明晰夢工房

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【書評】阿部拓児『アケメネス朝ペルシア 史上初の世界帝国』

 

 

読みやすくわかりやすいアケメネス朝史の概説。キュロスの建国からアレクサンドロスの東征による滅亡まで、アケメネス朝ペルシアの220年の興亡を王の列伝形式でつづっている。近年、ペルシア史研究者がペルシア語本来の発音に近い「ハカーマニシュ朝」という呼び方をすることがあるが、この本ではペルシア語風表記を用いず、読みやすさを優先して従来のギリシア語風表記を使っているので、違和感を感じることなく読みすすめることができる。

 

この本の特徴として、ただペルシア史を記述するだけでなく、「史料をどう読むか」も解説してくれる点があげられる。たとえば第二代大王カンビュセス2世は、ヘロドトスの『歴史』では「聖牛アビス事件」を引き起こしたと書かれているが、これが本当のことかを本書では検討している。『歴史』は、カンビュセスが聖牛アビスの顕現を喜ぶエジプト民衆の姿を、ヌビア遠征の失敗を喜んでいると勘違いし、聖牛に斬りかかったと記す。さらにカンビュセスは関係する祭司を鞭打ちにし、祭りを祝っていたエジプト人も殺害した。これでは狂気の暴君にしかみえない。

だが、著者はメンピスから出土した碑文の内容を引きつつ、ヘロドトスの記述を批判する。この碑文では、カンビュセスが亡くなったアビスのために立派な石棺をつくったと書かれている。これは明らかに『歴史』の記述と矛盾する。また、ウジャルホルレスネト碑文には、カンビュセスはかつてエジプト第二十六王朝に仕えていたウジャルホルレスネトの才能を見抜き、重用していたと書かれている。『歴史』には征服したエジプトの王墓を暴き、神殿を焼き払うカンビュセスの蛮行が書かれているが、実際にはカンビュセスは統治の移行をスムーズにするため、エジプト人に配慮している。『歴史』の記述のみに依拠してアケメネス朝史を語ることにはリスクがあり、可能な限りいくつもの史料を突き合せなければいけないことがよくわかる。

 

アケメネス朝ペルシアを語るうえで欠かせない史料に、ベヒストゥーン碑文がある。この碑文には、始祖アケメネスからダレイオス1世にいたるまでの家系図が描かれている。ところが、この「アケメネス」なる人物が創作された可能性があるという。実はアケメネス朝初代大王・キュロス自身が作成した碑文には、キュロスはテイスペスの子孫だと書かれているだけで、「アケメネス」の名は出てこない。このため、アケメネスはダレイオス1世の王位の正当性を主張するためにつくられた架空の人物だ、とも考えられる。

 

以上のように、王朝の名祖であるアケメネスがダレイオス1世の時代から登場してきたこともあり、「アケメネス朝」という名称は、ダレイオス以降のペルシア帝国にかぎって使用すべきで、キュロス・カンビュセスの帝国とダレイオスの帝国を分けて考えるほうがよいと主張する研究者もいる。この立場を厳格に守れば、ダレイオス1世は「アケメネス朝」ペルシア初代の王になる。(アケメネス朝からとくに区別してキュロス・カンビュセスの国家を指す場合には、「テイスペス朝」という呼称が用いられる)。さらにラディカルな説では、キュロスの帝国はテイスペス朝のエラム系国家であって、アケメネス家のペルシア人であるダレイオスはそれを乗っ取ったのだという。(p86-87)

 

史上有名なベヒストゥーン碑文も、その内容を鵜呑みにするわけにはいかない。この碑文はダレイオスの簒奪を正当化している可能性すらあるのである。少なくとも、ダレイオスが王位につく正当性はかなり貧弱だったようだ。こう見ていくと、アケメネス朝史上もっとも有名な「大王」のイメージも、少し違ったものになってくる。ダレイオス1世は「王の道」とよばれる交通インフラを整備したことで知られているが、これはキュロスとカンビュセスが征服した広大な国土を統治するため、必要不可欠なものだった。帝国内の行政機構の整備は「商売人」といわれるほど実務手腕に長けていたダレイオスの得意とすることではあったが、その手腕はかれが「正当な王」、つまりキュロスとカンビュセスの事業を受けついでいることをみせつけるために用いられたのかもしれない。ダレイオスがアケメネス朝の「始祖」だったとしても、かれはキュロスとカンビュセスの後継者でもあったのだろう。