明晰夢工房

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歴史小説のおすすめ本を20作選んでみる(戦国時代編)

戦国時代という素材は小説ではすでに書きつくされているような印象もありますが、探せばまだまだ面白い作品が見つかるものです。ここでは戦国時代を扱った小説本でおすすめの作品を15作選んでみました。

1.国盗り物語

  

 

司馬遼太郎の戦国時代の作品はたくさんありすぎてどれを選んでいいか迷いますが、2020年の大河ドラマ明智光秀を主人公とする『麒麟がゆく』に決まったので光秀も多く登場するこの作品を選んでみました。物語前半は斎藤道三が主人公ですが、頭が切れて戦にも女にも強い道三の活躍ぶりは圧倒的で、チート能力持ちのウェブ小説の主人公の原型にすら思えてきます。作品としては古いのにリーダビリティがとても高く、時代を経ても全く色あせない魅力があります。司馬作品は後期の作品は小説というよりも史伝という感じのものが多いですが、この時期の作品には本当に小説らしい躍動感があるので強くお勧めします。

 

2.のぼうの城

  

のぼうの城 上

のぼうの城 上

 

  

のぼうの城 下 (小学館文庫)

のぼうの城 下 (小学館文庫)

 

 

野村萬斎主演の映画も話題となった作品。この作品のおかげでマイナーだった忍城もすっかり有名になりました。北条家の一支城にすぎない忍城を治める「のぼう様」成田長親とその家臣たちが力を合わせて石田三成率いる二万の軍勢に立ち向かう、というストーリーですが、登場人物の口調がどこか現代的です。おそらく若い層に手にとってもらうことを意識しているのでしょうが、そのためか40万部を超えるベストセラーになりました。坂東武者の意地と誇りを賭けた戦いは王道ながら胸を熱くさせるものがあり、ラストシーンも清々しい余韻を残します。

 

3.影武者徳川家康

 

 

60代に入ってシナリオライターから作家に転じ、以後生み出す作品のすべてが傑作となった奇跡の作家・隆慶一郎。本作の主人公・世良田二郎三郎も『一夢庵風流記』の前田慶次郎と同様、隆慶一郎の得意とする「いくさ人」です。長年家康の影武者を勤め上げたために家康と同様の思考法を身に着けているため、家康暗殺後も家康になりかわり生きなくてはならなかった二郎三郎の活躍を描く物語ですが、本作の大きな特徴として、司馬作品などでは凡庸に描かれがちな徳川秀忠がとにかく陰湿であることがあげられます。一説にはこの作品が原因で信長の野望の秀忠の「智謀」の数値が高くなったとまで言われるほど。秀忠率いる柳生一族と主人公の味方である島左近や風魔忍軍の戦いは圧倒的に面白く、全3巻の長さにもかかわらず一度読みだしたら止められなくなることは必至。この作品とリンクしている『捨て童子・松平忠輝』も強くお勧めします。

 

4.嗤う合戦屋

 

哄う合戦屋 (双葉文庫)

哄う合戦屋 (双葉文庫)

 

  

一騎当千の武将でもあり天才的な軍略家でもある石堂一徹の北信濃での活躍を描く物語──なのですが、本作の裏のテーマは「男の嫉妬」にあるでしょう。一徹の仕える主君である遠藤吉弘はそれなりの器量の持ち主で、ある時期までは一徹をうまく使いこなしていたのですが、一徹が家臣として力を発揮すればするほど自分をしのぐその力量が恐ろしくなってしまうのです。この吉弘の疑念がやがて一徹にある重大な決断を迫ることになりますが、それは読んでのお楽しみです。この「君臣間の不和」は著者にとってのテーマなのか、続編の『奔る合戦屋』でもストーリーが同じ構成になっています。武田信玄も登場するので、戦国期の甲信越に関心のある方にもおすすめです。

 

5.戦国鬼譚 惨

  

戦国鬼譚 惨 (講談社文庫)

戦国鬼譚 惨 (講談社文庫)

 

 

大国に翻弄される小国の悲哀、国衆の立ち向かう試練の厳しさを書かせたら伊藤潤氏の右に出るものはいません。キレのある歴史短編を得意としている著者ですが、本作ではその技術の粋を堪能することができます。タイトルから想像されるとおり、この作品には戦国の成功者は誰も出てきません。登場するのは大きな時代のうねりの中で苦悩する国衆や弱小勢力ばかりです。生き残るための必死の努力が悲劇的な結末を招く「木曽谷の証人」、緊密な構成が光る「要らぬ駒」、化物めいた武田信虎の晩年を描く「画龍点睛」など、すべての短編が名作。

 

6.決戦!川中島

  

決戦!川中島

決戦!川中島

 

 川中島の戦いをテーマとしたアンソロジー集です。上杉謙信を描く冲方丁氏の力量は流石に高いと感じましたが、個人的には木下昌輝氏の「甘粕の退き口」がおすすめです。文体が美しいことに加え、理想家である謙信が家臣の視点から見るとこうなるのか、という新しい視点が得られるからです。戦国時代はもうあらゆる題材が書きつくされたと感じていましたが、見せ方次第ではまだまだ新しいものが書けるのだなと感じました。この本については以下でもレビューしています。

 

saavedra.hatenablog.com

 

7.でれすけ

 

でれすけ (文芸書)

でれすけ (文芸書)

 

 

ひたすらに苦い話です。主人公は常陸の名門の当主・佐竹義重ですが、この作品では義重の戦場での活躍や謀略家としての凄味を見ることはできません。戦国の世が終焉に向かう中、豊臣政権からの重圧が重くのしかかる常陸でどう生き抜くか、という、世知辛さが繰り返し描かれます。佐竹家の黒歴史として知られる南方三十三館の仕置きもこの流れの中で独自の解釈で書かれており、これが佐竹家にとっての苦渋の選択だったことになっています。

義重の息子の義宣は「律義者」と言われていますが、それは豊臣政権にとって律儀ということであって、どこまでも坂東武者でありたい義重と義宣は相容れません。この父子の節の相克もこの作品のテーマのひとつですが、時勢とは言え豊臣家に追従し武士らしさを失っていく義宣についていけない義重の立場には同情を禁じえません。関ヶ原の戦いが終わり、国替えを命じられた「鬼義重」が最後に臨んだ戦いとは何か?──苦さの極まるラストシーンですが、これもまた戦国を生き抜いた武士の直面した現実です。

 

8.忍びの国

 

忍びの国 (新潮文庫)

忍びの国 (新潮文庫)

 

 

武士の誇りなどどこ吹く風と、ひたすら銭と私利私欲のために動く伊賀忍者。一族の間ですら裏切りが常習化していて、誰も信用することができない。本作の主人公の無門もまた、そんな殺伐とした世界を生きています。自分のことしか考えない無門は、伊賀に攻め入ってくる織田信雄の軍勢を前に逃げ出そうとしますが、妻のお国のある作戦により心変わりし、織田軍を敵に回して戦うことになります。戦いの果てに無門が見たものは何か? それは、妻であるお国への想いでした。何もかもが嘘ばかりであるこの世界の中で、ただお国への気持ちだけが本物だった、という部分がこの荒涼とした世界に救いをもたらしています。『のぼうの城』が気に入った方にはこちらもおすすめできます。

 

9.黎明に叛くもの

 

黎明に叛くもの (中公文庫)

黎明に叛くもの (中公文庫)

 

 

ファンタジーノベル大賞出身の作者だけあって、戦国ファンタジーとも言うべき雰囲気を持つ作品。主人公は斎藤道三松永久秀ですが、この時代を代表するこの二人の梟雄が実は西方の秘術を伝えられた兄弟弟子という設定になっています。戦国時代のヒールと言えるこの二人の視点から紡がれるストーリーは妖しくもどこか儚く、無常観も感じさせます。歴史小説というよりは伝奇小説の色が濃いですが、奔放な想像力を活かした作品を求める向きにはおすすめです。

 

10.城を噛ませた男

  

城を噛ませた男 (光文社時代小説文庫)

城を噛ませた男 (光文社時代小説文庫)

 

 『戦国鬼譚 惨』同様抜群のキレのある伊藤潤氏の短編集。真田昌幸の軍略の冴えを存分に味わえる『城を噛ませた男』が白眉でしょうが、戦国鬼譚とは違い『鯨の来る城』のような爽快な読後感の作品も収録されています。『見えすぎた物見』は弱小の国衆の悲哀を描いた作品ですが、こうした弱者の視点から戦国時代を活写する手腕は『戦国鬼譚』同様に巧みで、戦国小説に新たな視角を与えてくれます。

 

11.軍師の境遇

 

軍師の境遇 新装版 (角川文庫)

軍師の境遇 新装版 (角川文庫)

 

松本清張の描き出す黒田官兵衛が主人公。古い作品なので斬新さはありませんが、オーソドックスな黒田官兵衛の活躍が楽しめます。煮え切らない主君である小寺政職の家臣として主君を信長側に付くよう説得する場面などは見てきたような説得力があります。司馬遼太郎の『播磨灘物語』も同じく黒田官兵衛が主人公ですが、こちらのほうが短くてシンプルです。

 

12.利休にたずねよ

 

利休にたずねよ (PHP文芸文庫)

利休にたずねよ (PHP文芸文庫)

 

 

多くの戦国小説が合戦や謀略など「動」の世界を描く中、これはひたすらに茶道という「静」の世界を描く異色作です。千利休とその周囲の人物を描く群像劇となっていますが、様々な人物の視点を通じて利休という人物がどういう人だったのか、立体的に浮かび上がるという構成になっています。文体も芸術的で、不思議と読んでいるうちに利休の茶室へ招き入れられているような静かな気持ちになってきます。ここで描かれる利休は恐ろしく美意識が高く、周囲には緊張を強いる人物です。天下は征服できても美の世界までは征服できなかった秀吉との決裂は、必然的なものだったのでしょう。

 

13.奔る合戦屋

 

奔る合戦屋(上) (双葉文庫)

奔る合戦屋(上) (双葉文庫)

 

 

奔る合戦屋(下) (双葉文庫)

奔る合戦屋(下) (双葉文庫)

 

 

『嗤う合戦屋』のエピソード0となる作品。この作品では主人公の石堂一徹は村上義清に使えていてまだ若いですが、一徹の郎党たちはさらに若い。この郎党たちの人間模様が前半のストーリーの中核になっていて、ここはある種の青春小説のような趣もあります。前作同様一徹の軍略が冴え渡っていますが、この一徹の器量がやがて主君の村上義清の疑念を招くことになり、悲劇的な結末へと導かれる……という流れは前作とも共通しています。君臣間の葛藤や軋轢が著者のテーマなのかもしれません。ラストシーンの喪失感は圧巻で、これは数ある歴史小説の中でも随一のものでしょう。

 

14.乱世をゆけ 織田の徒花、滝川一益 

 

乱世をゆけ 織田の徒花、滝川一益

乱世をゆけ 織田の徒花、滝川一益

 

 織田家の家臣の中でも、今ひとつ得体の知れない雰囲気をまとっている滝川一益。その原因のひとつが、彼が甲賀出身の「忍者」であるということにあります。本作では滝川一益が凄腕の忍者であるという設定を活かし、彼を信長の美濃出兵や桶狭間の戦い三方ヶ原の戦いなど、多くの歴史イベントに忍者の能力を使って絡ませていきます。本作では一益が鉄砲の名手という設定もあり、ここから長篠の戦いの勝利も演出されます。武田の忍者である飛び加藤との対決シーンや、徳川の忍者である服部半蔵との交流も描かれるので忍者好きには特におすすめ。前田慶次郎もいい役回りで登場します。

 

15. 天を衝く

 

天を衝く(1) (講談社文庫)

天を衝く(1) (講談社文庫)

 

 

一貫して東北の歴史を書き続けている高橋克彦氏の代表作。「九戸政実の乱」で知られる九戸政実が主人公ですが、この作品は高橋氏にとって「火怨」「炎立つ」に続く「蝦夷三部作」の最終編ともなる作品です。九戸政実は「蝦夷」ではないのですが、中央政府の圧力に抵抗した東北人という意味では九戸政実もまたアテルイ安倍貞任の系譜に連なるものだという歴史観がここでは示されます。マイナーな主人公なのに存在感が圧倒的に大きく、脇を固める南部信直津軽為信などのキャラクターも魅力的です。戦国時代の終焉は北条攻めではなく、この九戸政実を相手とする「奥州仕置」ですが、これを東北側から描いた作品は珍しいので紹介しました。著者の東北への強い愛着が伝わってくる作品です。

 

16.北天に楽土あり: 最上義光

 

北天に楽土あり: 最上義光伝 (徳間時代小説文庫)
 

 

『独眼竜正宗』での陰湿な謀略家のイメージもだいぶ薄らぎ、今では大河ドラマ主人公として推す人も少なくない最上義光が主人公。本作での最上義光は大柄で力は強いもののどこか茫洋としていて、才気においては妹の義姫に頭の上がらない存在として書かれています。物語前半は出羽の国衆との争いが多いので地味といえば地味ですが、後半の上杉家との戦いはやはり盛り上がります。東北の戦国史を描いた作品として『天を衝く』とともにおすすめします。

 

17.決戦!本能寺

  

決戦!本能寺 (講談社文庫)

決戦!本能寺 (講談社文庫)

 

 

伊藤潤氏の『覇王の血』が非常にキレのある傑作。信長の五男源三郎が主人公ですが、このような視点から本能寺の変を書くことができるというのが驚きです。ここでの本能寺の変の黒幕はかなり以外な人物ですが、この男ならやりかねない、という説得力もあります。やはり伊藤潤氏は武田を書かせると巧い。冲方丁氏の『純白き鬼札』は明智光秀の話ですが、タイトルからマルドゥック・スクランブルを思い出してしまいました。

 

18.一夢庵風流記

 

一夢庵風流記 (集英社文庫)

一夢庵風流記 (集英社文庫)

 

 

言わずと知れた『花の慶次』の原作。伊達と酔狂で戦国の世を渡る「いくさ人」前田慶次郎の活躍がケレン味たっぷりに描かれ、権力に楯突く男の意地と美学を存分に味わえるようになっています。隆慶一郎作品ならやはりこれは外せないでしょう。

 

19.主君 井伊の赤鬼・直政伝

 

主君 井伊の赤鬼・直政伝

主君 井伊の赤鬼・直政伝

 

  

『おんな城主直虎』でもっと井伊直政の活躍を見たかったという方におすすめの作品。こちらでは大河ドラマとはちがって隙がなく、賢く勇猛な「赤鬼」井伊直政を堪能することができます。主人公は直政ではなく筆頭家老の木俣守勝ですが、大河ドラマでは描かれることのなかった関ヶ原の戦いに至るまでの直政の活躍を追いかけることができます。

 

20.本能寺

 

本能寺(下) (角川文庫)

本能寺(下) (角川文庫)

 

 

69歳にして作家デビューした池宮彰一郎氏の代表作。明智光秀にスポットが当たっているのが特徴で、信長臣下では秀吉よりも光秀こそが最も評価されていたという書き方になっています。本作における本能寺の変の書き方はかなり独特で、これが歴史上の学説ならとても受け入れられないでしょうが、フィクションならこれもありだろうと思わせる一作。ただ、秀吉贔屓の方にはおすすめできないかもしれません。

 

追記:司馬遼太郎のおすすめ歴史小説について

saavedra.hatenablog.com

なるべく多くの作家を紹介するためここでは司馬遼太郎作品は1作しか紹介できませんでしたが、司馬遼太郎の戦国時代の作品には優れたものがたくさんあります。どういうものがおすすめなのかは磯田道史氏の『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』の中に詳しく書いてあるので、この本についてのエントリを書いてみました。エントリ中では幕末や明治を扱った作品も紹介していますので、司馬遼太郎作品でどれを読んだらいいか参考までにご覧ください。

 

 

不法移民のリアルを余すところなく描き出す渾身のルポ『ルポ不法移民 アメリカ国境を超えた男たち』

 

ルポ 不法移民――アメリカ国境を越えた男たち (岩波新書)

ルポ 不法移民――アメリカ国境を越えた男たち (岩波新書)

 

 

これは読み進めるのがしんどい。だが一番辛いのは、本書に登場する不法移民たちだ。母国への強制送還におびえながら、劣悪な環境下をたくましく生きる彼らとともに日雇い労働に従事し、2年間ともに暮らした著者による密着ルポがこの『ルポ不法移民 アメリカ国境を超えた男たち』だ。

 

アメリカ国内に1130万人ほど存在すると言われる不法移民。本書を読むと、彼らの生活はこの世の理不尽を一手に引き受けたようなものであることがわかってくる。特に目立つのは暴力だ。日雇い仕事でコンクリートの粉砕を頼まれた移民は「まだこれだけしかできていないのか、それでも人間か、使えない獣だな」などと暴言を吐かれ、いきなり蹴りつけられる。馬乗りになって殴られ続け、賃金すら払われない。こんな災難とも向き合わなければいけないのが不法移民の日常だ。

 

暴力をむけてくるのは雇い主だけではない。路上でも若手の黒人が暴力をふるってくることがある。本書に登場する不法移民の言い分によれば、彼らはカネ目当てではなくストレス解消のために暴力をふるってくるそうだ。ゲーム感覚で狩りをするように、彼らは不法移民を襲撃する。

 

「俺は喧嘩もできるぜ。弱いわけじゃない。ここでもし喧嘩をして、警察沙汰になったら、一発で刑務所だ。それは面倒なことだろ。だから、殴られ続けるんだよ。昨日だって、反撃はいつでもできた。でも、ぐっとこらえるんだよ。まあ、3人組に路上でばったりあっただけ、ついてなかっただけだな」

 

理不尽な暴力を振るわれても、彼らはただ耐えるしかない。警察に通報すれば、不法滞在である自分の立場を知られてしまうからだ。不法で滞在するということは、こうした剥き身の暴力に身をさらしながら生きていかなくてはならないということを意味する。暴力を振るう黒人たちも社会的抑圧を受けているかもしれないが、さらなる弱者としてそのストレスの捌け口になり、一切反撃を許されないのが不法移民の生きている世界だ。

 

不法移民は医療保険にも入れないため、治療を受けるのにも苦労する。偽名を使ってホームレスだと言い、なんとか治療は受けられるというが、マリファナを吸ってペンチで自分で歯を抜くような人までいる。普通の人間が普通に享受できる権利を失った人間の生活がどういうものなのか、という現実を見せつけられる。

 

不法移民の現状がこのようなものであるため、取材の過程で著者は何度も危険な目にあっている。しかしどれだけ不法移民の生活に接近したとは言え、しょせんは助成金をもらって研究している身だという自覚も著者にはある。住んでいる世界が根本的に異なっているのだ。それでもこうしたルポを書き続けるのは、不法移民への統制を強めるアメリカへの著者なりのささやかな抵抗であるからだと本書では結んでいる。

 

彼らはけっして声をあげることがない。処罰がより厳しくなり、彼らの日常はよりみえないものになっていく。エスのグラファーの残酷さを認めつつ、それでも声を上げない声に耳を傾けていく。そこにあるたしかな生に社会的な権利を認めていく。彼らの生を社会的に黙殺するような国家的統制に対して、エスノグラファーができることはあまりに小さい。筆をとることが少しでも抗いになるのなら、そこに差し込むわずかな希望を信じて、書き続ける。

 

和田竜『忍びの国』感想:忍者の本質とは何か?

 

忍びの国 (新潮文庫)

忍びの国 (新潮文庫)

 

 

本作で『のぼうの城』の和田竜が描き出す忍者の世界は、とかく世知辛い

同じ伊賀の中ですら平気で味方を騙し、裏切り、利用する。

人倫という言葉などかれらの中にはない。目的のためには手段を選ばないからこそ、彼らは忍者でいられるのだ。

 

そんな伊賀にもたまには気の優しい男が生まれる。本作の平兵衛もそうだ。彼は人を人とも思わない伊賀の気風に嫌気が差し、織田信雄に味方して伊賀を滅ぼそうとする。しかしそう思わせることもまた伊賀者の策であって、実は伊賀側には天下の織田軍を敵に回して戦わなくてはならない理由があった。

 

武士としての誇りや維持など紙屑同然と思っている伊賀者が、織田軍と対決する理由とはなにか。それはずばり銭である。天下の織田軍を撃退したとなれば、伊賀忍者の価値は跳ね上がる。全国から依頼が殺到する。結局、忍びはどこまでも自分自身のためにだけ戦うのだ。そのような殺伐とした世界のなかを、本作の主人公、無門も生きている。

 

当人も忍びである無門は、伊賀者の例に漏れず、やはり自分のことしか考えていない。伊賀は織田に勝てないと判断した無門は、伊賀を捨てて逃げようとする。しかし、彼を変えたのは女房のお国だ。詳細は書かないが、お国は無門の銭への執着を利用し、織田と戦わせるよう導く。しょせんは利害第一の忍びであれば、無門は簡単にお国の誘いに乗ってしまう。

 

しかし、読み進めるうちに、一見私欲にまみれた俗物のようにしか見えない無門も、実は人間らしい心を持っていることがわかってくる。嘘と裏切りばかりのこの世界において、無門のお国への想いだけは本当だった。このことが、終始殺伐としているこの作品にある種の救いをもたらしている。いや、本当は誰もが無門のような心を持ちつつも、それを自覚することすらできないのかもしれない。人を騙すことこそが至上とされる伊賀においては、人は自分自身すらも欺かないと生きていけないからだ。

 

この作品はかなり想像力を駆使して書かれていると思うが、あちこちに忍術書からの記述が引用されていて、史実の忍者も実態はこうであったかと思わせる説得力がある。言葉使いなどはかなり今風になっていて、おそらく若い層に手にとってもらうことを意識しているようだ。『のぼうの城』が気に入ったなら、こちらも抵抗なく読めることだろう。

キング牧師の「道徳的柔術」がアメリカを変えた──黒崎真『マーティン・ルーサー・キング 非暴力の闘士』

マーティン・ルーサー・キングという人の一般的なイメージは「演説家」だろう。もちろんそれは正しい。キング牧師が演説家として卓越した能力をもっていたことは事実だ。ただ、差別解消のための手段として見るなら、演説は正しい戦術と組み合わせることではじめて効果を発揮する。キングが生き方として選んだ「非暴力」は、ただの理想や綺麗事などではなく、差別反対運動を勝利に導くための具体的な「戦術」でもあったということを、本書『マーティン・ルーサー・キング 非暴力の闘士』は教えてくれる。

 

マーティン・ルーサー・キング――非暴力の闘士 (岩波新書)

マーティン・ルーサー・キング――非暴力の闘士 (岩波新書)

 

 キングの駆使した「道徳的柔術」とはなにか

 よく知られているとおり、キングはガンディーから非暴力の哲学を受け継いでいる。キングがガンディーの哲学を学んだのはグレッグの『非暴力の力』だが、グレッグは本書の中で非暴力のメカニズムを「道徳的柔術」と表現している。グレッグは非暴力の抵抗の効果をこのように説く。

 

非暴力の抗議者を敵が暴力で攻撃すると、敵の道徳的正当性は失われ、それを契機に内部分裂が起こる可能性が高まる。また、道徳的正当性を失った敵の暴力は逆効果を生み、抗議者を一層増やし結束させる。さらに、メディアが活用されると、世界の世論までも含めた第三者を味方につけることが可能になる。メディアの前では敵も無制限の暴力を慎む傾向が生まれる。こうした「柔術的メカニズム」が結果的に「自衛」へとつながる。非暴力は「自衛」を放棄しているのではなく、それを別の次元で捉え実現する方法なのである。

 

そううまくいくのだろうか、と思うが、実際この「道徳的柔術」をキングは最大限に駆使した。キングが闘争のターゲットに選んだバーミンガムは黒人差別の激しい土地で、州知事ジョージ・ウォレスは「今も人種隔離を、明日も人種隔離を、永遠に人種隔離を」と主張する人種主義者だったが、この地におけるデモがキングの勝利を決定的にした。

キングは非暴力活動家ベヴェルの提案を受け、10代の子供をデモに参加させることにした。子供なら失職の心配がなく、また参加希望者も多いという理由からである。5月2日、バプテスト協会には高校生を中心に千人以上の参加者が集まった。翌日、警官隊は警察犬をけしかけ、服が裂けるほどの高圧放水を行い、警棒で参加者を殴打した。この様子は新聞とテレビ局がこぞって報道したため、「焼け付くような非難」がバーミンガムに殺到した。黒人の子供の非暴力vs白人警官の暴力というドラマはケネディ大統領をして「吐き気がする」という台詞を吐かしめた。「道徳的柔術」は、ここにおいてグレッグが主張したとおりの効果を発揮した。これらの活動がやがて公民権法の成立という形で実を結ぶことになる。

 

バーミンガムという南部で最も人種差別の激しい土地を闘争の舞台に選んだキングは、ただの演説家などではなく、第一級の戦略家でもあっただろう。キングは勾留されたが、バーミンガム獄中からの手紙で「もし抑圧された感情が非暴力的方法で解放されなければ、その感情は暴力を通して実現されていくでしょう」と述べている。ある意味脅しとも取れる文言だ。非暴力=穏健でおとなしい、ではまったくない。キングの唱えた非暴力とはどこまでも差別をなくすための現実的な戦術であり、グレッグが主張したとおり、それは暴力を伴わない「戦争」だった。

 

非暴力を貫くための徹底的なロールプレイ

しかし、非暴力を貫くのは並大抵のことではない。南部においてはすさまじい黒人差別が横行しており、KKK団が日常的に黒人へのリンチを繰り返し、教会を爆破している。このような現状があるため、ロバート・ウィリアムズのような黒人の武装自衛を説く一派も存在しており、一定の支持を得ていた。暴力には暴力で応じるというのも自然な感情であって、だからこそ人類の歴史は数多くの暴力で彩られてきた。

しかし、「道徳的柔術」を用いるキングは黒人に非暴力を徹底させなければならない。ここで興味深いのが、本書に紹介されている「非暴力ワークショップ」だ。キングと関わりの深い黒人牧師ジェームズ・ローソンの主催していた非暴力ワークショップは三段階に分かれているが、第三段階では「社会劇」というロールプレイを行う。その内容は驚くべきものだ。

 

ランチカウンターのシット・インの場面を設定し、参加者はカウンター席に座る。南部白人役の者は、参加者に顔の前で「このニガー」「猿」「神は白人だぞ」と罵り続ける。小突く、頭からケチャップやミルクをかける。顔に唾を吐きかける。椅子を揺らして引きずり倒す。参加者は、それでも冷静さを保ち、礼儀正しい言葉を使い、非暴力を貫けるよう訓練する。

 

こうして徹底的な自己統制力を身につけることで、参加者は屈辱的な目にあわされても暴力でやり返さないようになる。非暴力は学ぶことができるものなのだ。それは逆に言えば、ここまで徹底しなければ人は容易に暴力をふるってしまうものである、ということの証明でもある。激しい迫害を受けてきた黒人であればなおさらのことだ。これほどまでに、非暴力を貫くのは難しい。それは、のちにキングの率いたメンフィスの「貧者の更新」の参加者が商店の略奪を働いてしまった事実が証明している。キングが暗殺された後もまた、アメリカ各地で暴動が起きてしまった。

 

非暴力を「生き方」としなければならなかったキングの苦悩

このように、非暴力とはあくまで反差別闘争を勝利に導くための「戦術」だった。しかし、デモの一参加者にとってはそれでよくても、非暴力の指導者であるキングはそれを「生き方」としなくてはならない、ということを、若い頃にガンディー主義者から学んでいる。そして非暴力という「生き方」を貫くなら、それは結局反戦にまで行きつくことになる。当然、キングも公然とベトナム戦争に反対を唱える。

しかし、愛国心の高揚するアメリカではキングの反戦表明は激しい非難を呼び起こした。しかも、公民権運動の黒人指導者までもがキングを非難した。これは第二次大戦において、戦争に協力することで軍需部門での雇用差別が解消されたという歴史に鑑みたからなのだが、キングは最後まで反戦の主張を翻すことはなかった。

 

書き換えられるキングの公的記憶

 

キングがその後半生において力を入れていたのは、反戦と反貧困だ。黒人の法的平等を勝ち取ったキングは、アメリカにおける問題が公民権から人権へ移ったと主張している。つまりはまともな生活をおくるための社会権である。アメリカの4000万人の貧困者を放置できなかったキングは、FBIからの弱体化工作を受けながらも政府に貧困対策を求めるデモ活動を行っているが、こうしたキングの後半生の活動はあまり知られていない。

それは、キングの公的記憶が書き換えられているからだ、と本書では主張している。キングの死後、レーガン大統領は「キング牧師は法的平等を生涯の仕事とした」と語り、キング国民祝日には彼の実践した隣人愛の教えを思い出そうと呼びかけている。このレーガンの所見からは、キングの反戦活動や反貧困活動が消し去られてしまっている。「強いアメリカ」を標榜したレーガン政権は当然、キングの反戦活動とは相容れない。レーガン政権期に確立した「小さな政府」路線もまた、キングが求めた経済的パワーの再配分とは程遠いものだ。かくて、キングのイメージは前半生で力を注いだ公民権運動の活動家、というところで固定することになる。日本におけるキングのイメージもだいたいこのあたりだろう。

しかし、このキングの公的記憶は変わらないわけではない。実際、オバマ大統領はキング国民祝日の布告で、国際平和についても言及している。キングの晩年の活動については、前半生と同様もっと知られる価値があるように思える。本書の存在意義は、この知られざるキング像を読者に伝えてくれるところにもある。

佐藤賢一『小説フランス革命』が描き出す「男らしさ」コンプレックス

日本人の多くはフランス革命を知らない。それは結局のところ、フランス革命を扱った小説が少ないからだ──と誰かが語っていたことを覚えている。多くの人は歴史書を読んで日本史を学ぶのではなく、大河ドラマ司馬遼太郎から学ぶ。ならフランス革命も誰かが小説にしてくれないと学ぶ機会がない。

  

『小説フランス革命 第一部』完結BOX

『小説フランス革命 第一部』完結BOX

 

 

というわけで、西洋歴史小説の第一人者である佐藤賢一氏のご登場を願うことになる。佐藤氏は池上彰氏との対談で、40代が一番フランス革命の小説を書くのにふさわしい時期だ、と語っている。作家として脂が乗っていて、まだ体力もある時期に書いておかなければいけないというわけだ。この『小説フランス革命』はハードカバーで全12巻、文庫版なら全18巻という長大なシリーズなので、気力体力が最も充実している時期をこの作品に注ぎ込んだのだと思う。

 

この作品をいざ手にとってみると、やはり佐藤節がよく効いている。地の文に突然台詞が交じる独特の文体、アクの強いキャラクター達、それでいてメリハリが効いていてのめりこみやすい物語構成。かつてフランス史を専攻していた佐藤氏の手になるだけに時代考証もまた万全で、およそフランス革命を物語として読むには最適のシリーズといえるのではないかと思う。

 

ただし、佐藤氏の作品にはある共通する癖があるため、必ずしも万人にとって快適な読書体験をもたらさないかもしれない。その癖とは、登場人物の抱えるコンプレックスである。佐藤健一作品では明朗快活な人物が主人公を張ることは少ない。『双頭の鷲』のデュ・ゲクランは一見百戦百勝の豪傑とみえるが、その実容姿に劣等感を抱えており、43歳にして女を知らない、という設定になっている。『カエサルを撃て』のカエサル塩野七生が描くのとは正反対の卑小な中年男の姿にされるし、『オクシタニア』のエドモンもまた恋人の過去の男性遍歴を気にするという一面を持っていた。颯爽とした英雄像を物語に求める向きには、佐藤作品は合わないかもしれない。

 

しかし、ある年齢をすぎると、史上の有名人のこういう情けなくも人間的な面こそが、作品に奥行きを与えるのだということがわかってくる。佐藤氏は英雄を英雄らしく書くのではなく、どこまでも人間らしく書く作家なのだ。そんな佐藤氏の手になる『小説フランス革命』であるから、主役を張る人物たちもどこかしら心に闇を抱えている。2巻までの主人公はミラボーだが、このミラボーは子供の頃に疱瘡を患ったため父親に忌まれていたとされる。そのためか若いころは放蕩生活に明け暮れており、貴族ではあってもどこか無頼の雰囲気がある。バイイのようなお行儀のいい論客とは違い抜群の行動力を誇り、歯に衣着せず言いにくいこともいう「革命のライオン」。この人物がいたからこそ、初期の革命は前進した。

 

そして、2巻の『バスティーユの陥落』では、このミラボーがある策を弄する。パリで弁護士を開業していたカミーユ・デムーランを説得し、パリの民衆を率いて武力蜂起させてしまうのだ。このときミラボーは、ここで行動を起こさなければ君は恋人のリュシルに見捨てられる、いずれこの私になびくかもしれないぞ、と煽りまくっている。

 

「言葉なら、ぱんぱんに詰まっているんだろう、頭のなかに」

「…………」

「その言葉に血肉を与えてこいというのだ。ああ、暴動を起こしてこい。いや、なんなら革命を起こしてくれても構わない」

「しかし……」

「英雄になりたくはないのか」

 英雄になれば、リュシルと結婚できるんだぞ。父親にうんといわせる、なによりの武器になるんだぞ。そこでミラボーは、わざと下卑ていやらしい笑みを浮かべた。君からは背中になってみえないだろうが、わかってるか、建物の硝子越しにリュシル嬢がみている。

「感じさせてやれ。みているだけで女が身悶えてしまうくらいの、お前のことが欲しくて堪らなくなるくらいの、それは激しい演説を打ってこい」

「リュ、リュ、リュシルは、そんな女じゃあ……」

「わからない男だなあ、君も。そうすると、なにか。君の語る理想で女は興奮するのか。政情分析が素晴らしいからと、君に抱いてほしいと思うのか。ただじっとして、オルレアン公が起つのを待っていれば、女のほうから父親なんか捨てるといって、君と駆け落ちしてくれるのか」

 

このあたり、実に佐藤賢一らしい描写である。パレ・ロワイヤルではひとかどの論客として知られているものの、根が臆病なデムーランは、騒然とする世情を前に何も行動できない自分に忸怩たる思いを抱えていた。海千山千のミラボーは青白きインテリであるデムーランのこのコンプレックスを正確に突いた。結果、デムーランは立ち上がり、パリの民衆を率いてドイツ傭兵と戦闘すら交えてしまう。小心なインテリが英雄になった瞬間だ。リュシルの前で胸を張れる男でありたい、という必死の思いが、デムーランを決起させたのだ。

 

ここには、男の抱えるある種の哀しさと滑稽さが表現されている。英雄でありたい、皆から瞠目される「男」になりたい──デムーランのような言論人でも、いや切った張ったから縁遠いインテリだからこそ、そんな願望を強く持つものなのかもしれない。そんな男の性を、佐藤氏はミラボーの口を借りてこう言い表している。

 

「でも、本当なんですか、伯爵」

 なんの話だと怪訝な顔で確かめると、ロベスピエールは背後の建物を示した。ですから、こういう激越な行動に出られると、女性は喜ぶという先の御説のことですよ。

「リュシルは心配そうな顔ですよ。ああ、みてください、おろおろしているくらいだ。それなのに喜ぶというのは……」

「嘘に決まっているだろう」

「そ、そうなんですか」

「当たり前だ。それは女の問題ではなく、むしろ男の問題なのだ。強くあらねばならない、荒々しく振る舞わねばならない、雄々しく行動しなければならないと、そういう強迫観念から男は逃れられないものなのだ」

 

作家としての一面を持ち、人間洞察にも優れていたであろうミラボーならこうも言うだろうか、と思わせる台詞だが、これは佐藤氏自身の言葉でもあるだろう。結局「行動する人」たり得ない作家という職業の抱える鬱屈までもそこに読み取るなら、うがち過ぎというものだろうか。いずれにせよ、それを強迫観念と知りつつ縛られてしまう、これが男らしさのやっかいなところなのだ。男らしさにこだわりすぎることが「男という病」なのだと言われたりするが、このような綺麗事でない人間の一面にも光を当てるのが佐藤文学の特徴だ。

 

とはいうものの、デムーランのような人物が立ち上がったからこそフランス史の新たな局面が切り開かれたというのもまた事実だ。近年、「男らしさ」へのこだわりは心身に負担をかけ、暴力やアルコール中毒をもたらすなど、とかくその弊害を指摘されがちだ。であれば後世の人間としては、このような小説の中でその発露を愉しむくらいにしておくのが一番、ということになるだろうか。

シャルル禿頭王、カール肥満王……なぜ中世ヨーロッパにはあだ名が多いのか?を解き明かした『あだ名で読む中世史』

中世ヨーロッパは「あだ名文化」の時代だった

 

あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる

あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる

 

 

中世ヨーロッパとは、「あだ名文化」のさかんな時期でもありました。多少なりとも中世ヨーロパ史に関心を持つ人なら、フリードリヒ・バルバロッサ(赤髭)、フィリップ剛勇公、ルイ敬虔王などの名前を耳にしたことがあるはずです。ドイツの作家ラインハルト・レーベの著作『シャルル禿頭王は本当にハゲだったのか──歴史上のあだ名、そしてその背後にあるもの』には363人の歴史上の人物が登場しますが、このうち296人が中世ヨーロッパの人物なのです。

 

こうした王侯貴族のあだ名文化は、実はヨーロッパでは8世紀以前はほとんど存在せず、9世紀末から10世紀初めころに形成されてきたものです。あだ名は本来私的な関係でのみ使われるものですが、中世ヨーロッパにおけるあだ名の特徴は、年代記などの歴史書にも登場するということです。たとえば11世紀の『フランク王たちの歴史』にはこういう記述があります。

 

短躯のピピンは偉大なるカールをもうけた。偉大なるカールは敬虔なルードヴィヒをもうけた。敬虔なルードヴィヒは禿頭のシャルルをもうけた。禿頭のシャルルはルイをもうけた。ルイは単純なシャルルをもうけた。

 

こうして淡々とあだ名付きで王の名前が並んでいるのを見ると、なんとも不思議な感じがします。ここには支配者への皮肉や揶揄などは感じられません。なぜこうした記録物ですら公然とあだ名が用いられるのか?ということを、本書では中世ヨーロッパの歴史をひも解きながら解明していきます。内容はけっこう専門的で気軽に読むわけにはいきませんが、中世ヨーロッパの歴史や文化、創作におけるあだ名の付け方などに興味のある方には大いに得るところがある一冊となっています。

 

なぜあだ名文化は盛んになったのか?

実は、あだ名が必要とされた理由は、中世ヨーロッパにおける命名法にありました。ゲルマン系では長いあいだ姓というものがなく個人名しか存在しませんでしたが、個人名は幹音節と終音節のふたつの部分に分かれます。ジークフリートはジーク(勝利)+フリート(平和)、バーナードはベルン(熊)+ハルト(たくましい)。女性ならマティルデはマット(力)+ヒルデ(戦闘)。個人名はこうした組み合わせでできています。

 

そして、中世初期では子供の名前をつけるとき、両親を含む親族二人の名前から、前半あるいは後半をひとつずつ取り、それを組み合わせるのです。このため、メロヴィング王家の人物には一部は違うが似たような名前が多く、とても覚えにくくなっています。この命名法を続ける限り、紛らわしくはあっても同じ名前はなかなか出現しません。

ところが、8~9世紀ころになると、両親を含む親族の誰かの名前をそのまま子供にもつける、という命名法が生まれてきます。この方法だと、一族で同じ名前が共有される割合が格段に高くなります。たとえばカロリング家ではカール、カールマン、ピピンなどの名前が頻出することになるのです。こうしたある親族集団に特徴的な名前を、研究者は「主導名」と呼んでいますが、このような状況に直面した9世紀末の著作家が、区別するための工夫としてあだ名を用いはじめた、というのが本書の主張です。

 

実際、シャルル禿頭王やカール肥満王といったあだ名がこの頃から使われはじめ、時代をさかのぼってカール・マルテルもマルテル(鉄槌)というあだ名で呼ばれるようになります。こうしたあだ名は大・中・小 を用いた区別や~の息子、~世などの区別よりもわかりやすかったために、あだ名文化が中世において定着していくことになるのです。

 

あだ名文化は文学的想像力も刺激する

このように、中世におけるあだ名とは、本来は似たような名前が増えすぎたために区別の必要性から生まれたものです。しかし、いったん生まれたあだ名は単に記号としての役割を果たすだけでは終わりません。あだ名がオープンなものになったために多くに人に知れ渡り、これが新たな伝承や創作などを生むきっかけにもなっていくのです。

本書の7章ではカペー朝の始祖であるユーグ・カペーの考察に一章を割いていますが、このカペーとは「外套」を意味するとされるあだ名です。このあだ名は12世紀に入るとキリストに外套の半分を切って与えた聖マルティヌスの外套と結び付けられ、カペー家の権威の正当化にも利用されることになります。あだ名から伝説までが生まれてしまう実例をみると、いかに言葉というものが大きな力を持っているかがよくわかります。

 

七王国の玉座〔改訂新版〕 (上) (氷と炎の歌1)

七王国の玉座〔改訂新版〕 (上) (氷と炎の歌1)

 

 

ゲーム・オブ・スローンズの原作『氷と炎の歌』シリーズは中世イギリス風の世界で展開されるファンタジーですが、この物語にも「王殺し」ジェイミーや「子鬼」のティリオン、「乞食王」ヴィセーリスなど、数多くのあだ名を持つ人物が登場します。これは、中世のあだ名文化を作中に反映させたものといえるでしょう。こうしたあだ名があれば、登場キャラクターのきわめて多いこの大作においてキャラの識別が容易になり、また読者のキャラクターへの関心を引き起こすこともできます。中世のあだ名文化のDNAは、現代の作品にも確かに受け継がれているのです。

 

中世ヨーロッパにおけるあだ名文化がどれほど豊穣なものだったかは、本書の巻末に載っているあだ名リストを眺めているだけでもすぐにわかります。リチャード獅子心王やフィリップ端麗王といった有名なものから、不能王、泣き虫伯、浪費公など不名誉なものから血斧王、邪悪王など恐ろしげなものまで、ここに載せられているあだ名は実にバラエティに富んでいます。これを参考にすれば、ファンタジーの創作で魅力的な人物を作るのにも役立つかもしれません。それほどに、あだ名というものの持つ魔力は大きいのです。

佐藤賢一『フランス革命の肖像』におけるルイ16世の評価について

 

フランス革命の肖像 (集英社新書ヴィジュアル版)

フランス革命の肖像 (集英社新書ヴィジュアル版)

 

 

「男は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たなくてはいけない」などと言われるが、確かにある年齢をすぎるとその人の生きてきた痕跡のようなものが顔面にもにじみ出るものである。それならば、人物評においてもまずその人物の外見を知ることが欠かせないのかもしれない。

というわけで、本書『フランス革命の肖像』ではフランス革命の群雄の肖像画を並べ、各人の容姿にも言及しながら人物評をおこなっている。こうして見ると「革命のライオン」ミラボーは魁偉な容貌でいかにもエネルギーに満ちているように思われるし、対してデムーランなどは自信なさげで未熟な第三身分を象徴しているようにもみえる。ロベスピエールを追い落とし総裁政府を牛耳ったバラスなどいかにも食えない男という顔をしている。

 

しかし、この肖像画というものが必ずしも信用ならない。絵画には画家の「この人物をこう見せたい」という意志が反映されるからだ。実際、ルイ16世などは、ヴァレンヌ事件を起こして以来の肖像画ではいかにも愚鈍そうに描かれる。これでは国民に愛想を尽かされても仕方がない、という印象になるのだ。

しかし革命前の肖像画を見ると、その印象は一変する。ルイ16世と知らずにこれを見れば、どこの名君なのかと錯覚しそうになる。美男とは言えないが、実際ルイ16世はそれなりに立派な体躯の持ち主であったようだ。そして彼の政治も必ずしも悪いものだったとは言えない。佐藤賢一氏は本書でルイ16世をこう評している。

 

みかけ倒しというのでもなく、その中身を問うても、ルイ16世は平均点を上回る王だった。真面目な性格で、機転より熟考の嫌いが強いとはいえ、博識で頭脳明晰だったと伝えられる。考え方は進歩的でさえあり、事実アメリカ独立戦争を応援したり、特権身分への課税を試みたり、あげくが全国三部会を召集したりと、かなり「革命的」な施政なのである。(中略)政治の実権は王が持つ、これだけは譲れないが、あとは最大限に人民のためを図るとしており、オーストリアプロイセンに例を見るような啓蒙専制君主の線でなら、なかなかの名君になれたかもしれない。

 

結局、ルイ16世がどこか間抜けな王に見えてしまうのは、亡命に失敗し、革命勢力に処刑されたという結果から彼を評価してしまうからなのだ。結果や世評に引きずられずに公平な目で人物を評価することが、歴史家や歴史作家には求められる。その意味で、佐藤氏はルイ16世を評するにふさわしい書き手であるように思う。

 

ルイ16世アメリカ独立戦争を支援したために財政危機を招いてしまい、それがフランス革命の一因となったことは否めない。そのことは本書でも指摘されている。しかし、処刑されなければいけないほどの咎が、彼にあったといえるのだろうか。先日「成功するかどうかは運で決まる」というエントリが話題になっていたが、ルイ16世が処刑されなければいけない原因があったとすれば、それは民主化の機運が盛り上がる難しい時期にフランスの王座を担わなくてはならなかった不運にあるのかもしれない。