明晰夢工房

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【感想】菊池英明『太平天国 皇帝なき中国の挫折』

 

 

なぜ太平天国軍は清朝にかわり、中国の支配者になれなかったのか。そう問いを立てつつこの本を読みはじめた。読み進めると、太平天国側の体制にはある「狭さ」があったことが見えてくる。太平天国は上帝のもとでの大家族という理念を掲げ、人々が一律に平均化された生活を送ることで格差のない社会をつくれると訴えたが、本書によればこうした理想社会は往々にして貧困と差別に苦しんだ客家のコンプレックスの裏返しであったため、北方民族や漢族の他のサブグループへの包容力を欠いていたという。

 

太平天国の指導者・洪秀全客家の出身だったことはよく知られている。中国南部に華北から移住した客家たちは、移住先ではよそ者として差別的扱いを受け、社会の下層で苦しむことが多かった。こうした境遇に置かれた反動として、客家は「自分たちこそは中原からやってきた正当な漢族の末裔だ」というアイデンティティを持つことになる。洪秀全もまた南宋の大臣を洪一族の始祖として祀っており、これがのちに洪秀全が「選ばれし者」と自認する基礎となった。こうした屈折した自己認識を持つと、人は他者への寛容さを欠くことがある。

 

太平天国が他の漢人への包容力を欠いていた一例として、この本では太平天国の南京の女性への待遇を紹介している。南京を占領した太平天国は南京の婦人に米や水の運搬・竹の伐採や堀の掘削などさまざまな仕事を要求したが、これは纏足をしている南京の女性にできることではない。太平天国には安徽などの貧しい地域出身の女性が多く、こうした女性はこれらの仕事を苦にはしないが、太平天国は安徽の女性と南京の女性の生活を無理に平均化しようとした。太平天国の掲げる「貧しきを憂えず均しからざるを憂う」は中国古来の伝統的価値観への回帰でもあったが、その内実は現実を無視した原理主義に他ならなかった。

 

太平天国の抱える「狭さ」は対儒教政策にもあらわれている。もともとキリスト教の影響を受けている太平天国孔子廟を壊し、儒教の経典を焼いたため読書人の反感を買っていた。南京では儒教関連の書籍を「妖書邪説」としてすべて焼却した。だが地方支配には文書作成などの読書人の能力が必要とされるため、太平天国儒教政策を転換し、統治に必要な部分は容認している。それでも読書人を太平天国に参加させるのは困難だった。対して漢人官僚の曽国藩は多くの読書人を湘軍に吸収し、将校としている。太平天国でも読書人が厚遇された例はあるというが、それでも曽国藩の陣営に参加するほうが「礼教」の世界に生きる読書人はより葛藤を感じなかっただろう。著者にいわせれば「太平天国が読書人を味方につけられなかったことが湘軍を生んだ」ことになる。

 

いまこうした現象に注目すれば、太平軍と湘軍の戦いはヨーロッパと中国という二つの文明間の観念戦争という様相を呈していた。ただし、太平天国自身は上帝を中国古来の神と認識しており、めざしていたのも「いにしえの中国」の復活だった。その論理に従えば、太平軍と湘軍は「大同」の理想実現による社会的な格差の解消か、それとも「礼教」すなわち神々に代表される社会秩序の維持かという、それ自体はきわめて中国的な価値観に基づいて争ったことになる。(p148-149)

 

この記述に従うなら、太平天国も曽国藩の湘軍も、どちらも中国的な価値観に拠っていたことになる。であれば、長く中国に根付いている儒教の伝統に従った湘軍に分があったということだろうか。太平天国は「大同世界の実現」という理想を実現するため強圧的な政策を行い、江南都市など他地域にすむ人々の習慣や価値観への包容力を欠いていた。こうした不寛容さはこの本によれば、ユダヤキリスト教の影響によるものだという。抑圧された民の異議申し立ては、抱えた苦難の大きさからしばしばエスノセントリズム(自民族中心主義)に陥り、他者の苦悩への理解を欠いてしまうからだ。太平天国が全国的な政権に成長するにはより多様な人々を包摂することが不可欠だったが、思想上の限界でそれは不可能だったのかもしれない。

 

話は前後するが、洪秀全はもともと理想世界をつくるため挙兵しようとしていたわけではない。この本の一章によれば、かれは若いころアメリカ・バプテスト派の宣教師イッサカル・ロバーツを訪れ、洗礼を受けることを求めていたが、この時点での洪秀全は武力蜂起など考えてはいなかったという。だが彼に嫉妬するある中国人が、洗礼を受けたあとも勉強を続けられるよう奨学金を申請するといい、と悪意のアドバイスをした。経済的庇護を受けるため入信する「ライス・クリスチャン」を嫌っていたロバーツは洪秀全の申し出を拒絶し、洗礼は無期限に延期されてしまった。もし洗礼を受けられていれば、洪秀全はまじめなプロテスタントとして生き、戦乱とは無縁の生涯を過ごしたかもしれない。あとから何を言っても仕方がないが、太平天国の乱が2000万人を超える犠牲者を出し「人類史上最悪の内戦」とも評されることを思うと、洪秀全が平和に生きられた可能性についてつい考えたくなる。