に閉門や蟄居など、いくつかの段階がある。これが新撰組だといきなり切腹となってしまうのは、彼等が武士ではないため、差し出せるものが命しかないからなのだ。

 

そして、このような厳しい処分が行われるのも、農村共同体における一種の同調圧力的なものが働いていたからだ、というのが磯田道史氏の指摘だ。彼に言わせれば、隊士が皆で同じ服を来て出動するなんていうのは武士だったら格好悪くてとてもできないことらしい。新撰組は当時の旗本よりもはるかに勇敢だったが、そういう意味では武士らしい集団ではなかった。土方が目指していたのは実際の江戸の武士ではなく、あくまで当人の理想としての武士の姿だろうからそれも仕方がないのだろうけれども。

 

そんな土方が多くの隊士を死に追いやったのは、中野信子氏に言わせれば彼が「愛情深い人だったから」、ということになる。組織を維持するために部下に辛くあたるのは、冷たい人にはできないということらしい。ちょっとよくわからない理屈だったが、それだけ新撰組という組織を愛しているからということなのだろうか。実際、土方が函館で戦っている頃には部下にも優しく接していたようだから、そちらのほうが土方の本性なのかもしれない。『新撰組!』のスピンオフ『土方歳三最期の一日』で山本耕史が演じた土方も部下には慕われていて、新しく新撰組に入隊した隊士が島田魁から「鬼の副長」と言われていた時代の話を聞かされる場面ではとても信じられない、という顔をしていた。

 

この番組では、新政府軍の砲火の前に身を晒して果てた土方の最期を「切腹」と表現していた。この番組では以前、榎本武揚が武士らしく切腹しなかったのは近代国家は刀ではなく法で決着をつけなければいけなかったからだ、と解説していたが、どこまでも武士らしくあろうとする土方にはその選択は取れなかったのだろう。すでに洋式の軍隊を使いこなしていた土方を明治政府が起用していればかなりの活躍が期待できただろうが、たとえば西南戦争で政府軍の指揮官として土方が西郷と戦う場面などはちょっと想像したくないので、やはり土方にはあの最期しかありえない。

「反薩長」の立場からは幕末はどう見えるのか──半藤一利『幕末史』

 

幕末史 (新潮文庫)

幕末史 (新潮文庫)

 

 

半藤一利氏は夏休みになると毎年、体を鍛えるために父の生家である長岡に行かされていたそうだ。ご存じのとおり、長岡藩は河井継之助を先頭に新政府軍に抵抗した藩である。自然、反薩長歴史観を聞かされることになり、それまで学校で叩き込まれていた皇国史観薩長を中心とした幕末史がかなり修正されることになる。

 

こうして「薩長嫌い」になった半藤氏が幕末史をわかりやすく語り下ろしたのがこの『幕末史』だ。前書きでも本人がこれから書くことは「反薩長史観」と断っている通り、本書は類書に比べて薩長には厳しい立場だ。しかし幕府や会津が正しかったとしているわけでもなく、特に慶喜にはかなり手厳しいことも書いている。全体として、公平な記述という印象を受ける。

 

「反薩長」の半藤氏からは、戊辰戦争などはする必要のない、馬鹿馬鹿しい戦いだったとうことになるらしい。半藤氏に言わせれば、倒幕に反対していた龍馬を暗殺した黒幕も薩摩だということになる。明治天皇本人も知らない討幕の密勅を作り上げ、クーデターを起こした薩長からすれば確かに龍馬は邪魔になる。

新政府軍が「官軍」と名乗っていることにも半藤氏は怒りを隠さない。そのため、本書ではあくまで新政府軍を「西軍」と書いている。なんら正当性のない「西軍」が幕府側の「東軍」と戦ったのが戊辰戦争の実態だ、ということで、どの藩もそれこそ関ヶ原の戦いのように西軍と東軍のいずれに付くか迷っていた、とも書かれている。多くの人は薩長が徳川に代わって新しい幕府を作るぐらいの認識だっただろうから、実際そんなものかもしれない。本当かはわからないが、島津久光が「儂はいつ将軍になれるのか」と言ったというエピソードも本書では紹介されている。

 

そもそも薩長の側からして、倒幕後の青写真を全く描けていなかった、と半藤氏は言う。だからこの『幕末史』は戊辰戦争では終わらず、明治政府が廃藩置県や徴兵令などの改革を次々と打ち出し、西南戦争が終わるところまでを描いている。ここでようやく「幕末」が終わった、というのが半藤氏の認識なのだ。士族側の最後の抵抗が西南戦争だとも言えるから、確かにここまで書く必要はある。

その西南戦争を起こした西郷隆盛は半藤氏から見ると日本の毛沢東、ということになる。詩人で革命家で農本主義者、と言われれば共通点がないこともない。人間像はだいぶ異なっているとは思うけれども。とはいえ半藤氏は別に西郷を嫌っているわけではなく、むしろかなり好きであるらしいことは文面から伝わってくる。反薩長とは言いつつもこうした個人的な好悪がにじみ出てくるあたりはプロの歴史家でない人の書くものの面白みだ。

 

まえがきで半藤氏が司馬遼太郎の「幕末のぎりぎりの段階で薩長というのはほとんど暴力であった」という台詞を引用しているが、それがどういう意味なのか、が本書を読んでいるとよくわかる。よく司馬史観薩長を持ち上げすぎだとか言われるが、司馬自身も薩長の暴力性はよく理解していたのだ。司馬の編集者も担当していた半藤氏の描く幕末史も、その見方を受け継いでいる。

薩長が幕末において振るった「暴力」は、振るう必要のない暴力だっただろうか。廃藩置県が成功した要因として、よく「多くの藩が戊辰戦争で財政的に窮乏し、抵抗する力がなかったからだ」と指摘される。もし戊辰戦争が起きていなければ、藩には近代化に抵抗する力が温存され、廃藩置県はスムーズに進まなかったかもしれない。こんなことを考えてしまうのも、半藤氏に言わせればそれだけ薩長を中心とした歴史が刷り込まれているからだ、ということになるのかもしれない。半藤氏が言うとおり、歴史とは多くの見方ができるものだから、時には本書のような「反薩長」の側から見た幕末史を知ることも有益だろう。

西郷隆盛の銅像の謎から最後まで1冊でわかる『西郷どんと呼ばれた男』

 

西郷どん(せごどん)とよばれた男

西郷どん(せごどん)とよばれた男

 

西郷隆盛銅像の謎

 

大河ドラマの予習をする場合、やはり時代考証を担当している人が書いたものを読むのが間違いがない。その意味で、2017年大河『西郷どん』の時代考証を担当する著者の書いた本書は安心して読める。

 

本書の面白いところは、まず西郷隆盛の容姿から話が始まっているところだ。

西郷隆盛の写真が残されていないため、西郷の容姿は有名な上野の銅像を誰もが想像する。しかし、あの銅像を見て「こげんお人じゃなかった」と言った人がいる。

 

こう言ったのは西郷の3人目の夫人、糸だ。この話は作家の海音寺潮五郎が西郷の孫に当たる西郷吉之助から聞いた話ということで、西郷像は実際の西郷隆盛には似ていない、という説の根拠になっている。

 

しかし本書によれば、糸の言った「こげんお人じゃなかった」というのは、「容姿が似ていない」という意味ではないようだ。糸が言っているのは「夫はあんな無様ななりで人前に出ることはなかった」ということであって、容姿のことではない。

作者の高村光雲は本当は陸軍大将の服を着ている姿にしたかっのだが、建設委員に一時は賊軍の大将だった西郷が軍服を着ているのは穏やかではないと言われ、結局ウサギ狩りをしている姿になった。糸夫人からすればそれが良くなかったらしい。似ているからこそ普段の姿と違う銅像が残ってしまうのが嫌だったのだろう。

 

海音寺潮五郎は西郷に最もよく似ていると言われた孫の西郷隆治氏を電車の中で見かけたときのことを「あれほど見事な男ぶりの人を見たことがない」と述懐している。178センチの(当時としては)巨漢で目鼻立ちのはっきりした西郷は、風貌だけでもずいぶんと目立つ人だっただろう。

 

 剣術を諦めた少年時代

これだけ体格に恵まれていたのだから、西郷が武道の道に進む可能性もあったかもしれない。西郷は御小姓与という、薩摩の身分制度では下から2番めの身分になる。しかし、龍馬が千葉道場に入門したように、身分が低くとも剣や学問に秀でることで身分の壁を超えることもできなくはない。

だが、西郷は剣の道に進むことはできなかった。西郷の評判を妬んだ横堀三助が西郷に斬りかかり、右肘を痛めてしまったからである。これでは示現流も存分に使うことができない。結局、西郷は剣の道は諦めて学問で身を立てることを願うようになる。

 

その際号が最初に就いた役職が郡方書役助である。郡方書役は農政にかかわる役人で、その年の年貢を決める権限を持っている。西郷の仕事はその助手だ。ここで西郷は、優れた上司である迫田利済の影響を大いに受けることになる。

農民を思いやる気持ちの強い迫田は台風の被害の強い年に薩摩藩に減税を願い出ているが、聞き届けてもらえなかったために辞職している。この時西郷もともに辞職を願い出ようとするが、迫田は職に留まって民のために力を尽くせと諭したという。結局、西郷はこの職を十年間務めた。

 

郡方書役助として働くかたわら、西郷は青少年の教育係のリーダーである二才頭を務めている。西郷は朱子学の入門テキストである『近思録』を購読する会をしばしば開いていたが、この購読会は後に「誠忠組」として薩摩の藩政を動かしていく存在になる。

 

島津斉彬に才能を見出される

こうして農民の窮状を自分の目で見た経験が、やがて西郷を歴史の表舞台に引き上げていくことになる。西郷が最初に藩に出した意見書は、薩摩のお家騒動「お由羅騒動」に関するものだった。斉彬の藩主就任を邪魔した者たちを斉彬が罰しなかったことを、西郷は批判したのである。

斉彬はこの意見書に対し、丁寧な返答を送っている。一下級藩士の意見に真剣に向き合おうとする斉彬は、西郷の農政批判にも目を通している。郡方書役助としての経験がここで活きることになった。西郷の批判は「この国ほど農政が乱れているところはない」というほどに厳しいもので、江戸で生まれ育った斉彬には薩摩の実情を教えてくれる西郷の存在は貴重だったと本書では指摘されている。

 

ペリーが来航し、阿部正弘に要請されて出府することになった斉彬は西郷を伴に加えることになった。そして江戸で西郷が任じられたのが「御庭方役」である。表向きは植木職人のような仕事だが、庭で直接斉彬と接することができるためスパイ的な役割を背負ったとも言われている。

西郷と直接接するようになった斉彬は、藤田東湖など他藩の人間に積極的に西郷を紹介している。江戸で見聞を広めた西郷はやがて斉彬の意を受け、一橋慶喜を将軍の座につけるため活動することになるのだが、斉彬の死と井伊直弼の台頭のため、この計画は中座してしまう。雄藩との協力で国難に対処しようとしていた阿部正弘の路線を、井伊直弼は認めない。水野忠邦のように雄藩を抑圧し、再び幕府が政治の主導権を握ることを井伊は目指していた。

 

井伊の引き起こした安政の大獄で西郷も窮地に追い込まれ、勤皇派の僧月照にも追求の手が伸びてきた。薩摩藩は西郷に月照の殺害を命じるが、斉彬が死んだときに殉死しようとした西郷を止めてくれた月照を西郷は斬ることができない。

結局月照とふたりで入水して果てようとした西郷だったが、自分だけが蘇生してしまい、生き残った西郷は奄美大島への潜伏を命じられることになる。

 

奄美大島で見た薩摩の圧政の実態

奄美大島で西郷が過ごした3年間は、西郷にとり最も私的には充実した期間だったという。二人目の妻である愛加那をこの地で娶り、島民からも慕われている。

西郷がこの島で見たものは、薩摩の圧政に苦しむ島民の姿だった。奄美大島の特産物は黒糖だが、この黒糖を専売にすることで薩摩の財政は支えられていた。

ある時この黒糖を持ち出したとして、島民が拷問を受けた。自らが関わった篤姫の輿入れや慶喜擁立には多くの工作資金が必要だったはずで、その活動が島民を苦しめていたのだ。西郷は役人と直談判し、この島民を釈放させている。農政の役人がキャリアの始まりだった西郷は、島民の実情に心を痛めていたに違いない。

 

西郷の召喚と寺田屋事件

 しかし、この島での生活も長くは続かなかった。井伊直弼に反発し薩摩で勢力を強めた誠忠組の暴発を抑えるため、大久保利通が西郷を呼び戻すことを島津久光に願い出たからである。

西郷をリーダーと仰いでいる誠忠組を抑えられるのは西郷しかいない。ようやく帰還した西郷は、斉彬の遺志を継いで出府しようとする久光を「地ゴロ(田舎者)」と批判した。

これは藩主だった斉彬とは違い、「国父」でしかなく江戸で活動したこともない久光の弱点を正確に衝いたものだが、人は本当のことを言われると怒るものだ。久光は明治19年、この時から25年後にも史料編纂員にこの話を語っているが、いかに久光の怒りが大きかったかがわかる。

 

結局久光は兵を率いて京へ向けて出立するのだが、これが各藩の攘夷派を勢いづかせる結果となり、多くの者が京へと向かった。西郷は彼等の暴発を抑えるため京へ急いだが、命令を無視して西郷が九州を離れたことに久光は激怒する。

久光の出府は公武合体のためではなく倒幕のためだと思いこんでいる誠忠組過激派も、自分に全て任せて待てという西郷の説得を聞き入れたものの、久光は西郷の行動を扇動だと思いこんでいた。西郷が薩摩に戻った後、久光は寺田屋に集まっていた攘夷派を粛清し、薩摩藩士同士が殺し合う結果となった。幕末最大の悲劇、寺田屋事件である。

 

沖永良部島への流罪から長州征伐

 罪人となり沖永良部島へ流罪が決まった西郷は、今度は四畳一間の空間で過酷な牢獄生活を強いられることになる。西郷のいない間、薩摩は久光の引き起こした生麦事件をきっかけにイギリスと戦争になり、鹿児島城下の一割が焼失した。

しかし薩英戦争は薩摩の一方的敗北だったというわけでもなく、実際には世界最強のイギリス艦隊も多くの死傷者を出し、横浜へと撤退している。ニューヨーク・タイムズはこの戦争を「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ」と報じている。

 

京都では八月一八日の政変が起き長州が京都政界を追放されるが、寺田屋事件で多くの志士を殺害した薩摩の失った信用は大きい。失地回復を図るために結局西郷の力が必要になり、再び西郷は久光に召喚されることになる。

愛加那に終の別れを告げ、京に戻ってきた西郷の最初の仕事は、密貿易で儲けている薩摩への反発を和らげることだった。すでに資本主義の海に投げ込まれていた日本からは綿や茶の輸出量が増加し、これらの物品の価格が上昇していたが、その原因が薩摩に帰せられたのである。西郷は薩摩商人の取り締まりを命じてこれに対処した。

 

そして、池田屋事件をきっかけに蛤御門へ攻め寄せた長州兵を西郷は撃退している。この戦いは西郷の名を大いに高めた。その後、第一次長州征伐で交渉役を任された西郷は尾張藩主・徳川慶勝に戦わずに恭順させることが良策だと訴え、結局長州は戦わずして降伏している。

西郷は最初は長州と戦うことを訴えていたのだが、それは西郷のブラフであったとも言われる。なんとなく人格者のようなイメージのある西郷だが、この時点での西郷は一流の策略家だ。そして、「薩賊会奸」と下駄の裏に書いて歩くものがいるほど反薩摩の感情が強い長州に乗り込む西郷は、人並み外れた胆力の持ち主でもある。今後、西郷は要所要所でこのインテリジェンスと胆力を何度も発揮することになる。

 

薩長同盟から倒幕まで

西郷と坂本龍馬との関係は、勝海舟の海軍操練所が廃止されたために西郷に龍馬が援助を求めてきたことに始まる。歴史家の磯田道史は、龍馬の真価を「坂本海軍」を創設したことだと『龍馬史』で評しているが、この頃航海士の不足していた薩摩にとって龍馬の持つ航海技術は確かに必要なものだった。

 

家老の小松帯刀とともに亀山社中の設立を助けて龍馬との関係を深めた西郷は、結局龍馬の仲立ちで薩長同盟を成立させることになる。薩長同盟が成立した三日後、寺田屋で幕府の役人に襲われ負傷した龍馬に霧島での療養を勧めたのは西郷だったと言われるが、本書によれば実際に勧めたのは小松帯刀だったらしい。

 

薩長同盟が成り、薩摩を失った幕府は第二次長州征伐に失敗した。幕府の弱体化を見て取った西郷は、倒幕も視野に入れて行動するようになる。大政奉還が成ってもまだ幕府の力を奪うには不充分であるから、小御所会議では慶喜の辞官と領地返還に反対する山内容堂を抑えるため、休憩時間に助けを求めてきた薩摩藩家老に「いざとなれば短刀一本あれば片付く」と言ったとも伝えられている。この発言が土佐藩に伝わったため、会議が再開された後は反対は出なかった。

 

 慶喜は一度江戸に戻ってしまうが、西郷が江戸に送りこんだ益満休之助が江戸を撹乱したため、怒った慶喜は薩摩を討つため京都へ進撃することを決める。この西郷の活動には本書では触れていないのだが、西郷を「偉人」として書きたかったためだろうか。いずれにせよ、西郷の挑発に乗せられた慶喜は錦の御旗を見て戦意を喪失してしまったため、鳥羽・伏見の戦いは幕府の敗北に終わった。歴史家の井上清はこの間の西郷の働きを「西郷の大謀略」と評している。こうした容赦のない策士としての働きも、西郷の一面であることは間違いない。

 

日本史最大の奇跡・廃藩置県

 

勝海舟との会談で江戸城無血開城させた後、西郷は奥羽戦争でも指揮を採っているが、庄内藩の処置をすませるともう自分の仕事は終わった、と薩摩に帰っている。しかし、明治政府は西郷の胆力をまだ必要としていた。

倒幕後の青写真を何も描いていなかった薩長にとり、むしろここからが明治維新の本番だと言ってもいい。何しろ藩はまだそのまま残っている。これを解体してしまわない限り、本当に幕府を倒したことにはならない。

 

廃藩置県を実行する前に、まずは明治政府の軍隊が必要になる。この兵はいざとなれば島津の殿にも弓を引かねばならない、という山県有朋の念押しをあっさり承諾し、西郷は御親兵1万を組織する。どこの藩のものでもない天皇直属の軍隊を作った西郷は、この力をバックにいよいよ廃藩置県へと踏み出すことになる。

 島津久光をはじめ、全国の大名からの強力な抵抗が予想されたが、結局「もし暴動が起きたら自分が鎮圧する」という西郷の一言が後押しとなり、廃藩置県は発布された。パークスに言わせれば、欧州では数年間戦争をしなければできないような大改革が、血を流すことなく成し遂げられた。西郷の胆力と人望なくして、この大改革は不可能だっただろう。

 

そして、西郷は徴兵令にも手をつけている。戦争のプロであるはずの武士を解雇することになるこの政策には抵抗が大きく、実際にこの政策を進めていた山県有朋は一度は辞職せざるを得なかった。しかし、西郷が「この上なお山県中将の責任を追求するなら、この西郷が相手をする」と言ったことによって反対派の勢いが急に衰えている。ここでも西郷の権威は必要とされていた。こうして自らが作り上げらた近代的軍隊と、いずれ西郷は西南戦争で戦わなければいけないことになる。

明治六年の政変から西南戦争まで

 「西郷は征韓論など唱えていない」という主張がある。本書もその立場だ。というのは、朝鮮に対して武力行使を行うべきだという主張に対し、あくまで礼儀正しくこちらの意図を説明するべきだと主張したのが西郷だ、というのである。このような西郷の立場を、本書では「遣韓論」と説明している。

自分に護衛兵を付けることにすら反対したこの時の西郷は、第一次長州征伐の折に交渉のため敵地に乗り込んだときの姿に重なる。胆力が服を着て歩いているような西郷ならではの提案だが、この「遣韓論」は大久保利通に阻止され、西郷は下野することになった。

 

再び薩摩に帰った西郷は私学校の吉野開墾社を設立し、自らも鍬を握っている。若い頃農政の役人だった西郷にとり、殖産興業を盛んにしようとする大久保のやり方よりも農業に力を入れるほうが性に合っていたらしい。この間、西郷は大山巌から欧州訪問の誘いを受けているが、断っている。西郷が一度でも欧州の繁栄を見ていれば大久保の政治姿勢も理解できたかもしれないし、西南戦争も回避できたかもしれないが、西郷にとっては遠い海外の地を踏むよりも目の前の大地を耕し、若者を指導することのほうが大事だった。

 

西郷が下野してからも廃刀令や家禄の支払いの中止など、武士の誇りと生活の糧を奪う政策が実施されている。士族の多い私学校の生徒は当然不満をつのらせ、西郷に期待を託すようになる。私学校の影響力を恐れた政府は密偵を送り込むが、私学校の生徒に捕まった密偵は西郷を暗殺する計画があったと白状してしまう。

これを聞き、生徒達が県内各地の施設を襲撃し、明治政府が差し押さえようとしていた武器弾薬を奪ったことがきっかけで、西郷は決起せざるを得なくなる。生徒達を政府に犯罪者として引き渡さないのなら、自らが彼等のリーダーとして挙兵しなくてはならない。

 

ここで西郷は、「おいの身体は差し上げもそ」と言っている。この言葉を、著者は「西郷が自己決定を諦めた結果」のものだと説明している。実際、西南戦争において西郷は作戦を立てることもなく、陣頭で指揮を採ってもいない。戦うのは本意ではなかったということになる。

では、西郷はなぜ戦ったのだろうか。ここから先は憶測だが、西郷は廃藩置県や徴兵制など、武士の特権を剥奪する改革に深く関わっている。近代国家を作るために必要なことだったとはいえ、西郷の力が日本から武士階級を消滅させることになったとも言える。

そのことに対し、西郷なりに責任を感じていたのではないだろうか。だから、西郷は士族の多い私学校の生徒たちの不満を一身に引き受けなくてはならなかった。しかし武士階級の軍隊も装備の優れた明治政府の兵士に勝つことができず、西郷は城山で別府晋介に首を打たせて果てた。武士が徴兵された百姓や町人の兵士に敗れ去った西南戦争で、ようやく封建制の最後の抵抗が終わった。西郷隆盛は文字通り、明治のラスト・サムライだった。

 

西郷隆盛という人物をどう評価するか

個人的に幕末史に疎いこともあり、西郷隆盛の一生を追うのはけっこう骨が折れた。「敬天愛人」のような言葉を好んでいたことにも見られるように、「偉人」「哲人」のようなイメージのつきまとう西郷なのだが、その一生を眺めてみると、まず際立っているのはそのとてつもない胆力だ。そしてその胆力が優れたインテリジェンスを活かすのに役立っている。松平春嶽徳川慶喜を評して「才知が優れていても胆力がなければ意味がない」と言っていたそうだが、西郷はその両方に恵まれていた。こうした力が、明治維新の推進力になっている。大きすぎる人望の影に、こうした能力が隠れて見えにくくなっているという印象がある。

 

西郷の扱いは、中国史における劉邦劉備の扱いに近いのではないかと思う。人望があるために多くの人に慕われる、みたいなイメージなのだが、実際のところ、動乱の時代に人望だけで人を動かしていくことなど不可能だ。実際は劉邦劉備もかなり有能な人物だったのではないかと思う。西郷の人望がずば抜けていたことは間違いないのだが、それ以上に西郷は有能な指導者であり、革命家だった。

 

 このような西郷が、明治の世を平穏に生きていく術はなかったのだろうか。あまり論理的ではない言い方になるが、歴史はそれ自体が意志を持っている、と言われることがある。時代が必要としているうちは、その人物の役割を歴史が用意するのだ、ということである。歴史が最後に西郷に与えた役割とはなんだろうか。西郷は西南戦争の折、徴兵制で作り出された明治政府の軍隊の戦いぶりを見て、「よく戦っている」と言ったともいわれている。西郷は自らが作り出した近代国家の軍隊に時代の主導権を渡すことで、ようやく「幕末」の幕を引くことができた、ということなのかもしれない。

おんな城主直虎「信長、浜松来たいってよ」信長被害者の会が団結する熱い展開に唸らされる

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最近、このドラマには本当に毎回驚かされる。

 

歴史ドラマの難しいところは、結末を皆が知っているということだ。

真田信繁大阪夏の陣で死ぬことも、信長が本能寺で討たれることも、知らない人はいない。

だから大河ドラマの脚本は、そこに至るまでの過程をどう描くか、が勝負になる。

 

本能寺の変など、今まで大河ドラマでは何度も見てきたし、視聴者もそろそろ飽きている頃合いではないかと思う。

だから、ここは生半可な演出では目の肥えた視聴者を満足させることはできない。

いつも通り光秀が信長に足蹴にされていたり、金柑頭と罵られて恨みを募らせていくところを今さら見せられても仕方がないのだ。

 

そこで、このドラマでは驚いたことに、信長が家康を京に招いた上で家臣ともども皆殺しにする、という計画を立てていることにした。これに対して家康側が逆襲を仕掛ける、というのが今回のドラマの筋書きだ。

この信長の計画をここで突然持ち出されたら、いかにも不自然に感じる。しかし、信康事件からずっと「魔王」としての信長の残酷さを執拗なまでに描いてきたこのドラマでは、信長が家康の謀殺を企んでいてもなんら不自然には感じない。今までの伏線が見事に効いている。この信長なら武田を滅ぼして用済みになった家康を暗殺するくらい平気でやるだろう。

 

saavedra.hatenablog.com

光秀と家康の間を氏真が繋ぐのもうまい。

高い教養を持ち、古典に通じていた氏真が同じく教養人の光秀と京で交流するうちに親交を深め、光秀に信長の計画を打ち明けられるまでになるという展開にも無理はないし、表向きは信長に媚びながらも復讐の機会を狙っているこの氏真には凄味を感じる。

今までは単に暗愚な人物としてしか描かれてこなかった今川氏真を、こういう陰影に富んだ人物に作り変えただけでもこのドラマの功績は大きい。今川の文化力が、ここに来てちゃんと役に立っているのだ。

 

そして、その氏真とも直虎は信長を討ちたい、という思いを共有している。

氏真と直虎と家康は、いわば「信長被害者の会」だ。信長に恨みを持つものなど無数に存在するのだが、中でも氏真と家康の怨念は群を抜いて強いものだろう。

しかし、ただの私怨ではドラマに芯は通らない。家康の怨念に「戦のない平和な世を作る」という大義名分を与えるのが直虎の役目だ。弱小の国衆として、今川に苦しめられ続けた直虎がこれを言うからこそ、この台詞は見事に重いものとなる。

直虎の言葉は、戦国の世で虐げられたすべての者達の言葉でもあるだろう。その願いに応えようとするからこそ、家康は天下人の器なのだ。

 

氏真と直虎、徳川四天王、そして今は亡き瀬名と信康の思いを背負い、家康はいよいよ本能寺に向かうことになる。本能寺の変は家康にとり「起きる」ものではなく、「起こす」ものになったのだ。

今まで積み重ねてきたドラマの全てが、本能寺へと向けて収斂しはじめている。

今まで溜まりに溜まった信長への怒りが、ついに解放される。

本能寺の変をここまでポジティブに描いた大河は、他にはないだろう。

今回の展開で本能寺の変の意外な解釈を提示したことで、「おんな城主直虎」は、またひとつ新しい時代劇の可能性を我々に示してくれた。これを観た後では、作者は「この題材はもう手垢がついているから」という言い訳をすることができなくなる。

同じ題材でも切り口次第でまだまだ面白い見せ方は可能だ、という事実を、目の前で証明してしまったからだ。