明晰夢工房

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【感想】今村翔吾『くらまし屋稼業』

 

くらまし屋稼業 (時代小説文庫)

くらまし屋稼業 (時代小説文庫)

 

 

松永久秀を主人公とする『じんかん』で話題になった今村翔吾の人気シリーズの第一作。希望する者を江戸の外に逃がす「くらまし屋」を裏家業とする堤平九郎が主人公。『じんかん』で発揮していたストーリー展開のスピーディーさ、キャラクター造形のうまさはここでも健在で、時代小説好きなら誰でもストレスを感じることなく、最後まで読み進めることができる。

 

平九郎の今回の仕事は香具師の一党からの足抜けを願う万次と喜八を逃がすこと。元締めの丑蔵の悪事に手を貸すのに嫌気がさしたせいで平九郎に仕事を依頼する二人だが、丑蔵は大金をばらまいて包囲網を敷いたため、容易には江戸を出られない。この包囲網をどうやって突破するか、が見どころの一つになる。平九郎の考えだした手はかなり手が込んでいて、なるほどこれなら誰でも騙されるという気にさせられる。宿場を取り締まる同心は有能で、油断ならない男なのだが、これを出し抜く手も見事だ。人間心理の隙を突くやり方は実は平九郎ではなく、仲間の七瀬が考えている。七瀬とともに平九郎を支える赤也は女装の名人で、この技術も「晦ます」のに大いに役立っている。

 

では平九郎の真骨頂は何かというと、実は戦いだ。平九郎はもともとは武士で、あらゆる剣術や槍術や柔術を使いこなす。物語後半ではこの戦闘能力を生かし、大立ち回りを演じる場面もちゃんと用意されている。一冊で頭脳戦と肉体戦をたっぷり描いたうえに、万次や喜八の過去にまつわる人情噺も入っているから、充実度が高い。とくに物語後半で喜八がみせる変貌ぶりは、悲しくも美しい。一途に妻を想うがゆえのこの悲しい結末は、人は善と悪とに振り分けられるほど単純ではない、という作者の人間観の表れでもある。

 

すぐれた時代小説はしっかりとした考証のうえに成り立つ。『くらまし屋稼業』では江戸の外へ逃がした者たちの受け入れ先についてもしっかり考えられていて、それは「村から逃散した者の戸籍を乗っ取る」というものだ。一度田畑を捨てて村から逃げたものが、心を入れ替えて戻ってきたとして、赤の他人の人生を引き継いでしまう。飢饉の影響もあり村から江戸への人口流出は著しいから、村人は平九郎が逃がした者たちを労働力として受け入れるのだ。平九郎が密約を交わした多くの村は天領であり、代官の目もあまり行き届かないので、この行為も問題にならない。物語は嘘であっても、説得力のある嘘をつくための工夫が必要だ。ここについても、本作はまったく隙がない。

 

一作目を書いた時点でシリーズ化する構想があったのか、物語終盤ではかなり目を引くキャラクターが二人登場する。拷問役人の初谷男吏と、剣の達人の榊惣一郎だ。人の肉体を壊すことに昏い楽しみを見出す男吏と、天真爛漫で戦いそのものを楽しむ惣一郎のキャラクターは一見対照的だが、実は惣一郎のほうがかなり異常な人物らしいこともわかってくる。片手を切り落した相手ともう一度戦いたいから手をくっつけてくれ、と男吏に頼む惣一郎にはぞっとする。作者のキャラクター造形のうまさが光る場面だ。二人の出番は少ししかないが、この二人が次巻以降また出てくるかと思うと先を読むのが楽しみになる。