明晰夢工房

主に自分語りです。

読めば又吉直樹が好きになる一冊。又吉直樹『夜を乗り越える』

 

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

 

 

昔から、「辛口批評」のたぐいがどうも苦手だ。手厳しく批判するのが悪いと言いたいわけではない。それも時には必要だ。だが多くの場合、辛口レビューというのは「自分はこの作品の価値を正しく判定できるのだ」という自信を持つ人が、レビュー対象の作品に審判を下してやる、という色合いを帯びる。このレビュワーの揺らぎのなさが、なんとなく居心地の悪いもののように感じられるのだ。

 

又吉直樹の読書の姿勢は、これとは正反対のものだ。

ある本を読んで楽しめなければ、それは自分の方に問題があるのだ、と彼は言う。

 

僕は本を楽しみたいという気持ちで、わくわくしながら開きます。少なくとも、「この本、全然おもしろくなかった」と僕が誇らしげに言うことはありません。 自分がおもしろさをわからなかっただけじゃないかと思うんです。自分が楽しみ方を間違えたのではないかと。

 

この箇所以前に、又吉は『それから』を最初読んだときには良さがよくわからず、百冊以上文学を読んでから再挑戦したらものすごく面白かった経験がある、と過去を振り返っている。

 

これは、自分が正しいと思っている人には取れない態度だ。彼のこういうところに僕は好感を持つ。歳月を経ても淘汰されずに残っている文学には、それなりの価値というものがあるはずなのだから、それを理解できないのなら自分の方に問題があるのだ、という謙虚さを彼は持っている。

 

 もちろん、これがどんな作品に対しても当てはまるわけではない。作品の側に問題があって楽しめないということはあるだろう。だが、まずは楽しめるように努力する姿勢を持たなければ、その作品の楽しさに近づけないのだ。だから「最初から批判的に読もうとする人間には虫唾が走ります」とまで又吉は言っている。

 

「辛口批評」を書く人の中には、刀を構えて藁束に斬りつけるような感覚で本に臨んでいる人もいるのではないかと思う。この自分の鋭い論理と感性でどれだけこの作品に切り込めるか、舌鋒鋭くこの作品の欠陥を暴き立てることができるか、そういうところで勝負をしている人もいるはずだ。もちろん、それも全くの自由だ。ただ、又吉はそういう姿勢を取らない。人は先入観に弱いので、批判的な批評に接してしまうと少なからず影響を受けてしまうからだ。

 

美食家が「これを食べている間、ずっと吐瀉物を食べているような感覚だった」といった場合、そう評価されたものを食べるときには全力で忘れる努力をしますよね。飯が不味くなりますから。ただ、読書の場合は「吐瀉物みたいな本とはどういうものだろう?という読み方もできてしまう。そして、「なるほど、この辺が吐瀉物だ」というように情報によって不味い読書に引っ張られてしまうことがあります。

 

このあたりを読んでいると、この人は本当に読書というものを大切にしているんだな、ということがよくわかる。厳しい批評に読者が引きずられ、まず批判から入ってしまうということは十分起こり得る。そういうことは望ましくない、もっと読書を楽しんで欲しいと又吉は願っているのだと思う。

 

職業としての批評家ならスタイルとして辛口であることが求められることもあるだろう。そういう姿勢は、有名人を落として溜飲を下げたいという大衆のニーズに答えてくれるからだ。しかしこれとは別に、素人が厳しいレビューを書くのは「自分が楽しめなかったのはこの本に問題があるからだ」という、消費者目線の態度からではないかと思う。

自分は今の位置から一歩も動かず、本の方から自分に近寄ってこなかったからダメなのだ、というサービス待ちの姿勢だ。もちろん、本は一個の商品であって、対価を払った側にはそういう自由もある。しかし、本当に読書を楽しみたいなら自分から本に近寄っていかなくてはいけないのだ、受け身では楽しめない本もあるのだ、という又吉直樹の訴えを読んだ後では、こういう態度は取りにくくなるような気もする。もっとこの私を楽しませろ!と言うのはRPGで2番目くらいに強いボスの台詞にしておけばいいのかもしれない。

 

amazonのレビュー欄を見ていると、多くの高評価に混じって一人だけ☆一点をつけている人がいたりする。そういう人は、他の作品もたいてい酷評している。当人はダメなものをダメと言って何が悪い、くらいの気持ちかもしれないが、そこまで次々といろいろな作品に斬りかかるのは、又吉直樹に言わせれば作品を楽しむ能力を持っていないからかもしれないのだ。

どんな能力も、鍛えなければ伸びない。どうせ少なくない時間を費やして本を読むのなら、楽しむ能力を鍛えたほうがお得だ。

醜い者は分相応に生きよ──福田恆存『私の幸福論』

 

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

 

 女はとかく外見を品評される。今は男だってそうかもしれない。大事なのは人格だと言ってみたところで、まず外見で切り捨てられたら人格で勝負のしようがない。自分はこんな顔だから女たちに相手にされない、そんな怨嗟の声はネットのそこら中にあふれている。男女が平等化するということは、男もまた女並みに容姿を求められるようになったということかもしれない。

 

それだけ、美醜というものは大きく人のありようを決定づけてしまう。

だからこそ、人の悩みを考える時にここを避けて通ることはできない。

そのことをよく理解していたためか、恆存の人生論はまず「美醜について」からはじまる。本書はもともと女性誌に連載されていたものなのだが、容姿について悩む女性はどう生きればいいのか、というところから恆存は語り始めている。

 

残酷なようだが、この問題への恆存の回答は「分相応に生きろ」だ。醜い者が美しいものと同様の扱いを世間に望んではいけない、そういうものと思って生きろ、と彼は言っている。

 

私の原理は大変簡単なもので、醜く生まれたものが美人同様の扱いを世間に望んではいけないということです。貧乏人に生まれたものが金持ちのように大事にされることを望んではいけないということです。不具者が健康人のように扱われぬからといって、世間を恨んではならぬということです。

 

身も蓋もないと言えばそれまでだ。もう少し言いようというものがあるのではないか、とは思う。しかしこれこそが世間の現実であって、ここで下手な理想論を語っても、後々現実とのギャップに苦しむだけだと恆存は考えていたのだと思う。

 

世の中にはいくら望んでもどうしようもないことがあるし、それは受け入れて生きていくしかないのだ。自分を望み通りに扱わない他人や世間を恨んでも不幸になるだけだ、と彼は言っている。

 

ある娘さんから聞いた話ですが、自分のクラスのものが二人、ある出版社の試験に応募した。ひとりはクラスで一番の成績を持った子で、もうひとりはたいしてできない子だったそうです。ところが、第一次の書類と写真の審査で、できる子のほうが落第で、できない子のほうがパスしてしまった。その子が美貌だったからです。(中略)その娘さんの言葉を借りれば、「社会が信用できない」というのです。

 それでは困ります。若い時の理想主義、いやこの場合はむしろ世の中を甘く見た空想ともいうべきでしょうが、ひとたびそれが敗れると、今度は社会を呪うようになる。それがひがみでないと誰が言えましょうか。一見、正義の名による社会批判のようにみえても、それは自分を甘やかしてくれぬ社会への、復讐心にすぎないのです。

 

今の世の中で、こんなことを女性誌に書いたら批判が殺到するかもしれない。感想ツイートがtogetterにまとめられてブクマが300くらいつく図が容易に想像できる。保守派の論客というのは、往々にしてこういうところがある。世の中というのはそういうものなのだから文句を言ったって仕方がない、ですませてしまうのだ。

 

自分を美人と同様に扱えという貴方が甘えているのだ、というこの回答をそのまま肯定することは私にはできない。このような理不尽をそのまま認めていたのでは社会は進歩しないからだ。

しかし、恆存の生きていた時代ではこれこそが社会の現実であり、貴方はこの現実を生きていかなくてはいけないのだ、と恆存は考えていたのではないかと思う。動かしがたい現実を正義の名のもとに糾弾し続けても結局自分が傷つくだけなのだ、そんな辛い生き方を選ぶな、という諦観がそこには横たわっている。

 

 では、外見のことは諦めるとして、あくまで内面で勝負すればいいのだろうか。

そのような考え方も、それはそれで不幸を生む元なのだと恆存は述べている。

 

そういうと、顔はまずくとも、心がけが一番大事だという人がある。私はそういうことをいっているのではありません。これはマイナスだが、他にプラスの点もある。そういう考え方で、自分を慰めようとしてはいけないのです。(中略)目をつぶっても、現実は消滅しっこない。むしろそれは無意識の領域にもぐりこんで、手のつけられぬ陰性のものと化しやすい。それはひがみであり、劣等感であります。

他にプラスがあるかどうかわかりはしません。ないかもしれない。努力してみても、それが身につかぬかもしれません。それでもいいから、自分には長所がひとつもなくても、自分の弱点だけは、すなおに認めようということです。

 

この下りなど、この人はほんとうに容赦がない。しかしこれはこの通りであると思う。別の長所で短所を補うという考えが、よりコンプレックスを強めてしまうのだ。短所を隠そうとするのは、それがそれだけ恥ずかしいからなのだ。

 

およそこの手の悩み相談にありがちな一切の綺麗事が、恆存の文章には見られない。

そんなものでは人は救われはしないということをよく理解しているからだろう。

結局、変えられないものは受け入れて生きていくしかないし、世の中はそもそも理不尽なのだという現実を見据えよ、というところからこの人は一歩もぶれていない。

読んでいて慰められはしないだろうが、一時の慰めを与えてもどうにもならないと恆存は思っていたのだろう。

 

近年、化粧や整形技術の発達によって、美醜の差というものはある程度埋められるようになっているようにも見える。しかし、人は結局外見に左右されるという理不尽さ自体は何も変わっていない。その意味で、やはり我々は理不尽さを飲み込んでいかなくてはならない。本書の価値がいまだ失われていないと感じるのも、そういう動かしがたい世の中のどうしようもなさとの付き合い方のヒントを与えてくれるからである。

個性的であれという呪縛が人を苦しめる──南直哉『なぜこんなに生きにくいのか』

 

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)

 

 

ある時期から、どうもブログの世界が居心地が悪い、と感じるようになった。

おそらくはてなブログの中だけの話なのだと思うが、あちこちでどうすればたくさんアクセスを集め、それを稼ぎに繋げられるか、ということが語られるようになってきたからだ。

自意識を発露する場所、リアルでは言えない本音を吐露する場所としてのブログのありようは影を潜め、この世界も市場化の波に洗われるようになった。

 

そこでよく聞かれるようになったのは、「読者に価値を提供せよ」という言説だ。

ただの日常雑記なんて誰も興味持ちません、そんなことより読者が求めていることを書くべきなのです、といったブログ指南をする人があちこちに現れ、収益報告やPV報告を行うことが日常化し、ブログの価値はあたかも数字で表せるかのような風潮が一部で生まれたような印象がある。

 

我々は資本主義社会に生きている以上、自分自身を労働力として売らないと生きていけない。それは仕方のないことだ。しかし、ブログというのはあくまで私的な領域のもので、そうした市場的な価値観とは別であっていいのではないかと思っていたのだが、この世界もじわじわと商品価値で判断される世界になりつつあるのではないか、と少し前までは思っていた記憶がある。

 

もうはてなブログをほとんど読まなくなってしまったので、今はそうした価値観から距離を取ることができたとは思っている。今でもはてなブログでお金の話をする人が多いのかはわからない。ただ、ブログであれその人自身であれ、市場価値だけで価値を判断されてしまったら息苦しいのではないかという感覚は今でも持っている。そのあたりのことを、南直哉氏も以前テレビで語っていた。

 

 

 世間は人に個性的であれと言うが、そこで言う個性というのは結局市場で評価されるようなものではないのか、という問いを彼はここで発している。

 人間という全体性の中のごく一部である「人材」(=能力)という部分だけがクローズアップされ、そればかりが求められていることが生きづらさの原因ではないのか、と南禅師は説く。市場化という傾向が単にビジネスの世界の枠を超えて、人間全体を覆いつつあるのではないかとこの動画では説明されているが、個人ブログですらPVなどの数字で価値を測られるような一部の風潮も、この流れの延長線上にあるものではないかと思う。

 

すべてが売れるかどうかという市場価値で判断される世界は生きにくい。

すると今度はアンチテーゼとして、ありのままの自分でいいのだ、といったメッセージが強調されることになる。みんなちがってみんないい。そんなメッセージの一つの象徴として現れたのが『世界に一つだけの花』だろう。

 

この歌を聴いたとき、南氏は「とたんに泣けた」と本書で告白している。

あなたはオンリーワンだと言って欲しい人がそんなに多いのかと思えた、ということだ。

オンリーワンだと言われたいということは、実際にはそんなことを言ってくれる人が周りにいないということを意味している。こんな悲しいことがあるだろうか、と彼は思ったのだ。

だいたい、「特別な」という以上は、それを特別だと思う、花以外の人がいないと「オンリーワン」に意味があるということにはなりません。花たちがオンリーワンだ、特別だなどと思うわけではない。オンリーワンだというのは、まわりの誰かが評価して、決めることなのです。となると、確かに「私」は世界で一人だけですが、一人だけの人間が価値があるかどうかは、一人だけであることの中からは出てきません。

 まさにその通りで、一人ひとりはたしかに特別なのだが、そのことと自分が特別であることを実感できるかどうかは全く別問題だ。自分がオンリーワンだといえるためには、そう感じさせてくれる他者の存在がどうしても必要になる。そして、他者から受け入れられるには、受け入れられるような個性を持つことが必要だ。皆がオンリーワンとは言いつつも、認められるような個性は実はかなり限られてくる。

 

お金儲けを全面に出しているようなブログに対して、そんなことよりも貴方らしさを大事にして欲しい、といった感じのブログ論を以前何度か見かけたことがある。

一見良心的な意見だが、本書で展開されている主張を踏まえればこの「オンリーワンであれ」という激励もまたしんどいものであるということがわかってくる。ただの日常雑記だってその人にしか書けないオンリーワンの文章なのにあまり読まれないし、個性で勝負しようと思ったら卓越した特技なり文章芸なりが必要になるのだ。

 

それらは極めればお金にもなりうるものだし、結局市場で売れるような個性が必要なんじゃないか、という話になってくる。オンリーワンであることを目指しても、結局市場化の波から逃れられない。読者に価値を提供すれば貴方の記事は読まれますよ、というのは取引だ。評価されるのは市場で取引対象になるような個性なのだということになれば、やはりしんどさはなくならない。

 

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

 

 

結局、「取引でしか承認が得られない」という感覚が内部にある限り、どこにいても生きにくさはなくならないのだと思う。

南氏は『恐山』の中で、「取引でない人間関係をどれだけ作れるかが重要だ」ということを言っている。もし、自分に何があってもこの人は自分を見捨てないでいてくれると信じられるような人がそばにいれば、ブログが読まれない程度のことなんてどうだって良くなるだろう。そんなことと人の価値は関係がないと信じられるからだ。

 

しかし、特に大人になると、そのような関係性を得るのは簡単ではない。

今の自分はこのブログが読まれなくてもあまり問題ではなくなったが、それは他に居場所もやれることもできたためにここが重要ではなくなったからである。他者からの評価はその人の価値を決定しない、というのは全くその通りなのだが、そう思えるためにはどこかに自分を支える他者や居場所の存在が必要だ。承認を必要としなくなるには承認が必要だ、というのはなんだかパラドックスのような話だ。

 

 本書には、生きにくさを解消する方法は書かれていない。

それは結局、生きるとは苦しいものだという仏教の世界観で書かれているからだ。

しかしそういう価値観がフィットする人には読後に何かが残るだろうし、フィットしない人はおそらく最初から手に取らない。これはそういう本だ。

その昔、「100の質問」が苦手だった

先日、ツイッターのTLを「物書きさんに20の質問」と書かれたツイートが流れていくのを目にした。ずいぶん懐かしいものを見せられたような気がしたのと同時に、当時感じていたある種の苦さのようなものも思い出した。

 

意味がわからない人のために説明すると、まだブログなどというものが普及する前の時代、サイトを持っている人が自己紹介のテンプレとして「○○さんに100の質問」というものを活用していることがよくあったのだ。

d.hatena.ne.jpこのリンク先を見ると、「はてなダイアリー利用者に100の質問」の最初のバージョンは2003年のものだった。

 

質問が100ではさすがに多すぎるということで今は20個になったのだろうが、当時あちこちでこの「100の質問」に答えている人を見るたびに、当時はhtmlで日記を書いていた自分はこう考えていたことを覚えている。

 

「この人達は、他人が自分に聞きたいことが100個もあるとなぜ思えるのだろう?」

 

つまり僕には、この「100の質問」に喜々として答えている(ように見える)人達が、ものすごく自己評価の高い人たちのように写っていたのだ。

考えても見て欲しい。客が一人も入っていない公演会場で、「私はこういう趣味があって、こんな映画が好きで、こんな食べ物が苦手で……」という話を延々とし続ける場面を想定したら、これはとても惨めだ。聞き手のいない一方的な自己紹介ほど虚しいものはない。

だから、この「100の質問」に答えている人達は、「自分にはこういう話を聞いてくれる人がたくさんいる」と意識できる人達だけなのだ、と当時は思っていた。

 

今にして思えば、この質問に答えている人達は単にテンプレを活用しているだけで、別に「自分はこの長い自己紹介を最後まで読んでもらえるほどの人気者だ」なんて思ってはいなかったのだろうが、当時はなぜかそう思えなかった。

この質問に答えられるような人は自分からはずいぶん遠い人達のように思っていたし、自分は話を聞いてもらえる側の人間だ、と何のてらいもなく思える人達なのだ、と距離感を感じていたものだった。

 

おそらく多くの人は、「他人がこの話を聞いてくれるか」ということを、そもそもあまり意識などしていないのではないかと思う。意識していたら、この手の質問には人気者しか答えられなくなる。

聞き手がいようがいまいが、自分は自分語りがしたいのでそれでいい。そうした欲求の発露が、この「100の質問」を普及させたのではないかと思う。どうせこんなの誰も読んでないから、とか考え始めると、そもそも無名の素人はウェブでは何も書けなくなってしまう。

 

しかし、こうしたものを書く人達が「他人が聞いているかどうかなどそもそもどうでもいい」のだとすれば、そういう心境になれるのは、やはりある程度の自己肯定感が備わっているから、なのではないだろうか。

自分はすでに「足りている」と思っているから、人に話を聞いて貰う必要はない。だから語りたいことを語れればそれでいい。そういう心境になれるのだと思う。対して自己評価が低く、その分をウェブ上で何か表現することで埋め合わせようとしている人にとっては、自己紹介を読んでもらえるかどうかは切実な問題なのではないだろうか。

 

「人はブログを書くことで何者かになれる」という主張を読んだことがある。別にブログを書こうが書くまいがその人はその人であって、その価値に変わりはないと思うが、そう言いたくなる気持ちがわからないわけではない。

この「ブログ」は、絵や小説や音楽などにも置換可能だ。自分には何もない、と思っている人がウェブで何らかの表現行為を行い、それが受け入れられれば、その時点で初めて自分は「何者か」になった、という実感を得られる。そういう心理状態というのはあり得る。

 

 人に認めてもらえるかどうかが重大事項になる人とならない人との決定的な差が、そこにはある。自己肯定感をすでに持っている人はそれ以上肯定される必要がないため、ウェブ上の表現はいわばひとつの趣味にすぎない。しかし、自己肯定感を欠いている人にとって、ウェブ上の表現はそれを供給するための重要な手段になる。

 

創作をする上で、本当は「人が読んでいようがいまいがこれが好きだから書く」という姿勢が望ましいと思っている。作品のpvと自分の価値をリンクさせるのは精神を病む元だ。しかし、これをどうしても読んでもらいたい、という切実な気持ちが技術を向上させる要因になりうることもまた事実だ。

もし、聞き手がいるかどうかもわからないような自己紹介を延々とし続けられるほどの自己肯定感を皆が手に入れたら、それでも創作意欲が残っている人というのはどれくらいいるだろうか。この自分を認めて欲しい、という切実な欲求が消え去ったら人類が幸福になることと引き換えに、これから生み出されるはずの貴重な芸術作品のいくつかが生まれてこなくなるのかもしれない。

エマ・ワトソンのスピーチに関する雑感

logmi.jp

 

togetter.com

 

anond.hatelabo.jp

 

今日は以上の記事を読んで思ったことを記しておこうと思う。

 

世の中には、総論賛成各論反対、みたいなことが多い。どこの記事だったか忘れたが、「男性も無理せず弱みを見せられるようになればいい。無理に男らしさに縛られる必要はない」といった記事が多くの賛同を集めているのを見たことがある。

 

そして、エマ・ワトソンの演説というのも、大意はそういうことを言っている。男も女も、ジェンダー規範に縛られずに自由に生きてよい。誰もが「らしさ」を押し付けられないような社会にするべきだ、と彼女は言っているのだ。大雑把に言えば「みんな違ってみんないい」だ。

 

これ自体には特に反論するような点は見当たらない。多様性は尊重されるべきだ。これは一般論として全く正しい。だからこそ多くの人が賞賛しているし、確かにこの演説には耳を傾けるべき価値がある。では、せっかくいいことを言っているのになぜ反発する人がいるのか。ここで思い出すのがこの記事だ。

 

anond.hatelabo.jp

 エマは、「弱いと思われるのが嫌だから」と言って、男性は心が弱っているのに助けを求めようとしません。その結果、イギリスの20歳から49歳の男性は、交通事故、ガン、心臓疾患よりも自殺によって命を落とす方が圧倒的に多いのです」とスピーチの中で語っている。無理に男らしくあろうとすることが男性に多大なストレスとなっていることをちゃんと認識しているのだ。無理をして自殺するくらいなら男らしくする必要などない、全くもっともな話である。

 

しかし、男性が男らしさの鎧を脱ぎ捨て、女性の前で自分の弱みを語ると、上記のようなことになってしまうのである。これから付き合おうという相手になぜマイナス面ばかり見せられなくてはいけないのか、営業マンが自社製品の欠陥など語るな、というこの増田の言い分には多くの人が賛同するだろう。つまり、総論として「男らしさに縛られる必要はない」としても、実際の男女関係という各論の部分では、やはり男は弱みなど見せてはならない、ということになる。そのようなことをしてはパートナーを獲得する上で決定的に不利となってしまうからだ。

 

「男らしくなくてもいい。でも個人的にそんな人はパートナーには欲しくない」という女性が大半なのであれば、やはり多くの男性は男らしさから降りることは難しい。パートナーの欲しい男性は女性の需要に合わせなくてはいけないからだ。結婚などどうでもいい人なら降りても問題はないが、そういう男性はエマに言われるまでもなくすでに降りているだろう。

 

社会規範というものは、単に上から押し付けられるだけのものではない。個人の自然な嗜好が積み重なって社会規範ができるという一面もある。それが「個人的なことは政治的なこと」ということだ。エマがそのことを知らなかったか、知っていても語らなかっただけなのかはわからないが、いずれにせよ男らしさという規範を緩めたいのであれば、それを男性に求める人達(女性だけではない)にも語りかけていく必要がある。エマのスピーチにはこの点は確かに欠けていた。

 

デートでサイゼリヤに連れて行くような男は駄目だ、みたいな話を最近見たが、これは「男は女をうまくリードするべきだ」という男らしさが今でも求められているということだ。エマの演説に反発していた人達は、この現状で男らしさなど捨てたら一人負けになるだけではないか、と危惧しているのではないかと思う。そのような危惧を取り払うには男らしさを求める人達の意識も変えなくてはいけないのだが、そんなことが本当に可能なのか、という疑問も拭い去れずにいる。

 

少し話はずれるが、アドラー心理学では健全な人は他人を変えようとしない、変えられるのは自分だけだと説いているが、その見地からするとエマのように男性に変わって欲しいと訴えるような人は不健全なのだろうか。自分はそうは思わないし、時には他人に変わってもらうことも必要ではないかと思うのだが、このブログではよくアドラーの批判をしているのでこんな蛇足めいた話を付け加えたくなってしまった。

『王様でたどるイギリス史』

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『パスタでたどるイタリア史』は面白い本だったが、それに比べるとこれはかなり個性は控えめな印象。パスタやお菓子など、あまり普通の歴史書ではテーマにならないものから一国の歴史をたどるところに面白みのあったこのシリーズだが、為政者を軸に歴史を語るのはごく普通の政治史でしかない。

 

イギリス史はわかりにくい。この本もジュニア新書だけあってわかりやすく記述してあるとは思うが、それでもわかりにくいのは、イギリス史というものがブリテン島の内部で完結しないからだろう。中世の時点でノルマン・コンクェストや百年戦争など大陸と深い関係を持っているのがイギリス史で、近世に入ってからはオランダやアメリカとも深い関わりが出てくる。結局、イギリス史は他国との関係性の中で書かざるをえないため、川北稔は世界システム論を用いて名著『砂糖の世界史』を書いた。

 

 

多くのトピックが語られていて面白いことは面白いが、少々詰め込み過ぎな感もあり、あまり内容が頭に入ってこない。イギリス史にそこまで関心がないこともあるだろうが、やはり王の個性で英国史を語るというコンセプトに無理があったか。これを読んでいても、今までわからなかった清教徒革命のことはやはりわからない。こちらにキリスト教の知識が不足していることはあるだろうけれども。

 

一番印象に残ったのは近世のイギリス人の好戦性だ。決闘を好み、喧嘩っ早いことが良しとされる風潮が紳士の国であるはずのイギリスには存在し、ナポレオンの時代に軍隊の鞭打ちを廃止するキャンペーンもイギリスでは定着しなかった。パブリック・スクールでも体罰が横行している。17世紀末ころからイギリスでは憂鬱症や心気症が多くなっているが、これはこうした好戦性の裏返しであると著者は言う。イギリスで推理小説の名作が生まれたのも、死と隣り合わせの好戦性が原因ではないかと書かれている。

 

イギリス史で一番新しいトピックと言えばEU離脱だが、失業や貧困の原因をEU移民に押し付ける議論が横行していたと簡潔に触れられている。イギリスは本来大陸とは距離を起きたい国で、EUには功利主義から加盟していたにすぎないと書かれているのだが、実利を重んじるイギリス人からすればそんなものなのだろうか。

「挫折した貴方は魅力的ですよ」とあの人は言った。

 

kakuyomu.jp

第二回カクヨムウェブ小説コンテストの結果は、周囲に大きな波紋を投げかけた。

僕の知人でも大賞を受賞した人もいるし、結果に落胆して筆を折ると言い出した人や、もうウェブでは戦えないので公募に切り替える、と宣言する人も見た。

 

自分自身はこのコンテストに関してはほぼ傍から見ているだけだったが、それにしても三部門は大賞どころか特別賞すら該当者なしという結果に終わったことには驚きを禁じ得ない。SF部門・ラブコメ部門・ドラマ・ミステリー部門では、大いに健闘した作品も書籍化の栄誉は与えられなかった。

 

また、他ジャンルでは僕がこれは大賞を取るのではないか、と思っていた作品が特別賞にも届かなかった。作品の評価というものは本当にわからない。いくら読者の支持を集めようが、ウェブ上で人気作となろうが、賞は取れないときは取れない。文学賞はいつだってごく一握りの勝者に栄光を、圧倒的多数の参加者に敗北感を植え付けることになる。

 

僕は夢を諦めることが悪いことだとは思っていない。

冷静に見れば作家というのはそれほど旨味のある商売ではないだろうし、首尾よくデビューを飾ることができたとしても大変なのはそれから先だ。

作家になることができる人はそれなりに存在するが、作家であり続けることのできる人は多くはないのだ。

 

しかし大事なことは、一度は情熱を賭けていたことを諦めるということを、自分の中でどう納得するかということだ。

挫折するのは仕方がない。人のモチベーションは無限ではないし、身になるかどうかもわからないことをやり続けるくらいなら、もっと確実に手応えのあることにリソースを割いたほうがいいのかもしれない。

だが、ずっとエネルギーを注ぎ続けたことをやめるのには、心の中でそれなりの手続きというものが必要だ。その対象が小説であれ何であれ、夢を断念することは、その先に続いているかもしれない人生の可能性を捨てることを意味するからだ。

 

 こういう時、あの人ならどう言うだろう?と気になる人がいる。

子供の頃から夢中になってきたことを仕事にしているような人の言葉は、やはり心に響く。

たとえばウメハラが以前講演会で語っていたようなことも、大いに参考になるだろうと思う。

saavedra.hatenablog.com

しかし、こと「挫折」ということになると、ウメハラの話で思い出すのはまた別のことだ。

以前、アマゾン本社で行われたウメハラの講演会がニコ生で中継されていたことがある。確か二冊目の著書の出版記念講演だったと思うが、この時の講演会にも質疑応答のコーナーがあった。うろ覚えだが、このときに会場にいた人から「自分はある夢(確か服飾関係の仕事だったと思う)に向けて努力していたが、その夢は叶わなかった。こういう時、精神的にどう折り合いをつけていけばいいのだろうか」といった質問が出た。

 

こういう質問に、どう答えればいいのか。

「それまで何かに打ち込んでいた経験は他の分野にも活かせる」といったことなら誰にでも言えそうだし、現実を見据えて「時間をかけてもものにならないジャンルからは足を洗ったほうがいい」ということもできる。事実、為末学はそういう感じのことも言っている。

 

しかし、この時ウメハラが言ったことは全く予想外の一言だった。

彼はこう言ったのである。

 

「挫折している人って、魅力的なんですよね」

 

これは、アドバイスといえるようなものではない。

しかし、およそどのようなしたり顔のアドバイスよりも胸に染み入る言葉ではないかと思う。

実際、この言葉をリアルタイムで聞いたときには本当に驚いた。こんな優しいことを言える人がいるのか、と思ったからだ。

 

あまりはっきり覚えていないが、ウメハラが言っていたのはこういうことである。

 

「挫折するということは、それだけ物事に真摯に取り組んでいたということだ。その道に自分を賭けていない人は挫折という感情を味わうことはない。だから挫折している人は素敵なのだ」

 

この手の話では、多くの人は落ち込んでいる人を励まそうと通り一遍なことを言うか、あるいは根性論を持ち出して説教をするか、ということになりがちだと思う。しかしウメハラのかけた言葉はどちらでもなかった。

役に立つような台詞でもないが、このように肯定してもらえれば、挫折したことによる負の感情もほどけていくものなのではないだろうか。

挫折したことも役に立つのだとか、落ち込んでいても前には進めないのだとか、そんなことは当人だって百も承知なのである。その上で、自分でもどうにもならない敗北感に当人は打ちのめされているのだ。だとすれば、その人に必要なのはその感情を解きほぐし、身軽にしてやることだ。

 

ウメハラという人がそういう効果を狙ってこう言ったのかはわからないし、それこそ単に個人的な感想を漏らしたにすぎないのかもしれないが、それにしたってこういう場でこの台詞はなかなか出てこない。この場で求められる優等生的な回答をしよう、という発想がここにはまったくないのだ。

 

もっとも、こういう台詞もウメハラが言うからこそ意味のあることではある。よく知りもしない人から「挫折している人って魅力的ですよね」なんて言われていてもバカにしているのか?とも取られかねない。結局この種の言葉は、誰が言うかだ。今勝っている人間だからこそ、言えることがある。そのことを彼はよく自覚しているのだろう。

saavedra.hatenablog.com

ウメハラ 結局のところ、おまえ、いい人生を送ってるじゃん」って言えるのは、自分以外にはいない。

ちきりん ですね。……なんだけど、その「外からの評価じゃない。自分で自分を評価すればいいんだ」っていうのも、勝ち組だから言えることだったりしない?

ウメハラ そうですね。うん、やっぱりこれは「勝ち組の人生論」でしょう。

ちきりん おっ、言い切った!