明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなど

万人敵・震天雷・流星錘……バラエティ豊かな中国史上の兵器を網羅した『Truth in FantasyⅧ 武器と防具 中国編』

 

武器と防具〈中国編〉 (Truth In Fantasy)

武器と防具〈中国編〉 (Truth In Fantasy)

 

 

表意文字である漢字の強みは、字面だけで雰囲気を出せることだ。中国史には実にバラエティ豊かな武器が存在し、「震天雷」「迅雷銃」「神火飛鴉」などなど、本書にはどこかファンタジーめいた名称の武器がたくさん登場しているが、これらはすべて実在したものばかりだ。この『武器と防具 中国編』では前近代の中国史上の武器と防具についての簡単な解説と、それらが用いられた歴史的経緯について知ることができるので、すこしでも中国史に興味のある読者にとっては楽しく読める一冊に仕上がっている。

 

技術者としての諸葛亮の役割

本書では射撃兵器について一章が設けられているが、なかでもとりわけ興味を惹かれるのが連弩だ。同時に多数の矢を発射する連弩は戦国時代から存在しているが、これを個人で使用できるよう改良を加え、連弩を装備した部隊を編成したのが諸葛亮だ。かれの開発した連弩は「元戎」とよばれているが、元戎は魏の騎兵に対抗するために開発されたと解説されている。魏の軍事力にに対抗するためのハードウェアが元戎であり、ソフトウェアが八陣とよばれる軍隊の運用方法だった。

明代には諸葛弩とよばれる連弩も存在しており、10本の矢を連続発射できる兵器なのだが、元戎を推定して作ったため考案者である諸葛亮の名前を借りたとされている。

 

倭刀と鳥銃と戚継光

本書を読むと、日本の武器が中国史に与えた影響力の大きさに驚く。まず倭刀の項目では、もともと美術品として輸入されていた日本刀の切れ味のよさが倭寇との戦いで知られるようになり、戚継光などの明の将軍が自分の部隊へ装備させるようになったと書かれている。日本刀は明代末期から清の軍隊にも取り入れられ、中国でも日本刀が生産されるようになっている。それだけ日本刀が武器として優秀だったとうことであり、明が倭寇に苦しめられていたということでもある。戚継光は倭寇に対抗するために狼筅という枝葉のついた槍も開発しているが、この兵器もちゃんと解説されている。

 

中国武将列伝〈下〉 (中公文庫)

中国武将列伝〈下〉 (中公文庫)

 

 

戚継光は田中芳樹が『中国武将列伝』の中で名将のひとりに数えている人物だが、戚継光は鳥銃(火縄銃の一種)も導入しており、彼の考えた編成では歩兵部隊の鳥銃の装備率は40%となっている。ほぼ同時代の信長の軍隊での鉄砲の装備率が8%に満たなかったことと比較すると、こちらのほうが断然多い。しかし鳥銃は騎兵に対抗する決定打とはなり得なかったようで、サルフの戦いにおいて朝鮮の鳥銃隊が後金の騎兵隊に対抗できなかったことも解説されている。よく銃の発達が騎士を時代遅れなものにしたといわれるが、事実はそう単純ではない。

 

「火薬帝国」としての明王朝

 本書を読めば、中国における火器の発展もひととおり学ぶことができる。火薬はもともと神仙道の実験の副産物として発見されたものだが、五代の時代にすでに火槍という火炎放射器が出現している。宋代には火器を専門に制作する部署が存在し、モンゴルが西アジアを制覇すると火器の技術はイスラム世界へと伝わった。本来、中国は火器の先進国だった。

明の永楽帝の時代になると、神機営という砲兵部隊が登場する。火器の威力を早くから評価していた明帝国だが、使用法が国家機密であったため兵士がその使い方をよく知らず、土木堡の戦いでは火器が役に立たなかった、などという史実もある。

 

末期の明を支えていた兵器は大砲、とくに紅夷砲だ。後金を興したヌルハチも寧遠城攻略の際にこの大砲に味方を打ち崩され、ヌルハチ自身も負傷したと言われている。この痛手に懲りた後金が大砲の生産を開始し、また明軍の降参兵も砲兵隊に組織したことが、清の中国征服に大いに貢献している。明は火器によって守られ、火器によって滅びた。ウィリアム・マクニールはオスマン帝国ムガル帝国モスクワ大公国などを大砲の運用によって栄えた「火薬帝国」と名付けているが、これらの帝国ほどではないにせよ、明もまた火器の力に依存している帝国だった。

 

水滸伝に出てくる武器も調べられる

世の中にはこんなものが本当に存在するのか、と思うようなものも案外実在している。水滸伝を読んだ人なら「鉄笛仙」の馬麟を知っていると思うが、暗器の項には本当に鉄笛という武器が出てくる。これは実際に楽器としても使えるので武器だとは見抜かれにくい。水滸伝で有名な武器といえば呼延灼の「双鞭」だが、これは鞭ではなく金属製の棒のことなので、打撃武器の項に書かれている。知っている人は知っているのだろうが、昔横山光輝のマンガで読んだ呼延灼は二本のムチを使っていたので、ああいうものなのだろうと思っていた。ほんとうの双鞭は三國無双太史慈が使っているようなものだということである。

 

創作の資料としても有効

このように、本書では中国史上の兵器を幅広く扱っているので読み物としておもしろいだけでなく、歴史ものの創作をする上でも参考になる。今まで挙げたようにこれらの兵器の名前はインパクトがあるため、中華風ファンタジーを書くときも役に立つだろう。ここに挙げられているものを参考に、独自の兵器を考案してみるのも面白いかもしれない。センスは知識の集積から生まれるので、こういう知識を持っておいて損はない。

 

大英帝国の中でハイランダーはどう生きたか──井野瀬久実恵『大英帝国という経験』

 

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

 

 

これは興亡の世界シリーズの中でも注目されるべき一冊であるように思う。というのは、本書ではスコットランドアイルランド奴隷解放、移民やレディ・トラベラーなど、大英帝国の中の周縁やマイノリティについてまんべんなく記述されており、最盛期のイギリスを多角的な視点から捉えることができるからだ。イギリスの政治史について一から学べる本ではないが、基本的な政治史を知っているなら本書で大英帝国の社会や文化についてより深い理解を得ることができる。

 

本書を読んでいてとりわけ興味を惹かれたのは、第2章「連合王国と帝国再編」で書かれているスコットランドアイルランドの境遇だ。ここでは近世のスコットランド史について簡潔に触れられているが、普通は「無血革命」といわれる名誉革命スコットランドにおいてはグレンコー事件という凄惨な虐殺を生じていたことがわかる。この事件はスコットランドハイランダー(ハイランド住民)に激しい憎悪を引き起こし、のちにカロデンの戦いにおいてイギリス軍とハイランダーが戦う事態にまで発展した。この戦いを指揮し、ハイランダー掃討を展開したカンバーランド公BBCが2005年に「最悪のイギリス人」18世紀部門に選んでいる。

 

このカロデンの戦いの後、スコットランド人は5つの「M」ではじまる職業で活躍したといわれる。中でもハイランダーが活躍したのはmilitary、つまり兵士だ。連合王国政府がハイランドの氏族を解体し、土地から追放してしまったためである。イギリス人にとり陸軍兵士はどんなに貧しくともなりたくない職業だったが、そういう食に就かなければいけないほどハイランド人は苦しい境遇にあった。ハイランド部隊の男たちは七年戦争アメリカ独立戦争の最前線で活躍し、死んでいった。ハイランダーの勇敢さはイングランド人の将校も感動させたといわれる。

 

このようなハイランダーの活躍は、第9章「準備された衰退」でもふたたび描かれている。ボーア戦争南アフリカ戦争)の捕虜収容所に居合わせたアリス・グリーンは、ボーア軍のドイツ人の証言として、このような発言を記録している。

 

イングランド人は財産保全を約束しながら、将校たちまで略奪に加わった。ほしくないものまで彼らは略奪した。それに比べて、スコットランド・ハイランド連隊の兵士たちがどれほど勇敢に戦ったことか!彼ら以外の兵士は、戦闘など気にもせず、略奪に夢中だった。

 

大英帝国の都合につき合わされているハイランド人が敵にまで称賛されるほど勇敢であり、イングランド人は野蛮であった。この捕虜収容所では、アイルランド人兵士に対しても多くの好意的な証言が得られている。大英帝国の周縁で苦しめられた人びとのほうが立派であったというこの事実は、何を意味するのか。イングランド人のほうが狡猾であったからこそ、彼らを支配することができたということだろうか。いずれにせよ、こうしたスコットランド人やアイルランド人の姿はもっと知られていいのではないかと思う。

 

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 近世のスコットランドが背負った労苦については岩波新書の『スコットランド 歴史を歩く』が詳しい。グレンコー事件についてはこれを読めばより深く知ることができる。

観応の擾乱に災害が及ぼした影響とは?亀田俊和『観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』を読んで

 

 

あとがきに書いているように、著者の亀田俊和氏は天邪鬼なところがあり、中世史の本でもほとんどのものがあまり言及していない観応の擾乱が気になり、研究対象とするようになったのだという。結果として、本書のようなとてもわかりやすい入門書ができた。本書は呉座勇一氏の『応仁の乱』とともに中世史ブームの一環をなす本としてよく売れたが、 亀田俊和氏の研究成果は呉座氏が『陰謀の日本中世史』の中でも肯定的に引用しているほどで、それだけ有益な知識を読者に提供してくれているということである。この『観応の擾乱』もまたこの複雑な騒乱をわかりやすく整理しつつ、最新の知見を提示してくれるので、これを読めば観応の擾乱をよく知らない人はこの乱の経緯と結果を理解することができるし、知っている人も中世史の知識を最新のものにアップデートできる。

 

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足利尊氏とその弟直義、そして尊氏の息子直冬、直義の執事高師直など多くの人物が入り乱れて戦う観応の擾乱の流れはそれなりに複雑だ。直義が一時南朝に降伏していることが余計に事態をややこしくしている。足利直冬が武将としての力量に恵まれていたことも騒乱の長引いた原因だろう。足利一門には有能な人物が多いのに、こうして互いに争っていることでどれだけの時間や人的資源が無駄になったかわからない。

 

とはいえ、雨降って地固まるとでも言えばいいのか、まさにこの争乱の結果として室町幕府の支配体制が盤石なものとなっていく。騒乱の原因のひとつとして恩賞の不足があったため、争乱の終結後は恩賞が充実し、「努力が報われる政権」ができあがった。半済令を実施し、守護の支配を強化したことも武士の利益を重んじたためとここでは解釈される。直義が最終的に尊氏に敗北したのも、直義が寺社勢力の権益を養護し、武士の利益を重んじなかったためであるから、これに鑑みれば当然武士が報われる政権を作らなくてはならない。足利義満以降続く室町幕府の全盛期の基礎が、この時期に固められたことになる。

 

ここで慧眼と思われるのが、亀田氏が南北朝時代の災害の多さについて言及している点だ。荘園が水害で被害を受ければ、当然取り立てられる年貢は減ってしまう。ただでさえ恩賞が少ないのに、災害でろくに年貢が徴収できないとなれば、さらに幕府への不満はつのる。これもまた観応の擾乱を長期化させた原因ではないか、というのである。元号の由来をみれば明らかだが、日本が自然災害大国であることが、ここにも影響している。

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観応の擾乱は日本史上のイベントとしてはマイナーな部類に属するが、後世に与えた影響、歴史的意義はとても大きい。中世史への関心が集まっている今、日本史の知識の空白を埋めてくれる著書の需要が高まっているが、この『観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』は、読者の知的好奇心を満たすだけでなく、この騒乱をきっかけに中世史の深い沼へと誘ってくれる好著だ。

阿部正弘という人物をどう評価するか?半藤一利・出口治明『明治維新とは何だったのか』

 

 

幕末史や昭和史に関する著書を多数発表している半藤一利氏と世界史の著作の多い出口治明氏の対談。半藤氏の語りを出口氏が聞くという体裁になっているが、出口氏が世界史レベルの視点から半藤氏の発言を補う箇所が多く、広い視野から明治維新についてとらえなおすことのできる良書となっている。

 

世界史という視点からみれば、ペリーの黒船来航は、日本を中国市場への足がかりにするため、ということになる。大英帝国アメリカが中国市場をめぐって争っているなかで、アメリカは寄港地としての日本に目をつけた、ということらしい。出口氏にいわせれば、アメリカの武力は商売のためのものであって、使わないのであればそれに越したことはない。ヴァイキングも本当はイングランドやフランスが不公平な取引をするため、やむなく武装したのだという知見もここで披露される。こういう過去の事例との比較はおもしろい。

 

アメリカに戦う気がないとしても、やはり黒船は日本にとっては脅威だ。では、日本はアメリカの圧力に押されてやむなく開国したのか。二人の意見は異なる。半藤氏と出口氏は、阿部正弘開明的な人物であったため、富国強兵のために積極的に開国をしたのだという。事実、阿部の開明性は海軍伝習所や蕃書調所の設立にも具体的に現れている。海軍伝習所が勝海舟榎本武揚五代友厚佐野常民などの人材を輩出したことからわかるとおり、阿部の近代化政策の意義は大きい。

 

半藤:だから私も、阿部さんがもっと長く生きていたら、幕末はずいぶん違う流れになっていただろうと思います。この人が早く死んじゃったおかげで、幕末のゴタゴタがよりおかしくなっちゃうんですよ。

 

出口:本当に立派な人ですよね。有為な人材登用や人材育成策は、お見事の一語に尽きます。また開国に当たっては、朝廷や雄藩の外様大名にも意見を求めている。市井の声も聞こうとしている。まさに「万機公論に決すべし」を地で行っている。一八五四年に創設された福山藩の誠之館では、藩士に限ることなく身分を超えて教育を行おうとしています。

 

幕末において、日本のグランドデザインを描くことができた数少ない人物のひとりが阿部正弘、というのが二人の見解だ。もし、安倍がもっと長生きしていたらどうなっていただろうか。井伊直弼のような強権的な政治手法を好まない阿部が幕政の中心に居続ければ桜田門外の変も起こらず、幕府の権威が失墜しないため、徳川幕府が存続したまま日本の近代化が成し遂げられていたかもしれない。ただしその場合、武士政権である幕府に廃藩置県のような徹底した改革が行えるだろうか、という疑問は残る。

 

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もっとも、このような阿部の高評価は、半藤氏の「反薩長」の立場から導かれるものでもあるかもしれない。「官軍」という呼称が嫌いでわざわざ「西軍」という言い方をするほど薩長が嫌いな半藤氏からすれば、とうぜん薩長と対決した幕府側の評価が高くなる。とはいえ本書では薩長が不当に低く評価されているわけでもなく、大久保利通阿部正弘と並ぶビジョンをもった政治家と評価されている。大久保が暗殺されてしまったために山縣有朋が表舞台に登場し、日本が軍国主義への道を突き進むことになった、という評価は『幕末史』の見方をそのまま受け継いでいる。

 

本書の内容は幕末から出発しているが、その射程は広く近代史全般を話題にしている。出口氏は、近代日本の過ちは日露戦争で勝利し、欧米との協調路線(=開国)を捨てたことだと言っている。この開国路線を敷いた阿部の功績が、ここでふたたび強調されている。徳川の祖法である鎖国を中止した阿部の功績は、もっと知られてもいいものかもしれない。

アイドルマスターKRを観始めた(1~3話の感想)

せっかくアマゾンプライムに入っているのだからなにか面白いドラマでもないかな、と思って探していたら、アイドルマスターKRなるものが存在していることを初めて知った。実写版のアイマスだが、これが意外と評判がいいらしい。

 

このダンスなどはゲームの動きを取り入れている。これは期待できるかもしれない。ちなみにtheidolm@sterはこのドラマのED曲になっている。

 

まず1話を観てみると、冒頭から

 

・主人公の双子の妹が事故死

・練習生のひとりが同級生にバケツの水をぶっかけられる

・自分たちを出し抜いてデビューしたライバルに頭からゴミをぶちまける

 

など、なかなかにハードだ。こういうところにはたしかに韓国ドラマらしさは出ている。

 

冒頭で事故死したのは、アイドルグループ「レッドクイーン」のメンバーのスア。妹の死にショックを受けたスジはそれまで打ち込んでいたマラソンをやめ、バイト三昧の日々を送っているが、レッドクイーンのプロデュースを担当していたカン・シンヒョク(以後カンPと呼称)に「ステージでもう一度走れ」と声をかけられる。いまだ芽の出ない練習生たちにスジ含めカンPがスカウトしたメンバーを加え、825エンターテイメントの新たな挑戦がはじまる──というストーリー。

 

アニメ版のアイドルマスターシンデレラガールズに比べると、登場するアイドルたちの上昇志向の強さが目につく。韓国のリアルな芸能界事情を反映しているからだろう。このため、アイドルたちは必ずしも皆仲が良いわけではなく、それぞれ結構我が強いし、競争心をむき出しにする。そうでなければ、ただでさえ厳しい芸能界を生き残れないのだ。主人公のスジだけはそれほどアイドルになりたい気持ちが強いわけではないため、その覚悟のなさを他のメンバーから非難されたりもするし、3話の時点ではメンバー間の雰囲気も結構ギスギスしている。

 

そして、カンPの指導もまた厳しい。陸上に打ち込んでいてアイドル経験のまったくないスジ含むメンバーに対して、業界の著名人に紹介するから1週間でレッドクイーンの曲のダンスをマスターしろなどという。結果は散々で業界人からは酷評されてしまうが、これはカンPが825エンターテインメントの現実を教えるためにわざとやったことだった。アイドルたちを鍛えるために、カンPは彼女たちを「デビュー組」と「ルーキー組」という二つのチームに分けて競わせ、下位五人はデビューのチャンスを奪うという厳しい試練を課す。彼女たちは日本のアイマスに比べるとかなり過酷な競争を強いられている。

 

いまのところ825エンターテイメントのアイドルがまだあまり覚えられていないが、ストーリー上目立っているのは主人公のスジと最年長でリーダー役のヨンジュ、何かと文句の多いジェインくらいか。日本人のユキカは天然ポジション、コミュ障気味のイェウン、ダンスが一番得意なミント、といったキャラ付けくらいは頭に入っている。デレマスの属性分けでいうとスジがキュートでヨンジュがクールである以外は全員パッションに見える。つまりそれだけ皆自己主張なり我が強い。

 

そうえいば、このドラマのED曲であるTHE IDOL M@STERにも「うぬぼれとかしたたかさも必要」「人気者になりたいのは当然」などの歌詞があり、アイドルのエゴの部分も全面に出した内容になっているのだが、それだけにこのドラマの内容にふさわしいと思われたのだろうか。

 

いまのところスジは825エンターテイメントのお荷物でしかないし、周りのアイドルたちとの関係もあまり良くないのだが、今後の彼女の成長や人間関係の変化などにも注目していきたい。

ヒアリなんて序の口!「痛みの鑑定人」昆虫学者が虫刺されの痛みを科学する『蜂と蟻に刺されてみた―「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ』

 

蜂と蟻に刺されてみた―「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ

蜂と蟻に刺されてみた―「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ

 

 

「○○してみた」もここまでくると命がけだ。「痛みの鑑定人」「毒針の王」の異名を持つ昆虫学者ジャスティン・O・シュミットは、世界中の蜂と蟻に刺されることで虫刺されの痛みの尺度である「シュミット指数」を作成しているが、この指数によるとヒアリに刺された痛みですら4段階のレベル1,つまり最も軽い痛みでしかないらしい。上には上がいるのだ。それぞれのレベルの痛みはどの程度かというと、たとえばこんな具合である。

 

・レベル1(ヒアリ)    ……ちくっとくる軽い痛み。

・レベル2(ホーネット)  ……ずしんと来る強烈な一撃。

・レベル3(シュウカクアリ)……悶絶するほどの激痛が12時間以上続く。筋肉組織が次から次へとヒト喰いバクテリアに破壊されていくみたいに。

・レベル4(サシハシアリ) ……目がくらむほどの強烈な痛み。かかとに三寸釘が刺さったまま、燃え盛る炭の上を歩いているような。

 

本書の巻末には、このように様々な蟻や蜂に刺されたときの痛みのレベルと、感じる痛みが一覧表として載っている。それぞれの昆虫が与えてくる痛みの表現は「神々が地上に放った稲妻の矢」だとか、「火山の溶岩流の真っ只中に鎖でつながれているみたい」など、文学的でどことなくユーモラスでありつつも読んでいて恐ろしくなるものばかりだ。こんな描写が延々12ページも続いているのだが、科学者の好奇心とはこのような痛みすら自分の身体で試したくなるほど強力なものなのだろうか。

 

日本人からすればヒアリだって十分な脅威なのだが、本書によればヒアリの恐ろしさとはその繁殖力の強さにあるようだ。シュミットは、「私達がヒアリとの戦いに勝ったことはあるのだろうか?まったくなし」と言う。アメリカ南部では殺虫剤を用いて大規模な駆除を行ったものの、結局ヒアリと競合するアリを排除してしまったため、かえってヒアリの繁殖を助けてしまった。一握りの働きアリから4年で15万匹を擁するコロニーを作り上げるヒアリに比べれば、ヒアリのライバルたちは早く繁殖できない。しかしこの厄介なヒアリも人間にとっては「良き友くらいにはなれるかもしれない」存在なのだそうで、ヒアリを利用すれば農地や牧草地の害虫を食べてもらうこともできるらしい。そうとわかっていても、こちらに痛みを与えてくるだけでも十分に脅威なのだが。

 

しかし、このヒアリの痛みがシュミット指数ではレベル1ということになっている。では、レベル4の昆虫が与えてくる痛みとはどれほどのものか?本書の第10章「地球上で最も痛い毒針」に、レベル4の痛みを与えてくるサシハシアリのことが詳述されている。サシハリアリはアマゾン川流域ではトゥカンディラと呼ばれているが、このアリに刺された痛みは弾丸に撃ち抜かれたようなものだということで、「ブレットアント」とも呼ばれている。ブラジル人には、このアリが4匹いれば人間をひとり殺せるともいわれるほどだ。

 

これほどの激痛を与えてくるサシハシアリを、驚くべき用途に用いている民族がいる。アマゾンのアラランデウアラ族ではなんと、このアリの痛みに耐えることを男性の通過儀礼に使っているのだ。サシハリアリを挟み込んだ筵を少年の腹や太ももなどに巻き付け、刺される痛みに耐えられたら薬草を調合した飲料を与えられるというのだが、ヒアリすら恐れる我々にはその苦痛がどれほどのものか想像もつかない。この民族にとり、大人になるとはかくも過酷なものなのだ。

 

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『バッタを倒しにアフリカへ』の著者は砂漠でサソリに刺されていたが、シュミット指数ではサソリの与える痛みレベルはどれほどのものだろうか。シュミット指数はサソリについては何も語らないので、それはわからない。『バッタを倒しにアフリカへ』はバッタ研究にまつわる著者の苦労話が面白い本だったが、この『蜂と蟻に刺されてみた』は昆虫の生態そのものが恐ろしくも面白い本だ。昆虫の刺針が産卵管から進化したこと、人の汗を舐めるコハナバチ、人を刺せないが刺すふりをする雄蜂の挙動など、本書には蜂と蟻の世界の不思議がたくさん詰まっている。イグ・ノーベル賞を受賞している著者の語り口は軽妙で読みやすく、ヒアリに興味のある人もない人も、ともに興趣つきない昆虫学の世界へと誘ってくれるだろう。

石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』で中世史を学ぶ

岩波新書の『後醍醐天皇』を読もうとしたがあまり内容が頭に入ってこない。南北朝時代の基本的な史実が頭に入っていないせいだ。こういうときはビジュアルがあるものがいいだろうというわけで、石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』を手にとってみた。このシリーズは以前古代史の部分を読んだらとても面白かったので、これがいいだろうと思った。

 

マンガ 日本の歴史〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ (中公文庫)

マンガ 日本の歴史〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ (中公文庫)

 

 

足利尊氏室町幕府を作った人、なのだが、そのキャラクターづけはいまいちはっきりしない。室町時代に今ひとつ親しみが持てないのはこのせいかもしれない。戦国時代や江戸時代とちがって、室町時代を取り上げたドラマや小説が少ないため、人物像がつかみにくいのだ。信長にせよ秀吉にせよ、多くの人はフィクションによりある程度明確なイメージをもっている。それが必ずしも歴史学的に正しいものではないにせよ、読者に興味をもたせ、学問の入り口に立たせる効果はある。

 

ではなぜ、足利尊氏にはあまりこれというイメージがないのか。このマンガを読んでいると、その理由の一端が見えてくる気がする。結局、尊氏という人が何をしたいのか、その行動原理がよくわからない部分があるのだ。だからフィクションの主人公になりにくいし、結果としてイメージが定着しない。たとえば、尊氏は鎌倉幕府の残党を鎮圧したあと、鎌倉で自立する気配を見せる。しかし、それでいて後醍醐の派遣した新田義貞とは戦いたがらない。野心があるのかないのか、傍目にははっきりしないのだ。

 

この漫画では触れられていないが、尊氏が後醍醐の討伐軍と戦わず浄光明寺に引きこもった行動について、中世史家の佐藤進一は「尊氏が遺伝性の躁うつ病だったから」と説明している。この説は『陰謀の日本中世史』で呉座勇一氏が批判しているのだが、いずれにせよ尊氏の行動には信長のように天下布武に向けてひた走るようなわかりやすさはない。

 

マンガ日本の歴史 (19) (中公文庫)

マンガ日本の歴史 (19) (中公文庫)

 

 

結局、後醍醐と尊氏が相容れないため南北朝時代が始まってしまうが、ここを描いているのが19巻だ。ここでさらに自体をややこしくしているのが尊氏と弟の直義の対立(観応の擾乱)で、直義が南朝方と組んだりするので一向に戦乱が収まる気配がない。どの勢力にも大義名分らしいものが何もなく、ただ権力欲だけがむき出しになっている、という印象を受ける(後醍醐には宋学イデオロギーがあるのだが)。とにかくどの勢力にも感情移入できない。これが幕末史だったら倒幕側であれ佐幕側であれ、誰かしら共感できる人物がいるのだが、この時代だとどの勢力にもつきたくないと思ってしまう。あえていえば、楠木正成の終始一貫した勤王ぶりには好感は持てる。尊氏と和を結べと後醍醐に諫言する勇気もあり、現実的な戦略も考えられる人なのに報われないのが悲しい。

 

マンガ日本の歴史 (20) (中公文庫)

マンガ日本の歴史 (20) (中公文庫)

 

 

まったく光のみえない18、19巻を過ぎ、20巻の主人公は足利義満に交代する。この巻は面白い。というのは、義満が「日本国王」になりたがった理由が描いてあるからだ。義満は17歳のときに明との通交を願い使者を派遣したが、天皇の臣下からの使者であるためまったく相手にされなかった。そのことを恨み「日本国王」となるため天皇家から王権を奪取することを願うようになった、というわかりやすいストーリーが展開される。

この巻の義満は、尊氏よりもよほどキャラが立っている。有力守護を分裂させて勢力を弱める政治手腕は狡猾そのもので、義満の政略が尊氏にあれば南北朝時代はもっと早く終わったのではないかと思うほどだ。かと思えば戦陣に立ち敵を追い詰める能力もあり、実に隙がない。ひとりで尊氏と直義の資質をあわせ持っている。最後は太政大臣にまで上り詰めた義満の人生は、将軍権力の確立という点で一貫している。このマンガで描かれているように義満が帝位簒奪まで狙ったかどうかは議論のあるところだが、義満がそのような「怪物」であったと考えるほうが面白くはある。

 

中世史の本は今でも売れ行きが良いらしく、中公新書の『応仁の乱』に続き『観応の擾乱』も好評だ。しかしこうして室町幕府の成立に至る流れをみてくると、その中身は実に混沌としている。どこかに感情移入できるような正義があるわけでもなく、あまり颯爽とした英雄も登場しない。読んでいてなんとなくすっきりしないのだ。だが、それだけにリアルな人間がここに息づいている、ともいえる。むしろそうしたところが人気を呼ぶ原因であったりするのだろうか。先行きの不透明な現代日本を生きる読者からすれば、むしろこのような混迷の時代にこそ現在を重ねることができるのかもしれない。高度成長期の日本のように、司馬遼太郎の書いた「明るい」戦国時代に今を投影できた時代はもうとうに過ぎた。

 

余談だが、このシリーズの感想を検索していたら、歴史作家が勉強のためこのマンガを読んでいるというツイートを見かけた。90年代の頃、大人が電車の中で漫画を読んでもいいのかという議論があった気がするが、今はマンガは学習の手段としても認められているのか、と思うと感慨深いものがある。ちなみに、石ノ森章太郎はマンガは「漫画」ではなくあらゆる事象を表現できる「萬画」なのだと巻末で主張している。それこそあらゆる事象をその中に含む歴史を描くには「萬画」こそがもっともふさわしい表現方法なのだ、という巨匠の矜持の現れだろうか。