明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

ヒジャブ姿で日本のアニソンを歌うインドネシアのユーチューバー・RainychRan

先日、ユーチューブで女王蜂の動画を観ていたら関連動画にこれが出てきた。少し舌足らずで透明感のある歌声に一瞬で心をつかまれ、気がついたらほぼすべての動画を再生していた。

 

 日本のアニソンを歌う人は世界中にいるが、イスラム圏の人を見たのははじめてかもしれない。歌っているのはインドネシアRainychRanという人で、今のところチャンネル登録者数が30万人もいる。3年前から日本のアニソンやボカロ曲、米津玄師の曲などをカバーしている。

コメント欄に日本人の書き込みは少ししかないが、あまり日本では知られていないのだろうか。

 

 

彼女の動画は本人が出ているものはすべてチャドルをかぶって歌っている。私が大学生のころ、インドネシアから留学してきた女性がいたが、やはり同じ格好をしていた。真夏でもチャドルを取ってはいけないようだが、インドネシアにくらべれば日本の夏は涼しいらしい。

 

一番再生回数が多いのは『 タイニーリトル・アジアンタム 』で、304万回も行っている。再生回数のわりに日本人の書き込みが少ない。軽やかで繊細な声質がボカロ曲によく合っている。もっと知られてもいい。

 

2年前はまだ顔出しではなかったようだ。これなどは男性パートもインドネシアの人が歌っているらしい。途中、インドネシア民族音楽?っぽいアレンジがある。

 

 Rainychの声帯を通すとどんな曲もRainych色になる。(語彙力が不足していてこの良さをうまく表現できない)

 

竈門炭治郎のうたは日本語だけでなくインドネシア語でも歌っているが、鬼滅の刃インドネシアでもよほど人気があるのだろうか。日本語版は164万回、インドネシア語版は43万回再生。

 

インドネシアで日本の歌を歌う人……でまず思い出すのはVtuberのMaya Putriだが、生身の人間でなければヒジャブはかぶらなくてもいいということだろうか。Mayaはもう有名なので、RainychRanももう少し知られてほしいところ。

dTVチャンネルの番組『歴史のじかん』がなかなか濃くて面白かったので感想を書く

 山崎怜奈さんが司会を務めるdTVチャンネル『歴史のじかん』

 

こちらの動画の内容で興味を持ったので、dTVチャンネルの番組『歴史のじかん』を視聴してみました。

上記のツイートの上杉謙信の回なんですが……謙信、冒頭からさんざんな言われようです。

 

山崎怜奈さん:「上杉謙信はどのような人物だと思われますか?」

黒田基樹氏:「性格的にはねちっこいというかしつこいというか、その一方で典型的な成り上がり戦国大名

丸島和洋氏:「短期でせっかち、でも自分自身がせかされるのは大嫌い、わがままで嘘つき

 

……いいところが何もないのでは?と思われそうですが、最後まで観ればちゃんと謙信のいいところも紹介されています。

詳しい人からすれば「うん知ってた」かもしれませんが、戦国研究者から見た謙信の実像は一般的なイメージとはまるで食い違っています。

黒田基樹さんと丸島和弘さんは二人とも『真田丸』の時代考証を担当していました)

 

義理堅いのは上杉謙信だけではない

 

上杉謙信通俗的なイメージとして「義理人情に厚い」というものがあります。

これは間違いではありません。信玄に信濃を追われた村上義清を助けるため出兵するなど、確かに謙信には義理堅い一面があります。

ですが、黒田さんの見解によれば、別に上杉謙信だけが義理堅いわけではありません。戦国大名は皆一様に義理堅いし、そうでなければ領国を維持していくことができないのです。

 

戦国大名の領国はそれぞれが独立国家で、そのなかに大名に従属している国衆が存在しています。国衆は戦国大名の従属国のようなものです。

領国の国境付近で国衆同士の争いが起き、国衆から救援を求められたら、戦国大名は助けに行かなくてはいけません。助けなければ国衆が離反し、敵方についてしまうかもしれないからです。国衆が頼りにならない戦国大名に従う理由はありません。戦国大名は国を維持していくためにも、国衆への義理を果たさなくてはいけないのです。

 

saavedra.hatenablog.com

 

武田勝頼は徳川勢に包囲された高天神城を救援できなかったので、国衆の木曽義昌が信長に寝返り、これをきっかけに信長は信濃へ向かい総攻撃をかけています。この後武田家はあっけなく崩壊してしまいましたが、これは勝頼が「天下の面目」を失っていたからです。国衆の支持を失うと、領国が滅びてしまうことすらあるのです。

 

新書713戦国大名 (平凡社新書)

新書713戦国大名 (平凡社新書)

 

 

黒田基樹さんは著書『戦国大名』の中でこう書いています。

 

実際に戦国大名の軍事行動について、その政治的契機をみていくと、そのほとんどは、従属する国衆からの支援要請に応えたものであった。そもそも敵方への最前線にあった国衆は、その敵方大名から離反して従属してきた者であったり、あるいは隣接する国衆が敵方大名に従属したために、最前線に位置するようになっていた。(p199)

 

この番組は上杉謙信の話から、こうした戦国大名の本質にまで切り込んでいるのです。村上義清や高梨政頼などの国衆のため北信濃に出陣した謙信の行動も、戦国大名の行動としてみればまず普通のものということになります。

謙信は感情的になりやすい人

『歴史のじかん』では謙信の性格についてもふれています。謙信は当人の書状を読むだけでも感情をストレートに出す人だということがよくわかります。証拠として、謙信は「馬鹿者にて候という表現をよく使います。

最近有名になってきましたが、謙信の書状には「腹筋にて候」なんて表現も出てきます。これは「(北条氏政が)佐竹ごときにも負けたにもかかわらず、戦いを挑んでくるとは腹筋にて候」という流れで出てくるもので、要は「腹筋崩壊」です。自信家で煽り能力も高い謙信の一面がうかがえる表現です。

 

上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩 (星海社新書)

上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩 (星海社新書)

  • 作者:今福 匡
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/11/01
  • メディア: 新書
 

 

 このようにあまり人格者とはいいがたい謙信ですが、こうした性格について自覚はしていたようです。今福匡さんの『上杉謙信「義の武将」の激情と苦悩』には、謙信が臼井城攻略に失敗したのちに捧げた願文の中で「短慮をやめ」と記しています。謙信は短気な性格を改めたいと思っていたのです。このような神格化されていない、生身の上杉謙信像を山崎さんは「チャーミングだけど友達にはなりたくない」と言っていました。

 

こう見ていくとあまりいいところがなさそうな謙信ですが、番組の最後で黒田さんは「気に入った人には優しいし、情が深い。気にかけてもらっている側からすれば頼りがいのある親分」とフォローしています。丸島さんは謙信が冬から春にかけて、兵士を食べさせるために出陣していることを評価していますが、攻め込まれる側からすればたまったものではありません。

 

島津歳久の話も面白かった

島津四兄弟の回(2月3日)も四人の個性がそれぞれ要領よく紹介されていてよかったですが、私は特に島津歳久のエピソードに興味を惹かれました。四兄弟の仲では一番地味というか目立たない歳久ですが、目立たないのは病気のためあまり戦の前線に出られなかったからです。

この歳久が切腹するとき、病気のため切腹するのも大変だったせいなのか、「今出産する女性の痛さがわかった」と言ったというのです。この逸話のせいで、歳久は安産の神様として祀られています。

 

登録日から31日間は無料で視聴できます

dTVチャンネルは登録日から31日間は無料なので、『歴史のじかん』が気になる方は無料期間の間だけでも観てみればよいかと思います。ただし上杉謙信の回は2月6日までです。第1回放送の『徳川家康が最も恐れた男(真田幸村の回)』はずっと観られるようです。

dTVチャンネルはdTVとは別物ですのでそこはご注意ください。 

dTVチャンネル初回31日間無料登録はこちら

太古の昔、ブログは「文学」だった。

p-shirokuma.hatenadiary.com

amamako.hateblo.jp

 

今日はこちらのエントリを読んで思ったことなどを。

 

ブログに商業化の波がやってくる前、この世界はただリアルには出せない、自分の思いのたけをぶつけるだけの場所だったように記憶している。もちろん観測範囲の問題はあるし、以前から商売のためにブログを書いていた人も、ブログを書籍化した人がいることも知っている。だが総じてブログ空間は、ただ書きたいこと、訴えたいことがあるから書く、という人が多くを占めていたように思う。

 

はっきり空気が変わり始めたと感じたのは、「ブログで自分語りなどしてはいけない」と主張する人たちが出てきた頃からだ。需要のないエントリなど書いてはいけないということだ。自分が書きたいかどうかではなく需要があるか、要はお金になるかが一番の関心事、という人たちが増えてきた。ブログをどう書こうと自由なのだが、はてなブログの中でも毎月の収入やPV報告をする人が増えてきた頃にはけっこう違和感を感じていたのをよく覚えている(今はもう何とも思っていない)。

 

saavedra.hatenablog.com

 

私はhtml日記の時代からいろいろな人のサイトを読んできたが、個人サイトの内容はほぼ自分語りだったし、それでいいと思っていた。私は生きづらそうな人の日記をよく読んでいたが、そういう誰とも替えのきかない、その人個人の心の声を読めることに価値を感じていたからだ。

商業ブログを運営している人たちが言うように、確かに無名な個人の自分語りなど大して読んでもらえるものではない。だがそれが問題なのだろうか。個人日記など読んでもらうためというより感情の排出のために書くものだし、反応などたまにあればいい、という程度のものだったのではないだろうか。王様の耳はロバの耳と井戸の底に向かって叫んでいるだけの文章に、多くの反応がある方がむしろ困る。

 

昔はネットをやっている人の数自体が少なかったので、皆が需要など気にせず、好きなことを語っていた。商業的な見返りがないのだから、書きたいことを書くしかない。誰が読むともわからないボトルメールが、大量にネットの大海に流されていた。たまに浜辺に流れついたその文章は、読み手の感性に合えば真剣に読まれることもあった。それが何かを売り込むための文章ではなく、純度100%の本音だったからだ。このようないにしえのブログの在りようは、一言で表現するなら「文学」だったのではないだろうか。

 

小説は君のためにある (ちくまプリマー新書)

小説は君のためにある (ちくまプリマー新書)

 

 

ブログが文学だなんて大げさだ、と思われるかもしれない。私自身そう思わないでもないし、自分の文章が「文学」だなんてこれっぽっちも思っていない。だが、作家の藤谷治氏は『小説は君のためにある』で「文学」をこう定義している。

 

文学とは、書いた人間が読者を特定できない文章の総体である。

メールとか手紙、伝言のメモといった文章は、書いた人間が「特定の誰か」に向けて書くものだ。ほかの人に読ませるつもりはないし、原則的に、読まない。人の携帯を開いて、メールなんかを勝手に見る人がいるけど、あれはルールにもマナーにも反している。

(中略)

こんにち、世界中で何億もの人々が、ブログやソーシャル・ネットワーキング・サーヴィス(SNS)に、何かを書いている。僕も書いているし、君も書いている。

その書きこみは、ことごとく文学なのである。君はすでに、文学の書き手なのだ。 

 

藤谷氏はこの定義が「乱暴」であることを断りつつ、想定外の読者が読んだら伝言や手紙だって文学なのだ、と書いている。読者を特定できない文章は文学だ、というこの定義はおもしろい。この定義に従うなら、ブログ空間は文学青年、文学女子だらけだ。少なくとも昔はそうだった。今でも読者を特定できない個人ブログを書いている人はたくさんいるから、令和の日本はまだまだ文学の盛んな国だということになる。

もちろん、こんな「文学」の定義には納得できない人もいるに違いない。ただ、個人ブログの中にはある種の「味」があるものが存在することは確かだ。ここでいう「文学」とは、読む人が何らかの「味」を感じられるもの、という程度の意味だ。個人ブログがすべて文学だとはいえないとしても、文学といっていいブログも存在する。かつてはてなには「はしごたんは文学」という言い方が存在していたが、これを覚えている人がどれくらいいるだろうか。

 

個人ブログが読み手を特定していない一方、商売のためにやっているブログは読み手を特定している。ウェブマーケティングではターゲットのペルソナを設定しましょう、とよく言われるが、何かを売るブログは買い手の像を明確に設定していることが多い。つまり商業ブログは「文学」の対極にある。仮に商業ブログが想定した読者以外に読まれたとしても、そうしたブログに「味」を感じる読者はほとんどいない。そもそもそういうものではないからだ。ブログ界にマネタイズの波が押し寄せたことを嘆く人は、この世界から文章の「味」、大げさに言えば「文学」が失われつつあることを嘆いているのかもしれない。

 

ブログは文学であるべきだ、なんてことを言うつもりはない。そもそも人は「べき」などでは動かない。ブログを商売のために使ってはいけない理由はないし、このブログにだって収益化している部分はある。ただ、多くの人がマネタイズを考えれば、必然的に真剣なやりとりも失われる。なにかを売りたいなら人には愛想よく接したほうがいいに決まっているし、わざわざ議論を吹っかけたりする理由もない。読み手としても、いかがでしたでしょうか?で締められる文章に本気で怒る理由もない。そこにあるのはただの宣伝文句であって、書き手の本心などではないからだ。

 

正直に言って、かつて言及文化が盛んだった頃のはてなに戻りたいかというと、私はあまりそう思っていない。本音のやり取りは疲れるものだ。商業ブロガーが言う通り、無名な個人の自分語りや主張なんて読まれないのだが、その読まれなさがむしろ心地良いのではないか。今はむしろ、個人ブログはかつてのhtml日記と同程度の過疎具合でのんびりやれるもの、と考えてもいいのかもしれない。最近、自分自身への期待をどれだけ手放せるかが、ブログを長く続けるコツだと考えはじめている。そもそも文学なんて、それほど読まれるものではないのだから。

 

どうしてもブログを読んでほしいなら、需要があることを書くしかない。自分語りがエンターテイメントになるほど面白い人はほとんどいないから、必然的にSEOをすることになる。だが、ここをいくらがんばってもPVや収益は増えても、ブロガー個人のファンが増えるわけではない。検索エンジンからやってくる人たちは必要な情報が得られればいいわけで、その人の文章だから読みたいわけではない。もちろん、継続的に有益な情報を出し続けることで、ブログ自体が気にいってもらえる可能性はある。だがここでも必要とされているのは情報であって、そのブロガー自身ではない。

 

商業ブロガーが自分語りなんてするな、というのは自分自身を受け入れてもらえなかった悲しみの表れだ、と考えるのはうがちすぎだろうか。その悲しみは収益やPVを得ることで癒すことはできるだろうか。私自身はウェブで書いた小説に感想をもらうこともあるが、そこで感じる満足感は、収益を得ることで感じる満足感とはまったく別種のものだ。自作を読んでもらえると、有益な情報を提供して稼ぐよりはるかに「この自分」を認めてもらえたような気分になる。ただの個人日記を読んでもらうのも似たような感覚だろう。お金では満たされない渇望があるのなら、今後も細々とではあれブログ界でも「文学」は書き続けられるのかもしれない。

 

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【感想】高橋源一郎『一億三千万人のための「論語」教室』の訳が自由過ぎる件

 

一億三千万人のための『論語』教室 (河出新書)

一億三千万人のための『論語』教室 (河出新書)

 

 

高橋源一郎さんによる『論語』の全訳なんですが、この訳はまぁ、なんというか……かなりぶっ飛んでますね。高橋さんはこれは超訳でも創作でもないと書いてるんですが、ではこれはどう表現したらいいのか。この本の雰囲気を味わってもらうため、一部引用します。

 

斉の国に滞在中のことである。センセイは、斉の国の民族音楽セイセイセイ、ヘイヘイヘイ」にすっかり夢中になってしまった。初めて味わうグルーヴ感、聴いたことのないリズム。センセイは三か月、「セイセイセイ、ヘイヘイヘイ」の虜になっていたのだった。「ああ!」センセイは思わず呻いた。

「音楽ってすごい!なに食べてたのか、ぜんぜん覚えてなかった……。わたしは、どちらかというと音楽には否定的だったが、こんなにいいものだったとはね!」

この後、センセイは、政治における音楽の効用を考えることになるのだが、そのきっかけが、この「セイセイセイ、ヘイヘイヘイ」事件なのだった。(p169)

 

いやいや高橋さん、「セイセイセイ、ヘイヘイヘイ」じゃあないでしょ!と言いたくなるんですが、論語のまじめな翻訳書はたくさん出てるし、こういうのが一冊くらいあってもいいのかなと。これを買う人の大半は高橋さんのファンなのだろうし。

斉の音楽を聴いて孔子が3か月肉の味がわからなくなった、という有名なエピソードも、高橋さんの手にかかるとこういうものになるわけです。

 

この『高橋訳論語』は自由すぎるというか、高橋さんが話をわかりやすくするためにかなり訳を現代人に寄せているところがあって、まじめに東洋思想を学ぼうという人には噴飯ものだろうな、感じるところも多々あるのです。

 

 子游がこんなことをいった。「気をつけてください。『やりすぎ』には注意です。たとえば、王様に仕えたとしましょう。とにかく、気のきいているところを見せようとして、気がついたことはなんでもやっちゃう。王様が、ぼんやりしているので、何かこれはエッチなことをしたいんじゃないか、と思って、『王様、いい、エロ動画のサイトがあるんですが』とかいう……すいません、ちょっと、いい例が浮かばなかったもので……とにかく、そんなことをいったら、『バカ、わたしは、国内のイスラム問題を考えていたんだ』と怒られたりするわけです。

 

これは論語の「君に事えて数すれば斯に辱しめられ」の部分を訳したものです。主君に口うるさく意見を言えば嫌われて辱められるよ、くらいな意味ですが、高橋さんの訳はわかりやすくしようとして悪ノリしてる感じのものがけっこう多いのです。私はこういうのを笑いながら読むほうですが、格調高い文章を求める人には合わないかなと。

 

私はこの『一億三千万人のための「論語」教室』を読んでいて、笑えるところも多いし、堅苦しいイメージのある論語にこれで親しむ人が増えるならそれはそれでいいんじゃない?と思っていました。古典なんて面白くなければ見向きもされないだろうと。

ただこれ、中田敦彦さんのYoutube大学を「が勉強のとっかかりになるんだから少しの間違いくらい許せ」と擁護するのとあまり変わらない気もするんですよね。高橋さんの訳は間違っているというより、意図的に論語の中にない文章を足してるんですが、そんなの許せんという人もいるでしょう。

 

ただ、高橋さんの訳は「これ明らかに原典にないことを言ってるよな」ということは誰にでもわかるんですよね。この『一億三千万人のための「論語」教室』は訳があまりに自由すぎて、MBAだとかベネズエラだとか歌舞伎町だとかいう言葉が平気で出てくる。孔子はそんなこと言ってないのは明らかなので、ある意味親切な気もします。これが厳密な訳だと思う人は誰もいないから。

 

高橋源一郎さんの本なので、訳の中にはときどき政治的見解が混じることもあります。

 

魯の君主、哀公がセンセイにこんな質問をした。

「どうしたら、国民に政府を信頼してもらえるだろうか。ぜひ、教えを乞いたいのだが」 

すると、センセイは哀公に向き合うと、はっきりこうおっしゃった。

「よくお聞きください。大切なことは、行政のトップにウソをつかない人を置くことです。そうすれば、黙っていても、国民は政府を信頼するようになります。その逆に、ウソつきをトップに据えてご覧なさい、政府への信頼は地に落ちて、誰も信用しなくなってしまいます」

(センセイ、つらすぎて、わたし、この部分を平静な気持ちでは訳せません……ちょっと、現代日本に降臨して、「喝!」ってやってもらえないでしょうか)

 

カッコ内の文章を論語をダシにして言いたいこと言ってるだけじゃないか、と取るか、春秋時代も現代も信頼できないトップが多いのは変わらないのだなぁ、と思うかは読者しだいです。(私は後者ですが)

 

というわけで、かなり癖の強い本でもありますが、翻訳が相当ぶっ飛んでいるのでかなり楽しめたことは事実です。引用した個所のノリが合う人なら、おもしろく読めるのではないでしょうか。

 

完訳 論語

完訳 論語

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/06/09
  • メディア: 単行本
 

 

まじめな論語の翻訳としては井波律子『完訳 論語』が解説も充実しているのでおすすめです。

「小説にだけあってマンガや映画やアニメにはない魅力」を示せる人ってなかなかいないよね、という話

 小説と同じメリットが漫画にもアニメにもある

小説は君のためにある (ちくまプリマー新書)

小説は君のためにある (ちくまプリマー新書)

 

 

藤谷治さんの『小説は君のためにある』を読みました。

若い読者に向けて、小説の魅力を優しく語りかけてくれる、とてもよい文学案内だと思います。

ただ、私はこの本を読んでいて「藤谷さんほどの人でも、小説ならではの魅力を語ることはむずかしいんだろうか」とも思ってしまいました。

確かにこの本は魅力的だし、小説がどう人生の役に立つのか、ということを、決して押しつけがましくない形で教えてくれる。

小難しい話は一切していないし、小説入門としては最良の部類の本だと思います。

ただ、「小説にしかない魅力」を十分に伝えきれているとは、私には思えなかった。

 

この本の三章で藤谷さんは、小説の役割として、以下の6つをあげています。

 

・その1……人生が増える

・その2……こっそり考える

・その3……現実を見直す

・その4……多様性を知る

・その5……すべての人の「自分」

・その6……陶酔

 

 1は小説を読むのは人生経験だ、という話です。2は読むことで作者と秘密を共有できるという話。3は文字通り虚構から現実を見直したり相対化すことができるということで、4も文字通り、人間の多様性を知ることができるということ。

5は小説の登場人物のすべてが「自分」を持っていると知ることができるということ、読むことで自己中心性を乗り越えられる、的な話。4とも重なる話です。6は作品世界に耽溺する愉しみ。ほぼこれだけのために小説を読む人も多いはずです。

 

これらの小説のメリットについて、まったく異論はありません。まさしくその通り、と思います。

でも一方で、こうも思うのです。これは小説にしかないメリットなのか、と。

いえ、藤谷さんもこれが小説にしかないメリットや役割だ、などとは書いていません。だからこんな突っ込みは筋が通らないかもしれない。

ただ、この小説の役割が他のメディアでも味わえるものなら、より敷居の低い漫画やアニメ、映画などで味わってもよくないですか?と思う人もいるのではないでしょうか。

 

漫画やアニメにも、人生を深く描いたり、物事を別の視点から考えるきっかけをくれる作品はいくらもある。

それこそ「CLANNADは人生」なんて言葉があるように。

私はCLANNADのことはよく知りませんが、フィクションもまた人生経験だという話なら、むしろ絵や音楽がついているアニメや映画のほうがより臨場感をもった「経験」が得られるんじゃないか、とも思うわけです。

アニメや漫画の登場人物にだって多様性はあるし、もちろん作品世界に耽溺することもできる。確かにそこに他者がいると感じることもできる。

では、小説にしかない魅力って、何なのだろうか。

 

「○○は文学」となぜ言うのか

藤谷さんはこの『小説は君のためにある』の中で、アニメやゲームを文学扱いすることに違和感を表明しています。

 

不思議だよ。どうしてあるゲームやアニメを高く評価するのに、「文学」が出てくるのか。

最高のアニメである、優れたゲームである、でいいじゃないか。なんで改めてゲームやアニメをいったん「文学」に取りこんで、それから褒めるのか。

文学というのは、人間の表現手段の一種だ。それ以上でも以下でもない。いちばん古い表現でもなければ、ましてや最高の手段でもない。絵画や造形や、映画やアニメやゲームが、文学という手段よりも上だとか下だとか、そんな比較は意味がないだけでなく、不可能だ。

 

文学ではないものをなぜわざわざ「文学」として評価するかというと、それはおそらくアニメやゲームにも文学同様に人間や世界を深く描き、あたかもひとつの人生を丸ごと体験したかのように感じさせてくれるものがあるのだ、と言いたいからでしょう。

アニメやゲームは文学より軽んじられてきた経緯があるから、これらだって文学に匹敵する価値があるのだ、とも訴えたくなるわけです。藤谷さんは映画やアニメやゲームと文学に優劣などないと書いているけれど、世の中そういう公平な視点を持った人ばかりではない。

藤谷さんが訴える通り、確かにアニメやゲームは(狭義の)文学ではありません。でも、これらの作品も文学同様、こちらの心を揺さぶり、深い感動を与えてくれるものがある。それならやはり、小説の役割をアニメやゲーム、マンガでも果たしうることにならないだろうか。同じことを他の媒体でもできるのなら、わざわざ小説を読むメリットは何なのか?この問いに答えるのは、そう簡単ではないと思います。

 

自分なりに考えた「小説ならではの魅力」

 

saavedra.hatenablog.com

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過去エントリを読み返したら、去年こういうものを書いていました。この二つのエントリで、私は小説の強みは「ビジュアルが決まらないこと」だと書いています。小説は文字しかないから、登場人物や作中世界の風景を脳内で好きに想像していい。ビジュアルが決められているラノベはまた別ですが、少ない情報量から想像の翼をひろげられるのが小説を読む愉しみのひとつです。 

 

 

この〈神々の森〉を、キャトリンはどうしても好きになれなかった。

彼女はずっと南の、三又鉾(トライデント)河の赤の支流(レッド・フォーク)のほとり、リヴァーラン城のタリー家に生まれた。

そちらの〈神々の森〉は明るくて風通しのよい庭園のようなところで、赤い赤木(レッドウッド)が小川のせせらぎの上にまばらな影を広げ、小鳥たちの人目につかない巣から歌声が聞こえ、空気は花々のかぐわしい香りに満ちていた。

(中略)

ここの森には灰緑色の針状葉で武装した頑強な哨兵の木(センチネル・ツリー)や、オークの大木や、国土そのものと同じくらい古い鉄木(アイアンウッド)が生えていた。

黒くて太い木が密生し、枝が絡み合って頭上に厚い天蓋を作り、地中では歪んだ根がもつれあっていた。ここは、深い静寂と、のしかかる影の場所であり、ここに住む神々には名前がなかった。

(p43)

 

たとえば『七王国の玉座』のこういう文章を読んで、いろいろと空想してみたいわけです。ルビがたくさんふってある海外文学っていいですよね。哨兵の木とか三又鉾河とか、独自用語が出てくるファンタジーはやっぱりいい。どういうものだかわからないだけに、頭の中に好きに絵を描ける。

 

ファンタジーやホラーは、下手に映像化されるととても安っぽいものになります。ホラーは読者が勝手に想像をふくらませるからこそ怖い、というところもある。私には『荒神』のドラマ版のつちみかど様はあまり怖く感じませんでした。あれ、目がないんじゃなかったの?いや、仮に目がなくても、映像化した時点で怖さは何割が薄れてしまうかもしれません。こちらが想像する余地がなくなってしまうのだから。

 

とはいっても、こういう楽しみ方をする人ってそんなに多くないことも確かなんですよね。文字だけのストーリーを読むのはやっぱり敷居が高いし、私だって疲れてるときは小説なんて読めない。そういえば、なろう小説はコミカライズは売れてるのに原作は打ち切りになる、なんてこともあるそうです。ストーリーが一緒なら、そりゃ普通はマンガ読むよね。なろう小説は基本「快」を求めて読むものだし、マンガのほうがより快楽を与えられるし。

 

小説の魅力はわかりにくい

小説はビジュアルを自由に想像していいからいいんですよ、と何度か書いてきたわけですが、そういう小説の魅力ってどうも地味というか、わかりにくい。「小説にしかない魅力」は確かにあると思うんだけれども、多くの人にアピールできるものでもないんですよね。だから、こういう風にも言われてしまう。

 

togetter.com

 

小説や漫画、アニメや映画などの表現手段に優劣はありません。ただ、大衆にアピールする力の差は確かに、ある。そして、これらの中では小説が一番手に取る敷居が高い。なろう小説は軽く扱われがちだけれども、文字だけの物語をどうにか手に取ってもらうため、わかりやすいご褒美をタイトルで示すという生き残り戦略をとっているのではないか。

  

まんが パレスチナ問題 (講談社現代新書)

まんが パレスチナ問題 (講談社現代新書)

 

 

もう今の世の中、本を読む人自体があまりいないし、小説を読む人なんてもっとマイノリティなんでしょうね。文字しかない物語をわざわざ読む変わり者。 そんな変わり者がなぜ一定数存在するかというと、究極的には文章が好きだから、としか言いようがないかもしれません。でもそんな私ですら、文章だけの本っていくら何でもストイックすぎるよな、と感じることもあります。

先日、『まんがパレスチナ問題』を読んだときは、もうこれくらいイラスト多めにしないと本なんて読まれないよなぁ、と思ってしまいました。やっぱり絵がある方が何事も理解が早いし、何より読んでて楽しい。このブログだっていつ漫画ブログに転向するかわかったもんじゃありません。小説の良さを訴えるのは自分が書く側だからで、つまりはポジショントークでもあるわけだから、将来書く側でなくなったらどうなるかな……まぁ、小説をまったく読まなくなることはないと思いますが、最優先でなくなる可能性はあります。

 

もっと身も蓋もない「小説を読むメリット」

それでも小説を読み続けているのは、おそらくは惰性。活字で物語を味わうのに慣れているから。人は習慣化すれば大抵のことはやれるものです。ただ、突き詰めて考えれば、もっと他の理由もあるのかなと。

藤谷さんは文学も漫画もアニメもゲームも優劣はないと書いてるんですけど、それでもまだ多少は文学のほうが「えらそう」なんですよね。同じフィクションなら、小説のほうが他の娯楽より若干知的に見える。そんな動機もなくはないかもしれない。別にそれが悪いという気はありません。文学は教養として読まなければいけないものだ、と思わなければ私は三島由紀夫ドストエフスキーを手に取ることはなかっただろうし、そんな動機で読んでも得られるものはたくさんありました。人は見栄で小説を読んでもかまわない。

 

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ただ、そういう「がんばってする読書」って何歳までできるものなんだ、とも思うわけです。もう見栄を張るような年でもないし、ひたすら自分が読んでて楽しい漫画だけ読んでてもいいのかもしれない。実のところ、私にとって『息吹』は、けっこう頑張って読んだ本でした。こういうものを読んでいれば少しは格好もつくかな、という気持ちもまだ残っているわけです。でも頑張ってレビュー書いたところでみんな有名なSF読みの人の記事しか読まないだろうし、こんなことしてもしょうがないかな、という気持ちも強くなってきています。

 

文学や小説の権威性が一切はぎとられた世界があるとして、それでも私は小説を読むのだろうか。読まないことはないだろうけど、読む数は確実に減るような気がします。単に娯楽性だけで判断したら、小説は他のフィクションに勝てるだろうか。これ、小説でしか書けない話だよなぁ、と言えるものにはそうそう出会えません。だからこそ、『絶対小説』みたいな作品には迷わず食いついてしまうのだけれども。

 

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麒麟がくる2話「道三の罠」感想:織田信秀の経済力描写の細かさについて

今回は合戦の描写にかなり力が入っていた。

斎藤軍四千vs織田軍二万と数字上は織田軍が大きく上回っているが、斎藤道三は織田軍の大部分が金で集めた兵であることを知っているので少しも動じることがない。

今回、ドラマの冒頭で道三は孫子の一節をわざわざ光秀に暗誦させている。よく知られている「敵を知り己を知らば、百戦危うからず」だ。自分は信秀のことを知りつくしているから数で劣っていても負けることはない、と道三は匂わせている。

 

今回の道三は孫子の兵法の体現者だ。まず、光秀を借金で縛り、侍大将の首ふたつで借金を帳消しにしてやると伝えている。旅費は借金だとは一言も言わずにおいて貸しを作り、あとでそれを明かして光秀を勇猛な将に仕立てあげる。光秀には敵将の首が金に見えていたことだろう。この時点ですでに道三は孫子の「兵は詭道なり」を実践している。勝つためなら家臣すらもペテンにかける、これが道三のやり口だ。

 

陣太鼓がリズミカルに打ち鳴らされ、どこか厳粛な儀式のような雰囲気も漂うなか、加納口の戦いは始まる。光秀が侍大将の首を求めて必死に戦う一方、織田兵は道三の仕掛けた落とし穴に嵌められている。道三はさっさと籠城を決めて稲葉山城に退却するが、このとき民百姓にまぎれて織田方の乱波も稲葉山城に入り込んでいる。

だが道三はすでにそれを察知していて、乱波を油断させるために家臣に水をふるまっている。信秀が攻撃の手を止めたのを見計らい、道三は反撃を開始する。虚を突かれた織田軍はさんざんに打ち崩され、信秀は落ち武者の姿で逃げ延びる。自分の油断でさんざん味方を失っておきながら「城へ帰って寝るか」などとのんきなことを言うあたりが、道三に人望がないといわれる原因だろうか。結局、戦とは騙し合いであり、道三は信秀より何枚も上手だった。

 

だが、その信秀すらも結局は土岐頼純にそそのかされていただけだった。道三は頼純が信秀に送った書状を示しつつ、頼純を面罵する。なぜ、この男に道三は帰蝶を嫁がせているのか。もちろん政略結婚なのだが、帰蝶は土岐家の様子を探るために送りこまれていたのかもしれない。となると、今後帰蝶が信長に嫁ぐ経緯が気になる。いずれ道三は帰蝶織田家の内情を知らせろと言い含めるのではないか。

 

今のところ、道三は真田丸における真田昌幸みたいなもので、完全に光秀の存在を食ってしまっている。叔父に似た敵将の首を取るのをためらう繊細さを持つ光秀が、海千山千の道三から学べるものはあるだろうか。今のところ高政と一緒に道三を嫌っている光秀だが、将来的に道三を見直す展開もありそうな気がする。

 

織田信秀は人望がないなどと道三にバカにされているが、かわりに信秀は経済力で多くの兵を集めることができる。この時代で二万もの兵を集められるのは驚きだが、この数字は本当なのだろうか。いずれにせよ、信秀が豊かだったのは確かだ。『麒麟がくる時代考証担当の小和田哲男氏は『集中講義織田信長』でこう書いている。

 

集中講義織田信長 (新潮文庫 (お-70-1))

集中講義織田信長 (新潮文庫 (お-70-1))

  • 作者:小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/05
  • メディア: 文庫
 

  

当時、大きな川は、船運に利用されていたという事実がある。木曽三川の一つ、木曽川べりの津島にまで、伊勢湾船運の船が出入りしていた。つまり、信秀は、伊勢湾船運最大の湊の一つといってよい津島湊を支配し、湊に出入りする船に関税を課し、収入としていたのである。

信秀は、天文十年(1541)年には、伊勢外宮の仮殿造営費として七百貫文を献上している。今のお金にして約一億円である。これだけであれば、「奇特な人もいるものだ」ぐらいですまされたかもしれない。ところが、二年後の天文十二年には、何と皇居の築地修理費として、四千貫文を献上しているのである。今の金額にすれば六億円であり、こうなるとハンパではない。事実、このことを聞いた、奈良興福寺多門院の僧英俊は、その日記『多門院日記』の中で、「不思議の大宮か」とびっくりしている。

一国の守護大名とか戦国大名ならいざしらず、その段階では、まだ、守護大名斯波氏の守護代織田氏の「三家老」の一人にしかすぎない信秀に、自由にできる金がこれだけあったのである。いかに、津島湊支配による収益が莫大な額にのぼっていたかがわかる。 

(中略)

信秀は、その後、居城を那古城に移し、さらに、そこに幼い信長を置いて、自らは古渡に新しく城を築いて移っている。そして、古渡城のすぐ近くに、伊勢湾船運のもう一つの大きな湊である熱田湊があったのである。つまり、信秀は、津島湊と熱田湊の二つをきっちり押さえ、収益を確保していたのである。

 

信秀が築地塀修理費として四千貫文を献上した天文12年は、今回ドラマで描かれた加納口の戦いの四年前になる。こうして内外にみずからの経済力を誇示していた信秀は、あちこちに寄付をしてなお多くの兵を集める余力を持っていたことになる。加納口の戦いに熱田神宮宮司が参加していたのは、信秀が熱田湊を支配していたことの表れだ。信秀は津島湊と熱田湊の収益で兵を集め、道三に挑み、敗れたという描写になっている。

 

麒麟がくる』公式サイトで、織田信秀を演を高橋克典は「織田信秀は、戦(いくさ)と政治には金が必要だといち早く気づいた人物だと思います。今の時代で言うと、信秀はやり手の起業家で、織田家フロント企業。戦と政治に新しい手法とアイデアを持ち込んだ人物です」と語っている。集金が得意な信秀の姿は今回すでに描かれていたが、熱田神宮宮司の描写などは細かすぎて歴史マニアにしか通じないネタかもしれない。

ジャンル分け不能の怪作『絶対小説(講談社リデビュー賞受賞作)』が小説愛にあふれすぎていて最高だったので感想を書く

 

絶対小説 (講談社タイガ)

絶対小説 (講談社タイガ)

 

 

この小説を何と呼べばいいのだろう。

河童のような人間が出てくるから伝奇か。

いや、謎の肉食植物や四脚駆動のメカが登場するからSFか。

作品全体に漂う不穏な雰囲気はホラーっぽくもあるし、主人公とヒロインのまこととの軽妙なやり取りだけを取り出せばラブコメとも言える。

闇の組織ネオノベルとの駆け引きはサスペンスとも言えるし、作品全体がはらむ謎は一種のミステリでもある。

だが、これらの言葉は結局この『絶対小説』の断片を指すにすぎず、この作品全体を形容する言葉は、ちょっと見つけられそうにない。

『絶対小説』は、『絶対小説』という唯一無二のジャンルだ、としか形容のしようがないのだ。

それくらい、第1回講談社NOVEL DAYSリデビュー小説賞を受賞したこの作品は、様々なジャンルの魅力が溶け合った混沌とした作品に仕上がっている。 

 

これだけ奇妙で一筋縄ではいかない作品だが、この作品の通奏低音は、すがすがしいまでにストレートな小説への、そして創作行為への愛だ。

『絶対小説』の冒頭は、売れないラノベ作家の主人公・兎谷三為と、その先輩で売れっ子作家の金輪際との会話から始まる。

金輪際は、兎谷に百年前の作家、欧山概念の原稿を見せる。それを手にしたものは文豪の才能を宿すと噂される代物だ。だが、二人がこの原稿について言葉を交わすうち、いつのまにか原稿は失われてしまう。

 

その日以来、兎谷の冴えない日常は変わりはじめる。金輪際の妹を名乗る美人女子大生との出会いがあり、いくつもの顏をもつ彼女にふりまわされる日々が続く。どこまで信用していいかわからないヒロインと欧山概念の原稿を追ううち、兎谷の日常はしだいに非日常に飲みこまれてていく。

口調こそ偉そうだが要所要所で助けてくれる金髪ツインテールの占い師・女々都森姫愛子や欧山概念の原稿を狙っている「闇の出版業界人」、そして欧山を絶対の存在としてあがめる「クラスタ」の存在などなど、怪しげな連中が次々に登場し、一時たりとも兎谷に安息の日々を与えてくれない。読者はメメ子こと女々都森の強烈なツッコミに笑ったり、闇の出版業界人の手段を選ばないやり口に唖然としながらも、やがてあることに気づくだろう。それは、この作品の登場人物がみな、強烈に小説を愛しているということだ。

 

ラノベ作家である兎谷や金輪際は言うに及ばず、女々都森姫愛子のようなサブキャラも、この作品でははばかることなく小説への愛を語る。彼女は作家を志していた過去があり、だからこそときに兎谷にもきつく当たる。だが、彼女の言動の背景に小説愛があることがよくわかるので、その厳しさもまた小気味よい。いや彼女だけではない。闇の出版業界人も、クラスタのメンバーも、それぞれ歪んではいるものの、皆それぞれの形で小説を愛している。だからこそ、皆が手にしたものに天才的な才を授ける欧山概念の原稿を欲しがるのだ。欧山の力で人々の目を小説に向けさせ、「文芸復興」をめざすネオノベルの野望は明らかに狂っているのに、一読者としては支持したくもなってしまう。小説への偏愛が語られる世界ほど、活字好きにとって心地いいものはない。

そもそも、小説などを志すような人間は、皆どこか歪んでいるのではないか。現実が生きづらいからこそ、虚構の世界をつくりあげ、そこに人々を引きずりこもうとするのではないか。この作品の悪役ほど極端な形でないにせよ、小説に手を染める人間は何かしらの業を背負っているのだ。闇の出版業界人やクラスタのメンバーは、そのひとつの形にすぎない。金輪際や兎谷は、また別の形の業を背負っている。

本作には、作中作が何度か登場する。金輪際の『多元戦記グラフニール』や、兎谷の『偽勇者の再生譚』などがそうだ。これらの作品が、彼らラノベ作家の業が生みだしたものだ。この二作品はどちらもなかなかおもしろそうで、読んでいるとその全貌を知りたくなってくる。だが、実はこれらの作品にはある仕掛けがある。ネタバレになるので話せないが、最後まで読めばそういうことか、という深い納得と感動が得られるだろう。読者はこれらの作中作の使い方の巧さに舌を巻くとともに、著者の小説への深い思い入れに痺れるに違いない。これはビブリオマニアのための小説なのだ。

 

ラノベといえば、この『絶対小説』も、ある意味とてもラノベっぽい。終始のじゃ口調の女々都森姫愛子の台詞や、闇の出版業界人などの設定はラノベそのものだ。著者の芹沢政信がもともとラノベ出身なので当然といえば当然なのだが、この作品はそのラノベっぽさを逆手に取った作品ともいえる。くわしいことは語れないが、これらの設定がどういう意味を持っているのかを知ったとき、読者はいかにこの作品に深い小説愛が込められているかを理解するだろう。そして、物語構造の巧みさにも驚くに違いない。終盤で事の真相を知ったとき、私はしばらく呆然としてしまった。

それにしても、なぜここまでして、人は小説を生み出そうとするのか。虚構を求めるのか。著者は『絶対小説』の冒頭で、こう書いている。

 

この文章を読んでいる君は、幸福ではないはずだ。

なぜなら小説を読むという行為そのものが、現実から逃避するための、自らの境遇から目を背けんがために行われるものであるからだ。

では幸福を得るために、君は何をするべきだろう?

読むのではなく、書きなさい。

現生から受けた折檻によって醜く腫れあがった己が心を癒すために、ただひたすらに物語を紡ぎ、目に見える世界を虚構の色に染め上げるのだ。

文字の世界に魂を売り渡し、佇立する肉体を記述せよ。

それこそが真なる幸せに至る唯一の道。

すなわち──<絶対小説>である。 

 

ここには、現実とは別の世界を作り出さなくては生きられない者の哀しみが、簡潔に表現されている。小説を書くという行為は、自らを創造主にすることだ。おのが手で望むままにキャラクターを作り、物語を紡ぎ、世界の運命を記述するのはこのうえない悦楽だ。しかし、そもそも虚構を作り出す作業に没頭すること自体、その人が不幸である証拠ではないのか。現実が生きやすいなら、虚構など生み出す必要もないのだから。誰かに作家の才能が宿っているとして、それが発揮されるのは、現実がつらいからなのだ。

 

この『絶対小説』には、売れないラノベ作家である兎谷の口を通じて、ラノベ業界の世知辛い現実も語られている。そのため、この作品はある種の「ラノベ作家もの」としても読むことができる。何度も何度もプロットを練り、出し続けても編集からボツを食らい続ける兎谷の苦労は、おそらく著者自身も経験したものだろう。最近知ったのだが、著者は昨年、noteでこんなエントリを書いている。

 

note.com

 

一度ラノベ作家としてデビューしたものの執筆活動は思うに任せず、どうにかウェブで再起をはかろうとするもののラノベとはまた勝手の違う世界に戸惑う著者の苦悩が伝わってくる。報われる可能性が低いと知りつつ、それでも書き続けようという悲壮なまでの決意がここに綴られている。この雌伏の日々がなければ、『絶対小説』は生まれなかっただろう。それを手にしたものには天才的な才能が宿るという、文豪の原稿。ものを書く苦労を知っているからこそ、『絶対小説』のこのキーアイテムの設定を思いついたのだろうから。

著者の苦悩にははるかに及ばないだろうが、この私だってもっと人の心を揺さぶる文章が書けないものか、と悩むことはある。どれだけ私が熱意を込めて書こうと、ブログなど見向きもされないのが普通だ。この文章にしろ、どれだけ『絶対小説』の魅力を伝えられているか心もとない。そんな苦しみが、ときに傑作を生むことがある。著者のラノベ作家としての苦悩は、講談社リデビュー賞受賞という結果につながり、『絶対小説』という実を結んだ。このような作品を私の手に届けてくれた講談社には拍手を送りたい。講談者が著者に再デビューの機会を与えなければ、この作品が世に出ることもなかったのだから。

 

とはいうものの、一度鳴かず飛ばずの境遇に陥り、再デビューを賭けてこの賞に挑んだものの、なお敗れてしまった作家があまた居ることもまた現実である。ここまで苦しい思いをして、それでも書き続ける理由とは何なのか。この小説の冒頭に書かれているように、やはり生きづらさか。あるいは名誉欲か、お金のためか、それとも意地なのか。それは当人にすらわからないかもしれない。いずれにせよ、作家を志すからには、その人は書かずには生きられないのだ。ただ名誉やお金がほしいだけなら、他にいくらでもそれらを得る手段はあるのだから。

 

saavedra.hatenablog.com

 

『絶対小説』は、不思議なことにその読後感は『先生とそのお布団』にどこか似ている。これもまた、作家という書かずにはいられない生き物の業を描いた作品だ。お断りしておくと、『先生とそのお布団』と、『絶対小説』はまったく違うタイプの小説だ。前者がラノベっぽいガワで包んだ私小説のような作品であるのに対し、『絶対小説』は様々なジャンルの要素を闇鍋的にひとつの作品に盛り込んだ怪作だ。

だが、両者に共通しているのは、報われなかろうが書き続ける、という強い強い小説への執着であり、愛だ。作家になるべく書くという行為は、永遠に山頂に岩を運び続けるシジフォスの苦行にも似ている。『先生とそのお布団』の先生が言うように、それでも書き続けるものは尊い。それができるのは、小説に選ばれたものだけだ。どれだけ良い文章を書く能力があろうと、書くことへの執着を欠くものは作家であり続けることはできない。

 

『絶対小説』は、『先生とそのお布団』とはまた違う形で、小説賛歌をうたいあげている。この作品の登場人物が小説に向ける愛の形は、『先生とそのお布団』よりもどこかいびつで、しかし純粋だ。それゆえに、私のように現実より虚構を愛する者には、この作品は深く刺さるだろう。数多くの試練を経て、最後に主人公がたどりついた欧山概念の真実もまた、読む者の心をえぐる。小説という形でしか、この過酷な現実と切り結ぶすべを知らない人種は存在するのだ。これは、そんな不器用な人々へ向けた、418ページにわたるラブレターだ。これほどまでに奇妙な、しかし熱い小説賛歌を、私はほかに知らない。小説を愛するすべての人に、一読をおすすめしたい。