本作の帯には桐野夏生の「これは武勇伝ではない。狙撃兵となった少女が何かを喪い、なにかを得る物語である」という一文が書かれている。「喪い」が先に来ているのは、この物語が大きな喪失で幕を開けるからだ。主人公のセラフィマはドイツ兵に生まれ故郷の村を焼かれ、母を殺され、外交官としてソ連とドイツの仲立ちをするという夢を失った。つまりセラフィマはすべてを失ったのだ。
生ける屍と化したセラフィマを鍛えることになるのが、凄腕の狙撃兵であり、鬼教官でもあるイリーナだ。セラフィマの母を敗北者と罵り、思い出の食器を次々と破壊するイリーナは、ドイツ兵にも劣らぬ冷酷な存在に映る。生きる気力を失っていたセラフィマを支えたのは、このイリーナへの怒りだった。ドイツ兵もイリーナも、敵はすべて殺す──この固い決意のもと、セラフィマは狙撃兵として成長していくことになる。
狙撃兵の訓練は大変厳しいが、セラフィマが得たものもある。仲間たちだ。お嬢様然とした雰囲気をたたえ、子供っぽい一面のあるシャルロット。カザフ族出身の寡黙な天才少女アヤ。一回り年上で母親のような優しさを持つヤーナ。ウクライナ人で能力は平均的だが、腹に一物ありそうなオリガ。これらの「同志少女」たちとともにセラフィマは訓練を積み、戦場へと臨む。当然ながら戦場は過酷で、全員が生き残れるわけではない。読者はこれらの女性狙撃兵の行く末に気を揉みながら、本作を読みすすめることになるだろう。
戦場での経験を積むほどに、セラフィマの狙撃兵としての力量はあがっていく。軍人としての経験と名声と地位とが彼女の得たものだが、引きかえに失ったものもある。狙撃兵は一種の戦争職人であり、その在りようはトップアスリートにも近いものがある。本作の表現を借りると、セラフィマは敵兵を狙い撃つとき、「心が限りなく空に近づく」ことがある。熟練した狙撃兵は戦場において集中力を極限にまで高め、ゾーンに入ることができる。だが銃の先にいるのは生身の人間である。その人間を、いつしかセラフィマは笑いながら撃てるようになっていく。彼女にとって狙撃したドイツ兵は、「スコア」を誇るための頭数になってしまうのだ。狙撃兵としての成長は、当たり前の人間性の喪失でもある。戦いを楽しむセラフィマを𠮟りつける看護師に「なぜ褒めてくれないの」と彼女が叫ぶシーンには、戦争の矛盾と哀しみが凝縮されている。
セラフィマが得るものと喪うものほか、本作において強烈な印象を残すのは、彼女が目撃する女性差別だ。あとがきにおいてロシア文学研究者・沼野恭子が記すとおり、本作はアレクシェーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の証言に肉付けをし、物語としてのディテールを与えた作品とも評価できる。たとえば本作ではセラフィマたち女性狙撃小隊が基地司令の大佐に称賛されるシーンがある。だがこれは、敵前逃亡の罪を犯した兵士を処刑する前振りだ。逃亡兵は「女未満」の存在という屈辱を与えるため、セラフィマたちは持ち上げられたにすぎない。こうした女性視点からしか見えてこない戦場の理不尽さが、本作では何度も描かれる。極めつきは女性兵士の凌辱だ。戦場で敵側の女たちを慰み物にすることで、男たちは仲間意識を強め、結束を固める。戦争が人を獣にする現場を見たセラフィマが、その後どのような行動に出るのか。これは、本作におけるもっとも大きな見どころのひとつでもある。
『同志少女よ、敵を撃て』は、第11回アガサ・クリスティー賞を受賞した作品でもある。ふつうに読めばこの作品は戦記に分類されると思うが、ミステリ要素も確かにある。いくつもの顔を持っている人物が少なくないのだ。やはり注目すべきは狙撃兵セラフィマを育てたイリーナ・エメリヤノヴナ・ストローガヤか。突然の母の死に打ちひしがれるセラフィマに「お前は戦うのか、死ぬのか!」と怒鳴りつけた恐ろしげなこの軍人にも、実は知られざる一面がある。最後まで読みすすめれば、読者はこの鬼教官の真実の姿を目撃することになるだろう。そしてイリーナをイリーナたらしめた戦争の過酷さ、理不尽さに嘆息することだろう。戦争は人を人でなくするのか、それとも戦争もまた人間らしい営為のひとつなのか。そんなことをしばらく考えてしまうほど、本作は深い余韻を残す作品である。エンタメ作品としての質を保ちつつ、女性狙撃兵の視点から戦争の本質に切り込んだ傑作といえよう。