明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

古代ギリシア民主政の真実とは?歴史学者が「衆愚政」への異議を唱える

 

 

古代ギリシアの民主政は、しばしば「衆愚政」とセットで語られる。だが『古代ギリシアの民主政』によれば、『歴史学者が「衆愚政」という、価値判断の込められた語を用いてギリシア民主政を説明することは、今日まずありえない』という。実は衆愚政という言葉自体が、もともと民主政を批判するために用いられたもので、中立的な表現ではないのだ、と本書では主張されている。では、民主政を批判するためのレッテルが、古くから用いられてきた理由とはなんなのか。

 

古代ギリシアの民主政』では、その理由のひとつを、民主政を批判する側の声が大きかったことに求めている。古代アテネは民主政の国だったため、一部のエリートが思い通りに国を動かすことができず、不満を抱いた彼らは民主政を批判した。その批判はプラトンアリストテレスの著作として、後世に残された。

アテナイ民主政は、一般民衆が権力を握る支配だっただけに、一部のエリートから憎悪や反感を買った。そしてエリートたちは、民主政を手きびしく非難するテクストを書き残した。その系譜は、プラトンの『国家』や『法律』、アリストテレスの『政治学』のような哲学の古典として、体系的な政治理論の形で近代に受けつがれた。(p7)

プラトンアリストテレスの著作が今でも読み継がれているのに対し、民主政を擁護する側の声は小さい。それはペリクレスの演説などに断片的に見られるだけで、実際に民主政を支えた人々の声は、あまり残されてはいない。だが考古資料からみえてくるものもある。たとえばアテネ裁判員は青銅製の身分証を首から下げていたが、この身分証は、しばしば貧しい市民の墓から副葬品として見つかる。彼らが国家の運営にかかわっていたことを誇りに思っていた証拠である。こうした名もない人々が民主政を支えていたが、残念ながら彼らが著作を残すことはなかった。

 

古代アテネの民主政に過ちがなかったわけではない。たとえば有名なアルギヌサイ裁判では、アテネの将軍6名が暴風雨に襲われた兵士たちを救えなかったとして死刑にされている。有能な将軍たちを市民みずからの手で葬ったこの裁判は、衆愚政における群集心理の典型とみなされている。『古代ギリシアの民主政』では、こうしたアテネ民主政の迷走の背景を解説している。当時アテネペロポネソス戦争のさなかにあり、30万もの人々が避難するため移住してきていたので、異常なほどの過密状況にあった。加えて、この頃疫病が流行しており、多くの遺体がろくに埋葬されることもなく捨てられていた。アテネ市民がきわめてストレスフルな状況に置かれているなか、後世「衆愚政」と批判されるいくつかの出来事が起こった。確かにアルギヌサイ裁判は行き過ぎだっただろうが、古代アテネの民主政の実態を知るには、この後の時代のことも知る必要がある。

 

アテネがスパルタに降伏し、デロス同盟が解体したあと、アテネではスパルタ進駐軍の圧力を背景に「30人政権」が成立した。30人政権は護衛隊300人を用いて富裕者を手当たり次第に逮捕し、財産を没収した。30人政権は「30人僭主」ともよばれる過激な暴君集団であり、アテネ市民には恐怖とともに記憶に刻まれる体制だった。しかし30人政権は一年も続かず、民主政が回復すると、アテネ市民は30人政権の残党との共存を選んだ。多くの市民が30人政権を恨んでいたが、それでも「悪しきことを思い出すべからず」と誓いを立て、報復することはなかった。政治学者Y・シュメイルは「民主主義とは嫌いな人々との共生である」と主張したが、アテネ市民はこれを実践したことになる。寡頭制支配の失敗を経て、アテネ民主政はより成熟した体制になった。

 

古代ギリシアの民主政』によれば、アテネ民主政の最盛期は前四世紀になる。ペロポネソス戦争の敗北で覇権は失ったものの、この時期アテネは民会の出席者数を確保するため、民会手当を導入している。この結果、前五世紀には年10回程度だった民会の回数はは、前四世紀後半には40回程度にまで増えている。市民の政治参加意欲も旺盛で、ほとんどの市民が生涯に一度は評議員を務めた。民衆裁判所の制度も整備され、前325年頃には複合裁判施設がアゴラの北東部に建設された。ペリクレスは「政治に無関心な者は役立たずとみなされる」と言ったが、前四世紀のアテネでもこの価値観は維持されていたことになる。アテネの民主政は、その後変質しつつもも生きながらえる。民主政の期間をクレイステネスの改革からローマ共和国のスラに占領されるまでとするなら、四百二十一年間も続いたことになる。

 

しかし、こうした歴史的現実としての民主政は忘れ去られ、有徳のエリートによる統治を理想とするプラトンアリストテレスの教説が権威になった。西欧では、彼らの著作を読むエリートたちは王権を擁護する立場にあり、民主政など危険な体制としか捉えない。市民革命の時代に入っても理想とされたのはローマ共和制であって、アテネの民主政ではなかった。そして反革命側のエドマンド・バークは、アテネ民主政をフランス革命と同様の暴虐とみなしていた。西欧思想界における反民主主義の伝統は長く、第二次大戦後にようやくこれが払拭されることになる。

民主主義が普遍的な価値として、ようやく体制のちがいを超えて認められるようになったのは、「ファシズムと民主主義の戦い」に連合軍が勝利した第二次大戦後のことである。そしてギリシア民主政の実証的研究が、碑文や考古学的遺物などの史料も用いて各国の歴史学界で本格化するのは、1970年代になってからであった。(p234-235)

 

エピクロス派はタイムロッキングコンテナを導入するべきか

 

アンデシュ・ハンセンが大ベストセラー『スマホ脳』でスマホ依存の危険性を説いてから、すでに三年が経った。それでも、スマホの誘惑を断ち切れない人は多い。それなら物理的にスマホとの接触を断つしかないわけで、タイムロッキングコンテナの登場となる。ROLANDさんに至っては自ブランドから「タイムロックポーチ」を発売している。彼ほどストイックな人でもこうした機器が必要になるほど、スマホの誘惑は強力だ。スマホ抜きの生活が難しい現代において、ストイックに生きようとすれば、人はみずからを柱に縛りつけるオデュッセウスのようにならなくてはいけないのだろうか。

 

 

ご存じのとおり、ストイックの語源は古代の哲学の一派、ストア派である。ストア派スマホの使用を制限すべきだろうか。『哲人たちの人生談義』によると、ストア派は「自然に反する魂の動き、あるいは度を越した衝動」をもたないよう、心を鍛錬しなくてはならない。寝る直前までスマホを触りたくなるのは、明らかに「度を越した衝動」だ。ストア派たるもの、スマホを目の前にしても情念に惑わされない状態に至ることが求められる。ストア派の理想とする賢者は、あらゆる情念のない境地「アパテイア」に至った者だが、この境地に達した人物が実際にいたのかはわからない。賢者になれないなら、次善策としてタイムロックコンテナを導入したほうがいいのかもしれない。

 

では、エピクロス派はどうか。エピクロス派は快楽を追求したといわれ、ストア派の対極にあるイメージがある。いくらスマホを見てもよさそうだし、毎日ガチャを回そうが、ネットポルノ漬けになろうが、叱られることはなさそうだ。だが、実はエピクロス派の追及した「快楽」とはそういうものではない。『哲人たちの人生談義』によれば、エピクロスの考える「快楽」とは次のようなものだ。

快楽が人生の目的であると言うときに、われわれが意味しているのは、われわれの説を知らずに同意しない人びとや悪意を持って受け取っている人びとが考えているような放蕩者の快楽や性的な享楽の中にある快楽のことではなく、身体に苦痛がなく、魂に動揺がないことである。(p80)

エピクロスが求めていた快楽とは心が平静であることで、SNSで発言をバズらせたりポルノを見たりして脳を興奮させることではない。ドーパミンがたくさん出るタイプの快楽は、エピクロス派がめざすものではないのだ。確かにエピクロス派は快楽を追求するが、SNSでバズろうとすれば失敗して炎上するかもしれないし、ポルノ漬けの毎日を過ごしていれば不健康になる。一時的な「放蕩者の快楽や性的な享楽」を追求して、結果として苦痛を増やすのは、エピクロス派にとっては避けるべき事態なのである。

 

エピクロス派は心の平静さを求めるため、その邪魔になるものは積極的に排除しなければならない。このため、快楽追及の努力は、ある意味ストイックなものになる。たとえば『ギリシア哲学者列伝』には、エピクロスのこんな言葉が収録されている。

快楽が第一の生得的な善であるからといって、すべての快楽をわれわれが選択するというわけではない。むしろ、それらの快楽からより多くの不快なことが続いて生じるときには、多くの快楽を見送るようなときもある。また、長い時間にわたって苦痛を耐え忍ぶことで、より大きな快楽がわれわれに生じる場合には、多くの苦痛のほうを快楽よりも善いものだとみなすのである。

アンデシュ・ハンセンは『スマホ脳』において、スマホの長時間使用が睡眠障害やうつ、集中力の低下などをもたらすと警告した。これは「快楽からより多くの不快なことが続いて生じる」ことに他ならない。エピクロス派にとってはぜひとも避けるべき事態だ。意志の力でスマホの使用を制限するのが困難なら、エピクロス派は心の平静さを保つため、タイムロッキングコンテナを利用するだろう。スマホを見なくなって空いた時間は何に使うべきだろうか。より上質な快楽追及のために参考になるのは、アンデシュ・ハンセンの『運動脳』だ。

 

 

アンデシュ・ハンセンは『運動脳』で、ウォーキングやランニングでうつ病を予防でき、気分が晴れやかになると説いている。これらの運動はセロトニンノルアドレナリンドーパミンなどの神経伝達物質を分泌させ、感情に影響を与えるからだ。「幸せホルモン」と名づけられるセロトニンは心をリラックスさせてくれるので、エピクロス派がめざす精神の平静さをもたらしてくれる。エピクロス派がこの本を読んだなら、日々運動に励むようになるだろう。『運動脳』に書かれているとおり、ランニングは一時的にはコルチゾールを分泌させ、身体はストレスを感じる。しかし、これはより多くの快楽を感じるために必要な苦痛になる。ランニングを続けていると、身体がストレスに慣れるため、運動以外の原因でストレスを抱えていても、コルチゾールの分泌量が少ししか上がらなくなるのだ。ストレスを減らすことは、幸福が増えることを意味する。日々ランニングを継続できる人は、このような効果を意識的に、あるいは無意識的にわかっているから続けられるのだろう。ストイックに身体を鍛え、栄養に気を配る健康マニア達は、自覚なきエピキュリアンと言えるかもしれない。

古代ローマ人が奴隷の買い方からマネジメント法・解放の仕方まで教えてくれる貴重な一冊『奴隷のしつけ方』

 

 

古代ローマにおいて、人口の二割程度は奴隷だったといわれる。奴隷なくしてローマ社会は成り立ないので、彼らにきちんと働いてもらわなくてはいけない。といっても、ただ鞭で叩いて服従させればいい、というものではない。奴隷も人間であり、マネジメントするにはそれ相応の方法がある。ローマ人はどのように奴隷を管理していたのだろうか。『奴隷のしつけ方』著者のマルクス・シドニウス・ファルクスがそれを教えてくれる。マルクスはローマ史家ジェリー・トナーが生み出した人物で、この人物の口をつうじて帝政期ローマにおける奴隷制の実態がくわしく語られる。マルクスは、奴隷はファミリア(家)の一員だという。ファミリアは国の縮図であり、奴隷はその構成要素として欠かせない。主人への絶対服従を強いられ、法的権利を持たない奴隷こそが、ローマ社会の根幹を支えていた。奴隷を知ることは、古代ローマそのものを知ることなのである。

 

奴隷をしつけるには、まずいい奴隷を選ばなくてはならない。マルクスは第一章「奴隷の買い方」において、奴隷の選び方をくわしくアドバイスしている。まず気をつけるべきは奴隷の出身地だ。マルクスが言うには、身の回りの世話をさせるなら若いエジプト人がいいそうだ。逆に、荒っぽいブリトン人は向かない。どこの奴隷が一番いいかは意見が分かれるが、同じローマ市民だった者を奴隷にしたくないという点は誰もが同意する。誇り高いローマ市民が奴隷にされる姿は見たくないのだ。次に、マルクスは奴隷の価格について語る。健康的な成人男性の平均的な価格は1000セステルティウスだが、500セステルティウスで家族四人を一年養えるというから、奴隷は高い買い物だということがわかる。だからこそ、奴隷商人にだまされて欠点の多い奴隷を買わないよう気をつけなくてはならない。奴隷商人は病気の奴隷の顔に紅を塗ったり、脱毛剤を使って青年を少年に見せかけようとしたりするので、買う前に入念なチェックが必要だ。性格を知ることも重要で、陰気な奴隷はやめたほうがいいという。マルクスいわく、「奴隷であることがすでに辛いのだから、そのうえ気鬱症でひどく落ち込むとなれば先が思いやられる」からだ。ローマ人は奴隷のつらさは理解しつつも、奴隷制を自明のものと考えている。

 

よく吟味して奴隷を買ったなら、次は奴隷のマネジメント法を知る必要がある。第二章「奴隷の活用法」では、褒美の与え方と役割分担について語られている。いい働きをした者には食事や自由時間などで報いてやらねばならない。奴隷に食品を与えるには「薬を処方する医者のようでなければならない」とマルクスは説くが、これは奴隷という身分にふさわしい食事を与えよということだ。奴隷に贅沢はさせられないが、特別な褒美としてエトルリア産のハードチーズや奴隷用のワインが与えられることがある。褒美として食料だけでなく質のいいトゥニカや靴が与えられることもあり、さらには奴隷から解放されることもある。いつの日か自由になれるという希望は、奴隷のモチベーションを上げる効果があるようだ。そして、奴隷を効率的に働かせるために、役割分担を決める必要がある。一人一人の身体的特徴や性格に合わせ、適切な仕事を割り振らなくてはいけない。牧夫なら勤勉でやりくり上手な者、耕夫なら背の高い者、牛飼いなら声が大きく優しい者……などなど、マルクスはそれぞれの仕事にふさわしい特徴をあげている。もっとも力が入っているのは農場管理人の選び方で、マルクスは管理人の心得を30個もあげている。この中には「隣接する領地の住民と懇意になり、必要なときに人手や道具を借りられる関係を築く」というものまであり、奴隷にそこまで求めるのかと驚く。自分に代わって農場を運営することまで奴隷にさせるのがローマ人なのだ。

 

がんばった者に褒美を与えたり、適材適所を心がけたりと、マルクスの奴隷マネジメント法は意外なほどまっとうにに思える。彼は奴隷などいくらこき使っても構わない、とは思っていない。マルクスにとり、奴隷はどんな存在だったのだろうか。第四章「奴隷は劣った存在か」を読めば、彼の奴隷観を知ることができる。この章でマルクスは、「自由人でも品性の卑しい人間はいるし、奴隷でも高潔な人間はいる」と語る。人間の評価は身分ではなく、精神の質で決まると彼は考えているのだ。ここにはストア哲学の影響がみられる。ストア派にとっては、色欲や飽食といった悪徳に染まっている者こそが真の奴隷になる。だからマルクスは、奴隷の失敗を許し、時には彼らと食事を友にせよと説く。奴隷は運悪くその境遇に落ちただけであるという彼の考えは、奴隷は本性が劣っているというギリシャ人よりかなり進歩的に思える。しかし、マルクス人道主義者ではない。第五章「奴隷の罰し方」に移ると、彼は急に現実的になり、時には力ずくで奴隷をしつけなくてはいけないと主張する。マルクス自身は奴隷に体罰を加えるときは請負人にやらせているが、これは怒りを制御するためだ。怒りにまかせて奴隷を打てば、相手や自分が怪我をすることもある。だからマルクスは度を越した暴行を加えることには批判的だ。「理性的な体罰」を推奨するマルクスは当時としては奴隷に寛容だったのかもしれないが、やはり古代人の寛容さには限界もある。

 

マルクスがそう考えていたように、ローマ人にとり奴隷とはあくまで一時的な状態であり、奴隷制度は社会的慣習にすぎない。だから、奴隷が解放されることもある。だが、主人が奴隷を解放することにどんなメリットがあるのだろうか。それは第九章「奴隷の解放」を読めばわかる。まず第二章でも語られたように、解放という希望をちらつかせることで、奴隷にやる気を出させることができる。希望があるからこそ、苦しい奴隷生活にも耐えられるのだ。また、女奴隷の場合、解放して妻に迎えることもある。奴隷の身分のままでは結婚できないからだ。ここで気をつけないといけないのは、解放の条件として結婚を明記することだ、とマルクスは語る。老いた主人がほれ込んだ女奴隷を解放したら若い男と逃げてしまった、というケースがあるからだ。さらには、奴隷がみずから自由を買い取る場合もある。この場合、自由を与えて得られた収入で別の奴隷を買うことができる。このように、ファミリア(家)を構成する奴隷がつねに新陳代謝を繰り返すのがマルクスにとって望ましい状況になる。

 

とはいえ、解放されても奴隷が完全に自由になれるわけではない。解放後も数年間は主人のため労働しなくてはならず、女奴隷なら子供の一人を代わりに置いていくことを求められることもある。解放されても奴隷と主人との縁は切れず、だからこそ主人から事業を支援してもらえることもあるのだが、マルクスが解放奴隷にまかせる事業とは金貸しや貿易など、身分の高い者がやりたがらないものだ。こうした仕事に従事したのち、彼らはファルクス家の墓に入ることを許される。このような人生を送った奴隷たちは、幸せだったといえるだろうか。この本は終始マルクス側の視点からしか語られないため、奴隷たちの心中は想像することしかできない。ただ解放奴隷の墓には、彼らの本音を知るヒントが刻まれている。

 

自由になった解放奴隷の多くは、それまでできなかったことを成し遂げようと必死になりました。解放されたことを彼らががどれほど誇りに思っていたかは、今日に残る彼らの墓を見ればわかります。多くの墓にはトーガを着た姿が彫られていますが、トーガはローマ市民でなければ着用できないものでした。解放奴隷のなかには大きな権力と莫大な富を手に入れた者もいますが、それはほんの一部にすぎません。けれども、若干社会の階段を上がり、生活水準を上げ、家族にも少しいい暮らしをさせることができた解放奴隷は大勢いました。(p227-228)

 

解放奴隷がローマ社会でどんな職に就いていたかは、『古代ローマ ごくふつうの50人の歴史』でくわしく知ることができる。

 

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ローマ帝国軍に入隊したい人のための懇切丁寧なガイド『古代ローマ帝国軍非公式マニュアル』

 

 

「帝国は諸君を必要としている!」という帯の文句に惹かれ手に取ってみると、かなり内容の充実した一冊だった。これを読めば、ローマ帝国軍の入隊手続きや軍団兵の装備、陣営での生活や都市の攻略法、さらには除隊後の生活まで知ることができる。栄えあるローマ帝国軍の兵士になりたい人は必読。逆にローマを敵視している人にとっては、ローマ軍の内情がよくわかる貴重な一冊になる。

 

ローマ帝国軍にはだれでも入隊できるわけではない。本書の一章には帝国軍の入隊資格について書かれている。ローマ市民権を持っていること、独身であること、身長が5フィート10インチ(約173センチ)以上あること、などの条件に加え、「男性器がそろっていること」というのもある。軍隊は男の世界だが、去勢者は入ることができない。視力がよいこと、人物がきちんとしていることなども重要で、有力者からの推薦状もあったほうがいい。これらの条件を満たしている者は試験を受け、入隊宣誓をすませたのち25年間の兵士としての生活をスタートさせることになる。ローマ市民権を持っていなくてもあきらめる必要はない。補助軍になら入隊できるからだ。補助軍は非市民の歩兵部隊で、軍団兵のの8割ほどの給与でより危険の大きな仕事をする。除隊時にはローマ市民権がもらえるので、危険を冒す価値はある。

 

軍団兵は装備を自前でそろえなくてはならない。兵士にとっては剣や兜などが一番大事だと思えるが、第4章「軍団兵の道具と装備」を読むと、意外にも一番金をかけるべき装備はカリガ(サンダル)だという。軍団には行軍は欠かせないもので、カリガは平時からつねに必要だからだ。足に合っていて革がやわらかく、靴底の鋲が新しいものを選ばなくてはならない。この鋲は蹴りの威力を高めることができ、群衆の征圧など、相手を生かしておきたいときには役立つ武器にもなる。しかし硬くなめらかな床では滑りやすいという欠点もあるので、兵士はこの特徴をよく知っておく必要がある。

 

向上心の強い志願者には第5章『訓練・規律・階級』が参考になる。ローマ兵は最初はなんの特権もない「ムニフェクス」からキャリアをスタートさせることになるが、技能を身につければ特別な任務をもつ「インムニス」になることができる。インムニスには書記や鍛冶、旗手など様々なものがあるが、ムニフェクスよりも待遇はよい。ローマ軍では旗手は年金基金の管理を担当していて、数字に強い者が務める。これは、自分の年金の状況を知っている者が旗手なら、敵の投げ槍から必死に守らねばならないというローマ人の知恵が生み出した慣習だ。特別な技能がなければ、「プリンキパリス」を目指す手もある。優秀な兵士がなれるプリンキパリスは、歩哨の組織運営を行うテッセラリウスや、百人隊長の代理を務めるオプティオなどを務める。プリンキパリスになれれば百人隊長に出世する道も開けるので、上昇志向の強い兵士はめざす価値がありそうだ。

 

陣営もローマ社会の一部なので、軍団兵の陣営にもローマらしさがよく出ている。第7章「陣営の生活」には、兵舎内で軍団兵はそれぞれ七人の兵士と親密な付き合いをする、と書かれている。プライベートな空間などないが、ローマ人にとって一人の空間とは異質なものだそうで、食事や入浴、トイレですら知人と話す場だった。軍団兵も同様ということである。もっとも、兵舎内には軍団兵がいないことが多く、案外広々とした空間になる。兵士はあちこちに派遣されるからだ。高官の護衛や関所の警備、道路の建設や商人の護送など、兵士は幅広い任務に就かされる。軍団は建設作業員や蹄鉄工、書記など人材の宝庫だから、戦闘以外のさまざまな仕事にも対応できる。

 

とはいうものの、軍団兵の本来の仕事は戦争だ。第6章「軍団兵の命を狙う敵たち」を読めば、ピクト人やゲルマン人ダキア人やベルベル人など、軍団兵が向き合う敵の特徴を知ることができる。山塞の防衛に長けたピクト人やピルム(ローマの投げ槍)を巧みに避けるベルベル人、強力な鉈鎌ファルクスを振るうダキア人などは皆それぞれに手強い。だが、最も恐れるべきはパルティア人だ。パルティアは多様な騎兵隊を持っていて、それぞれの役割は異なる。まず弓騎兵が大量の矢を浴びせ、相手が消耗したところに騎兵が突撃する。特に重装騎兵カタフラクトの突撃は強力で、守りも硬い。ローマの弓はパルティアの弓ほど矢が遠くへ飛ばないので、なるべくこんな敵と戦わずにすむよう祈るしかない。

 

どんな兵士も、生きのびられればいつかは除隊の日がやってくる。25年の務めを終えた兵士たちが第二の人生としてどんな道を歩むのかは、第11章「除隊とその後」を読むとわかる。軍団兵の経験を生かすため、軍に関連する職を選ぶ者は多い。つまり、陣営に必要な飲食や物資を提供する事業をはじめるのである。また、新しい領土に入植する者もいる。征服された土地を確実に維持するには、軍隊経験の豊富な者たちが最適というわけだ。衣食の保証のない自由な生活が苦痛なら、いっそ軍に再入隊する手もある。最初の入隊が10代なら、もうしばらく兵役を務められるらしい。劇的な道として、ローマへ反逆を選んだ者すらいる。補助軍を除隊したスパルタクスアルミニウスなどがそうだ。軍の内情をよく知る彼らは、敵に回すときわめて厄介な存在になる。ローマ軍に入ると、こうした危険な敵と戦わなくてはいけないこともある。軍団兵が戦った経験を死ぬまで自慢できるのは、それだけ大きなリスクを背負っているからなのである。

 

この本を読んでいて、ローマ軍団兵として25年間無事に務め上げるにはどうすればいいかを考えていた。この時代、生活が保障され、除隊時に年金までもらえる軍隊はローマ帝国軍しかない。規律は厳しくても、生活の場としては悪くないところだ。なるべく戦わなくていい都合のいい軍団はないか……と探してみると、イベリア半島に駐屯している第7軍団「ゲミナ」についての記述が目をひく。「この軍団に入って期待できるのは、たまに山賊の見回りに出るとか、守備隊任務とか、昼寝の技術を開発するぐらいである」そうだから、あまり強敵と戦わずにすみそうだ。戦功を誇ることはできなくても、皇帝トラヤヌスがこの軍団出身であることは自慢できるだろう。平和な属州で、除隊まで平穏無事に過ごせるのはなかなかいい人生かもしれない──といった妄想をかきたててくれるのも、本書の魅力のひとつだ。

近代仏教学のつくりあげた「ブッダ神話」を解体しブッダの実像に迫る好著『ブッダという男』

 

 

19世紀以降、仏教研究は初期仏典を批判的に考察することで、「歴史のブッダ」を復元しようと努めてきた。瞬間移動や空中浮遊など、超常能力を用いる「神話のブッダ」にかわり、多くの仏教学の碩学によりさまざまなブッダ像が描かれてきた。だが本書によれば、それらのブッダ像もまた現代人の価値観が投影されたものだという。ブッダは平和主義者であったり、男女平等論者であったり、不可知論者であったといわれることがあるが、こうしたブッダ像は研究者が自分の願望をブッダに語らせたものであり、「新たな神話」だというのだ。本書はこうした「新たな神話」から離れ、初期仏典を虚心坦懐に読むことで、「ブッダという男」が何を説いたかを解きあかしていく。ここで見えてくるブッダ像は、現代人のイメージする理想の人格者とは異なる面も多い。

 

たとえば、第3章「ブッダは平和主義者だったのか」では、ブッダが征服行為について助言する仏典があることが指摘される。マガダ国の王がヴァッジ族を滅ぼそうとしていたとき、ブッダは「ヴァッジ族が団結しているかぎり、衰退はない」と述べたというのだ。この発言を受け、マガダ王はヴァッジ族へ外交戦や離間策を用いることを決意する。ブッダは戦争を止めることはなく、王を批判してもいない。殺生を禁じたブッダがなぜ戦争を批判しないのか。確かにブッダの生命観において殺生は悪なのだが、絶対に許されないわけではない。この章の解説によれば、五つの無間業(父・母・悟った人を殺すこと、僧団を分裂させること、ブッダの身体から出血させること)以外の悪業なら、多くの人を殺めても、本人の努力次第では報いを受けずにすむのだという。初期仏典では戦争の無益さが説かれることもあるが、ブッダが現代的な意味での平和主義者だったとはいえないようだ。

 

ブッダは男女平等主義者だった、とされることもある。確かにブッダは女性でも悟りを得ることができると認めた。だが仏教教団において女性は男性に従属する立場だったのであり、男女平等だったとはいえない。ブッダの女性観はどんなものだったか。第6章「ブッダは男女平等を主張したのか」ではさまざまな初期仏典を引用しているが、そこからみえてくる女性観は「女は男を堕落させるもの」だ。「托鉢修行者たちよ、女は歩いているときでさえ、男心を乗っ取ります」といった文言からは、女性は煩悩を増し、修行の妨げになる存在という考えが読みとれる。逆に、男性が女性の修行の妨げになると批判されることはない。古代インドにおいては、女性は男性と哲学的議論を交わせるとみなされる一方で、蔑視される存在だった。ブッダの女性観も古代インドの一般的なものと変わらない。男女同権という考えが存在しなかった古代インドを生きていた人物だけに、ブッダの女性観にも現代人が受け入れにくいものは確かにあった。

 

本書はただ「神話のブッダ」を批判し、現代人に受け入れにくいブッダ像を紹介しているわけではない。第三部「ブッダの先駆性」では仏教思想を簡潔に解説しているため、初期仏教の入門編として利用することができる。個人的には、第11章「無我の発見」が、仏教思想の核心である「無我」についての最もわかりやすい解説になっていると思った。バラモン教ジャイナ教では恒常不変の自己原理(アートマン)が存在すると説くが、仏教では個体存在は色・受・想・行・識の五要素の寄せ集めにすぎず、これを統括する自己原理の存在を認めない。行とは意志的作用のことだが、これが他の要素をコントロールしているとも考えない。

 

このように、精神活動が個体存在の構成要素であることを否定することなく、かといって肉体と精神活動が、自己原理の下に活動しているとみるのでもなく、それぞれが互いに影響し合いつつ独立して個体存在を構成しているとするのである。(p161)

 

バラモン教ジャイナ教とは違い、輪廻の主体になる自己原理や魂の存在を仏教では認めない。にもかかわらず輪廻を認めたところに仏教の独自性がある。著者によれば、仏教は個体存在のなかに精神的要素も含めたため、唯物論と明確に区別されることになった。

 

インド諸宗教において、輪廻の主体である恒常不変の自己原理を否定したのは、唯物論と仏教だけであった。唯物論者が、物質からのみ個体存在が構成されると説き、業法輪廻の存在を認めず、結果として道徳否定論者であったのに対し、ブッダは、個体存在が感受作用(受)や意志的作用(行)などの精神的要素も個体存在を構成していると説き、無我を説きながらも業法輪廻のなかに個体存在を位置づけることに成功した。これは他には見られない、ブッダの創見であると評価できる。(p173)

 

【書評】御成敗式目を「歴史の覗き窓」として鎌倉時代を理解できる良書!佐藤雄基『御成敗式目 鎌倉武士の法と生活』

 

 

中世法は面白い!と感じられる一冊だった。これはすぐれた御成敗式目入門書であるだけでなく、この法を通じて鎌倉武士や地頭・女性・庶民の姿を浮かび上がらせてくれる良書だ。つまり、これを読めば鎌倉時代の社会がみえてくる。江戸時代や室町時代にくらべて今一つつかみにくい鎌倉時代のイメージが、本書を読むことで明確になってくる。御成敗式目は、鎌倉時代を知るための「歴史の覗き窓」でもあるのだ。

 

御成敗式目には、鎌倉時代の治安の悪さを実感できる条文が多い。たとえば、4章では「悪口の咎」について解説されているが、これは文字通り悪口=根拠のない誹謗についての規定だ。悪口を言うと、流罪か召し籠め(他の御家人への身柄預け置き)になるのだが、これは悪口への罰としては重過ぎるように思える。だがこれには理由があって、本書によれば悪口が喧嘩や殺人の原因になるからだという。喧嘩が日常茶飯事だったからこそ、武士同士の喧嘩をふせぐために悪口を厳罰に処す必要があったのだ。もっとも、著者は「喧嘩が日常茶飯事であった武士社会において、この条文通りに厳罰が科されたのかどうかは分からない」という。幕府の定めた法でも罰することができないほど、当時の武士は荒々しい存在だったのだろうか。

 

御成敗式目には庶民の女性の暮らしがわかる箇所もある。7章で解説されている三十四条の後半部分には「辻捕」という言葉が出てくる。これは路上において女性を捕らえ襲う行為だ。「辻捕」の加害者としてはおもに御家人とその郎従が想定されている。犯行現場は市場や寺社で、女性にとっては参詣すら一人でするのは危険だった。「辻捕」の罰は出仕停止や頭髪を半分剃る、というものだ。性犯罪に対して罪が軽すぎるように思うが、著者は「面子を重んじる武士にとって耐えがたいものだったかもしれない」という。やはり中世の武士の感覚は現代人には理解しがたいところがある。

 

庶民の暮らしのきびしさは、追加法二八六からもうかがえる。この法は親子兄弟の「人勾引」を問題視したものだが、「人勾引」とは誘拐して人買いに売る行為をさす。この時代、飢饉や貧困のため、弟や子供を人買いに売ってしまうのは日常茶飯事だった。「子供を売り払ってしまうのは親が生き残るためだけではなく、一家全滅を避け、子供が飢えから逃れるためでもあった」というから、中世社会は過酷だ。実は鎌倉幕府は、飢饉のときに限っては人身売買を認めていた。飢饉の際は朝廷は神仏に祈るだけだったが、幕府は人々の生存のため、身売りを容認せざるを得なかったのだ。もちろんこれは緊急措置であって、幕府は原則的には人身売買を禁止している。

 

治安の悪い話が続いたので、最後に救いのある話をひとつ紹介したい。地頭には百姓をこき使っているイメージがあるが、実は地頭が百姓を保護することもある。7章では、備後国の地頭が、「下向してきた代官たちが妻を帯同して百姓の家に住ませたり、百姓の妻を強姦するなどしている」として、荘園領主高野山に抗議する例を紹介している。この地頭は百姓の妻を犯したことが御成敗式目に反すると主張している。具体的には三十四条の他人妻密懐の規定だが、このように地頭が式目を利用して百姓を守ることもあった。地頭・御家人は百姓を搾取する存在でもあったが、領地経営をつうじて民を慈しむ「撫民」の精神も持ちはじめていた。その存在が地頭=御家人の在り方まで変えていくところにも、御成敗式目の面白さがある。

有料記事は自分が読みたい記事を書けばいい

はっきり言うと、有料記事はブロガー間格差拡大サービスだと思っている。記事を売ることで有名ブロガーはさらに豊かになるチャンスが広がる。人気者が知名度だけでなく富も手にする一方、知名度のない人にチャンスは少ない。誰でも記事を売れるようになったのはいいとして、無名な人が記事を売る意味なんてあるのか。ここで無意味だ、と結論づけるのはあまり面白くない。それでは格差拡大を追認しているだけだ。知名度がなくても記事を売る方法はないか、自分なりに考えてみた。

 

文章を売ろうとするなら、まず買う側の気持ちを理解しなくてはならない。だが読者の気持ちを推しはかるのは難しい。自分自身がいつも書き手の側から考えているからだ。でも、読者の気持ちがわからなくても、自分の気持ちならよくわかっている。つまり、自分が読みたくなる記事を書けばいいのだ。どんな文章なら買いたくなるか。まずは、「今悩んでいることを解決してくれる記事」だ。この時悩んでいたのは、「有料記事を書いて売れなかったら時間の無駄になり、後悔するのではないか」ということだった。

 

saavedra.hatenablog.com

というわけで、自分自身の悩みにこたえる記事を書いた。私はこれを書いた時点では記事を売った経験がないから、「無名な人でも記事を売る方法」は書けない。でも、「記事が売れなくても有料記事を書くメリットがある」という話ならできる。売れなければみじめな思いをするんじゃないか、という自分を励ますには、記事を売る以外のメリットを提示する必要があった。こういう話は有名な人にはできない。有名ブロガーは自分の記事を買ってくれる人がいるのが当然、という前提に立つ。せっかく書いたのに売れなかったらどうしよう、という悩みがわからないのだ。でも私ならそんな人と同じ目線に立つことができる。ここに、無名ブロガーが記事を書く意味が生じる。

 

saavedra.hatenablog.com

以前、無名な人には「無名控除」がある、という話をした。無名な人は無名ゆえに、ブログ方針を変えたり、デリケートな話題に言及しても怒られない、といった話だ。だが有料記事を書いてみて、無名であることにはもっと積極的な意味があると考えるようになった。有名ブロガーの高みからは見えない光景が、無名な人には見えるのだ。いつも大量にブックマークされている人に、記事を読んでもらえない悲しさが理解できるのか。できますよ、と言われたところで、それはそういうポーズを取っているだけでしょう、と私なら思う。有名人にも無名時代があったかもしれないが、現役で無名な人のほうが、より無名な人の気持ちを理解できるのではないだろうか。

 

そう考えて記事を書いてみた結果、記事は売れた。得られた結果はささやかなものだが、自分としては満足している。買ってくれた方にはこの場を借りてお礼を申し上げたい。ありがとうございます。有料記事を書いたのは無名な人の記事は本当に売れないのか、という実験の意味もあったが、とりあえず実験結果は得られたので、今のところは継続して有料記事を書く気はあまりない。また何かしらの悩みが生まれ、その悩みに自分で答えを提示できそうなら書くかもしれない。自分と同じ悩みを持っている人が三人くらいはいるだろう、と思うからだ。ここまで有料記事の話をしてきたが、無料記事にも同じことが言えるかもしれない。この世のどこかにいる「ご同類」にどうリーチするか、それを考え続けることで見えてくる風景があるのではないだろうか。