明晰夢工房

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ヴァイキングは人間を生贄に捧げていたか

ドラマ『ヴァイキング』ではウプサラで人が神の犠牲に捧げられるシーンがある。アセルスタンもシーズン1ではここで殺されかけていたが、まだキリスト教を信じていることを見抜かれて犠牲になる資格がないということになり、助かった。

 

シーズン2ではアセルスタンはマーシア王女クウェンスリスの問いに答え、北の民は9年に一度ウプサラで人を犠牲に捧げると答えている。このような風習が、ヴァイキングの社会に実際にあったのだろうか。『ヴァイキングの暮らしと社会』の宗教について書いている箇所を読んでみる。

 

ヴァイキングの暮らしと文化

ヴァイキングの暮らしと文化

 

このようなヴァイキングの宗教の核をなしたのは何であろうか。その答えは簡単だ。儀礼宗教(カルト)、ギブ・アンド・テイクの原則にたつ実利を意図した行為、すぐに実行できる宗教的ならわしである。この宗教が最高潮に達するのは「ブロート」とよばれる供儀の祭礼であり、それには公的なものも私的なものもある。かなり古い時代のスカンディナヴィア人はたしかに人間を供儀に捧げていた。けれども、それは西暦紀元直後、つまりこの北方の地では鉄器時代と呼ばれていることのことである。ヴァイキング時代になると、そのような風習はどうやら残っていなかったらしい。そのかわり、動物の供儀は頻繁におこなわれていたと思われる。

 

人間を生贄に捧げるのは、ヴァイキングキリスト教徒との違いを際立たせるための演出のようだ。ヴァイキングは自分の守護神を「親愛なる友(ケーリ・ヴィンル)と呼び、その神をかたどった護符を財布に入れるほど信仰心は強かったが、その信仰心を自分自身を神に捧げるという形では表さなかったらしい。

【感想】『ヴァイキング』シーズン2(1話)でさらにヴァイキングの略奪の理由付けが明確になった

 

 

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ドラマ『ヴァイキング』はシーズン1のドラマ終盤に入るとラグナルの兄、ロロの存在がクローズアップされてくる。ロロはヴァイキングの英雄として名声を勝ち得る弟に対し、いまひとつ冴えない己の現状に忸怩たる思いを抱いている。そこをスウェーデン王ホリックと敵対するボルグにつけ込まれ、ホリックに忠誠を誓う兄と戦うことになってしまう。

 

ロロは戦場の勇士ではあり、ラグナル軍相手に鬼神のような戦いぶりを見せるものの、ラグナルを前にするととたんに戦意を喪失してしまう。ロロは戦士としてはラグナルより強いかもしれないが、人間としての器が違いすぎるのだ。戦いが終わった後、あまり感情的にならないラグナルが珍しく怒りをみせる。彼は「なぜ仲間同士で争わなければならない!西の土地を手に入れればこんなことをしなくてすむのに」と叫ぶ。ロロが弟の器量に嫉妬し、自分のためだけに戦っているのに対し、ラグナルはいつもヴァイキング全体の利益を考えている。このように、弟が明らかに兄よりすぐれていることが、ロロの嫉妬の原因だ。バラーラデーヴァとバーフバリ兄弟の運命を見る思いだ。先のことはわからないが、この兄弟は遠くない未来、ふたたび対決する時がくるような気もする。

 

それはそうと、ボルグとの戦いの後にラグナルの語ったことは重要だ。ヴァイキング同士の戦いは土地の不足から起きるこだ、と彼は認識している。実際、この戦いはホリック王とボルグとの土地争いが原因で起きたものだ。二度とこんな争いを起こさないためにも、新しい土地が必要だとラグナルは言っている。ついさっきまで兄弟同士で戦う悲劇が起きていただけに、よけいにラグナルの言葉には説得力がある。ロロがボルグ側についたのはロロ自身の問題であって、ヴァイキングの事情は関係ないのだが、この場ではラグナルはロロ自身の罪を問わなかった。

 

ラグナルは身内であるロロを直接裁くことができないので、「立法者」に金を握らせてロロを無罪とする。ラグナルはすでに首長なので、ロロを自分で無罪にもできただろうが、その場合、情けをかけられたロロの誇りが傷つく。だからこうするしかなかった。ロロは「お前の影でいたくなかった。だが影を抜け出したら光はなかった」とラグナルに語る。しばらくロロは日陰者として生きていくしかないのだろう。

 

ラグナルにはロロを許す寛大さがあるが、その副作用なのか、自分自身にも甘いところはある。アスラウグと浮気しておいて子供ができたから二人目の妻にすると言い出し、ショックを受けたラゲルサが家を出ていってしまう。裏切り者のロロやキリスト教徒のアセルスタンを受け入れるラグナルのおおらかさは、ここでは裏目に出た。もっとも、ラグナルがアスラウグを妻に迎えたのは政治的判断でもあるだろう。まだ若く、これから子をたくさん産めそうなアスラウグが妻なら何かと都合はいい。ただ、ラゲルサやビョルンとアスラウグの折り合いを考えなかったのはいただけない。

 

シーズン1ではアセルスタン視点やラゲルサ視点があったことでヴァイキングの価値観に視聴者がなじみやすくなっていたが、シーズン2に入り、「仲間同士の争いをなくすため」という大義名分ができて視聴者がよりヴァイキング側に感情移入しやすくなったように思う。今後は略奪行も大規模になっていくだろうし、イングランドのエグバート王も手強そうなので戦記としての色合いが濃くなっていくのだろうか。

【感想】ドラマ『ヴァイキング』(シーズン1)はヴァイキングの残酷さとの距離の取り方が絶妙な歴史ドラマ

 

 

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  • アーティスト:Vikings
  • 発売日: 2013/10/15
  • メディア: DVD
 

 

このドラマを観る前は、感情移入が難しいのではないかと思っていた。ヴァイキングを主人公に据える以上、どうしても略奪を描かざるをえない。ヴァイキング側からすれば乏しい農業生産力を補うための行為とはいえ、略奪は一方的な暴力でしかない。そこに一切罪悪感など持たないヴァイキングを主人公にして、視聴者は楽しめるのだろうか。カナダヒストリーの製作したドラマ『ヴァイキング』は視聴者が倫理的葛藤を引き起こさずドラマに入り込めるよう、周到な配慮がなされている。

 

まず、主人公のラグナル・ロズブロークの人物造形が非常に巧みだ。ラグナルもヴァイキングの一員ではあり、率先して略奪は行う。初めてイングランドにたどりつき、リンディスファーン修道院に押し入ったときは史実通りここを襲撃している。だが、ラグナルは善人ではないものの、やみくもに暴力を用いることをよしとする人物でもない。リンディスファーンではノルド語を話せる修道士・アセルスタンの命を助け、連れ帰って奴隷にしている。

ラグナルがアセルスタンを助けたのは、使いものになると思ったからだろう。言葉の通じるアセルスタンからイングランドの情報を聞き出し、さらには交渉役として使う気もあったかもしれない。だが言葉を交わすうち、やがてラグナルはアセルスタンとの間に奇妙な友情を築き、奴隷の身分から解放している。それどころか、2回目のイングランド遠征のときにはアセルスタンに鍵を預け、家の留守すら任せている。ラグナルは信仰の違いを超えてイングランド人とも理解し合える度量の広さがあり、アセルスタンもラグナルの信頼に応えている。

 

ラグナルという男のおもしろさは、反抗的なものは仲間でもあっさり殺すことがあるのに、イングランド人に対してはまず交渉を持ちかけるところだ。2回目のイングランド遠征で、海岸でノーサンブリアの兵士に出会ったときも、まず隊長の誘いに乗り王に会おうとする。この時は結局戦いになったが、それは仲間が隊長を信用しなかったからだ。ラグナルは必要なときは勇敢に戦うが、避けられる戦いは避けようともする。教会に押し入っても、抵抗しなければ傷つけないと約束する。もちろん宝物はしっかり奪っていくのだが、無抵抗の人物まで殺したりはしないので、視聴者はいつのまにか略奪者の側のラグナルに惹きつけられていくことになる。

 

ラグナルの妻・ラゲルサの存在も極めて重要だ。ラゲルサは男勝りの気性の持ち主で、ラグナルが留守のときに家に押し入った賊を独力で斬り捨てるほど強い女戦士でもある。腕が立つラゲルサは2回目のイングランド遠征に加えてもらうが、首長ハラルドソンの手先であるクヌートがサクソン人の娘を犯そうとしているのを目撃してしまう。ラゲルサがクヌートを咎めると、クヌートは今度はラゲルサを犯そうとする。だがラゲルサがここでおとなしく屈するはずもなく、逆にクヌートを刺し殺してしまう。

おそらくヴァイキング行のなかで、凌辱など日常茶飯事だっただろう。このドラマはそこから目をそらすことなく、残酷な現実もきちんと描いている。だが、ヴァイキングの残酷さが100%肯定されることもない。ラグナルは無用の暴力を用いず、ラゲルサは暴行に歯止めをかける。このバランス感覚が絶妙だ。ラグナルもラゲルサも生業として略奪を行っていて、そこに葛藤を感じることはまったくない。だが、視聴者がついていけなくなるほどの蛮行を行うこともない。この夫婦は、視聴者が感情移入できるぎりぎりのラインを綱渡りで生きている。

 

ヴァイキングの暮らしと文化

ヴァイキングの暮らしと文化

 

 

このドラマで描かれているヴァイキングの姿は、どれくらい史実に基づいているのだろうか。レジス・ボワイエ『ヴァイキングの暮らしと文化』によれば、ヴァイキングの実態とは以下のようなものだ。

 

とにかくきびしい時代であったのだ。西欧であれ、近東であれ、商人が平穏に交易に旅立ったとは思えない。値切ったり、売買したり、物々交換したり、自分の財産を守る能力が同時に必要とされたのであり、いざというときには情け容赦なく、なんとしてもチャンスをものにしなければならなかった。「片手に切断銀をはかる秤、片手に両刃の長剣」というイメージをこれまでなんども用いてきたが、そこには、ヴァイキングというものが象徴されているように思われる。秤と剣のいずれを用いるかは、そのつど時と場合に応じて決定された。安全のために地中に埋められた品物や「宝物」が、スカンディナヴィア各地で数多く出土してはいるが、かれらの略奪活動を立証できるようなものはさほど多くない。これらとちがって、窃盗や略奪よりも純然たる交易活動を立証しているのは銀貨であろう。各地の銀貨がまさに山のごとく大量に出土し、造幣されたままのものもあれば、切断されたものもある。切断されたのは、必要な分だけを切りとるためだった。いうまでもないが、取引は貴金属の重量でなされたのであり、ある特定の貨幣によってではない。特定の通過を基準にするには、平均的なヴァイキングの行動範囲があまりにも広すぎたのだ。ヴァイキングは商人として定義されるべきであり、戦士であったのは偶然にすぎない。

 

これが正しいとすれば、ヴァイキングは戦士よりも商人としての性質が強いようだ。ラグナルたちの一団はこうではなく、戦士としての性質がより強いが、イングランド側に交渉を持ちかけるラグナルの姿勢には「商人」としての一面を見てとることもできる。ラグナルにとって戦いは金品を得るための手段であって、それ自体が目的ではない。

 

ラグナルの故郷・カテガットに残されたアセルスタンがドラマのキーパーソンであることの意義も大きい。この人物を通じて、視聴者はラグナル、そしてヴァイキングたちの価値観を相対化することができる。リンディスファーン修道院の生き残りであるアセルスタンは、暴力とは縁のない人生を生きてきたため、カテガットのヴァイキングの風習に驚くシーンがしばしばある。ラグナルが首長ハラルドソンとの対決に勝利をおさめたのち、ハラルドソンに仕えていた女奴隷が死を選んだため「死の天使」に喉を切られるシーンがあるが、目をそらそうとするアセルスタンにラグナルの息子は「ただ死ぬだけだろ」と平気で言う。ここでアセルスタンは戸惑いの表情をみせる。ヴァイキングの風習が現代人から見て受け入れがたいものであるときは、アセルスタンが視聴者の気持ちを代弁してくれる。アセルスタンは終始ラグナルから大切に扱われているのだが、ヴァイキング達とアセルスタンの間には埋められない溝もある。

 

ラグナルがアセルスタンを故郷に残していったのは、農場を任せられる人物がほかにいないからでもあるだろうが、アセルスタンに略奪の現場を見せたくないという配慮でもあるだろう。ラグナルがアセルスタンを通訳として連れて行ったほうが、イングランドでの交渉はうまくいくはずだ。だが、それをすればアセルスタンはヴァイキングの味方としてノーサンブリアの地を踏むことになる。これはアセルスタンにはつらい未来になる。彼は修道士だから、略奪の手伝いをするのは神への裏切りにもなるかもしれない。そんな選択をアセルスタンにさせないところも、ラグナルの魅力のひとつであるともいえる。

 

ヴァイキングに襲撃されるイングランド側の為政者があまり良い人物でないこともまた、ヴァイキングの残酷さを中和させている。ノーサンブリア国王エラは忠実な部下を毒蛇が這いまわる穴に落として殺すし、ラグナル一行に金を払う約束も守らずだまし討ちにしようとする。国王の弟エゼルウルフは傲慢なうえ武人としては無能で、部下の忠告も聞かずラグナルたちが陣地を築いているときに攻撃しなかったため、絶好のチャンスを逃してしまう。ラグナルたちを異教徒と見下すわりにはイングランド側にはあまり立派な人物が出てこないため、ラグナルたちの勇敢さや友情の篤さが際立つ仕掛けになっている。

 

歴史ドラマの難しさは、その時代の価値観を描きつつ、かつ現代人にも受け入れられる内容に仕上げなくてはいけないところにある。ドラマ『ヴァイキング』はこれまで書いてきた通り、さまざまな手を用いて視聴者がヴァイキングの倫理観に拒否感を抱かないようにすることに成功している。この土台があってこそ、はじめて巧みなシナリオも生きてくる。題材が題材なので暴力シーンは少なくないが、そこに耐性があるならこの作品を観ないのはもったいない。確かにラグナル達ヴァイキングには獰猛な一面があり、彼らは略奪を楽しんでいる。だが彼らにも法や秩序があり、宗教もある。仲間のために命をささげる高潔な者もいれば、野心家も卑怯者もいる。つまりヴァイキングとはただの人間なのである。生身の人間としてのヴァイキングの魅力をここまで見事に描いた作品は、そうそうない。

 

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オオカミはどんな過程を経てイヌになったのか?アリス・ロバーツ『飼いならす──世界を変えた10種の動植物』

 

飼いならす――世界を変えた10種の動植物

飼いならす――世界を変えた10種の動植物

 

 

イヌと人間とのかかわりは、従来思われていたより古いようだ。この本ではアルタイ山脈のラズボイニクヤ洞窟でみつかった動物の頭蓋骨を紹介しているが、3万3000年前のこの頭蓋骨にはオオカミに近い部分とイヌに近い部分とか混在していた。ロシアの科学者たちはこの頭蓋骨を、イヌの家畜化の最初期の例のひとつだった可能性が高いと結論づけた。

出土した場所から「ラズボ」と名づけられたこの動物のミトコンドリアDNAを分析した結果は、著者によれば「初期のイヌだったようにも見える」ものだという。イヌの起源をめぐる議論は今も活発に行われているが、オオカミが家畜化されイヌとなった時期が氷河期である可能性があることは確かなようだ。

 

もし氷河期にイヌが家畜化されたのだとすれば、どのようにしてそれが達成されたのかが関心の的になる。イヌはタイリクオオカミが家畜化された生き物だが、オオカミはどのようにしてイヌに変わっていったのか。その過程を探るヒントを、この本ではキツネの世代交代に見出している。

 

ロシアの科学者ドミトリー・ベリャーエフの実験によれば、ギンギツネのなかからよく人に懐くものを選び、交配を重ねていくと、懐きやすい個体が増えていくことが明らかになった。1959年に始まったこの実験では、30世代目には半数のキツネが人に懐くようになり、2006年頃にはほぼすべてのキツネが人に懐いていた。変わったのは行動だけではない。毛の色が野生では見られない色になったものや、耳が垂れたものもいる。足が短くなったり、頭蓋が広がるという体格の変化も見られる。尻尾を振ったり鳴き声で人を誘ったりするキツネも出てくる。ギンギツネはオオカミに近い種だが、交配を繰り返すとイヌのような行動をとるようになるのだ。

 

では、太古の狩猟採集民も懐きやすいオオカミを選んで交配を続け、イヌを作り出したのだろうか。著者はその必要はなかったと推測する。一頭のオオカミが人と仲良くなれば、群れ全体もそのオオカミと同じ行動をとることが予想されるからだ。

 

狩猟採集民は、各世代でとくに友好的な10パーセントのキツネだけを交配させるという厳密な手順に従ったロシアの科学者たちと違って、選抜育種をする必要はなかった。イヌの祖先となったオオカミは、ある程度自主的な選択をしたのだろう。とりわけ友好的なオオカミだけが、ヒトのすぐそばで暮らせるほど気を許したのだ。オオカミの群れは家族で、互いに近縁関係にある。一頭が気を許しやすく、ヒトに対して友好的でさえあったとしたら、同じ群れのメンバーも同じ遺伝子と行動傾向をもっていた可能性が高い。すると、群れ全体が、群れの大半が、協力関係を築き上げたのではなかろうか。(p43)

 

人はどうやってオオカミと最初の関係を結んだのか。ここは想像するしかない。著者はアルタイ山脈に住み着いた狩猟採集民が、一か所に数か月とどまることでオオカミと交流する時間ができたと推測する。狩人の持ち帰った肉は用心深いオオカミが人に近づくきっかけになったかもしれず、攻撃性の低い個体ならそこから人との交流をはじめたかもしれない。

 

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人に慣れているオオカミはイヌとあまり変わりがないようにみえる。イヌの性質の一部は、間違いなくオオカミから受け継いだものだ。こんな交流が、3万年前のアルタイ山脈の狩猟民とオオカミの間にもあっただろうか。

森本公誠『東大寺のなりたち』に見る東大寺造立の社会的効果

 

東大寺のなりたち (岩波新書)

東大寺のなりたち (岩波新書)

  • 作者:森本 公誠
  • 発売日: 2018/06/21
  • メディア: 新書
 

 

ピラミッドのような巨大建築物は、建設のために多くの人手を必要とするため、雇用対策として建設されるという一面がある。大仏はどうだろうか。奈良の大仏の造立に参加した人物は五十一万数千人にのぼるといわれる。これらの人物のなかには浮浪人もかなり混じっていたらしい。東大寺総長である著者の見方はこうだ。

 

盧舎那仏とは『華厳経』に説く仏であり、『華厳経』は人々の苦しみを救おうとする菩薩のために説かれた経典である。聖武天皇が発願の詔のなかで、菩薩としての誓願を立てるとしているのは、華厳経にいう菩薩に自らを擬えているからである。菩薩の使命は苦悩する衆生の救いである。天皇にとって、それは民一人ひとりの救済を意味した。一枝の草、一把の土といった、たとえわずかな力であっても志があれば許すとしたのも、こうした趣旨に基づいている。

天皇がすべての民に参加を呼びかけた理由もここにあるが、実はそれだけでなく、造立事業にはいわば物心両面のもう一つの側面の解決策も加味されていた。つまり大仏造立にはとてつもない人手がいるが、その意味で造立は墾田永年私財法に続く浮浪人対策でもあったと見なされる。五十一万数千人という大仏造立に参加した役夫の人数がそれを物語っている。

 

墾田永年私財法に先立つ三世一身の法は口分田の不足を補う施策としてある程度効果はあったものの、やがて開墾した田が国有地にされるため働く意欲が萎えるという問題がったる。そこで墾田を私有財産にすることを認める墾田永年私財法の発布となったが、この法令では耕作者が戸籍上の公民である必要はない。このため、墾田永年私財法は浮浪民に生業を与えるという意味もあった。大仏の造立もまた墾田永年私財法と同じく、浮浪民対策の一環でもあったことになる。

 

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それなら古墳の造営にも浮浪民対策として行われたかと考えたくなるが、『考古学講義』では古墳の造営は首長による民衆への富の分配、ポトラッチだったと説明されている。たくわえた富を吐き出さなければ政権を維持できない古墳時代倭王の権力は、まがりなりにも官僚を使役していた奈良時代天皇にくらべかなり脆弱なものだったようだ。

【感想】小川仁志・萱野稔人『闘うための哲学書』理性でいじめを止められるか?

 

闘うための哲学書 (講談社現代新書)
 

 

基本的にあまり哲学に興味がないのだが、この本のスピノザの『国家論』の内容を引きつついじめがなぜなくならないのか、を論じている箇所は面白い。萱野稔人氏はもともとスピノザの研究者だが、彼によればスピノザマキャベリホッブズの系統に連なる哲学者で、「人間は取るに足らない存在」という認識から議論をはじめているのだという。萱野氏はこの対談で、『エチカ』の以下の部分を引用する。

 

思うに次のことは確実な事柄であり、かつ我々は『エチカ』においてその真なることを証明している。すなわち、人間は必然的に諸感情に従属する。また人間の性情は、不幸な者を憐れみ、幸福な者をねたむようにできており、同情よりは復讐に傾くようになっている。さらに各人は、他の人々が彼の意向に従って生活し、彼の是認するものを是認し、彼の排斥するものを排斥することを欲求する。(p122)

 

人間は諸感情に従属する、つまり感情にたやすく振りまわされる存在だ、というのがスピノザの基本的な人間観だ。スピノザは哲学者が往々にしてきれいごとや理想から議論を始めることに批判的で、人間や社会・国家を論じるならもっと身もふたもないところから始めないといけないと主張している。萱野氏もこのスピノザの見解に同意する立場だ。

 

人間が「諸感情に従属する」存在なら、いじめもまた人間の本質に深く根差す行為だということになる。スピノザの見解に立つなら、人間が人間である以上、必ずいじめは起きてしまうのだ。だが対談相手の小川仁志氏は「人間は本来いじめをしない存在だと思いたい」と言っている。人間は本来理性的存在で、それが例外的にうまく働かなくなるからいじめが起きる、というのが小川氏の立場だ。この本の対談はどれもそうだが、どちらかというと小川氏が(スピノザに批判されがちな)理想主義的な立場から論じている。

 

人間は理性的存在か、諸感情に従属する生き物か。この二択なら私は後者が正しいと考える。炎上商法ひとつとってみても、相手にしないのが一番いいと頭ではわかっているはずなのに、皆が叩きに参加して結局仕掛けた者の知名度を上げてしまう。理性的なのは燃やされている側と、煽りを無視できる一部の人だけだ。人間が理性的存在なら、こんなやり方がノウハウとして確立することはない。人は理性を持っているが、それをうまく機能させられることのほうが少ないように思える。

 

人間をどのような存在ととらえるかで、いじめ対策も変わってくる。人間が理性的存在なら、必要なのは啓蒙だ。小川氏が主張するように、高校生を集めて議論させれば、皆いじめはいけないということにすぐ気づく。そのくらいの理性は人間にはある。だが、ちょっと考えればいじめはいけないと理解できるのに、結局いじめがなくならないのは、考えが変われば行動も変わるというのが虚構でしかないからだ、と萱野氏は主張する。啓蒙は無意味ではないが限界があり、ここに過度に期待をかけるわけにはいかない。

 

では、どうすればいじめを止められるのか。残念ながらこの対談では答えは示されていないのだが、より抽象度の高い話が対談の後半で出てきている。一般的に、人の行動を導こうとするなら、法律や罰則、褒賞などを用いる場合と、啓蒙や教育を用いる場合とがある。後者の方法論への批判があまりないことを萱野氏は危惧している。人の理性に訴えかける方法は手間がかかり、しかも人の内面に踏み込まなくてはならない。権力が人の内面を取り締まることを警戒する萱野氏は、あまり人の理性には期待しない。

 

しかしその立場だと、小川氏が言うように、悪いことをしたものは処罰するなど、対処療法的な解決策に頼ることになる。もっと理性を働かせる方法はないのだろうか。萱野氏はこう考える。

 

ですので、その「理性への意志」を高めようとするにしても、それは「他人からよく評価されたい」とか「自分の正しさに他人を同調させたい」といった人間の情動を刺激したり利用したりすることによってしか可能ではありません。だから親や教師の前ではいい子でも、いじめの加害者になるということが十分起こりうる。理性だけで人間の行動を改善することには限界があるということです。

 

「いじめかっこ悪い」などは、まさに情動を刺激することで「理性への意志」を高め、いじめをやめさせようとするために出てきたフレーズだが、これでいじめを止められるとはあまり思えない。いじめが「かっこ悪い」行為なら、表立ってやらないようにするだけだ。隠すということはいじめが悪いことだと皆わかっているということで、その程度には人は理性を持っているが、わかっていてもやめられるほどの理性はない。

 

いじめは流動性の低い集団で起きやすいといわれるし、だから解決策として学級をなくすという提案をしている社会学者もいる。人はいじめをしてしまう生き物だという前提に立ち、だから環境を変えるべきという立場だ。現実的に考えるなら、いじめに限らず人間の悪行を減らしたければ、スピノザのような人間観に立つ必要があるように思えてくる。

 

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啓蒙がまったく無駄な行為だとは思わない。たとえばこのような本を読むことで、「ずるい言葉」を使わないよう心がけるようになる人はいるだろう。だが、このような本を買う人は、ふだんから差別やジェンダーなどの問題について意識している人ではないだろうか。こういう本を読んで考えが変わるのなら、その人はもともとかなり言葉に気をつけているはずだ。差別上等でいくら人を傷つけようが構わない人は、おそらくこうした本を手に取らないだろう。そういう人を啓蒙することは、はたして可能なのか。孔子ですら「上知と下愚とは移らず」といっている。たいていの人は上知(最上の知者)でも下愚(最下の愚者)もないから啓蒙できるのだろうか。私は孔子や小川氏ほど人間には期待できないのだが、それだけに小川氏の性善説的な主張にも魅力を感じるところはある。

【感想】千葉ともこ『震雷の人』

 

震雷の人

震雷の人

 

 

安史の乱の混乱に巻き込まれ、敵味方に分かれた兄妹の運命を描く大河小説。主人公の采春は男以上に剣や弓を操る女傑で、安禄山の眼前では足で弓を射る腕前を披露する場面もあるなど、武侠小説のような趣もある。

采春の婚約者の顔季明は書家として有名な顔真卿の一族で、文官志望の若者だが、安史の乱が始まると安禄山側の武将を罠に嵌める知略の冴えも見せる。季明の働きに呼応するように采春も戦場で活躍するのだが、季明の父・顔杲卿は顔真卿とよく似た硬骨漢であったため、季明もまた唐に殉じた父と運命を共にすることになる。

 

季明の最期を知らないまま、采春が彼を助けようと慌てて一人洛陽へと旅立ってからが本作の本番だ。ここからのキーマンは安禄山ではなく、その次男の安慶緒。武勇に長けているが暗い目を持つこの男の運命が、意外な形で采春と交わる。安禄山の長男が殺されて以来後継者争いが起きていて、人望がない安慶緒は後継者から排除されようとしている。

この安慶緒がなかなか面白いキャラクターになっていて、実はこの男は自分の人望のなさも、能力のなさも自覚している。それでいながら、暴君と化した父・安禄山を反面教師とし、自分を変えようと決意することになる。もともと人を変えるには暴力によるしかないと考えていた野卑な安慶緒がなぜこうなったのか、がこの作品の読みどころのひとつでもある。

 

一度は安禄山の建てた燕に身を寄せた采春は、この国が唐よりもずっと風通しのいい国であることを知る。ソグド人など異民族の多い燕軍では女も戦力として期待され、采春も公平な扱いを受ける。安守忠のように采春を頼りにしてくれる武将もいる。采春にとって燕の居心地は悪くない。だが皇帝の安禄山は病の苦しみのせいか、虫けらのように人を殺す。采春は唐にも心から従ってはいないが、燕に骨をうずめる気にもなれない。采春は顔真卿のような唐の忠臣としてではなく、安慶緒のような燕の中心人物としてでもなく、あくまで一人の人間としてどう生きるべきかを己に問い続ける。

 

一方、采春の兄・張永は一貫して唐の武人として働くことになる。唐に忠節を評価された顔真卿とともに平原を立つ張永の背中を押したのは、母の言葉だった。采春がいなくなったことで一時は激しく取り乱していた母だったが、やがて正気を取りもどし、別人のようにたくましくなる。長引く戦乱は人を変える。非常時には人の本質がむき出しになるようだ。変わるといえば、長い間張永を妬み続けていた大隊長韋恬も意外な一面を見せることになるが、最後の最後でこの男の本性が明らかになる。危機が人を生まれ変わらせることもあれば、そうでないこともある。

 

本作では、安史の乱のディテールがかなりくわしく書き込まれている。親を失った若い女は人買いに買われ、奴隷にされる。籠城して食料が尽きた城では老人が殺されて食われる。唐の皇族としては人望が高く、庶民にも慕われていた建寧王も悲惨な最期を遂げてしまう。戦乱は人の獣性を解放し、多くのものは自分の欲望に押し流される。だからこそ、己の信念に従う采春と張永の実直さが強く印象に残る。そしてこの二人と安慶緒の生きざまの陰には、つねに顔季明の姿がある。一見武力だけが時代を動かすかにみえる戦乱の時代に、人を動かすのは文字の力だと信じ続けたこの書生の姿が、一筋の光を投げかけている。