明晰夢工房

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【書評】まるで見てきたように古代アテネの一日を再現する一冊『古代ギリシア人の24時間 よみがえる栄光のアテネ』

 

歴史本のジャンルではここ最近、生活史を扱った本が増えてきた。この『古代ギリシア人の24時間 よみがえる栄光のアテネ古代ギリシア人の生活に光を当てたもので、出てくるのは神殿の衛兵や壺絵師・魚屋・伝令・重装歩兵など、多くは無名な人々だ。本書ではこれらアテネのごく普通の人々24人の目を通して、一時間ごとに古代アテネの情景をリアルに浮かび上がらせる。時代は紀元前416年、ディオニュシア演劇祭の直前。この時期のアテネにはソクラテスプラトンアリストパネス、トゥキュディデス、ペイディアス、ヒポクラテスなど各界の天才たちが勢ぞろいしていて、彼らも本書のところどころに顔を出す。これらの人物が生き、「人類史上最高の天才密度」を誇った時代のアテネの空気を、本書は存分に味あわせてくれる。

 

アテネ人は肉体の鍛錬に力を入れている。市民は自分が兵士となって戦わねばならないからだ。というわけで、アテネ人は少年時代からギュムナシオン(体育学校)に通わされる。昼の第二時(午前7時)にはこのギュムナシオンでレスリング教師が生徒を訓練する様子が描かれる。この章で教師が稽古をつける相手は、なんと少年時代のプラトンだ。プラトンは12歳の時点で大人に近い背丈があり、腕力にも技にも秀でた肉体派だった。教師のアリストンはプラトンと互角に戦える少年がいないので、準備運動でけが人が出ないよう、わざとプラトンと組むはずの少年を砂袋と戦わせたりしている。アリストン当人がプラトンと組まないのは、少年愛の盛んだったアテネでは誤解を招くという事情からだ。レスリング教師とはさまざまなことに気を使わなくてはいけない職業だったらしい。

 

アテネの活気を味わうには市場の様子を見るのがいい。昼の第3時(午前8時)には、アゴラに多くの露店が並び、多くの観光客でにぎわう光景が楽しめる。この章の主人公は魚屋のアルケスティスだが、ここでは彼女がソクラテスと言葉を交わす一幕もある。「私には必要ないものが世の中にはたくさんある」とソクラテスは驚くが、アルケスティスの店で売っているのはメッセネのウナギのような高級品だ。ソクラテスはそんなものは口にしないというわけだ。アテネでは魚の好みで互いを値踏みし合うという蘊蓄がここで語られる。カタクチイワシのような小魚は財力のない人が食べるものとみなされているが、ソクラテスは気にせず食べていたそうだ。世間体になど頓着しないのが真の哲学者なのだろうか。

 

古代アテネといえば民主政だが、昼の第7時(午前12時)には評議会員同士が会話をかわす様子を見ることができる。昼食中に話しているのは名門貴族のクリティアスと重装歩兵階級のネリキオスだが、クリティアスの発言はなかなかに過激だ。彼は貴族なので民主政に批判的で、無知な民衆を「人間のくず」とこきおろす。そして民主政を擁護するネリキオスは「あなたが悪い政府と呼んでおられる政府は、民衆の力と自由の源泉だ」とやりかえす。アテネ市民の矜持が詰まった台詞だ。のちにスパルタの手先となり、アテネに貴族政をしくクリティアスにとっては、このように民衆が力を持っている現状が我慢ならない。民衆どころか、奴隷にすら力を持っている者がいる。「ここの奴隷どもは、主人以外の市民と自分は対等だと思っている」とクリティアスはこぼしているが、アテネでは奴隷でも強請りや盗難から保護される。奴隷でも裕福になれるからだ。このように、評議員の愚痴からもアテネ社会の一面をかいま見ることもできる。

 

夜の第六時(午後11時)ともなると、アテネではシュンポシオン(饗宴)もたけなわとなる。この章の主人公アリアドネはジャグリングや剣舞を披露し、宴に華を添えるが、ここにもソクラテスが顔を出す。なんでも哲学の素材にしないと気がすまないソクラテスは、アリアドネの踊りを見て「勇気とは訓練の賜物であり、教育によって身につく」と自説を展開したりする。舞踏は全身運動だから足を鍛えられないボクシングよりいいのだとも言いだすし、なかなか面倒そうな印象があるソクラテスなのだが、無言劇を演じるよう座長に提案して場を盛り上げたりもしている。アリアドネもこの要請に応じ、自分と同じ名の王女アリアドネをその場で演じているが、すぐに神話劇を演じられる人材がいるところはいかにも古代ギリシアらしい。それくらい即興でできなければ饗宴の場には呼ばれないということだろうか。

 

これらの人物のほか、本書には女魔術師や鉱山奴隷・高級娼婦・スパルタのスパイなど多彩な人物が登場し、さまざまな角度から古代アテネの姿を照らし出してくれる。興味が向いた人物の章だけ読んでもいいし、最初から時系列順に読んでも楽しめる。『古代中国の24時間』などと同様、庶民目線からみた歴史の面白さが十分に味わえる一冊なので、古代ギリシアに少しでも関心のある方はぜひ手に取ってみてほしい。

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