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【書評】古代蝦夷の入門書として最適の本:工藤雅樹『蝦夷の古代史』

 

蝦夷の古代史 (読みなおす日本史)

蝦夷の古代史 (読みなおす日本史)

 

 

古代日本を語るうえで、蝦夷の存在は欠かせない。奈良時代から平安時代初期にかけて、律令国家はかなりの力を傾けて「征夷」をおこなった。蝦夷はそれだけ日本にとって手ごわい敵だった。だが蝦夷と日本はつねに争っていたわけではなく、両者は交易をおこなっていて、互いを必要ともしていた。蝦夷は一枚岩でもなく、蝦夷同士でも戦っていて、時には「征夷」の軍にも蝦夷が加わっていたこともある。本書はこのような複雑な古代蝦夷の実態を、考古学と文献学の知見を活かして簡潔にまとめた一冊だ。

 

著者の工藤雅樹氏は、第一章「古代蝦夷の諸段階」において、蝦夷の歴史を五段階に分類している。それぞれの段階の内容は以下のとおり。

 

第一段階……「エミシ」が東国人をひろく意味した時代

第二段階……朝廷の直接支配の外の人たちが「エミシ」と呼ばれた時代

第三段階……大化の改新から平安初期まで

第四段階……平安初期から平泉藤原氏の時代まで

第五段階……鎌倉時代以後

 

日本と蝦夷とのかかわりが本格化するのは大化の改新以降なので、本書では第三段階・第四段階にもっとも多くのページが割かれている。特に重要と感じたのは第三段階における桃生城や雄勝城などの造営で、このことは本書の四章でくわしく書かれている。桃生城と雄勝城の造営は藤原朝獦(藤原仲麻呂の四男)が推進したもので、彼の積極的な蝦夷政策のひとつだった。桃生城は蝦夷の領域に踏み込んでつくられた城だったため、政府側と蝦夷との緊張関係は急速に高まった。朝獦は「賊の肝胆を奪った」と桃生城の完成を誇っているが、桃生城や雄勝城、伊治城の建設は蝦夷の間に大きな動揺をまきおこした。これらの城柵の建設後、政府と蝦夷の戦いは宮城県北部から岩手県盛岡市付近にまでひろがり、さらに秋田方面の蝦夷まで巻き込みそうな状況になっていた。

 

伊治城が完成したのは767年のことだが、史上有名な伊治砦麻呂の乱が起きるのがこの13年後のことになる。伊治の蝦夷のリーダーだった砦麻呂は、かつては政府側に協力していたものの、やがて反乱を起こし、多賀城を焼きつくしてしまう。砦麻呂が反乱を起こした理由は、日ごろ彼を卑しい夷俘と侮っていた道嶋大盾を恨んだせいとも言われるが、藤原朝獦の対蝦夷積極策の反動が砦麻呂の反乱という形であらわれたと見ることもできる。砦麻呂の乱の衝撃は大きく、光仁天皇桓武天皇に譲位したこともこの乱がきっかけだったと著者は指摘する。その桓武がのちに坂上田村麻呂征夷大将軍とし、 阿弖流為と戦わせたことはよく知られている。

 

砦麻呂や 阿弖流為の戦いぶりは史上有名だが、この本を読むと、これらの蝦夷が急に反乱に立ち上がったのではなく、その前段階として政府側の強硬な蝦夷政策が蝦夷に大きなプレッシャーをかけていたことがよくわかる。このため、著者は藤原朝獦蝦夷政策を、蝦夷史上のひとつの画期としている。

 

このように見てくると、 朝獦大野東人の時代に積み残してあったことがらを、積極的な態度でクリアーしていったということができるであろう。ここで積極的な態度といったのは、蝦夷に対して軍事的にもより強い圧力をかけるという方向に動き出したということでもある。大野東人がやむをえずではあったものの、雄勝地方に城柵を置くことを断念したことを想起していただきたい。これに対して朝獦は大量の移民や兵士を動員して雄勝城と桃生城を造営している。

朝獦の時代以降、坂上田村麻呂が登場して胆沢城・志波城を造営し、鎮守府を胆沢城に移すまでの期間は、大化の改新から平安時代初期までを大きく一つの段階として把握する本書の立場からいっても、明らかに大野東人の期間とは異なる時期と見ることができるであろう。この期間に政府は、はじめて本格的に仙台平野・大崎平野以南の、弥生時代以降水田稲作が定着・普及し、前方後円墳などの古墳が恒常的に作られていた地域とは異なる文化伝統を有する地域を直轄支配地に組み入れるための行動を展開させたのである。朝獦以後を古代蝦夷の第三段階のなかの後半の小段階ととらえるゆえんである。 

 

ただし、蝦夷律令国家との関係は、たんなる対立関係としてはとらえることはできない。本書によれば、砦麻呂や 阿弖流為のような強力な族長が誕生した背景には、政府側が蝦夷に権威を与え、物品を供給したことがあげられるという。

 

政府側は蝦夷の地域に勢力をひろげるために蝦夷の族長層に位を授与し、また地域の指導者層であることを承認する称号を与えた。先に述べた阿倍比羅夫の遠征時の行動、また伊治砦麻呂、阿弖流為などが蝦夷の有位者であることや位(公)のカバネを有していたことを想起していただきたい。終末期古墳から出土する帯金具は、位を有する者が正式の場に出るときに着用する衣服の帯を飾るものであった。

政府側はその影響下に入った蝦夷の集団に対しては、農具や武器などの鉄製品、蝦夷社会では入手が困難であった繊維製品、米や酒などを供給したのである。そして族長層もまた、政府側からこれらの品物を入手して、それを住民に提供することが彼らの地位の安定・強化につながり、また他の集団に対しても優位に立つことになったから、政府側との接触はむしろ歓迎すべきことであったのである。

 

砦麻呂や 阿弖流為のような族長は、ある意味律令国家が育てた存在ともいえる。日本も蝦夷も互いを必要としていた。それだけに、両者が戦わずにすむ道はなかったかと考えたくなる。藤原朝獦がもう少し穏健な人物であったなら、砦麻呂や阿弖流為が戦争指導者として名を残すこともなかっただろうか。歴史にイフはないが、これらのリーダーが平穏に一生を終えた世界を見てみたくもある。