明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【書評】阿部拓児『アケメネス朝ペルシア 史上初の世界帝国』

 

 

読みやすくわかりやすいアケメネス朝史の概説。キュロスの建国からアレクサンドロスの東征による滅亡まで、アケメネス朝ペルシアの220年の興亡を王の列伝形式でつづっている。近年、ペルシア史研究者がペルシア語本来の発音に近い「ハカーマニシュ朝」という呼び方をすることがあるが、この本ではペルシア語風表記を用いず、読みやすさを優先して従来のギリシア語風表記を使っているので、違和感を感じることなく読みすすめることができる。

 

この本の特徴として、ただペルシア史を記述するだけでなく、「史料をどう読むか」も解説してくれる点があげられる。たとえば第二代大王カンビュセス2世は、ヘロドトスの『歴史』では「聖牛アビス事件」を引き起こしたと書かれているが、これが本当のことかを本書では検討している。『歴史』は、カンビュセスが聖牛アビスの顕現を喜ぶエジプト民衆の姿を、ヌビア遠征の失敗を喜んでいると勘違いし、聖牛に斬りかかったと記す。さらにカンビュセスは関係する祭司を鞭打ちにし、祭りを祝っていたエジプト人も殺害した。これでは狂気の暴君にしかみえない。

だが、著者はメンピスから出土した碑文の内容を引きつつ、ヘロドトスの記述を批判する。この碑文では、カンビュセスが亡くなったアビスのために立派な石棺をつくったと書かれている。これは明らかに『歴史』の記述と矛盾する。また、ウジャルホルレスネト碑文には、カンビュセスはかつてエジプト第二十六王朝に仕えていたウジャルホルレスネトの才能を見抜き、重用していたと書かれている。『歴史』には征服したエジプトの王墓を暴き、神殿を焼き払うカンビュセスの蛮行が書かれているが、実際にはカンビュセスは統治の移行をスムーズにするため、エジプト人に配慮している。『歴史』の記述のみに依拠してアケメネス朝史を語ることにはリスクがあり、可能な限りいくつもの史料を突き合せなければいけないことがよくわかる。

 

アケメネス朝ペルシアを語るうえで欠かせない史料に、ベヒストゥーン碑文がある。この碑文には、始祖アケメネスからダレイオス1世にいたるまでの家系図が描かれている。ところが、この「アケメネス」なる人物が創作された可能性があるという。実はアケメネス朝初代大王・キュロス自身が作成した碑文には、キュロスはテイスペスの子孫だと書かれているだけで、「アケメネス」の名は出てこない。このため、アケメネスはダレイオス1世の王位の正当性を主張するためにつくられた架空の人物だ、とも考えられる。

 

以上のように、王朝の名祖であるアケメネスがダレイオス1世の時代から登場してきたこともあり、「アケメネス朝」という名称は、ダレイオス以降のペルシア帝国にかぎって使用すべきで、キュロス・カンビュセスの帝国とダレイオスの帝国を分けて考えるほうがよいと主張する研究者もいる。この立場を厳格に守れば、ダレイオス1世は「アケメネス朝」ペルシア初代の王になる。(アケメネス朝からとくに区別してキュロス・カンビュセスの国家を指す場合には、「テイスペス朝」という呼称が用いられる)。さらにラディカルな説では、キュロスの帝国はテイスペス朝のエラム系国家であって、アケメネス家のペルシア人であるダレイオスはそれを乗っ取ったのだという。(p86-87)

 

史上有名なベヒストゥーン碑文も、その内容を鵜呑みにするわけにはいかない。この碑文はダレイオスの簒奪を正当化している可能性すらあるのである。少なくとも、ダレイオスが王位につく正当性はかなり貧弱だったようだ。こう見ていくと、アケメネス朝史上もっとも有名な「大王」のイメージも、少し違ったものになってくる。ダレイオス1世は「王の道」とよばれる交通インフラを整備したことで知られているが、これはキュロスとカンビュセスが征服した広大な国土を統治するため、必要不可欠なものだった。帝国内の行政機構の整備は「商売人」といわれるほど実務手腕に長けていたダレイオスの得意とすることではあったが、その手腕はかれが「正当な王」、つまりキュロスとカンビュセスの事業を受けついでいることをみせつけるために用いられたのかもしれない。ダレイオスがアケメネス朝の「始祖」だったとしても、かれはキュロスとカンビュセスの後継者でもあったのだろう。

【感想】火坂雅志『軒猿の月』

 

 

最近kindle unlimitedを使っているので、ここで読んだものの感想をいくつか。

 

軒猿の月』は火坂雅志作品としては異色の作品集になる。大河ドラマ化された『天地人』をはじめとして骨太な歴史小説を多数発表してきた著者だが、本作は歴史小説というより時代小説・伝奇小説の色合いが濃い。主人公は上杉氏に使えた忍び(軒猿)や傾奇者・木食上人など無名な人物が多く、有名人物は塚原卜伝くらいしかいない。これらの人物の目を通して描かれる戦国時代は厳しく、生きづらい。ハッピーエンドといえる作品はひとつもないが、それだけに英雄の目を通して描かれる世界とはまた違う味わいがある。

 

特に伝奇的な色合いが強いのが『家紋狩り』。太閤秀吉が菊桐紋の使用を禁じた「家紋狩り」に材をとった作品だが、作品後半で主人公が迷い込む熊野の奥地の村「皇子谷」にはみずからを南朝の貴族と信じる村人たちが住んでいる。この村には驚くべき奇習があり、主人公がほれ込んだ娘が危機にさらされる。閉ざされた世界の異常性と哀しさを存分に味わえる本作では、「伝奇作家」としての火坂雅志の腕前をかいま見ることができる。もしこの方向性に進んでいたなら、作者は山田風太郎隆慶一郎のような作家に成長していたのではないかと思うほどだ。

 

この短編集のベストはやはり8作目の『子守歌』だろう。かつて九鬼家に仕える武士だった灘兵衛はその身分を捨て、今は南紀の漁師として暮らしている。幼子を船に載せつつクエを釣りあげようと奮闘する灘兵衛は、不器用にしか生きられない自分を嘆きつつ、過去を回想する。愛妻と別れ、九鬼家を辞した理由がここで語られる。運命の理不尽さ、人の世のはかなさに打ちのめされる。それでも懸命に生きようとする灘兵衛に、さらなる過酷な一撃が待っている。これほど深い喪失感を味わえる作品はなかなか読めるものではない。これを読めただけでこの作品集を読んだ甲斐があると思えるほどの重みがある一作だった。

 

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火坂雅志の遺作となった『北条五代』では、北条家を陰から支える風魔一族と氏綱の出会いに絡んで氏綱と小太郎の妹のロマンスが描かれる一幕がある。史実のなかにフィクションを絡ませる、時代小説作家としての腕前が存分に発揮されたシーンである。この作者の一面を味わいたい読者には、『軒猿の月』は格好の作品集だ。

戦国時代に大進歩を遂げた京都のトイレ事情

 

 

前近代の都市は大体どこもそうだが、古代の京都もかなり不衛生な都市だった。『京都<千年の都>の歴史』では、平安京の路上の様子について以下のように紹介している。

 

10世紀後半成立の『落窪物語』に、雨降る闇夜に小路から大路に出た男主人公が、身分高きものの行列に出会い、控えろの叱声にしゃがんだところ、「屎のいと多かる上にかがま」ってしまう場面がある。平安京の街路の一部に糞便が溜まっていたことを伝える情報である。『今昔物語集』にも、「此の殿に候ふ女童の大路に屎まり居て候つるを」、あるいは「若き女の……築垣に向て南向に突居て(しゃがんで)尿をしければ」などとみえており、前述の桶洗のような「下賤」な従者の排便放尿は、邸外路上でおこなわれていたことがうかがえる。邸内の便所を使用するには、一定以上の身分と資格が要求されたのであろう。

 

古代の平安京では、路上がそのまま排泄の場になっていた。このため平安中期以降、路上の排泄物の掃除は検非違使の担当になった。検非違使は掃除夫を使い、路上に散乱する排泄物を片付け、貴人がケガレに汚染されないよう努めなくてはならなかった。

 

ところが、京都のこの衛生状態が、戦国期に大きく改善される。洛中洛外図屏風には町屋の共同便所や、路上の公衆便所が描かれている。これはルイス・フロイスの『日欧文化比較』における「われわれの便所は家の後の、人目につかない所にある。彼らのは、家の前にあって、すべての人に開放されている」という記述を裏書きするものでもある。慶長14年(1609)にはドン・ロドリゴが「かくの如く広大にして交通盛に、また街路及び家屋の清潔なる町々は世界のいずれの国に於ても見ることなきこと確実なり」と『日本見聞録』で書いている。かつて不潔だった京都は、世界でも珍しいくらい清潔な都市に変貌していた。

 

これはなぜだろうか。『京都<千年の都>の歴史』では理由として、人の屎尿が肥料として求められるようになったことをあげている。排泄物を肥料にするには肥溜めに貯蔵して熟成させる必要があり、その前提としてトイレを設置しなくてはならなくなる。

 

美食者の糞尿は粗食者より肥料効果が大きい。当然農村より生活水準の高い都市のものが歓迎される。京都近郊では野菜など畠作物への需要が大きいばかりか、良質の人糞尿確保という点でも有利な条件が存在した。菜園に人糞尿肥料を施すことは、端緒としては古代からあったが、近郊型農業への対応としての汲みとり式便所は、この時期の京都ではじめて本格的に成立する。

フロイスはまた、「われわれは糞尿を取り去る人に金を払う。日本ではそれを買い、米と金を支払う」「ヨーロッパでは馬の糞を菜園に投じ、人糞を塵芥捨場に投ずる。日本では馬糞を塵芥捨場に、人糞を菜園に投ずる」と述べているが、京都の町屋住民から買い取られた人糞は、肥溜で十分熟成の末、畠に投入されたのである。

 

フロイスの見た日本はヨーロッパとは逆に、人の排泄物を肥料として用いる国だった。この習慣が結果として都市を清潔にしただけでなく、都市近郊の農業を発展させることにつながる。京野菜の味が全国に知れわたっているのも、京都の「トイレ革命」が背景にあった。

 

京野菜のおいしさには定評がある。スグキ・タケノコ・聖護院大根・壬生菜・桂瓜・七条のセリ・九条ネギ・鹿ケ谷カボチャ……千枚漬けなど京漬物も全国ブランドである。京野菜の名声確立の前史には、京都に汲みとり式便所が普及し、並行して街頭排便の習慣が過去のものとなってゆく過程があった。

 

逃げ上手の若君1巻感想:新田義貞の影が薄い理由とは?

 

 

そつなくうまい漫画には感想が書きにくい。南北朝時代を舞台に少年漫画をやるのは難しそうだが、冒頭から鎌倉幕府が滅びるという逆境のなかで、三人の郎党と友情を育みつつ成長してゆく時行の姿はちゃんと少年漫画らしさを保っている。それでいてこれはしっかりとした歴史漫画でもある。五大院宗繁のクズっぷりや小笠原貞宗の弓スキルなど、史実を生かしつつ敵方のキャラを立たせる手腕は堅実で、なによりラスボス?になるはずの足利高氏の存在感が際立っている。この時代、流れをしっかり追おうとすると結構大変だが、時行の目的が高氏打倒に一本化されているので、時代背景をあまり知らない読者もわりとすんなり入っていけそうだ。

 

隙なく完成度の高い1巻だった、で終わってもいいのだが、ひとつ印象に残ったことがある。新田義貞の存在感が奇妙なまでに薄いことだ。確かに足利高氏は京都で鎌倉幕府から離反し、有力御家人に協力を求め、幕府が滅びるきっかけを作った。だが鎌倉に直接攻め込んだのは新田義貞である。だが『逃げ上手の若君』では1巻の時点で、新田義貞は名前しか出てこない。

 

北条時行の父・高時を自害に追い込んだのは新田義貞だが、時行の怒りは義貞にはまったく向かっていないようだ。それどころか義貞のことなど考えてもいないように見える。漫画のなかでは足利尊氏が義貞に鎌倉を攻めさせたことになっているから、あくまで時行の仇は高氏なのだろう。

 

実際に新田義貞が鎌倉を攻めた理由ははなんだろうか。『日本全史』ではこう書かれている。

 

 

義貞が新田荘の生品神社で討幕の旗をあげるにいたった要因についてはさまざまにとりざたされている。とりわけ戦費調達の名目で新田世良田の地に6万貫の公事銭を強制的にとりたてた幕府への反発が大きかったと思われ、親王の令旨は、義貞が反旗をひるがえすための大義名分にすぎなかったといわれる。(p295)

 

この通りだとすれば、義貞はあくまで自分の都合で鎌倉幕府に謀反したことになる。 だが義貞の鎌倉攻めについては別の見方も存在する。『南北朝武将列伝 南朝編』の時行の列伝にはこのような指摘がある。

 

 

近年では、義貞による鎌倉攻めは尊氏によって事前に計画されていたという指摘がある。こう考えるならば、六波羅攻めや鎌倉攻めを計画した主体は尊氏ということになり、実質的に幕府を滅亡させたのは尊氏ということになる。すると、時行の義貞に対する恨みはなく、尊氏のみに敵意をむけることにも納得できる。つまり、鎌倉幕府を倒すきっかけをつくったのは後醍醐であるが、実質的に幕府を滅ぼしたのは尊氏ということになるだろう。(P201)

 

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『逃げ上手の若君』で採用している高氏(尊氏)像はこちらだ。海千山千の公家をもたやすく虜にするこの魔性の笑顔で、義貞も味方に取りこんだのだろうか。義貞が高氏の手駒にすぎないなら、時行の怒りが義貞には向かわないのも理解できる。漫画的にも、義貞が高氏の計画通りに動いたことにしたほうが、高氏のカリスマ性が高まる。新田義貞がこの先どう描かれるかわからないが、高氏の方が圧倒的に格上という扱いになるだろうか。

 

ちなみに、この漫画は巻末の歴史解説もおもしろい。軍事では鎌倉幕府にかなわない朝廷は天皇が先頭に立って行政・司法能力を磨いたため、鎌倉時代後半の天皇には名君が多かったと書かれている。その流れで出てきたのが後醍醐天皇だが、鎌倉幕府は朝廷を覚醒させ、自らを打倒しうる帝王を生んでしまったことになる。

かつて日本人が「猫食い」をしていた時代があった──真辺将之『猫が歩いた近現代──化け猫が家族になるまで』

 

 

現代ほど猫が愛されている時代もない。テレビをつければ岩合光昭が野良猫にカメラを向ける姿が映り、ツイッターを開けば「我が家の黒い妖怪」といった一文とともに日夜猫画像が流れてくる。現代日本は慢性的な猫ブームの中にあり、猫は犬とともに家族の一員として確固たる地位を占めるようになっている。

 

ところが過去に目をむけると、日本人は現代ほどには猫をかわいがっていたわけではないことがわかる。その証拠のひとつとして、戦前には日本人が猫を食べていた記録が多数存在する。『猫が歩いた近現代──化け猫が家族になるまで』は、かつて日本に存在した「猫食い」を知るうえで貴重な一冊だ。

 

この本によれば、猫を食べる行為は江戸期から一部で行われていたという。江戸時代の書物には猫の薬としての効能が書かれているものがあるが、これは猫が持つとされていた魔力や霊性と結びつくものだ。明治時代に入り、「化け猫」のイメージが薄れるとともに薬物として猫を食べることはなくなるが、通常の食事としての猫食いは続いていた。「猫鍋」など猫を用いた郷土料理も存在していたし、昭和に入っても戦前は泥棒猫を捕まえ、食べるものもいた。

 

だが、猫食いは一部で行われていたものの、これが普通の食事だったわけではない。この本によれば、「それは一般家庭で日常的に行われていたものではなく、食べるものに困った人が食べるか、あるいは特定の地域の郷土料理または精力剤として食べられることがある、程度のもの」だった。戦前の猫は今ほど人気のあるペットではなかったが、それでも1935年には猫の専門誌『猫の研究』が刊行されるほどには、猫を好む日本人は存在していた。この雑誌には愛猫家として有名な藤田嗣治のエッセイも載っている。

 

猫が食べるものに困ったときに食べられる生き物だったからには、人々が食糧不足に陥れば猫が危機をむかえることになる。戦時中から戦後の食糧難の時期には、それまでより多くの人が猫を食べることになった。ただし多くの場合、それは秘密裏に行われた。猫や犬の肉をハムやソーセージに加工し、生肉を牛肉と偽って逮捕された業者がいたり、猫の肉を個人商店がひそかに用いる事例があったという。洋食屋の調理場のゴミ箱に、偶然にも猫の頭蓋骨らしきものを見てしまったという証言もある。戦後の闇市でも、犬や猫の肉を他の獣肉と偽って売ることが横行していた。

 

こうした猫食いの記憶が、のちに思いもかけない形で復活する。オイルショックの時期、ファストフード店ハンバーガーに猫の肉が入っているというデマが広がり、東京都衛生局に電話が殺到するという事態が起きたのだ。似たような噂は世界中に存在したが、多くの場合、ハンバーガーに混入したのはミミズの肉とされていた。猫の肉が混入したというのが日本のデマの特徴だが、著者はこのデマについて「人々の深層意識のなかに、戦後の混乱期に自分も猫の肉を食べたかもしれないという記憶が、リアリティをもって残っていたことがあったのではないか」と推測している。

 

猫が完全に家族の一員となった今では、猫を捕食対象とみる人はいない。猫と人間の関係性が今ほど良好な時代はないように思える。だが猫が家族になるとはどういうことか。著者は『見ず知らずの他人よりも自分の猫の方がかけがえのない存在に思えるという精神状況こそが、猫を「家族」の、そして「社会」の一員たらしめている』と見る。猫がかわいがられることの背景には、現代社会における人間関係の希薄化や、コミュニケーションの難しさがある。どの時代でも、猫の在りようは人間社会を映す鏡だ。猫の歴史を知ることは、人間そのものを知ることにもつながる。

 

【書評】総勢31人の武人の生涯から南北朝時代を俯瞰できる『南北朝武将列伝 南朝編』

 

 

楠木正成新田義貞北畠顕家など有名どころから、南部師行・諏訪直頼などちょっとマイナーな人物まで南朝を支えた人物を網羅した本。「武将列伝」なので後醍醐天皇後村上天皇の列伝はないが、執筆陣は全員が日本史の専門家なので安心して読める。北条時行の列伝もあるので『逃げ上手の若君』のネタバレをされたくない人はここだけ飛ばしたほうがいいかもしれない。

 

この本は東日本から順番に南朝の武将を取りあげているが、「東国武将編」を読むと東北地方が南朝にとって重要な拠点だったことがわかる。後醍醐は北畠顕家を奥州に下向させ、南部師行や南部政長がその統治を支えていたが、顕家はともかくこれら南部氏の活動をよく知らなかったので、かなり楽しめた。師行が拠点とした根城は有名だが、この名称の初出は1618年であり、当時は「八戸城」と呼ばれていたらしいこともこの本ではじめて知った。

 

楠木正成南朝の「忠臣」として知られるが、この本では正成は最晩年は建武政権下では孤立していて理解者がいなかったことが指摘されている。正成の子正行も(若くして戦死したため)「悲劇の武将」とされるが、短命に終わったためそのような評価になっているだけで、長命だったならどんな生き方を選んだかわからない、と冷静な評価が下される。正行の弟正儀は北朝に降参したこともあるが、正成や正行も彼のように長生きだったらどうなっていたかはわからない。早く歴史の表舞台から退場したため「忠臣」という評価で生涯を終えられたことは、幸いといえるのだろうか。

 

北畠顕家もそうだが、この時代は皇族や公家も武将になるのが特徴だ。これはなぜだろうか。北畠親房の列伝を読むと、後醍醐が「公武一統の世の中になったのだから、文と武の二つの道を区別すべきではない」といっていたことがわかる。これは「北畠家は和歌や漢詩で朝廷に仕えてきたため、武芸には疎い」と顕家の陸奥下向を渋る親房に対していったことだが、この台詞には親房の戸惑いが感じ取れる。慣れないことを強要されて戸惑っていた公家もこの時代には存在していたが、顕家に武将の才能があったことは幸いというべきだろうか。

北畠親房南朝の重鎮としてよく知られているが、楠氏との関連でこの列伝を読んでいくと、正儀の運命に彼が深くかかわっていることがわかる。親房は南朝の中でも強硬派だったため、正儀が担当していた北朝との和平交渉に反対し、彼に「幕府に降参し南朝を没落させる」との台詞を吐かしめている。怒りに駆られて言っただけなのかもしれないが、のちに正儀はこの言葉を本当に実行することになる。

 

漫画のネタバレを避けるため北条時行の生涯について具体的には書かないが、彼の列伝を読むと、このような生き方ができたのは南朝北朝が戦っていたからこそといえる。確かに「逃げ上手」といえるエピソードも載っていて、これが漫画でどう描かれるか楽しみにもなる。時行の行動は常にある一点をめざしていて、そこからぶれることがない。その最期は寂しさを感じさせるものではあるが、最後まで北条の貴公子として生き切ったとはいえる。

 

南北朝の争いは日本国内での争いだが、九州に目をむけると、明と通行していた勢力も存在している。明から「日本国王」と認識されていた懐良親王の列伝を読むと、彼が明と通行したのは貿易の利を通じて九州の諸勢力を味方につける意図があったためであることがわかる。九州南朝軍の中心だった菊池氏も港湾都市高瀬を支配していたため、交易への関心は高かった。この時代でもやはり九州は大陸へ開かれていたことがわかる。

 

以上、興味を引かれた人物について書いてきたが、どの人物の列伝も文章は読みやすく、とくに引っかかりを感じるところはない。気になる人物のところだけ読んでもいいが、あまり知らない人物の列伝を読むと意外な発見があったりするので、ひととおり全員に目を通したほうが面白いかもしれない。自分も新田義貞の息子たちが意外なほどの活躍を見せていることは、この本ではじめて知った。この「恐るべき子供たち」の生涯を書いた本はほかにあまりなさそうなので、その意味でも手にとってほしい一冊でもある。

【感想】道尾秀介『雷神』

 

雷神

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「ラスト1ページの衝撃」を売りにするミステリはけっこう見かけるが、この一文はこの作品にこそふさわしい。道尾秀介が「これから先、僕が書く作品たちにとって強大なライバルになりました」と自負する『雷神』は、ラスト一行で読者の心にそれこそ落雷のような強烈な一撃を見舞ってくれる。ヘビーなミステリが読みたい、重く深い余韻に浸りたい読者にとっては、これは間違いのない一冊だ。

 

『雷神』は冒頭から主人公が最愛の人を事故で失うショッキングな場面で幕を開ける。しばらく時が経ち、料理人として仕事に励みつつ平穏な日々を過ごす主人公のもとに、謎の人物から脅迫めいた電話がかかってくる。それは主人公が忘れたかった過去を知る人物からのものだった。加えて娘からは大学の期末写真を撮るため、主人公の生まれ故郷を訪れたいと持ちかけられる。平和な日常に亀裂が走り、忌まわしい記憶とともに捨ててきた故郷・新潟県羽田上村に、主人公は再び足をむけることになる。

 

羽田上村には「神鳴講」とよばれる祭りが存在する。羽田上村の特産品はキノコだが、雷が落ちた場所にはよくキノコが生えるため、この村では雷神を神社に祀り、祭りの日には村民が皆でキノコ汁を食べる風習がある。主人公が少年の日、このキノコ汁に何者かが毒を入れ、村の名士を殺害する事件が起きた。詳しいことは書かないが、主人公一家が村を離れるきっかけになったのがこの事件だ。三十年の時を経て、彼は再びこの過去と向き合うことになる。

 

だが、事件の全容を知るうえで妨げになるものがある。主人公の記憶だ。主人公は神鳴講の日、姉とともに雷に打たれているため、記憶の一部が欠如している。この欠如を埋めるため、村人から当時の話を集めるうち、見えてくる事件の姿はしだいに形を変えていく。神鳴講の当日何が起きていたのか、羽田上村を去る間際に父が村人に言った言葉の真意は何か、そしてキノコ汁に毒を盛ったのは何者か──集めた情報はある一点をさし示しているように思える。だがこの作品の仕掛けは精緻で、見事にミスリードされてしまう。やがて見えてくる事件の全貌に、読者は深く嘆息することだろう。

 

『雷神』は単にミステリとして読んでも楽しめるが、この作品は人物描写も秀逸だ。特に、いつも影となり日向となり主人公を守り続けた姉・亜沙実のキャラクターは、強く印象に残る。雷に打たれ、身体に醜い痣を刻まれながらも強く生きた亜沙実の支えがなければ、主人公は羽田上村での辛い日々を生きのびることはできなかっただろう。この強く優しい姉がどんな運命をたどるかもこの作品の読みどころのひとつだ。結末は言えないが、この姉の人生はしばらく忘れられそうにない。フィクションなのに、確かにこのような人物が存在していたかのように感じられるほどだった。

 

主人公を含め、藤原家の人物は皆人としてのやさしさ、善意を多く持ち合わせている。姉の亜沙実はもちろんのこと、娘の夕見も父親思いだし、父も母もそれぞれに愛情深い人物だった。それぞれが善意と優しさに基づいてふるまった結果がこの結末だと思うと、どうにもやりきれない思いが残る。なぜ世界はこうも理不尽で残酷なのか。結局、最後の一行で書かれていることが真実だからだろうか。それは誰にもわからない。確かなことは、そう思えても仕方のない状況、人生というものがあるということである。