明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

伊東潤『幕末雄藩列伝』を読んで幕末維新の人物評価の難しさについて考えた

 

幕末雄藩列伝 (角川新書)

幕末雄藩列伝 (角川新書)

 

 直木賞作家・伊藤潤さんが幕末の十四の藩をとりあげ、その動向について解説している本。薩長土肥など勝ち組から会津庄内藩などの佐幕派、そして幕末唯一の「脱藩大名」を出した請西藩などマイナーな藩まで取り上げていて、史実を踏まえつつも語り口が物語的なため幕末初心者からマニアまで満足できる内容に仕上がっているのではないかと思います。藩ごとに幕末史の流れを追うことでこの時代の見通しがよくなるし、各藩の話題があちこちでリンクしているので雄藩同士の関係性もよくわかる、お得な一冊になっています。

 

取り上げられている十四の藩の話はそれぞれ面白かったですが、とりわけ印象に残ったのは彦根藩の話です。ご存知のとおり、彦根藩井伊直弼を出した徳川家譜代の名門ですが、桜田門外の変井伊直弼が討たれて以降の彦根藩の歴史については、この本ではじめて知りました。

譜代大名の中でも、井伊家に対する幕府の信頼の厚さは際立っています 。江戸時代を通じて十三人しかいない大老のうち、五人を井伊家が輩出しているのです。徳川四天王の他の三家である酒井家や榊原家、本多家が大老に就任する資格がなかったことを考えると、いかに井伊家が厚遇されていたかがよくわかります。

しかし、この井伊彦根藩は、藩の実力者岡本半介の言葉にしたがい、鳥羽・伏見の戦いでは官軍側についています。岡本は「南北朝時代には井伊道政が宗良親王を奉じて戦ったことがあるのだから、我らは本来勤皇なのだ」と語っていて、こんなところにまで南北朝時代の歴史が影響しているのか……と驚かされますが、これは官軍側につくための口実でしかなかったかもしれません。いずれにせよ、譜代中の譜代である井伊家が特に藩内の抵抗も受けることなく薩長についてしまったことは幕臣としてはほめられたものではなく、伊東さんも彦根藩についてはかなり強く批判しています。

彦根藩は名を捨て、「生き残る」という実を取った。それによって、多くの人々の命が救われたという一面はあるだろう。しかし、そうした卑怯な行為が、歴代藩主の顔に泥を塗ったことも事実なのだ。

指導者というのは、その時代を生きる人々が幸せであればよいというものではなく、過去に生きた人々の名誉も考えた上で決断を下さねばならない。つまり先人たちが懸命に守ってきたもの(この場合は徳川家への忠節や武士の誇り)を、ないがしろにするような判断を下してはならない。

 この辺りを読んでいると、人物の評価というものは本当に難しいものだな、と感じます。これ、武士道という観点からすれば、この評価はまったく正しいんですよね。徳川家から多大な恩を受けておきながら、なぜ幕府のために新政府軍と戦わないのかと。本書で伊東さんが書いている通り、もし彦根藩が官軍と戦っていれば、「井伊の赤備え」は幕末に武士の誇りを貫いた一例として長く記憶されることになっていたのかもしれない。それをせず、徳川家や会津藩の助命嘆願もしなかった藩主直憲に対して「腹を切るべきだった」と本書は実に厳しいのです。

 

私は、その時代を生きる人々が幸せならそれが一番いい、と思っている方です。犠牲者が少なくてすむのなら、それに越したことはない。そういう立場から考えるので、彦根藩の選択もそんなに悪くないんじゃないか、と思ってしまいます。確かに、そこには忠義を貫く正しさ、人としての美しさはありません。しかし、忠義を貫く道を選んだらどうなるのか。本書で紹介されている二本松藩は新政府軍に対し徹底抗戦を貫いため、二本松城下は灰燼に帰し、二本松少年隊は六十一名中十四名が戦死という結果になっています。会津藩の白虎隊や娘子隊を襲った悲劇については、いまさらここで語るまでもありません。

 

私は戦国無双2の伊達政宗直江兼続に向かって言った「お前の義につき合わされる兵も民も憐れよな」という台詞がとても好きです。史実とはなんの関係もない創作上の台詞ではありますが、義に殉ずるとか、忠義を貫くことをよしとする価値観にふれるたびに、いつもこの台詞を思い出します。信じる道を貫いて、それで自分ひとりが死ぬだけならいい。しかし、一見美しい忠義や士道を貫いた結果、結果として多くの人の命を奪ってしまうこともあります。

いえ、武士道だけが問題なわけではありません。本書で紹介されている水戸藩のように、尊王攘夷というイデオロギーが藩をふたつに割り、悲惨極まりない抗争を招いた例もあります。そういう史実を知るたびに、特定の価値観に殉ずるより、美しくなくても生き残るほうが大事ではないのか、と思ってしまいます。命こそが何よりも大事という現代の価値観で当時の人間を評価してはいけない、ということは理解していても、です。とはいえ、水戸学、そしてその始祖となる宋学イデオロギーが存在しなければ明治維新そのものが起きていないのも確かなのですが。

 

saavedra.hatenablog.com

 歴史というものを眺めていると、結局生き残るのはリアリストであって、人として美しい生き方をした人なんかではないのだろう、と思えてきます。というより、歴史を後から眺めた結果、負ける側に尽くしたものが美しく見えるということかもしれません。長州藩などは一時は尊王攘夷に染まってしまうように見えても、実は久坂玄瑞のように「攘夷などに成算はない」と冷静に考える人材も抱えています。だからこそ、大村益次郎の兵制改革も受け入れられる余地があったのでしょう。長崎に近く海外の脅威に敏感になりやすい肥前藩も、琉球を通じて密貿易を行っている薩摩藩もやはりリアリズムに裏打ちされている藩です。

しかし、中には庄内藩のように、新政府軍に徹底抗戦しつつ、ついに戊辰戦争では無敗に終わったという藩もまた存在します。本書では酒井玄番という庄内藩の軍事的天才の活躍について書いていますが、酒井は劣勢に立たされていたにもかかわらず新政府軍相手に善戦したため、楠木正成真田信繁にも並ぶ天才と絶賛されています。これは幕末史の奇跡といってもいいような事実ですが、多くの場合、敗者はこのような最後をむかえることはできません。だからこそ、本書で紹介されている全十四藩の中でも、この庄内藩の存在感は際立っています。こういうあまり知られていない史実を掘り起こしているところも、本書の魅力のひとつです。

江戸時代の百姓の暮らしが裁判でわかる。渡辺尚志『武士に「もの言う」百姓たち』

 

武士に「もの言う」百姓たち―裁判でよむ江戸時代

武士に「もの言う」百姓たち―裁判でよむ江戸時代

 

 近代以前では、裁判の記録は庶民の生活を知る重要な手がかりになります。とくに江戸時代では百姓はただお上に押さえつけられているだけではなく、かなり武士に対しても強く自己主張していたため、裁判の内容を知ることで百姓の暮らしや考え方、その実態をよく知ることができるのです。

 

本書では、松代藩長池村の名主(現在の村長のようなもの)の選挙をめぐる騒動をつうじて、当時の百姓の暮らしを復元することに努めています。なぜ名主の地位をめぐってトラブルが起きるかというと、名主は村を運営するうえで非常に重要な役割を持っているからです。

 

長池村では、弥惣八と義兵衛というふたりの人物が名主の地位をめぐって争っています。二人は互いに相手の欠点をあげつらっているのですが、それぞれの言い分はこういうものです。

 

弥惣八:義兵衛は存在しない借金をあることにし、村人に余計な出費を強いている。財政関係の帳簿も村人には見せず、不正な財政運営を行っている。

義兵衛:弥惣八は所有する土地が少ないので、名主の仕事をこなす能力がない。しかも日ごろの行いも悪い。

 

弥惣八の言うとおり、義兵衛が不正な財政運営を行っているのなら、義兵衛には名主になる資格がありません。南長池村は「潰れ」(破産)の百姓が多く出るほど貧しいので、無駄な出費を村人に強いるような人物が名主になるべきではないのです。

一方、義兵衛の言い分にも理があります。弥惣八のように所持地が少ない者は、百姓が年貢を滞納したときに肩代わりできるか不安があるためです。江戸時代の村では「村請制」といい、年貢を払えない百姓の年貢を名主が肩代わりするしくみになっていました。このため名主には経済力が求められたのです。貧しい百姓の多い南長池村では、名主の経済力は特に重要だったはずです。このように年貢の徴収に関しては村全体で責任を負うことになっていたということが、自己責任を求められていた明治時代とは決定的に異なる点です。

saavedra.hatenablog.com

このように、名主候補の双方にそれぞれの言い分がありますが、やがてこの騒動は「村の財政運営に不正はあったのか」というところが主な争点になっていきます。ここから先の展開は登場する百姓たちの証言が二転三転してなかなか面白く、最後は意外な結末にたどり着きます。この騒動を追うことで、百姓が寺から借金をすることがあったこと、江戸時代の取り調べや拷問の実態などについても知ることができます。

 

無私の日本人 (文春文庫)

無私の日本人 (文春文庫)

 

 

江戸時代では村の運営はほぼ村人の自治にまかされていたため、名主(=庄屋・肝煎)の存在はきわめて重要です。『無私の日本人』のこの個所を読めば、なぜ名主の地位をめぐって激しい争いがくり広げられたのか、より理解できるのではないかと思います。

 

庄屋は、百姓たちにとって、行政官であり、教師であり、文化人であり、世間の情報をもたらす報道機関でさえあった。国というものは、その根っこの土地土地に「わきまえた人々」がいなければ成り立たない。

──五十万人の庄屋

この人々のわきまえがなかったら、おそらく、この国は悲惨なことになっていたにちがいない。(p51)

 

土橋章宏『幕末まらそん侍』(映画サムライマラソン原作)感想:安心して楽しめるエンタメ時代小説

 

幕末まらそん侍 (ハルキ文庫)

幕末まらそん侍 (ハルキ文庫)

 

 時代小説というジャンルに期待することがあります。それは、良い人間には良いことがあり、悪い人間にはそれなりに報いがあるということ。つまり、「現実はこうあってほしい」をフィクションのなかで実現するということです。世の中の不条理さや残酷さを克明に描写するのもいい。理不尽な現実を読者に突きつけるのもいい。ただ、そういうものを見たくないときというのがある。現実というものをいっさい忘れて、ただ楽しいフィクションの世界に浸りたいときというのがある。この『幕末まらそん侍』はそんな読者におすすめの作品です。

 

とはいっても、この小説の題材になっている「安政遠足」というマラソンのようなもの、これ自体は史実です。安中藩藩主・板倉勝明が藩士を鍛えるために1855年に行った遠足(とおあし)は日本のマラソンの発祥とも言われるもので、本作ではこの遠足に出場する侍たちのドラマが連作短編の形で描かれます。

 

1章の『遠足』は主人公の片桐裕吾と黒木弥四郎が、優勝者に姫が与えられるという思い込みから競争する話。黒木をなんとか出し抜こうとする片桐の策がセコすぎて笑える。片桐は正攻法で勝とうとはしていないのに、なんだかんだで黒木との友情が生まれたりいい感じで終わったりする……と思ったらオチでまた吹く。こういうコメディが得意なのはさすが『超高速!参勤交代』の著者というところか。

 

2章の『逢引き』は遠足よりも夫婦の人情話といったところ。安中藩一の剣士である石井正継は、嫁の飯のあまりの不味さに藩を出奔することを決意するが、実は……という話。やはり胃袋を握ったものが強いということだろうか。石井の剣の腕前は別の話で役に立つことになるが、ここでは出番はない。

 

3章の『隠密』はタイトルとおり、隠密として安中藩の動向を探っている唐沢甚内が、あまりにも波風のない自分の職務に疑問を抱き始めるという話。藩主の板倉勝明がここではじめて登場するが、なかなか面白みのある人物として描かれている。石井政継はここで再登場。

 

4章の『賭け』は、全5章のなかで一番マラソン小説らしい話。安中藩一の俊足を誇る足軽・上杉広之進は貧しいため、もし負けてくれれば10両を差し上げるという町人の賭けの話に乗ってしまいそうになる。現金を取るか、誇りを取るかの選択を迫られるストーリーはありがちではあるものの、やはりこうあって欲しい、という結末に落ち着く。

 

5章の『風車の槍』は親切心から財産を失ってしまった老侍・栗田又衛門が父親を失った伊助を鍛える話。下手な親切など無駄と考えていた又衛門が伊助との交流で変わっていく話でもあり、伊助の成長譚でもあるが、最終話だけに今までの話に出てきた人物が総登場している。幕府の陰謀も絡んでいる話だが、このあたりは創作だろうか。石井の剣の見せ場があり、片桐ですら活躍している。大団円にふさわしい話だった。

 

映画『サムライマラソン』では唐沢甚内を佐藤健、上杉広之進を染谷将太、栗太又衛門を竹中直人が演じるほか、板倉勝明を長谷川博己が演じることが決まっています。

目立たないことを身上としている唐沢役が佐藤健では目立ちすぎでは……?とは思いますが、そこは演じ方次第でなんとでもなるんでしょうかね。栗太又衛門は竹中直人よりもう少し枯れた感じの人のほうがいい気もしますが、特に不満もなし。

 小説の中では年寄りっぽいイメージのある板倉勝明ですが、長谷川博己ではちょっと若すぎるのでは?と思いましたが、実際には遠足が行われた時点で勝明が46歳くらいなのでそれほど年齢が離れているわけでもないからいいんでしょうか。小説中では藩政改革に熱心な「名君」というイメージなので当人の印象ともそれほど離れてはいなさそうです。

 

土橋章宏原作の『超高速!参勤交代』も映画化されていますが、こちらもノリ的には似たような感じのものになるかな、と(走っているし)思われるので、安心して楽しめる映画になりそうです。

『決戦!新撰組』感想:シリーズ中でも読みやすい。幕末小説ファンにはおすすめの一冊

 

決戦!新選組

決戦!新選組

 

 

歴史アンソロジー小説の決戦!シリーズも読んだのはこれで5冊目になった。

ほぼ戦国時代を扱っているこのシリーズで幕末は異色だが、それだけに顔ぶれも少し異なっている。門井慶喜土橋章宏はこの本でしか書いていない。

 

内容も今までのように関ヶ原の戦いや長篠の戦といったひとつの戦いをいくつもの視点から書くというものではなく、隊士の視線から新撰組の活動を年代順に追うという構成になっている。その意味で従来のシリーズとは雰囲気が少し違うが、6人の作家の手で書かれる新撰組の姿はどれも魅力的だ。どの作品も普通知られている史実とはすこし異なる人物の描き方になっているので、ある程度新撰組に詳しい人のほうが楽しめるかもしれない。

 

以下はそれぞれの作品の寸評。

 

葉室麟『鬼火』

幼い頃にあるトラウマを負い、感情というものをなくした沖田総司が感情を取り戻すまでの物語。芹沢鴨との交流がメインだが、芹沢の行動が独自に解釈されている点が面白い。これなら芹沢が「乱暴者」である理由も納得がいく。本作の芹沢は魅力的な男で、本物の武士といった感じに書かれている。これだと芹沢を討ちに来た近藤や土方のほうが卑怯者という感じで、あまりいい感情を抱けなくなってしまいそうだ。

 

・門井慶喜『戦いを避ける』

近藤勇と彼が養子にした周平との関係を画いた物語。周平にはそれなりの剣の資質があったのかもしれないが、それがどれほどのものかは「現場」に立ち会ってみないとわからない……という話。池田屋事件をこういう「親子」の物語として描くものは今までなかったので新鮮だった。

 

・小松エメル『欠けた月』

主人公は藤堂平助。まだ若く、剣や識見などにおいても超一流とは言いがたいため、常に山南のように自分より優れたものを仰ぐ生き方をしてきた藤堂の生き様の哀しさを描いている。三谷幸喜の大河とは違って伊東甲子太郎が実に魅力的。しかしこれほどの好人物ではこの時代長生きできそうもない。

 

土橋章宏『決死剣』

 主義や思想よりもひたすら剣を磨くことを至上としている長倉新八のストーリー。全6編のうちこれが一番新撰組の戦闘や戦術を楽しめるのではないかと思う。しかしこのシリーズ、どうも近藤があまり冴えない描かれ方になっているのだが、作者間で人物像を統一するようにしてあるのだろうか。

 

天野純希『死にぞこないの剣』

他の作品ではなにを考えているかわからず不気味な感じだった斎藤一の本音が、 ここでようやく明かされる。斎藤は意外と熱い男で、松平容保のために尽くすと誓う男になっている。しかし結局蝦夷地で再起する夢を語る土方にはついてゆけず、斎藤は死に場所を失ってしまった。結局妻子を養うため新政府のために戦うことになる斎藤の境遇は、このアンソロジー中ではもっとも苦い。しかしこれもまた「生きる」ということである。

 

・木下昌輝『慈母のごとく』

「鬼の副長」として知られていた土方歳三がどうして「仏」といわれるほどに豹変することになったのか、を描く作品。他の作品ではあまりよい感じに描かれていなかった近藤勇の重要性が、ここにきてよくわかってくる。近藤なき新撰組を率いる土方は、皆を束ねるため「仏」にならざるをえなかった。置かれた立場が、人を鬼にも仏にもする。だが、結局土方は鬼としての自分も捨てきれない。蝦夷で壮絶な戦死を遂げた土方は、「士道の鬼」とでもいうべき存在だったろうか。

ヤグノブ人とソグドに関するメモ

BSプレミアムシルクロード謎の民 大渓谷に生きる」でヤグノブ人のドキュメンタリーを放映していた。主に伝統的な牧畜を生業としているヤグノブ人だが、ヤグノブの言葉にはソグドごと共通する単語が300以上あるのだという。結婚式のときに新郎新婦が火の周りを回る儀式や、琵琶のような楽器にもソグドの伝統が残っているらしい。

 

自家発電以外には電気も使わず、牧畜と農耕で生活しているヤブノグ人の暮らしは素朴なものだ。村の中では貨幣も流通しておらず、足りないものは物々交換する。番組中では羊の肉と塩を交換しているところを写していた。塩は岩塩で、羊にも週3回くらい舐めさせているらしい。

農耕は寒冷地でも育つ豆とジャガイモを栽培している。番組中では雨が少なかったため豆があまりとれず、羊を売らなければいけなくなっていた。ヤグノブ渓谷からタジクの首都ドゥシャンベまでは80キロ程度もあり、険しい山間を縫って家畜を連れて行かなければならない。タジク商人に家畜を売って手に入れたお金は砂糖や油やお菓子など、家族が一冬過ごす食料に変わる。

 

ヤグノブ人がこの渓谷に住むようになったのはアラブ人の侵攻から逃れるためだったようだが、戦乱を逃れるため秘境で生きることになった事情については同じくBSプレミアムで放映していた「秘境中国 謎の民 天頂に生きる」のイ族とも共通している。伝統的な共同体で助け合いながら生活していること、若者は都会に出て行き違う文化と価値観を身につけることなどもよく似ている。ヤグノブ人の父親は息子に弟の負担を減らすため羊の数を減らして欲しい、といわれていた。子供が都会に出て働き手が減ると一人当たりの放牧の負担が大きくなるので、牧畜のやり方も変えなくてはいけなくなる。ドゥシャンベの学校に通うヤグノブの若者はタジク語を勉強し、都会で職を得ることを望んでいるが、ヤグノブに残りたい若者はどれくらいいるのだろうか。そのあたりまでは番組を見ただけではわからなかった。

自己責任論を押し付けられる明治時代は本当にしんどい。松沢裕作『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』

 

 これは間違いなく名著。岩波ジュニア新書には時折「これはどう見ても大人向けではないのか?」と思えるものがまぎれ込んでいますが、本書では司馬遼太郎作品などでは描かれない明治社会の暗部を「通俗道徳」をキーワードとしてみごとに活写しています。去年の年末に2018年に発売された新書ベスト5というエントリを書きましたが、去年これを読んでいたら確実にベスト1に推してましたね……

 

明治社会というのは、実は社会的弱者、貧困者にたいしてとても冷たい社会でした。その証拠に、1874年に制定された「恤救規則」が救済対象としているのは、働くことができず困窮していて頼れる人が誰もいない独身者に限られていました。いわゆるワーキングプアなどは救済対象としては考えられていなかったのです。仕事があれば、高齢者や障がい者も救済の対象とはなりません。

1890年にはこの恤救規則にかわる窮民救助法案が提出され、法案のなかでは恤救規則にあった「独身」の条件がなくなるなど救済対象を広げる動きもありましたが、この法案は却下されました。貧困に陥るのは自己責任だ、そもそも日本人は皆貧しいので税金で貧困者を助ける余裕はない、などの理由で反対されたためです。

 

どうして、明治社会はこのように弱者に冷たいのか。著者は第一の理由として、まず明治政府にはお金がない、ということを挙げます。地租改正が終わった段階でも明治政府には十分な財源がなく、明治政府は「カネのない政府」「小さな政府」であり続けました。政府からの公的な援助が期待できないのであれば、人々は結局自分の力でがんばって生きていくほかはありません。誰もが自己責任や自助努力を自らに課すしかなかったのです。

 

このような空気のなかで、「通俗道徳」が台頭してきます。通俗道徳とは歴史学で使われる用語で、「人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ」という考え方のことです。つまりは自己責任論です。勤勉に働くことや倹約をすること、親孝行をすることをよしとする通俗道徳は江戸時代後半からひろがったものだといわれてます。これは、市場経済が発達し、生活が不安定になるなかで、自分を律するために生まれた思想だと考えられています。

 

勤勉に仕事に打ち込むこと、倹約をすることそれ自体はいいことには違いないし、だからこそ素朴な道徳としてこれを多くの人が信じます。しかし、「勤勉に働けば豊かになれる」と皆が思い込むと、「今貧しい人は努力が足りなかったのだ」ということになり、そんな怠け者を救済する必要などないのだ、という結論にならざるを得ないのです。このような個人の不幸はあくまでその個人のせいであって社会の問題ではない、という思想は支配者にとって都合のいい「通俗道徳のわな」にはまっているのだ、というのが著者の主張です。

 

通俗道徳をみんなが信じることによって、すべてが当人の努力の問題にされてしまいます。その結果、努力したのに貧困に陥ってしまう人たちに対して、人々は冷たい視線をむけるようになります。そればかりではありません。道徳的に正しいおこないをしていればかならず成功する、とみんなが信じているならば、反対に、失敗した人は努力をしなかった人である、ということになります。経済的な敗者は、道徳的な敗者にもなってしまい、「ダメ人間」であるという烙印を押されます。さらには、自分自身で「ああ自分はやっぱりダメ人間だったんだなあ」と思い込むことにもなります。 (p73)

 

明治社会を特徴づけるキーワードのひとつとして、「立身出世」があげられます。確かに明治社会は、身分で将来が決められていた江戸時代とは違い、建前上は貧しい家に生まれても上級の学校に進学し、エリートになることは可能でした(だからこそ「通俗道徳」が浸透しやすかったともいえます)。ですが、上級学校への進学の道はごく限られていて、受験競争は熾烈を極めるものでした。学費を稼ぐために農村から都会に出てきた若者は昼は新聞配達や人力車夫などをして働きますが、夜は疲れて勉強にならなかったり、低賃金しか得られないので学資が貯められないなどの事情があり、希望の学校に進学できる可能性はとても低かったのです。このような状況下では、「勤勉に努力すれば必ず成功できる」などとはとても言えたものではありません。それどころか、苦労しても成功できなかった若者たちは貧民窟へと流れていき、都市の下層社会の一部を形成することになるのです。

 

この「通俗道徳」は、女性もまた拘束します。明治時代に入ると「芸娼妓解放令」が出され、一切の人身売買は禁止されて遊女は遊女屋から「解放」されます。解放とはいっても女性を本来所属すべき家に戻すという内容の法令だったのでとうてい女性が自由になったとはいえないのですが、少なくともこれで表向きは女性がモノとして売買される、ということはなくなりました。

では明治時代の売春はどうなったかというと、女性にお金を貸し付けたうえで、「貸座敷」という店舗で売春を行わせ、その売り上げから借金を返済させるという「貸座敷業」という営業形態が出現することになります。すると建前上は「女性が自分の意志で契約し、売春をしている」とみなされるということになります。本当はほかに生きていく手段がなく、借金苦から売春をせざるを得なくなっていても、それも自己責任だということにされてしまうので、娼妓に向けられる世間の目は冷たいものでした。これもまた「通俗道徳のわな」です。

 

このように過酷な競争にさらされたうえ、「通俗道徳」でも非難されうる明治社会の民衆は、不満をため込んで暴発することもあります。そのひとつの表れが日比谷焼き討ち事件にはじまる「都市民衆騒擾」です。1905年の日比谷焼き討ち事件から1918年の米騒動にいたるまで、これらの都市暴動に参加し続けている人の多くは若い男性です。男性の職業は工場労働者、人力車夫や日雇い労働者などの都市社会の下層を占めるものが大半です。

「通俗道徳」の世界では、勤勉に働けば成功できるとされます。しかし、賃金が低く、働いてもろくに貯蓄などできない仕事についている人たには、経済的成功への道は閉ざされています。このため、これらの都市下層民たちの間には一種のカウンターカルチャーのようなものが生まれ、「通俗道徳」に逆らってみせたのだ、と著者は主張します。自分が貧しいのに貧しい人をあえて助ける、気に入らないことがあれば相手をぶん殴る、こうした風潮が都市暴動の背景にある、ということです。明治社会の基調をなす「通俗道徳」についていけないのなら、これに反抗するしかありません。

 

しかし、本書によればこのような「あえて」通俗道徳に逆らってみせる態度もまた、「通俗道徳のわな」にはまっているというのだから辛いものです。いくら逆らってみても社会の主流となる道徳が変わるわけでもなく、むしろ騒ぎを起こすことによって「ああやって暴れるしか能がないからあいつらは貧乏なんだ」とかえって通俗道徳を強化してしまうことにもなりかねません。都市暴動への参加者が若い男性ばかりなのは、年齢を重ねるとこの残酷な現実が見えてくるからなのです。

togetter.com

明治維新から150年が経ち、平成も終わろうとしている現代は、明治に比べるばはるかにチャンスが多く、努力が成功に結びつきやすい社会になっているように見えます。しかしそれだけに、「通俗道徳のわな」はむしろ明治時代よりも強く、多くの人を拘束しているのかもしれません。「努力すれば(自分のように)成功できると豪語する成功者は今でも多く、そのフォロワーもたくさん存在します。彼らの信じる「通俗道徳」が自分自身を夢へと駆動させているうちはよいとしても、これが敗者をさらに叩きのめし、本書で描かれる明治時代にも似た「生きづらい社会」を作る結果を招くことになりはしないか、ということを、時には考えてみる必要がありそうです。

 

100年以上前の明治時代を、簡単に現在と比較することはできません。しかし、私たちの周りをみわたしてみるならば、これと似ていることが多いことは事実です。たとえば、「努力すればなんでもできる」という偉い人。そんな人は現代社会にも確かにいます。書店に行けば、起業して富を築いたベンチャー企業経営者が書いたビジネス書が山積みです。『成功する人はなぜ○○しているのか』といったタイトルの本が書店のビジネス書本コーナーにはちらほらみかけられます。そのようなタイトルをみると、「○○している人はみんな成功しているのか?」と突っ込みを入れたくなりませんか。もしならないなら、自分も何らかのわなにはまっているのではないかと自問してみたほうがいいと思います。 (p99)

 

後醍醐天皇が明治維新に与えた巨大な影響を描く兵藤裕己『後醍醐天皇』

 

後醍醐天皇 (岩波新書)

後醍醐天皇 (岩波新書)

 

 

後醍醐天皇の評伝としては最も新しい本。どうしても太平記のイメージに引きずられがちな人物ですが、本書を読めば後醍醐という人がなにを目指していたのか、ということがかなりはっきりしてきます。

後醍醐天皇の理想とした政治とはつまるところ、天皇を中心とした中央集権的な統治です。これは宋学イデオロギーに強い影響を受けたもので、親政を開始したころ日野資朝のような中国の新傾向の儒学を身につけた貴族を取り立てているところにもその影響がみられます。資朝のような儒教の教養を身につけた「士大夫」を使いこなして政治を行う、つまり日本を宋のような官僚国家にすることが後醍醐天皇のめざすところです。後醍醐は同じく日野一族であり、やはり儒教の学識を持つ日野俊基も抜擢していますが、この人事は前例にとらわれないものだったため、反発も多いものでした。

 

鎌倉幕府が滅び、建武政権が成立すると、後醍醐天皇は本格的に家格や門閥を無視した人事を行うようになったため、当然高位の官職を独占してきた上流貴族の反発を買うことになります。出自も定かではない楠木正成名和長年のような「草莽の臣」を抜擢する後醍醐の政治は家柄や門閥を否定するものであったため、既得権を持つ上流貴族からすればそんなものは「物狂の沙汰」であるということになります。北畠顕家が後醍醐の人事を批判しているのも、出自や家柄を無視した「下克上」が行われていたからです。

このような既得権益層の声を表現しているものが有名な「二条川原落書」です。この落書は漢籍の故事をふまえて作られているので、ただの庶民が作ったものとは考えられません。つまりは後醍醐の建武の新政でメリットを失う貴族が作ったものではないか、ということです。建武の新政への批判はこうした層から出ているものが多いという点は注意する必要があります。

 

とはいっても後醍醐の統治は理念に走りすぎていて、武士に対する恩賞も不公平なものがあったことも事実です。中国では五代十国時代に貴族層が没落し、また科挙の制度がもともと存在したために士大夫を中心とする官僚国家を作ることが可能でしたが、そんな土台もなくすでに武士の時代に入って久しい日本では後醍醐の理想とする中央集権的な政治など実現しようもありませんでした。理念に現実を合わせようとして失敗した感のある後醍醐天皇の統治ですが、この後醍醐の姿勢は水戸学に大きな影響を与え、それはやがて明治維新に向けて日本を突き動かすイデオロギーにまで成長することになります。ここが、本書の読みどころのひとつです。

 

水戸学ではご存知のとおり南朝を正当としていますが、これはあくまで徳川家康が後醍醐の忠臣である新田義貞の子孫ということになっているためです。徳川光圀はあくまで徳川家の覇権を正当化するために南朝を正当としたのです。

しかし、のちに水戸藩に藤田幽谷が出、水戸学では天皇の絶対的権威が強調されるようになります。足利幕府の支配する時代は「国体を欠く」空白の時代であるということになりましたが、徳川家の武家支配もまたその延長線上にあるのであれば、天皇を中心とする「国体」を回復するためには武家社会の秩序が無化されなくてはいけないということになります。天皇の権威を絶対化する以上、幕藩体制の正当性もまた揺らいでしまうことになるのです。

 

水戸学の「国体」の観念は、吉田松陰のいわゆる「草莽崛起」のスローガンを経て、幕末の革命運動を主導する広汎なイデオロギーとなってゆく。近世の身分制社会から近代の国民国家への移行があれほど速やかに行われた背景にも、幕末の「志士」たちによって鼓吹された「国体」の観念が存在しただろう。(p224)

 

幕末の志士たちがいかに後醍醐を意識していたかは、長州の勤皇家が京・大阪の庶民相手のプロパガンダでよく用いたという「正成をする」という言い方にもあらわれています。つまり、これらの志士たちは自分たちを後醍醐の「草莽の臣」である正成に重ねていたということです。水戸学の「国体」の観念は、幕末の革命のイデオロギーとして幕藩体制を根本から揺らがせるところまで行きついたのです。これも元をたどれば、身分や出自にかかわりなく家臣を登用した後醍醐の人事にまでさかのぼることができるのです。

 

理念が先行していたために後醍醐の統治は短期間で終わってしまいましたが、政治そのものよりもそのイデオロギーが後世に与えた影響力の甚大さを考えると、やはり後醍醐という人物は特異な人物であったと思えてきます。本書では文観は「邪教立川流の中興の祖であることは否定されていて、後醍醐政権が「異形の王権」だったことも否定されているのですが、それでも後醍醐天皇はやはり史上に屹立する「巨人」であったように思えます。