明晰夢工房

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永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に生きましたレポ』を読んで、「感情貯金」について考えた

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「感情貯金」が足りないとどうなってしまうのか

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

 

おそらくこれは、わかる人とわからない人がはっきり分かる作品ではないかと思う。

わからない側の人には、これは全く別世界の出来事にしか思えないだろう。

 

例えば冒頭の部分。

この漫画には、「私には~をする資格がない」という表現が頻発する。

外食やお酒を飲むこと、ケーキを食べることすら、永田さんは自分に許していない。

病気にでもなれば優しくしてもらう資格が得られるのではないか、とも描いている。

 

なぜ、こういうことになってしまうのか?

漫画では永田さんの過去には詳しく触れられていない。

だが、そうなった事情はわからないものの、おそらく彼女にはこれが足りなかったのではないか、と思えるものがある。

それが「感情貯金」だ。

 

togetter.com

これを読んで、「感情貯金」とは「世間や他者からの賞賛・承認によって貯まる自己肯定のエネルギー」のことだと自分なりに解釈している。

簡単に「自己肯定力」と言い換えてもいい。

この感情貯金が足りないと他者にヘイトを向けてしまうことになると上記のまとめでは述べられているが、必ずしもそうなるとは限らない。

永田さんのように、自分自身を否定することで感情のバランスを取る人も少なくないのではないかと思う。

自己評価が極限まで下がっているので、「こんな私は幸福を味わう資格がない」と考えてしまうのだ。

自分をケアするという発想が出てこない

このように自己肯定力が下がっていると、まず「自分のために何かしてあげる」という発想が出てこなくなる。

やがて永田さんは、自分で自分を大切にできていないという心の構造に気づく。

自分が自分自身に「ものを食べてはいけない」「何もしないなんて許さない」という厳しい言葉を放っていることを自覚し、「仕事を通じて人とつながりたい」「友達や一緒にいて楽しい人といたい」といった願望を全て捨ててしまっていることも理解するようになる。

 

この私の欲求なんて、満たすに値しない。

そう考えてしまっているから、やりたいことも、欲しいこともわからない。

しかし自分で自分を痛め続けていることに気付いた永田さんは、誰もが持っている欲求が自分自身の中にも存在することに気づく。

それは性的な欲求である。

自分自身の欲求を満たすために自分がしてあげること、それが彼女にとっては「レズ風俗に行くこと」だったというわけだ。

 

この「レズ風俗に行く」という行為が、この作品内ではものすごい大冒険を達成することのように描かれている。

実際、永田さんの主観ではそうだったのだと思う。

ただでさえハードルの高い「女性が風俗に行く」ということに加え、自分のために何かするという発想がなかった人が、それまで目をそらしていた性的欲求を解消するという行為をしに行こうというのだから。

承認という「甘い蜜」

しかしこの「レズ風俗に行く」という行為も、永田さんを完全には満たしてはくれない。

本来なら多くのコミュニケーションを重ねたうえでたどり着くべき行為に金銭の力でたどり着いている、という後ろめたさがつきまとうからだ。

結局、永田さんが救われたのは、この漫画をレポとして公開し、それが世間に認められるという結果を得たためだった。

 

この体験を、永田さんは「甘い蜜が大量に口に注ぎ込まれた」と象徴的に表現している。

 誰もが、私の知らない甘い蜜を舐めていて、そのおかげで生きていられるに違いない。

永田さんがそう考えていた「甘い蜜」は、実在していたのだ。

この甘い蜜を別の言葉で言い換えるなら、やはり「承認」ということになるだろう。

 

人が人らしく生きていくには、承認という甘い蜜が必要だ。

承認される体験を積み重ねることで「感情貯金」が増え、ようやく心に余裕が出てくる。

自分が自分で良いという感覚を手に入れられるようになる。

そのことを、この漫画は永田さんの実体験を通じて教えてくれる。

 

この漫画がわからない、著者が甘えているとしか思えないという人は、日常の中で自然に承認されているために、永田さんの感じている飢餓感が理解できないということではないかと思う。

「甘い蜜」があるのが当たり前な人には、それがない状態を想像することが難しいのだ。

承認の問題は福祉では解決できない

 永田さんが漫画を描くことで自己肯定感が増したことはもちろん祝福すべきことだ。

しかし、これは承認不足に陥っている人の一般的な解とはなり得ない。

そもそもこの種の問題に一般的な解決法など存在しない。だから難しいのだ。

 

お金が足りない人には、財源さえあれば行政がお金を与えることはできる。

しかし承認が足りていない人には、これをしてあげればいいという共通解が存在しない。

ひたすら人を褒めるボランティアを呼んできたとしても、それは頼まれたからそうしているだけだということが相手にもわかってしまう。

それで心が満たされる人がどれだけいるかは疑問だ。

 

永田さんも描いている通り、風俗というのもまた承認欲求を部分的に解消する場所として利用されている側面がある。

男性でも、風俗でただ人肌と触れ合うことで安心する、という人はいるらしい。

性的欲求の解消だけが目的ではないのだ。

 

そういう効果があっても、やはり金銭と引き換えの行為では得られる「甘い蜜」の量に限度があるということも本作は示している。

結局どうなれば満足なのかは自分にしかわからないし、その方法を見つけることがひとまず生きていく目的になったりする人もいるのかもしれない。永田さんがそうであったように、だ。