日本史の学習マンガとしては一番新しいシリーズになる『講談社学習まんが日本の歴史』シリーズなのですが、監修者を見てみると6巻から9巻までは『応仁の乱』著者の呉座勇一氏の監修になっていました。
「古代から令和まで最新研究を網羅」と特設サイトには書かれていますが、試しに8巻を読んで本当に最新学説が取り入れられているか確認してみました。ちなみに8巻のマンガ担当は咲香里先生です。『春よ、来い』からもう21年……あの頃は将来これ描いてるとは想像もできなかった。
8巻の内容は鎌倉末期から南北朝時代~足利義満の時代までになります。
正中の変についての描写
通説では後醍醐天皇は二度討幕を計画したことになっています。いわゆる「正中の変」と「元弘の変」です。ですが、呉座勇一氏は『陰謀の日本中世史』で、後醍醐天皇の討幕計画は一度だけだったと説いています。元弘の変では後醍醐は隠岐に流されていますが、正中の変では罪に問われていません。罪に問えなかったのは討幕計画など存在せず、後醍醐が罠にはめられたからだという河内祥輔氏の説をこの本では紹介しています。
マンガにもこの説は反映されています。マンガ内では後醍醐天皇が皇位継承者を鎌倉幕府に決められることに不満をつのらせる様子が描かれていますが、討幕計画などは立てていません。後醍醐天皇は何者かの陰謀により、討幕の首謀者とされてしまったという描写になっています。(ちなみに、『陰謀の日本中世史』では後醍醐を陥れたのは持明院統だと推理しています)
後醍醐に逆らう気などなかった尊氏
中先代の乱を起こした北条時行を討つため、足利尊氏が征夷大将軍の任官を求めたことは尊氏が武家政権を樹立する布石とみられることがありますが、この本ではあくまで時行に対抗するために征夷大将軍の権威が必要だったとしています。
この点も、『陰謀の日本中世史』で指摘されています。
しかし近年の研究では、尊氏の征夷大将軍任官要求は、武家政権樹立への布石ではないと考えられている。鎌倉鎌倉幕府再建を大義名分に掲げる北条時行に対抗するには、征夷大将軍の権威が必要と判断したにすぎないというのである。結果を知る私たちから見れば、北条時行など物の数ではないが、当時の尊氏は直義に勝利した時行を恐れたとみるのが自然だろう。
また、時行征討が終わったのちに尊氏が後醍醐の帰郷命令を無視して鎌倉に滞在し、武士たちに勝手に恩賞を与えたことも尊氏の野心の表れのように見えますが、漫画ではあくまで御家人の不満を抑えるためという描き方です。
しかし、後醍醐は帰京しようとしない尊氏を謀反人とみなして新田義貞に尊氏討伐を命じます。ここで尊氏は出家して後醍醐に恭順の意を示します。尊氏に後醍醐から独立する野心があるという前提ならこれは不可解な行動です。このため、以前は尊氏は躁鬱病だったのではないという説もあったくらいですが、尊氏が現状に満足していたのならこれはきわめて自然な行動になります。再び『陰謀の日本中世史』から引用します。
最近、亀田俊和氏は「尊氏の行動は不可解でも謎でもない。尊氏は、本当に心底から後醍醐と戦う気がなかったのである」と主張した。実は尊氏は妾腹の子であった。尊氏の父である貞氏の正室は北条氏出身の女性で、彼女が生んだ高義こそが足利家を継ぐはずだった。兄高義の早世という幸運=偶然によって尊氏は足利家の当主になれたのであり、本来ならば彼は部屋住みで終わる人生だったのである。
そんな尊氏が後醍醐天皇から莫大な恩賞を与えられ、北条得宗家に匹敵あるいはそれ以上の強大な権力を手にした。未曽有の大成功といって良い。後醍醐に対する恩義の気持ちはきわめて強かったであろう。尊氏は現状に満足して、天下取りの野望など持っていなかったと亀田氏は推定している。
結局、尊氏は先に出兵して敗れた直義を救うため新田義貞と戦うことになりますが、あくまで自衛的行動であり、恩義のある後醍醐と積極的に争う気はなかったというのがこの本での見方です。
傍からどう見えるかはともかく、尊氏当人は後醍醐の忠臣のつもりだったため、このように苦悩することになってしまいます。
尊氏の気前のよさの悪影響
この漫画では足利尊氏は野心もなく、家族思いで部下には気前が良いかなりの好人物に描かれています。たぶんマンガ史上一番爽やかな尊氏だと思いますが、気前の良さに関しては後世に禍根を残す理由にもなってしまいます。
マンガに描かれている通り、尊氏が国中の諸将に惜しみなく土地や権利を与えてしまったために足利家の財政に余裕がなく、これを立て直すために足利義満が細川頼之の提案を受けて明との交易を考えるという流れになっています。ですが、将軍は天皇ではないため明が国書の受け取りを拒否し、屈辱を感じた義満が権力志向を強めていく描写も見られます。
後に義満の国書を明が受け取り、明の使いが京にやってきますが、義満は使者に3回しか礼をしなかったので(明の規定では5回礼をしないといけません)、臣下の礼は取っていません。ぎりぎりのところで明の家臣になることを拒否した義満の外交感覚の鋭さも知ることができます。
以上みてきた通り、この間に関しては確かに新説はちゃんと反映されていました。鎌倉幕府の滅亡から建武の新生が始まり、南北朝時代が幕を開け観応の擾乱にいたるまでの流れもかなりわかりやすかったので、この時代について知りたい人にはかなりおすすめです。