明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】葉室麟『蛍草』

 

螢草 (双葉文庫)

螢草 (双葉文庫)

  • 作者:葉室 麟
  • 発売日: 2015/11/12
  • メディア: 文庫
 

 

葉室麟作品の中でも『蛍草』はもっともストーリーがシンプルな部類の作品だ。武家の娘が女中になり、世話になった優しい主人夫婦の恩に報いるため、主人の危機を救おうと奔走する。最後には胸のすく大団円が用意されている。葉室麟作品はどれもそうだが、読後感の良さは折り紙付きだ。この作品は一種の復讐譚であり、主人公は父を陥れた男の仇を討つことになるが、この結末に残酷な要素はない。

 

正直、いろいろなことが都合よく進み過ぎな感もなくはない。主人公の奈々が仕えていた市之進宅を追い出されてから、助けてくれる人々が次々と現れる。質屋のとよ、湧屋の権蔵、剣術指南役の五兵衛、学者の節斎などはそれぞれ一癖ある人物ではあり、出会った時点では一悶着あるものの、結局皆力を貸してくれる。奈々に想いを寄せる宗太郎ですら、恋心が報われないのをわかっていながら助けてくれる。奈々はわかりやすすぎるくらい善意の人々に囲まれている。が、本作ではそれが決して嫌味にならない。これらの脇役は読者の希望に沿って登場しているからだ。

 

心優しく、正しい志を持つ奈々は皆明が応援したくなるキャラクターだ。市之進の子供二人を育てるため野菜を売り歩き、市之進を陥れた政敵を討つため剣まで習う奈々にひどい目に合ってほしいと願う読者などいない。だから、この作品では徹頭徹尾読者がこうなってほしい、ということしか起こらない。ご都合主義であろうと、求められているものを書くのがプロだ。ここに意外性やどんでん返しはない。善人と悪人の区別も明確だ。善人は(一部を除いて)皆報われるし、悪は倒される。子供のころテレビで見ていたような、昔懐かしい人情時代劇の世界がここにある。

 

本作は『奈々の剣』と題してNHKでドラマ化されている。奈々を演じる清原伽耶をはじめ、市之進役の町田啓太、権蔵役の宇梶剛士などの俳優陣は原作の人物をほぼイメージ通りに演じている。

 

【感想】水野良『ロードス島戦記 誓約の宝冠1』は純然たる「戦記」になるか?

 

 

前作が神話や伝説だったとすれば、こちらは現実の歴史そのものというイメージになる。今回、ロードス島には英雄と呼べる人物はもういない。『ロードス島戦記』にはカシューやアシュラムやレオナーがいた。『ロードス島伝説』ではファーンやベルドやウォートが現役だった。今作にはこれらの人物に匹敵する者は出てこない。もちろん「ロードスの騎士」パーンももういない。加えて、ロードスの各地方を統べる国はどこも問題を抱えている。ロードスの現状については、ロードス全土の統一をたくらむフレイム王ディアスがこう語っている。

 

 わがフレイムは豊かになった。この国で暮らすことを誰もが誇りとしているであろう。だが、他国はそうではない。アラニアの領主は贅沢に溺れ退廃している。カノン王は貴族らの信任を得られず、国を治めることすらままならぬ。ヴァリスでは王国とファリス教団から二重の税を課され、領民は貧しい暮らしを送らざるをえない。モスは公王の座を巡って、相も変わらず分裂状態だ。そしてマーモは闇に魅入られ、邪悪に染まった……

 

「マーモが闇に魅入られた」は誇張で、実態は「闇の勢力も国の中に取りこんだ」といったところだ。主人公のマーモ王子ライルはゴブリンの上位種を従者にしているし、魔物使いのヘリーデは仲間だ。加えて実の兄がファラリス教団の神官になっているなど、他国には理解しがたい状況もあるが、別にマーモは闇の勢力などではなく、治安こそ悪いものの法と秩序はある程度根付いている。

 

だが、マーモについての言及を除けば、ディアスの発言はロードスの現状をほぼ正確に描写している。他国が混乱しているからフレイムがこれらの国を併合してロードスを統一すればいい、というのがディアスの言い分なのだが、実はディアスのこの姿勢はロードスの「平和システム」を破壊するものなのだ。

 

本作の冒頭では、ヴァリスの王城にロードスの六国の王が集い、千年の平和を共同宣言するところからはじまる。だが、この場に現れた大賢者ウォートは人間の理性などあまり信じてはおらず、「誓約の宝冠」の力によってロードスの平和を維持することを提唱する。この宝冠をかぶったものには禁忌の魔法がかかり、他国を侵略することができず、戴冠者が他国から攻められたら他の国に同盟の制約をかけることができる。宝冠の力でシステム的に平和を維持するのが、ウォートの考案した安全保障だった。

 

だが、フレイム王ディアスはこの宝冠を戴くことなく、他国への侵略を開始することになる。フレイム一国の実力はすでに他の五国をしのぐほどになっていたため、残る五国が同盟を結んだところで対抗できるか心もとない。千年続くはずだった平和は、わずか100年で終わってしまった。いや、むしろ100年もよくもったというべきかもしれない。「呪われた島」ではなくなったロードスからは魔物も消えつつあり、風と炎の砂漠は緑化が進んでいる。魔竜シューティングスターもとっくの昔に滅ぼされた。魔物や悪竜がいない世界では、人間同士の利害の対立がむき出しになる。それだけに、今作『ロードス島戦記 誓約の宝冠』は前作や前々作にくらべ、どこか生々しい。ファンタジー小説というより、フォーセリア世界の歴史小説を読んでいるような趣がある。今回は文字通り「戦記」をしばらくやることになりそうで、ダンジョン探索なんかする機会もなさそうだ。有名な遺跡はもう探索されてしまっていて、冒険者が活躍する余地も少なくなっている。

 

しかしだからといって、今作が完全に俗界の権力闘争になっているのかというと、そういうわけではない。主人公のライルがロードスの窮状を救うため、パーンの名を受け継いで「ロードスの騎士」を名乗ることになるからだ。ライルは正義感が強い熱血型の主人公で、パーンやスパークの系譜に連なる人物だが、この二人に比べてもやや幼く、剣技においてはマーモ騎士の姉にもかなわないくらいの腕前だ。だが熱意と行動力は人一倍で、初期のパーンに比べればいくらか頭も回る一面もある。今後の成長に期待できそうな主人公だ。

とはいえ、ライル一人では大したこともできない。「ロードスの騎士」の名乗りが実態を持つためには、パーンを知る者の助力が必要だ。そこでライルは帰らずの森に赴き、ディードリットの協力を仰ぐことになる。ディードリットには意外とあっさり会えるのに驚くが、ずっとこのシリーズを追いかけてきた読者からすれば、やはりディードリットの再登場は感慨深い。ディードリットは前作と今作をつなぐ最大のリンクであり、今後もずっとキーマンであり続けるはずだが、今のところまだライルのサポート役に徹している。活躍するのは次巻以降か、それともずっと陰で支える役回りになるか。

 

ライルに加え、もう一人の主人公ともいうべき存在がライルの兄ザイードだ。剣技に長け頭も切れるザイードは、ある思惑からフレイムに協力し、傭兵として対アラニア戦に参加することになる。この戦線では傭兵隊長から参謀としての役割を求められるザイードだが、このザイードに接近してくる人物がいる。魔術師のテューラだ。彼女は非力なので戦場で守ってほしいとザイードに懇願するが、このテューラの口を通じて読者は今のロードスの冒険者事情を知ることになる。先にも書いたように有名な遺跡はすでに探索されつくしていること、加えて魔術師は余っていること、師匠につく金がなければ仕事の紹介も受けられず傭兵になるしかない……などなど、魔術師業界の世知辛さをテューラは語る。こうしたビターさも、今作が「現実の歴史」の物語としての色が強いことの表れだ。

テューラが傭兵になっていたり、マイリー神官がザイードに協力し戦意高揚の呪文を使っていたりと、今作では魔法はほぼ対人間の戦争で使われている。魔法使いや神官は冒険者としてではなく、軍人として必要とされている。彼らはもう冒険者になることはないのだろうか。少なくともこの巻では魔物との戦いは一切ない。この物語は純然たる戦記として展開していくのだろうか?それもいいかもしれない。だが、それだけでは済まなさそうな要素が今作には出てくる。

 

前作の登場人物で今回も登場しているのはディードリットとリーフくらいだが、実はもう一人旧『ロードス島戦記』とリンクを持つ人物が本作には登場する。流行りのネタ?を取り入れたのか、ある超重要人物がこの時代の人物に〇〇しているのだ。実はこれが今作一番の不穏要素で、ここからファンタジー展開が強まっていく予感もある。この人物が平穏無事な生涯を終えることはおそらくあり得ず、下手をすればロードスに災厄をもたらす存在になりかねない。やはりこういう要素があってこそのロードス島戦記だ、と思わされる。ただ人間同士が争っているだけではこの物語は物足りない。この人物が次巻以降どうストーリーにかかわってくるか、注目していきたい。

【書評】中国歴史人物選『秦の始皇帝 多元世界の統一者』

 

 

始皇帝の本は古いものだと、どうしても史記のエピソードを並べることに終始しがちだ。長平の戦い、呂不韋と出生の秘密、嫪毐の乱荊軻の暗殺未遂事件、焚書坑儒と長城建設、全国巡遊と始皇帝陵の話を書いたら大体終わる。それぞれの出来事に著者なりの解釈をほどすことはあっても、とりあげる話題はそう変わらない。始皇帝にまつわるトピックはすべて有名なものばかりなので、知っている人はいまさら同じ話を本で読む必要もないか、と思うかもしれない。

 

となると、始皇帝とその時代について新しい話題を提供できるのは、考古資料ということになる。幸い、秦代については竹簡や木簡という格好の手がかりがある。中国各地から出土している竹簡・木簡は文字資料の隙間を埋めてくれる貴重なものだ。本書『秦の始皇帝 多元世界の統一者』でも、1章を竹簡に費やしている。この本の7章「竹簡は語る」を読むと、秦帝国の意外な統治の実態もみえてくる。

 

第7章で一番印象的なのは、秦帝国における尋問の手順を記した文章だ。

 

取り調べのさいには、当事者の言い分をすべて聴取し、それを記録しておくこと。各自に供述させるにあたっては、嘘をついていることがわかっても、そのたびにいちいち詰問してはならない。供述がすべて終わって弁解がなければ、そこで初めて不審な点を詰問せよ。詰問されて返答につまり、(犯人であることが自明であるにもかかわらず)何度も嘘をつき、言を左右にして認めず、(その態度が)律の規定にてらして拷問に相当するならば、そこで初めて拷問せよ。ただし拷問した場合には、そのむね文書に明記しておかねばならない。

 

秦の取り調べはとにかく痛めつけて自白させればいい、というものではなかった。拷問は認められているが、それも秦の法律で必要と認められるときだけ用いるものだった。秦の法律が厳しかったことは間違いないが、それは民衆だけでなく役人にも適用される。裁判に公正を欠いた役人は南北の辺境へ強制移住させられた。

 

始皇帝が中華を統一した後、その治世の後半は匈奴と南越の征服事業に費やされている。不正を働いた役人が強制移住させられたのは秦が征服したこれらの土地だ。この遠征はどのような意図のもとに行われたか。匈奴に関しては「秦を滅ぼすものは胡なり」と書かれた預言書を読んだからという理由は成り立つが、それなら南越の地を征服する必要はない。

秦が南北の辺境に手を伸ばしたのは、本書によれば支配者としての正当性アピールだ。六国の征服を正当化するためには、これらの国ではなしえなかった事業を始皇帝が成し遂げたという説明が必要だった。「中華」の外の領域まで征服するのは、始皇帝が天下の統一者として認められるための政治的行為だった。

 

人間・始皇帝 (岩波新書)

人間・始皇帝 (岩波新書)

  • 作者:鶴間 和幸
  • 発売日: 2015/09/19
  • メディア: 新書
 

 

この征討事業の負担が重いため、結局内乱を招いてしまったことは疑いない。「六号の内は皇帝の土」という理念のための政治は、民衆に多大な苦労を強いた。『人間・始皇帝』では、いわゆる「焚書坑儒」は南北の征服事業への批判を抑えこむためのものだったと指摘されている。裏を返せばそれだけ知識人の戦争批判が激しかったということでもあり、これを弾圧した時点で秦のイメージが悪いものとなるのは必然だった。知識人の中には儒者が多く含まれ、のちに儒家イデオロギーが中国を染めることになるからだ。

 

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【感想】加藤九祚『シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅』

 

 

94歳で亡くなるまで発掘の最前線に立ち続けた加藤九祚氏が、アムダリア遺跡で出土した発掘品についてまとめたもの。一番興味をひかれたのはやはりアイハヌム遺跡で、ここではギリシア人の生活の痕跡がそのまま残っている。アレクサンドロスの東方遠征後、この地に移住したギリシア人が後にバクトリア王国を建てているが、この国は紀元前145年ころに突然の終末を迎えている。

 

アイハヌムの建築物はギリシア人の建築家が作ったものだが、宝物庫はペルセポリスの者と類似している。これは遠征途上で見た新バビロニアやアケメネス朝の建築物からインスピレーションを得たためだという。一方、体育館のようにギリシア都市で必要とされた建築物もあり、地中海からはるか東に離れた土地でもギリシア文化が根付いていることがうかがえる。劇場は5000人の観客を収容でき、アイスキュロスエウリピデスの劇が上演されたという。

 

古代ギリシャの劇場で奏でられた楽器のひとつに「アウロス」というフルートがある。アウロスはタフティ-サンギン遺跡のオクス神殿で発見されているが、その名称は『イリアス』にも出てくるほど古い。本書によればフルートの歴史は古く、中国では全7000年紀の遺跡から骨製フルートが発見されている。だがこれなどは実は新しいほうで、4万年前にすでにフルートが存在していたことも知られている。

 

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オクス神殿から出土したものには武器も多く、マハイラやクシフォスと呼ばれるギリシア式の鉄剣も出ている。これらの名称は『イリアス』『オデュッセイア』にも出てくるもので、やはり起源は相当に古い。これらの神話に出てくる遺物を実際に目にすることができるのも、発掘の醍醐味ということだろうか。

 

バクトリア王国が滅びても残ったギリシアの風習も存在する。死者の口にコインを置く「ハロンのオボル」の風習はクシャン時代以降も残っていることがリトヴィンスキーによって明らかにされたが、著者によればこの風習の起源をエジプトやシュメルに求める説もあるそうだ。

 

「オボル」とは古代ギリシアの銅貨(六分の一ディルヘム)のことで、死者の霊が渡し賃としてオボルをハロンに支払えるように、葬式の時死者の歯の間にそれをはさんだ、という。ギリシアではこうした風習が全4世紀からあったとされている。しかし死者の口や手、胸あるいは遺骸のそばにコインをおく風習は古代ユーラシア各地に見られた。イランや中央アジアや漢代中国にもあった。フレイザーの『金枝篇』ではコインをおく風習以前に食べ物をおく風習があったとしている。小谷仲男によると、仏典の『大荘厳論経』にもこの風習のことが書かれている。リトヴィンスキーによれば結論として、中央アジアについてはギリシアの影響によるものとしているが、この風習の起源はエジプト説、シュメル説などもあり、今のところはっきりしていない。

 

【感想】鈴木董『大人のための「世界史」ゼミ』

 

大人のための「世界史」ゼミ

大人のための「世界史」ゼミ

  • 作者:鈴木 董
  • 発売日: 2019/09/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

この本には「文化」「文明」に独自の定義がある。シュペングラーやトインビー、サミュエル・ハンチントンなどあまたの知識人がこれらの言葉を独自に定義してきたが、本書におけるこれらの言葉の定義は今まで用いられた「文化」「文明」のイメージとは大きく異なる。本書における「文明」と「文化」の定義は以下の通り。

 

文明……人類の、外的世界(マクロコスモス)と内的世界(ミクロコスモス)に対する利用、制御、開発の能力とその所産の総体、そしてその諸結果についてのフィード・バックの能力とその所産の総体

 

文化……人間が集団の成員として後天的に習得し、共有する行動、思考、感性の「クセ」の総体と、その所産の総体

 

この定義に従うと、文明はどちらがより有効性が高いかを比較することができる。とくに外的世界のコントロール能力は比較しやすい。たとえば動物を捕らえるのに棍棒を使う部族と弓矢を使う部族では、後者が前者に対し「比較優位」にある。文明の比較優位と比較劣位の差がもっともよく出るのが戦争で、例えば青銅器しか持たない文明は鉄器を武器として用いる文明にはかなわない。

 

文明をこう定義したうえで、本書では文明の興亡を追いつつ世界史の流れを追うことになる。先に書いたように文明は比較可能なので、この本では「比較優位」という言葉が何度も出てくる。6章ではローマ帝国と中国の組織力を比較しているが、著者によれば「組織のローマ」とその組織力を高評価されるローマ帝国より中国のほうが「比較優位」にあったという。ローマ市民権を全自由民に与えるローマのやり方よりも、中国風文化を身につけた人を「中華」の中に取り込んでいく中国の凝集力のほうが強力だった、という見方だ。

 

この本では著者独自の視点から、『銃・病原菌・鉄』にも突っ込みを入れている。タイトル通り鉄と病原菌と銃を持っていた西欧文明が他の文明に対し「比較優位」を持つことができたというのがジャレド・ダイアモンドの主張だが、著者に言わせればこの見方にはアジアと西欧とのかかわりが抜けている。西欧がこれらの力で優位に立つことができたのは新大陸の文明に対してであり、ペストやコレラなどの伝染病はもともとアジアから西方に伝わってヨーロッパ人を苦しめたものだ。鉄器もヒッタイトが起源で後にヨーロッパに伝わったもので、鉄や病原菌は旧大陸では西欧が比較優位を確立する役には立たなかった。

 

このように、本書ではアジア文明の優位性を再評価している箇所が少なくない。のちに西欧文明はハードとソフトの両面でイノベーションを起こし、アロー戦争に勝利してアジアに対する「比較優位」を決定づけるものの、巨視的にみれば西欧の覇権も一時的なものにすぎない、と著者は予想している。

 

このインドと中国には、ある共通点があります。それは何だかおわかりですか?「グローバル・システム」に包み込まれる前、世界には自己完結的な「文化世界」が並び立っていたというお話をさせていただきました。その「文化世界」の中核部分がまさに「世界」としてのまとまりを維持したまま、「国民国家」になったのがインドと中国なのです。いわば、「国民国家」の衣装を着た「世界」のようなものです。それが民族対立などからバラバラになることもなく、どちらも13億人を超える人口を抱えて成り立っている、非常に特殊な世界なのです。(p308)

 

中国とインドが21世紀中にアメリカを追い抜き、超大国になるというのが著者の思い描く未来図だ。未来の歴史家は西欧の覇権は18世紀初頭に始まり20世紀半ばで終わりを告げたと書くかもしれない、とも著者は予想する。古代世界において有力だった二つの文明圏が再び復活を遂げることになる。文明は「蓄積」することができるというのがこの本の文明観の特徴のひとつだが、それなら歴史が古く蓄積の多いインドと中国がふたたび台頭してくるのも必然ということになるだろうか。

鉄砲一挺60万円、人間一人が10万円~……戦国時代の経済を俯瞰できる『戦国大名の経済学』

 

戦国大名の経済学 (講談社現代新書)

戦国大名の経済学 (講談社現代新書)

 

 

戦国大名の領国経営にはどれくらいお金がかかるのか?あるいは収入はどれくらいなのか?こういう疑問を持ったことがないだろうか。銭がなくては築城も戦争もできない。本書『戦国大名の経済学』は、戦国大名の平時の財源や支出・戦時の収支など領国経営の実態について解説しているだけでなく、楽市楽座の実行状況、鉱山経営、貨幣の流通状況など幅広いトピックを紹介しているお得な一冊だ。

 

まず一章「戦争の収支」を読むと、装備品の費用が現在の価値で記されている。たとえば鉄砲一挺が50~60万円、刀が3~4万円といった具合だ。もっとも刀には高価なものもあり、高いものだと600万円程度のものもある。これは武器というより美術品としての価値だ。こうしてみるとやはり鉄砲は高い。長篠の戦いでは武田家も鉄砲を軽視していたわけではないが、やはり織田家は経済力が高いため多くの鉄砲をそろえられたということもわかってくる。

興味深いのは人間一人が10~70万円と推定されていることだ。武田家が乱取り(略奪)で連れ去った人間を連れ戻すために、これくらいの金額が必要だったらしい。身代金をせしめることができるから、乱取りは儲かったのだろう。『甲陽軍鑑』には乱取りのおかげで甲斐は豊かだったと書いてあると『雑兵たちの戦場』では紹介されている。

 

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治水や築城・土地開発や道路の整備など、領国経営はとかくお金がかかる。だが、戦国大名にとりとくに重要な出費が朝廷や幕府への献金、つまりは賄賂だった。3章「戦国大名の平時の支出」では、伊達成宗が足利義政に銭三万疋を献上した事例を紹介しているが、これは現在の価値では2000万円程度になる。伊達家の当主は代々将軍の名前をもらっているが、伊達家と室町将軍家が親しかったのはこのような賄賂のおかげなのだ。伊達稙宗は将軍から守護に任じられているが、こうした権威を獲得するためにも賄賂は欠かせないものだった。

 

 賄賂は現代社会では忌み嫌われ、しばしば、手を染めた者は最大限の非難を浴びる。しかし、中世ではそのような罪の意識はまったく無いどころか、賄賂を贈ることのできるだけの財力を有することは美徳とすら見られていたような節がある。権力者たちは自らに有利な裁定を引き出すために、何のためらいもなく、朝廷や幕府の意思決定権者やその実務を担う官僚たちに惜しみなく賄賂をばらまいた。否、むしろ、そうでもしないと権力闘争を勝ち抜けない社会だった。戦国時代は朝廷も幕府も弱体化していたとはいえ、官位や守護職任免の実権は握っており、それによって自らの権威を荘厳しようとする大名は少なくなかった。(p100)

 

成宗は二度目の上洛で、実に総額五億円相当の金品を面会した人々にばらまいている。成宗の経済力は相当のものだったようだ。本書では成宗の経済力の背景として、陸奥の金や北方との交易があったと推測している。

 

信長の楽市楽座について知りたい読者には、5章「地方都市の時代」が参考になるだろう。しばしば「中世の否定」と評価される楽市楽座だが、本書によれば信長がこの政策を全領国に拡大しようとしていたかは怪しいという。信長は朝倉氏を滅ぼして越前国支配下におさめたのち、北庄では旧来の商人の特権をそのまま安堵している。これは楽市楽座とは真逆のやり方だ。戦乱直後の混乱を収めるためには既存の秩序をそのまま認めるしかなかったという事情があったようだが、楽市楽座は一貫した政策ではなく、必要な場合にだけ持ち出されるものだったようだ。

 

以上のようにみてくると、織田氏が中世的な商業システムを全面排除しようとしたというのは、正しい評価とはいえないだろう。実際には旧来のシステムをそのまま温存することも少なくはなかった。しかし、それをもって信長が中世的な因習に固執したとか、旧来的な権力に過ぎなかったと批判するのも酷だろう。戦乱で社会が混乱する中、新たな征服者としての統治に乗り出すことの多かった信長には、迅速な戦後処理による世情の鎮静化が喫緊の政策課題であったはずである。何より、当地の民衆がそれを求めたに違いない。

特に旧来の権益維持への強い要求があった場合、それを認めることで安心させるのが一番の得策であったはずである。それはより強大な権力を形成した後の豊臣政権下でも同様だった。信長は、革新性のイメージが先行しがちだが、突飛な政策でいたずらに社会を混乱させたのではなく、そのごく一部を除けばきわめて現実的な政策を的確に選択しているた、むしろそう評価すべきだろう。信長の卓越した経済感覚とは、このような姿勢にこそ表れているのである。

 

楽市令は安土で出されたものがもっとも有名だが、一から集客が必要だった安土と、既存の町である北庄では取るべき政策が異なっていた。その場その場で必要な政策を実行していた信長は、本書に書かれている通りリアリストと評するのが妥当だということだろうか。

【感想】檀上寛『陸海の交錯 明朝の興亡』

 

陸海の交錯 明朝の興亡 (シリーズ 中国の歴史)

陸海の交錯 明朝の興亡 (シリーズ 中国の歴史)

  • 作者:檀上 寛
  • 発売日: 2020/05/21
  • メディア: 新書
 

 

明代はモンゴル史家から「暗黒時代」と評されることがある。では、明代の専門家はこの時代をどう見ているのか。中国史の概説としてはめずらしく明代史のみを取り扱った本書を読めば、新書一冊でこの時代を俯瞰することができる。

 

まず初代皇帝の朱元璋の政策についてみていくと、朱元璋は「儒家」だったという意外な記述がある。胡惟庸の獄や藍玉の獄など、数多くの家臣を粛正した朱元璋の統治姿勢は法家そのもののように見えるが、この本によれば徳の通用しない小人に対して法を用いるのは漢代以降容認されている。朱元璋儒家の建前を利用して法を行使していたのであり、徳治を掲げつつやむをえず法を用いる、という儒教の論理が刑罰の執行を後押ししていた。

元末には社会が混乱していたため、社会秩序を安定させるためにも法治が求められた一面はある。民の生活を安定させるために法を用いて綱紀を粛正することが朱元璋のねらいだった。だが、廷杖の刑の行使や五拝三叩頭の礼の強要、文字の獄による学者・文人の弾圧など、朱元璋専制主義はあまりに苛烈だった。このような彼の性格は「狂気と信念の非人間的皇帝」と評されている。この時代の専門家から見ても、やはり朱元璋は一個の怪物だった。

 

社会の内実はどうかというと、明初の社会は流動性の低い社会だった。職業は固定化され、世襲が義務付けられている。農民は里のなかから一歩も出ることは許されず、夜間は出歩くことができない。加えて互いの行動も監視しなくてはならず、科挙合格を除けば庶民が身分を上昇する手段もまずない。「暗黒時代」は言いすぎとしても、空間的移動も身分的移動もごく限られているこの社会が生きやすいものとは感じられない。社会秩序を維持するため、「分」を守ることを求められた農民の心中はどのようなものだったろうか。

 

明の対外関係については、いくつかおもしろい記述がある。明初は海禁策が実行されていたが、これは「海上土豪」が日本から押し寄せる倭寇を巻き込んで明に抵抗していたため。中国沿海部の住民が海上勢力と結託するのを防ぐには海禁策をとるしかない。日本との国交も当然絶たれていたが、永楽帝の時代に入り義満が日本国王に封じられる。永楽帝が日本を重視したのは倭寇対策のため日本の協力が必要だったからでもあるが、日本が明に臣従したこと自体にも大きな意味があった。というのは、日本はクビライが求めた朝貢を蹴って元と戦ったからだ。元が従えられなかった日本を臣従させたことは、それだけ明の権威を高めることにつながる。

明にとり倭寇対策よりさらに重要なのは北のモンゴル対策だが、永楽年間に明はモンゴルやオイラト冊封し、朝貢一元体制に組み込む。この体制下では北辺での交易が禁じられているので、モンゴルは朝貢貿易で利益を得るしかない。朝貢の人数が増えると下賜品も増えるのでモンゴルやオイラトはできるだけ朝貢の人数を増やそうとするが、明側は金品の下賜を抑えようとするので両者の間に軋轢が生まれる。この軋轢が戦争に発展したのが土木の変で、オイラトの指導者エセンは明と有利な講和条約を結ぶことしか頭になかった。エセンは明から得た金品をは以下に配ることで求心力を得ていたため、明からの下賜品を減らされたら黙ってはいられなかった。

 

「明朝は万歴に滅ぶ」といわれるが、万暦帝の時代大いに明を圧迫した秀吉の朝鮮出兵の意外な影響についてもこの本ではふれれている。明軍は捕虜となった日本兵から新式鉄砲を手に入れ、旧来の鋳銅製から日本式の鍛鉄製の銃に切り替え鳥銃の耐久性を強化している。さらには日本兵を使って女真族に備え、西南地方の少数民族の反乱鎮圧にも利用している。戦国時代を生き抜いた日本兵は強かったのだろう。朝鮮も降伏した日本兵から火薬や鉄砲の製造技術を学び、また日本からの輸入も行い17世紀には多くの鉄砲を所有するようになっている。日本の影響で東アジア全体に軍事革命が起こっていたことになるが、このように明代史だけでなく明を中心としたグローバルな歴史の流れをおさえられることも本書の特長だ。

 

既刊の岩波新書シリーズ中国史の書評はこちら。

 

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