明晰夢工房

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【書評】殷の女性兵士から兵馬俑の髪型の秘密まで、古代中国史の最新知見を得られる『戦争の中国古代史』

 

戦争の中国古代史 (講談社現代新書)

戦争の中国古代史 (講談社現代新書)

 

 

古代中国史の入門書として文句なしにおすすめできる本が出た。本書『戦争の中国古代史』はタイトル通り軍事についての記述が多いものの、殷~前漢の政治史を要領よくまとめているので古代中国史の概説書としても使える一冊になっている。古代中国史の最新知見を盛り込みつつ、殷の女性兵士や武霊王の「胡服騎射」改革の真の目的、「宋襄の仁」が当時の「軍礼」に基づく行為だったことなど、興味深いトピックを数多くとりあげているので、中国史に少しでも関心のある人なら楽しく読みすすめられる内容になっている。

 

以下、興味を引かれた内容についていくつか紹介する。

 

殷に「女性兵士」は存在したか

殷の王妃・婦好は「戦う王妃」として有名だ。実際に彼女と軍事とのかかわりを示す甲骨文が出土している。だがこの本によれば、殷代には女性の司令官だけでなく、女性兵士が存在した可能性があるという。前掌大遺跡や少陵原遺跡など、下層の貴族や平民の女性の墓にも武器が副葬されている例があるからだ。女性と思われる人物とともに埋葬されている玉戈には被葬者の軍功らしき文章が書かれているものもあり、この点からも女性が出征していた可能性が指摘されている。

 

武器の副葬は魔除けの可能性もあり、必ずしも女性の出征を示す証拠にならないという批判も出ているが、これらの出土品は古代の戦争の実態を知るうえで貴重な史料であることは間違いない。今まであまり殷代の歴史に興味がなかったが、この話題だけでも殷代の出土品が魅力的であることがわかった。

 

「宋襄の仁」は当時の戦争のルールに基づく行為だった

「宋襄の仁」という有名な故事がある。宋の襄公が川を渡る途中の楚軍を攻めず、陣をととのえるのを待ってから戦って大敗したため、「無用の情けをかける」意味でよく用いられる。ここだけを見ると襄公はいかにも地に足のつかない理想主義者にしかみえない。だがこの本によれば、渡河する途中の敵を攻めないのは当時の「軍礼」(戦争のルール)にもとづいた行為で、襄公はこの規範に従っていたのだという。

 

軍礼とは「スポーツで言えば競技のルールであるとかスポーツマンシップのようなもの」とこの本では説明される。この軍礼においては渡河の途中の敵を攻めてはいけないことになっていたようで、楚もこのルールを共有している。

 

高木氏は、『佐伝』の中の戦争に関する記述を参照すると、当時の人々が、弓矢による攻撃を交互に行うというルールや、窮地にある敵、脆弱な敵、負傷して戦意のない敵、喪中の敵などへの攻撃を控えたり、敵であっても武勇に優れた者には敬意を払うといった規範意識を共有していたことが見いだせるという。襄公の場合は、川を渡る最中で窮地にある敵を攻撃しないという規範を実行したことになる。

実際に敵軍が川を渡っている時に攻撃をしてはいけないというルールが共有されていたようで、『佐伝』僖公三十三年には、晋と楚が汀水という川を挟んで対峙した際に、晋軍が楚軍に「そちらが川を渡るのであれば、わが軍は後方に退くので、その間に川を渡って陣を整えよ。あるいはそれが嫌ならそちらが退いて我が軍が川を渡るのを待て」と提案し、楚軍は自分たちが後方に退いたという話が見える。の戦いで宋を破った楚も、ここでは渡河の軍礼を共有していたということになる。(p128)

 

ルールにのっとって正々堂々と戦うべき、という規範が、春秋時代にはまだ存在していた。この規範はしだいに崩れていき、やがて孫子が「兵は詭道なり」と主張するように不意打ちや騙し討ちなどを戦争の本質とみなす兵家が台頭してくる。『孫子』の成立は春秋時代後期と考えられているが、それが本当なら戦国時代に入る前からすでに戦争観は現実的で厳しいものになっていたことになる。

 

「胡服騎射」改革と趙・燕・秦の「小帝国」化

戦国時代の軍事改革として有名なものに、趙の武霊王の「胡服騎射」がある。これはよく知られているとおり、騎兵を導入することで軍事力の強化をはかったものだ。だがこの本では「胡服騎射」はたんなる軍制改革ではなく、林胡や楼煩などの遊牧民との親和をはかる礼制・外交改革でもあったという見方を紹介している。武霊王は趙を中原の国家としてだけでなく、「胡人」の政権としても位置づけようとしていたというのである。これは趙の「帝国化」へ向けた動きであり、事実武霊王は北方の遊牧民の制圧に成功している。

この「帝国化」の動きが趙だけでなく、他国でも進行していたことがこの本では指摘されている。たとえば燕は遊牧民の東胡を攻め遼東や鴨緑江の東へと勢力を広げているし、秦もまた義渠や巴・蜀を滅亡させ支配下に置いている。三国とも支配領域を「中華」世界の外にまで押し広げていて、「小帝国」を形成している。こうした動きはやがて秦が中国を統一することで生まれる大帝国への胎動と位置付けられる。楚も「帝国化」をめざしていたと本書では指摘されるが、楚は秦の名将・白起に首都を攻め落とされたため強国の地位から脱落した。すでに「帝国化」していた趙も長平の戦いで秦に大敗したため、これ以降は秦一強の時代になる。「小帝国」同士の争いを制した秦が中国を統一するのは、歴史の必然だった。

 

兵馬俑の髪はなぜ右側で結われているのか?

秦の兵馬俑はあまりにも有名だが、もの言わぬ兵馬俑も資料としてはかなり雄弁で、秦について多くを語ってくれる。この本では兵馬俑の髪型に注目している。秦の兵士は髪を右側に束ねて結っているが、これを結髪とよぶ。なぜこの髪型なのだろうか。この本で紹介する鶴間和幸氏の見解では、結髪にすると髪が砂と埃から守られるのだという。つまり、兵馬俑の兵士の髪型は、首都咸陽付近の防衛か、胡人との戦いを意識したものということになる。趙や燕などの「小帝国」を併呑し大帝国となった秦は、必然的に匈奴などの胡人と向き合わねばならないことになる。結髪は秦を象徴する髪型といえるのかもしれない。

さらには、秦では髪型は軍隊編成上の身分標識でもあったという。冠をかぶらず髪をあらわにしているのが当時の一般兵士の髪型だったようだ。兵馬俑の結髪は実用的だっただけでなく、その地位を表すものでもあった。あまり史料には登場しない一般兵士のことを知る手がかりとして、兵馬俑がきわめて重要であることを再認識させられる。

 

殷周史の入門書としても便利

以上、面白かった個所をいくつか紹介したが、著者の佐藤信弥氏は殷周史の専門家であるだけに、この本はマイナーになりがちな西周時代についての記述も充実している。周が牧野の戦いで殷に勝利した要因として戦車戦に習熟していたことがあげられること、周の外敵だった獫允(犬戎)は戦車を所有していて周と同じ文明圏にあったらしいことなど、この時代にもとりあげたかったトピックが数多くある。西周時代には一章が割かれているので、ぜひ読んでこの時代についても知ってほしい。西周時代の馬車はイラスト付きで解説されているので、当時の戦車戦を想像する手がかりにもなる。西周に興味がわいたら同氏の『周―理想化された古代王朝』を読めば、さらにこの時代をくわしく知ることができる。

 

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

 

 

マギレコのPAPA先生が描く武田信虎のマンガが面白い

なんと平山優先生監修の武田信虎のマンガがツイッターに投稿されていた。描いているのはマギレコでお馴染みのPAPA先生。信玄のパパだからPAPA先生という人選?かわいい絵柄なのに内容は本格派だ。

 弱冠14歳で武田家当主になり、翌年に坊ヶ峰の戦いで反乱軍を撃破する信虎。天才かな?実際に指揮していたのは家臣の誰かかもしれないけどすごい。

 京都を真似して升目上の区画をつくり、甲府を建設する信虎。そして国衆とその家族を強制的に甲府へ移すなど剛腕を発揮している。秀吉の城下集住策に先んじること半世紀。やっぱり信虎はすごい。

 甲斐に攻め込んできた1万五千の今川氏親軍を二千の兵でどうにか退ける信虎。すごい……のか?戦勝の数日後に生まれたため勝千代と名づけられた子が後の信玄。

 

 

棟別銭を課し佐久郡も平定するなど着々と力を蓄える信虎。しかし次第に晴信との確執が深まっていく。

 

家臣の人望を失い追放されるも、武田家の基礎をつくったとフォローされる信虎。甲府を建設し甲斐を統一した信虎の存在なくして、信玄の活躍はない。信虎の悪評が広まったことで甲斐が晴信の下で一致団結したという功績(?)もある。すごいのかそれは。

 

武田信玄アレクサンドロスなら武田信虎はフィリッポス二世みたいなものだ。内憂外患に悩むマケドニアを危機から救い、新首都を建設するなどきわめて有能だったこの父なくしてアレクサンドロスの活躍はない。フィリッポス二世はわりと有名だが、武田信虎の名誉回復は十分になされているとはいえない。甲斐を強国にのし上げ、信玄が雄飛する基礎をつくった人物として、もっと注目されていいように思う。

武田信虎 (中世武士選書42)

武田信虎 (中世武士選書42)

  • 作者:平山 優
  • 発売日: 2019/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

【感想】菊池英明『太平天国 皇帝なき中国の挫折』

 

 

なぜ太平天国軍は清朝にかわり、中国の支配者になれなかったのか。そう問いを立てつつこの本を読みはじめた。読み進めると、太平天国側の体制にはある「狭さ」があったことが見えてくる。太平天国は上帝のもとでの大家族という理念を掲げ、人々が一律に平均化された生活を送ることで格差のない社会をつくれると訴えたが、本書によればこうした理想社会は往々にして貧困と差別に苦しんだ客家のコンプレックスの裏返しであったため、北方民族や漢族の他のサブグループへの包容力を欠いていたという。

 

太平天国の指導者・洪秀全客家の出身だったことはよく知られている。中国南部に華北から移住した客家たちは、移住先ではよそ者として差別的扱いを受け、社会の下層で苦しむことが多かった。こうした境遇に置かれた反動として、客家は「自分たちこそは中原からやってきた正当な漢族の末裔だ」というアイデンティティを持つことになる。洪秀全もまた南宋の大臣を洪一族の始祖として祀っており、これがのちに洪秀全が「選ばれし者」と自認する基礎となった。こうした屈折した自己認識を持つと、人は他者への寛容さを欠くことがある。

 

太平天国が他の漢人への包容力を欠いていた一例として、この本では太平天国の南京の女性への待遇を紹介している。南京を占領した太平天国は南京の婦人に米や水の運搬・竹の伐採や堀の掘削などさまざまな仕事を要求したが、これは纏足をしている南京の女性にできることではない。太平天国には安徽などの貧しい地域出身の女性が多く、こうした女性はこれらの仕事を苦にはしないが、太平天国は安徽の女性と南京の女性の生活を無理に平均化しようとした。太平天国の掲げる「貧しきを憂えず均しからざるを憂う」は中国古来の伝統的価値観への回帰でもあったが、その内実は現実を無視した原理主義に他ならなかった。

 

太平天国の抱える「狭さ」は対儒教政策にもあらわれている。もともとキリスト教の影響を受けている太平天国孔子廟を壊し、儒教の経典を焼いたため読書人の反感を買っていた。南京では儒教関連の書籍を「妖書邪説」としてすべて焼却した。だが地方支配には文書作成などの読書人の能力が必要とされるため、太平天国儒教政策を転換し、統治に必要な部分は容認している。それでも読書人を太平天国に参加させるのは困難だった。対して漢人官僚の曽国藩は多くの読書人を湘軍に吸収し、将校としている。太平天国でも読書人が厚遇された例はあるというが、それでも曽国藩の陣営に参加するほうが「礼教」の世界に生きる読書人はより葛藤を感じなかっただろう。著者にいわせれば「太平天国が読書人を味方につけられなかったことが湘軍を生んだ」ことになる。

 

いまこうした現象に注目すれば、太平軍と湘軍の戦いはヨーロッパと中国という二つの文明間の観念戦争という様相を呈していた。ただし、太平天国自身は上帝を中国古来の神と認識しており、めざしていたのも「いにしえの中国」の復活だった。その論理に従えば、太平軍と湘軍は「大同」の理想実現による社会的な格差の解消か、それとも「礼教」すなわち神々に代表される社会秩序の維持かという、それ自体はきわめて中国的な価値観に基づいて争ったことになる。(p148-149)

 

この記述に従うなら、太平天国も曽国藩の湘軍も、どちらも中国的な価値観に拠っていたことになる。であれば、長く中国に根付いている儒教の伝統に従った湘軍に分があったということだろうか。太平天国は「大同世界の実現」という理想を実現するため強圧的な政策を行い、江南都市など他地域にすむ人々の習慣や価値観への包容力を欠いていた。こうした不寛容さはこの本によれば、ユダヤキリスト教の影響によるものだという。抑圧された民の異議申し立ては、抱えた苦難の大きさからしばしばエスノセントリズム(自民族中心主義)に陥り、他者の苦悩への理解を欠いてしまうからだ。太平天国が全国的な政権に成長するにはより多様な人々を包摂することが不可欠だったが、思想上の限界でそれは不可能だったのかもしれない。

 

話は前後するが、洪秀全はもともと理想世界をつくるため挙兵しようとしていたわけではない。この本の一章によれば、かれは若いころアメリカ・バプテスト派の宣教師イッサカル・ロバーツを訪れ、洗礼を受けることを求めていたが、この時点での洪秀全は武力蜂起など考えてはいなかったという。だが彼に嫉妬するある中国人が、洗礼を受けたあとも勉強を続けられるよう奨学金を申請するといい、と悪意のアドバイスをした。経済的庇護を受けるため入信する「ライス・クリスチャン」を嫌っていたロバーツは洪秀全の申し出を拒絶し、洗礼は無期限に延期されてしまった。もし洗礼を受けられていれば、洪秀全はまじめなプロテスタントとして生き、戦乱とは無縁の生涯を過ごしたかもしれない。あとから何を言っても仕方がないが、太平天国の乱が2000万人を超える犠牲者を出し「人類史上最悪の内戦」とも評されることを思うと、洪秀全が平和に生きられた可能性についてつい考えたくなる。

【感想】筒井忠清編『昭和史講義 戦後編(上)』はシベリア抑留の入門書として使える

 

昭和史講義【戦後篇】(上) (ちくま新書)

昭和史講義【戦後篇】(上) (ちくま新書)

  • 発売日: 2020/08/07
  • メディア: 新書
 

 

全20講の構成で昭和史の様々なトピックを取りあげているが、この本の内容ではとくにシベリア抑留について興味を引かれた。第3講「シベリア抑留」は22ページ程度の内容だが、この講義でソ連に捕らえられた日本人がシベリアでどのような生活を送ったかが簡潔にまとめられている。

 

この講義によれば、ソ連とモンゴルに抑留された日本人は70万人以上、そのうち死亡者は10万人程度と推定されている。数字を見ただけでいかに過酷な環境で働かされていたかがわかる。ソ連がなぜこれだけの日本人を抑留したか確定的なことは言えないとしつつも、この講義ではソ連が大量の若い男性労働力を必要としていたことを指摘している。

 

 ただ確かなことは、戦争で2500万人ともいわれる膨大な犠牲者を出し、国土が荒廃したソ連が、国民経済復興のために咽喉から手が出るほど「若い男性の労働力」を必要としていたことだ。スターリンは、すでにヤルタ協定を根拠にして大量のドイツ軍捕虜をソ連に連行して使役し、捕虜は使えると味をしめていたから、日本兵ソ連に連行することも当然と考えたであろう。(p50)

 

2500万人は途方もない数字だ。これだけの人材の損失を埋め合わせるため、日本人もまた必要とされていたようだ。労働力としてシベリアに連れて行かれた日本人が味わった「シベリア三重苦」は飢餓と重労働と極寒だが、この講義ではそれぞれの要素についても解説されている。ソ連国民ですら飢えている状況下で日本人に十分な食料が回ってくるはずもなく、日本人にはソ連の給食の基準をはるかに下回る量しか供給されていない。

ろくに食べるものがない状況下で、日本人は過酷な労働を強いられる。ソ連には共産主義独特のノルマ制度があり、体力のまさるソ連人のノルマがそのまま日本人に適用されているという問題がまずあった。ノルマを達成するか超過達成しなければ賃金は支払われないため、多くの抑留者にはほとんど賃金が支払われなかった。病弱で体力のない者はノルマを達成できないため食料を減らされ、ますます体力が衰えるという悪循環に陥っていた。安全対策がおろそかなため作業中の事故も多く、衛生状況も悪いため赤痢発疹チフスも流行した。労働環境としてはこれ以上に過酷なものは考えにくい。

 

興味深い史実として、シベリアでは日本人とドイツ人が交流していたことも書かれている。収容所生活でドイツ人と接した日本人が最も驚いたのは、ドイツ人が捕虜になってもまったく打ちひしがれていなかったことだという。

 

日本人が一番驚いたのは、ドイツ人が「今回はソ連に負けたがこの次はやっつけてやる」と意気軒高なことだった。長い戦乱の時代を経てきて「勝敗は時の運」という現実的な戦争観をもつドイツ人と、常勝の日本軍ゆえたった一度の敗戦にうろたえ、もう戦争はこりごりだと考えるばかりの日本人の違いであろう。(p64)

 

この短い記述のなかにも、日本とドイツのたどってきた歴史の違いが読みとれる。敗戦慣れているいる国とそうでない国とでは、捕虜の態度までまったく違ったものになってしまう。人は知らず知らずのうちに、生まれ育った国のありようをその身に背負ってしまうようだ。

 

日本は同調圧力の強い国だ、といわれることがある。これは本当だろうか。この講義では、シベリア収容所内ででソ連の礼賛や共産主義の宣伝などの「民主運動」が展開されたことを紹介しているが、日本人は将校などを「反動分子」としてしばしば吊し上げ、激しく攻撃した。ドイツ人も「民主運動」をしていたが、この講義によればドイツ人は日本人のように他人をつるし上げて思想を強要するようなことはしなかったという。この事実だけで単純に日本人は同調圧力が強くドイツ人は弱い、とすることはできないだろうが、両者の気質の違いが大きかったことは確かなようだ。

【感想】田中優子・松岡正剛『江戸問答』

  

江戸問答 (岩波新書 新赤版 1863)

江戸問答 (岩波新書 新赤版 1863)

 

  

2章の浮世問答の「学問のオタク化と多様化」がおもしろい。明治維新は江戸時代の「学び」から出ているが、江戸時代の学びとは「実」と「遊」の間にあるものだった、というのが田中優子松岡正剛の共通認識だ。遊びながら学ぶ、知ることを楽しむ、という方向に振り切ればその人は学問オタクだ。この二人に言わせれば伊能忠敬も平賀源内も知のマニア、オタクなのである。

 

松岡 江戸時代にはそういうオタクっぽい感覚をなんと呼んでいたんだろう。「好き者」とはまたちょっと違いますね。

田中 たんなる「好き者」よりもやっていることはちょっと力が入っていますよね。しかも、それが流動性を生んでいる。遠くの塾にわざわざ行くのが平気なのと同様に、地方から突然、江戸や京都や大阪に出てきて塾に入ったりもする。大阪にあの先生がいるとか、江戸にこの先生がいるとか、おもしろい学校があるらしいという、それだけの動機で出てきちゃったりする。何か仕事があるとか、一旗揚げようというのではないんですね。そうやって出てきた人が、たまたま自分でも学校をつくってしまう。じゃあ、学校をつくってずっとそこにいるのかというと、つくったあとにまた平気で故郷に帰っちゃう。自分の故郷で小さな塾の先生をやったりする。

松岡 とことん遊学的。ぼくは日本の遊びにおいては、「遊」のなかに「実」がそうとう入っていて、その「実」のなかにも「遊」が入っていたと思っていますよ。日本の「学び」とはそういうものだった。そのぶん理論や哲学のようなものはつくれなかった。

 

このように、学問に「遊ぶ」時間をつくれたのはなぜなのか。田中に言わせれば、江戸時代にはたくさん働いてもっと稼ぐという考え方があまりなかったのだという。大工も商人も、自分のテリトリーを超えてまで儲けようとはしない。武士なら収入は石高で決まっているし、内職をしなくても生活できるならあえてすることはない。

 

出世欲も生活欲もあまりない人たちが多かったため、遊ぶ時間は確保できたようだ。そうなると、「遊び」関連のジャンルが成長する。浮世絵や出版物、金魚や錦鯉や朝顔、お稽古事などだけでなく、塾へ人が移動することもまたお金を生み出す。遊びが深まれば深まるほど、たくさんのお金が動くことになる。そのせいもあってか、江戸時代の日本は経済成長率がイギリスに継いで世界二位だったという。「遊び」は人の流動性を高め、人も物も動かし、結果としてそこに経済が生まれる。

 

こうした「遊」の世界における嗜好は江戸時代にかなり細分化されていたと松岡正剛は語っている。

 

松岡 多様性を認めることで、競争は生まれないかわりに、流動性がどんどん生まれる。これは江戸の経済社会の大きな特徴だと言えそうですね。

たとえば朝顔が好きな人たちのなかにも、咲いたところが好き、しぼんだところが好き、ツルが巻いているところが好き、ツルが上がっていて三本になっているのが好きというように、ものすごく細かく好みが分かれていて、それに対応するだけの朝顔市場というものができていく。金魚や錦鯉なんかも、もうわけがわからないぐらい品種を増やしていくでしょう。そうすると、いまでいうロングテールが動く。それどころか超ロングテール市場ですよね。

 

これと似たような世界を現代に見出すなら、YouTubeではないかと思う。先日、40代独身実家住まい女の日常だとか、30代工場勤務男の毎日だとかを淡々と語るだけの動画を見た。編集もあまり凝っていないし、特別面白いというものでもないが、どちらもけっこうたくさん再生されている。嗜好が細分化された世界では意外なものにも需要があり、そこにまた経済が生まれる。「好きなことで生きていく」まで行かなくても、「好き」が経済を生み出していたという意味では、現代人と江戸人には共通するものがありそうだ。

【感想】今村翔吾『くらまし屋稼業』

 

くらまし屋稼業 (時代小説文庫)

くらまし屋稼業 (時代小説文庫)

 

 

松永久秀を主人公とする『じんかん』で話題になった今村翔吾の人気シリーズの第一作。希望する者を江戸の外に逃がす「くらまし屋」を裏家業とする堤平九郎が主人公。『じんかん』で発揮していたストーリー展開のスピーディーさ、キャラクター造形のうまさはここでも健在で、時代小説好きなら誰でもストレスを感じることなく、最後まで読み進めることができる。

 

平九郎の今回の仕事は香具師の一党からの足抜けを願う万次と喜八を逃がすこと。元締めの丑蔵の悪事に手を貸すのに嫌気がさしたせいで平九郎に仕事を依頼する二人だが、丑蔵は大金をばらまいて包囲網を敷いたため、容易には江戸を出られない。この包囲網をどうやって突破するか、が見どころの一つになる。平九郎の考えだした手はかなり手が込んでいて、なるほどこれなら誰でも騙されるという気にさせられる。宿場を取り締まる同心は有能で、油断ならない男なのだが、これを出し抜く手も見事だ。人間心理の隙を突くやり方は実は平九郎ではなく、仲間の七瀬が考えている。七瀬とともに平九郎を支える赤也は女装の名人で、この技術も「晦ます」のに大いに役立っている。

 

では平九郎の真骨頂は何かというと、実は戦いだ。平九郎はもともとは武士で、あらゆる剣術や槍術や柔術を使いこなす。物語後半ではこの戦闘能力を生かし、大立ち回りを演じる場面もちゃんと用意されている。一冊で頭脳戦と肉体戦をたっぷり描いたうえに、万次や喜八の過去にまつわる人情噺も入っているから、充実度が高い。とくに物語後半で喜八がみせる変貌ぶりは、悲しくも美しい。一途に妻を想うがゆえのこの悲しい結末は、人は善と悪とに振り分けられるほど単純ではない、という作者の人間観の表れでもある。

 

すぐれた時代小説はしっかりとした考証のうえに成り立つ。『くらまし屋稼業』では江戸の外へ逃がした者たちの受け入れ先についてもしっかり考えられていて、それは「村から逃散した者の戸籍を乗っ取る」というものだ。一度田畑を捨てて村から逃げたものが、心を入れ替えて戻ってきたとして、赤の他人の人生を引き継いでしまう。飢饉の影響もあり村から江戸への人口流出は著しいから、村人は平九郎が逃がした者たちを労働力として受け入れるのだ。平九郎が密約を交わした多くの村は天領であり、代官の目もあまり行き届かないので、この行為も問題にならない。物語は嘘であっても、説得力のある嘘をつくための工夫が必要だ。ここについても、本作はまったく隙がない。

 

一作目を書いた時点でシリーズ化する構想があったのか、物語終盤ではかなり目を引くキャラクターが二人登場する。拷問役人の初谷男吏と、剣の達人の榊惣一郎だ。人の肉体を壊すことに昏い楽しみを見出す男吏と、天真爛漫で戦いそのものを楽しむ惣一郎のキャラクターは一見対照的だが、実は惣一郎のほうがかなり異常な人物らしいこともわかってくる。片手を切り落した相手ともう一度戦いたいから手をくっつけてくれ、と男吏に頼む惣一郎にはぞっとする。作者のキャラクター造形のうまさが光る場面だ。二人の出番は少ししかないが、この二人が次巻以降また出てくるかと思うと先を読むのが楽しみになる。

【書評】古代蝦夷の入門書として最適の本:工藤雅樹『蝦夷の古代史』

 

蝦夷の古代史 (読みなおす日本史)

蝦夷の古代史 (読みなおす日本史)

 

 

古代日本を語るうえで、蝦夷の存在は欠かせない。奈良時代から平安時代初期にかけて、律令国家はかなりの力を傾けて「征夷」をおこなった。蝦夷はそれだけ日本にとって手ごわい敵だった。だが蝦夷と日本はつねに争っていたわけではなく、両者は交易をおこなっていて、互いを必要ともしていた。蝦夷は一枚岩でもなく、蝦夷同士でも戦っていて、時には「征夷」の軍にも蝦夷が加わっていたこともある。本書はこのような複雑な古代蝦夷の実態を、考古学と文献学の知見を活かして簡潔にまとめた一冊だ。

 

著者の工藤雅樹氏は、第一章「古代蝦夷の諸段階」において、蝦夷の歴史を五段階に分類している。それぞれの段階の内容は以下のとおり。

 

第一段階……「エミシ」が東国人をひろく意味した時代

第二段階……朝廷の直接支配の外の人たちが「エミシ」と呼ばれた時代

第三段階……大化の改新から平安初期まで

第四段階……平安初期から平泉藤原氏の時代まで

第五段階……鎌倉時代以後

 

日本と蝦夷とのかかわりが本格化するのは大化の改新以降なので、本書では第三段階・第四段階にもっとも多くのページが割かれている。特に重要と感じたのは第三段階における桃生城や雄勝城などの造営で、このことは本書の四章でくわしく書かれている。桃生城と雄勝城の造営は藤原朝獦(藤原仲麻呂の四男)が推進したもので、彼の積極的な蝦夷政策のひとつだった。桃生城は蝦夷の領域に踏み込んでつくられた城だったため、政府側と蝦夷との緊張関係は急速に高まった。朝獦は「賊の肝胆を奪った」と桃生城の完成を誇っているが、桃生城や雄勝城、伊治城の建設は蝦夷の間に大きな動揺をまきおこした。これらの城柵の建設後、政府と蝦夷の戦いは宮城県北部から岩手県盛岡市付近にまでひろがり、さらに秋田方面の蝦夷まで巻き込みそうな状況になっていた。

 

伊治城が完成したのは767年のことだが、史上有名な伊治砦麻呂の乱が起きるのがこの13年後のことになる。伊治の蝦夷のリーダーだった砦麻呂は、かつては政府側に協力していたものの、やがて反乱を起こし、多賀城を焼きつくしてしまう。砦麻呂が反乱を起こした理由は、日ごろ彼を卑しい夷俘と侮っていた道嶋大盾を恨んだせいとも言われるが、藤原朝獦の対蝦夷積極策の反動が砦麻呂の反乱という形であらわれたと見ることもできる。砦麻呂の乱の衝撃は大きく、光仁天皇桓武天皇に譲位したこともこの乱がきっかけだったと著者は指摘する。その桓武がのちに坂上田村麻呂征夷大将軍とし、 阿弖流為と戦わせたことはよく知られている。

 

砦麻呂や 阿弖流為の戦いぶりは史上有名だが、この本を読むと、これらの蝦夷が急に反乱に立ち上がったのではなく、その前段階として政府側の強硬な蝦夷政策が蝦夷に大きなプレッシャーをかけていたことがよくわかる。このため、著者は藤原朝獦蝦夷政策を、蝦夷史上のひとつの画期としている。

 

このように見てくると、 朝獦大野東人の時代に積み残してあったことがらを、積極的な態度でクリアーしていったということができるであろう。ここで積極的な態度といったのは、蝦夷に対して軍事的にもより強い圧力をかけるという方向に動き出したということでもある。大野東人がやむをえずではあったものの、雄勝地方に城柵を置くことを断念したことを想起していただきたい。これに対して朝獦は大量の移民や兵士を動員して雄勝城と桃生城を造営している。

朝獦の時代以降、坂上田村麻呂が登場して胆沢城・志波城を造営し、鎮守府を胆沢城に移すまでの期間は、大化の改新から平安時代初期までを大きく一つの段階として把握する本書の立場からいっても、明らかに大野東人の期間とは異なる時期と見ることができるであろう。この期間に政府は、はじめて本格的に仙台平野・大崎平野以南の、弥生時代以降水田稲作が定着・普及し、前方後円墳などの古墳が恒常的に作られていた地域とは異なる文化伝統を有する地域を直轄支配地に組み入れるための行動を展開させたのである。朝獦以後を古代蝦夷の第三段階のなかの後半の小段階ととらえるゆえんである。 

 

ただし、蝦夷律令国家との関係は、たんなる対立関係としてはとらえることはできない。本書によれば、砦麻呂や 阿弖流為のような強力な族長が誕生した背景には、政府側が蝦夷に権威を与え、物品を供給したことがあげられるという。

 

政府側は蝦夷の地域に勢力をひろげるために蝦夷の族長層に位を授与し、また地域の指導者層であることを承認する称号を与えた。先に述べた阿倍比羅夫の遠征時の行動、また伊治砦麻呂、阿弖流為などが蝦夷の有位者であることや位(公)のカバネを有していたことを想起していただきたい。終末期古墳から出土する帯金具は、位を有する者が正式の場に出るときに着用する衣服の帯を飾るものであった。

政府側はその影響下に入った蝦夷の集団に対しては、農具や武器などの鉄製品、蝦夷社会では入手が困難であった繊維製品、米や酒などを供給したのである。そして族長層もまた、政府側からこれらの品物を入手して、それを住民に提供することが彼らの地位の安定・強化につながり、また他の集団に対しても優位に立つことになったから、政府側との接触はむしろ歓迎すべきことであったのである。

 

砦麻呂や 阿弖流為のような族長は、ある意味律令国家が育てた存在ともいえる。日本も蝦夷も互いを必要としていた。それだけに、両者が戦わずにすむ道はなかったかと考えたくなる。藤原朝獦がもう少し穏健な人物であったなら、砦麻呂や阿弖流為が戦争指導者として名を残すこともなかっただろうか。歴史にイフはないが、これらのリーダーが平穏に一生を終えた世界を見てみたくもある。