明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

『氷と炎の歌』(ゲームオブスローンズ原作)を読んで考えた「小説の強み」

氷と炎の歌』を先に読んでいると感じる違和感

 

最近、アマゾンプライムでゲームオブスローンズを観ている。

いまさら言うまでもなく、これは極めてすぐれた映像作品だし、これに多くの人が熱中しているのもよくわかる。

だが、原作小説『氷と炎の歌』シリーズを先に読んでいると、ゲームオブスローンズには小さな違和感を感じないでもない。

その違和感とは、「登場人物のビジュアルが思っていたのと違う」ということだ。 

  

七王国の玉座〔改訂新版〕 (上) (氷と炎の歌1)

七王国の玉座〔改訂新版〕 (上) (氷と炎の歌1)

 

 

氷と炎の歌』の最初の巻『七王国の玉座』では、アリアは「馬面のアリア」と呼ばれていて、剣を振り回すのが好きな女の子という設定になっている。

この設定から、アリアはあまり女の子っぽくない感じなんだろう、と想像していたが、ゲームオブスローンズの映像では(容姿は)わりと普通に女の子っぽい感じだった。

キャトリンは「ネッドのためにもう一人くらい子供を産んであげてもいい」と言っていたので割と若い感じなのかと思っていたら初老の女性に見えたし、あれではちょっと子供が産めそうな感じではない。西洋人は日本人より年上に見えるとはいっても、少々無理があるような気はする。

ジョンやロブはまだ少年のはずだが映像では青年といっていい年齢に見えるし、エダードは思っていたよりもいかつい感じで、ティリオンは言うほど醜くないように感じた。

 

一方、ロバート王は大体イメージ通りだ。ジェイミーもいかにもジョック代表といった感じだし、ジョフリーも小生意気な感じがよく出ている。

一番イメージ通りだったのはヴィセーリスだ。顔立ちは整っているのに所作から抑えきれない小物臭が漂っている。よくこれほどぴったりの役者を見つけてきたものだと感心した。

ダニーもまあこんな感じだろう。儚さと強さが同居している雰囲気がよく出ている。粗暴なように見えて(ドスラク人にしては)紳士的なところもあるドロゴもなかなかいい。本当は騎馬民族はもっとアジア人ぽい人に演じてほしかったところではあるが、あまり細かいことを言っていても仕方がないだろう。

 

いろいろと書いたが、ここまで書いたことはすべて私の主観にすぎない。とはいえ、先に原作小説を読んでいる場合、映像化されるとどうしても心の中のイメージと映像が食い違う人物が出てくるのは避けられない。ゲームオブスローンズのようによくできた映像化でもそういうことは起きる。

最近、小説の強みと弱みについてよく考えるが、映像にくらべて視覚情報が圧倒的に少ない小説をわざわざ読む理由は、このあたりにあるのではないだろうか。

映像化、漫画化するとビジュアルが決まってしまう

 

togetter.com

 

正直に言って、ゲームオブスローンズ(シーズン1)で「壁」の巨大さをはじめて映像で見たとき、やはり映像作品には小説はかなわないのだろうか、と思ったことはある。

ダイアウルフは狼に見えたり犬にしか見えなかったりするときがあるが、それだけに両方のいいとこどりをしているように思えるし、やはりビジュアルとして動物の姿を見ることができるメリットは大きい。

ブランがアサシンクリードのような感じに壁をのぼっているのには正直笑ってしまったのだが、あれはやろうと思えば子供でもできることなのだ、というのも映像がついたことで説得力が増す。 

 

なんだかんだといって、やはりドラマや漫画はビジュアルに訴えることができるという点では強いし、作品への間口を大きく広げてくれる。

だから、私は好きな小説が映像化されたりコミカライズされるのは基本的に歓迎している。

その方が多くの人に触れてもらえるし、なろう作品なんて漫画はベストセラーになるのに原作は打ち切りになってしまう作品すらあるほどだ。

そうなってしまったらそれはそれで悲しいものだが、とにかく文字だけの小説にくらべ、視覚に訴えられる媒体のほうが多くの人の手に取ってもらえることは間違いない。

小説と漫画、アニメや映画の価値の優劣を比べてみても仕方がないと思うが、小説だけだと客層を広げるのに限界があるのも事実だ。

 

今、出版業界からはあまり景気のいい話は聞こえてこない。

とにかく本が売れないと言われるし、それは小説も同じことだ。

小説がつまらなくなった、とは思わない。今でもすぐれた作品は日々生み出されていて、今でもそれらを愛好する人々が存在している。

ゲームオブスローンズのような優れた映像作品が存在しているのに、わざわざこれを小説で読む意味とはなんだろうか。先にこのドラマの役者がイメージと違っていると書いたが、まさにビジュアルが存在していないことによって、読者の好きなように姿を想像することができるのが、小説の強みであるともいえる。

小説が映像化されると、人物の姿は演じた役者の姿で固定されてしまう。これが正解、ということになるので、もう想像の余地はない。これは違う、と言ってみたところで、公式がそう決めたんだから仕方がない。

映像化、漫画化は客層を広げ、作品への間口を広げてくれると同時にビジュアルを固定化してしまうので、それまで心の中に存在していた曖昧模糊とした人物や風景のイメージが上書きされてしまう、というデメリットもある。

 

ウィッチャーI エルフの血脈 (ハヤカワ文庫FT)

ウィッチャーI エルフの血脈 (ハヤカワ文庫FT)

 

 

もちろん、あらかじめビジュアルが頭に入っていることが、逆に読書の助けになるという場合もある。

ウィッチャーの小説などはそうだろう。これを買う人の多くは、ゲームの方を先にプレイしているだろうからだ。

アンドレイ・ザコプスキの小説はよくできているのだが、ゲラルトやシリがどういうキャラクターか、 ケィア・モルヘンというのがどういうところなのか、ということをあらかじめ映像として思い浮かべられるからこそこの物語に没入できる、というのも確かだ。

 

そういう例外はあるものの、ビジュアルは抜きにして小説自体を楽しめるのが読書家だ。

おそらく小説を好んでいる人は、活字から想像力を働かせるのが好きな人だろう。

そして現在、そういう人は少数派になっていて、だからこそ本が売れない、ということになっているのではないだろうか。あるいは、活字から想像力を働かせることができても、映像や漫画を見る方がより楽しいという人が多くなっているのかもしれない。

 

ゲームオブスローンズのドラマはただ流して観ているだけでも楽しめるのに対し、原作小説は面白いものの、読むのにはなかなか体力がいる。登場人物はやたら多いし、何人もの視点が入れかわりながら物語が進んでいくので誰か一人に感情移入はしにくい。

それだけに群像劇が好きな人には向いているのだが、この形式がだれにでも読みやすいものだとは思わない。もちろん『氷と炎の歌』を先に読んでもいいのだが、ゲームオブスローンズを先に観てからこれを読むほうが、普通の人には読みやすいのではないだろうか。

 

言葉が脳内に呼び起こす風景

氷と炎の歌』シリーズはこの小説独自の言葉が豊富に出てくる作品だ。

私は翻訳の小説を読むのが苦手なのだが、この作品は好きで読み続けていられるのは、この言葉の豊饒さに原因がある。

たとえば、『七王国の玉座』にはこのような部分がある。

 

この〈神々の森〉を、キャトリンはどうしても好きになれなかった。

彼女はずっと南の、三又鉾(トライデント)河の赤の支流(レッド・フォーク)のほとり、リヴァーラン城のタリー家に生まれた。

そちらの〈神々の森〉は明るくて風通しのよい庭園のようなところで、赤い赤木(レッドウッド)が小川のせせらぎの上にまばらな影を広げ、小鳥たちの人目につかない巣から歌声が聞こえ、空気は花々のかぐわしい香りに満ちていた。

(中略)

ここの森には灰緑色の針状葉で武装した頑強な哨兵の木(センチネル・ツリー)や、オークの大木や、国土そのものと同じくらい古い鉄木(アイアンウッド)が生えていた。

黒くて太い木が密生し、枝が絡み合って頭上に厚い天蓋を作り、地中では歪んだ根がもつれあっていた。ここは、深い静寂と、のしかかる影の場所であり、ここに住む神々には名前がなかった。

(p43)

 

長めに引用したが、カッコ内の言葉はその前の言葉にルビとして振られているものだ。

このような情景描写が、映像表現に劣っているとは私は思わない。

むしろ、トライデント川だとか、哨兵の木だとか、こういう言葉から自由に好きな情景を連想する愉しみは、小説独自の味わいではないだろうか。

 哨兵の木などというからには、やはりこちらを威圧してくるような高い木なのだろうか?幹は太いだろうか?枝ぶりはどんなものだろうか?

ここには決まった答えはない。挿絵も何もないからこそ、そこは読者が自由に想像できる。少ない情報を頼りに脳内に好きな光景を描けることが、小説の強みだ。

 

他にも、『氷と炎の歌』シリーズには数多くの独自の単語が出てくる。

冥夜の守人(ナイツウォッチ)、誓約の兄弟(スウォーンブラザー)、王の道(キングスロード)、異形(ジ・アザー)、翡翠海(ジェイド・シー)、嵐の果て城(ストームズエンド)……などなど、読者の想像力をかき立ててやまない言葉が、この小説にはほんとうに多い。

こうした言葉をどれだけ思いつけるかが、ファンタジー小説を書くうえでは一つのカギになるのかもしれない。誰も見たことのない世界を想像させるには、普通の言葉だけを使っていてはいけないのだ。作者は語彙をできるだけ豊富にすることで、読者の脳内を豊かにしなくてはならない。

 

なぜ歴史ものは小説で読みたくなるのか

氷と炎の歌』シリーズを読んでいて驚くのは、とにかく情報量が膨大なことだ。

まず、登場人物がすさまじく多い。正直、自分でも脇役はあまりちゃんと把握できていない。エダードやキャトリン、ダニーやジョンなどの主要人物の動きさえ追えればそれほど問題ないのだが、こんなにたくさんの人物が必要なのかと思うことはある。

 

これだけたくさんのキャラを動かさなくてはならないのは、これが一種の「歴史小説」でもあるからだろう。『氷と炎の歌』はファンタジー作品で、ドラゴンや屍人なども出てくるが、ストーリーの中核に据えられているのは各地方の実力者の権力争いだ。

もともとがイギリスの内乱である薔薇戦争に影響を受けて書かれた作品でもあるため、架空世界の戦記という色合いが強いのだ。

 

七王国の玉座〔改訂新版〕 (下) (氷と炎の歌1)

七王国の玉座〔改訂新版〕 (下) (氷と炎の歌1)

 

 

このような小説は、世界観に重みを加えるため、しばしば過去の歴史が語られることになる。 

七王国の玉座』下巻では、ブランが従者のオシャに向かって、歴代のスターク家の当主の事績を語るシーンがある。ストーリーと直接関係ないこの話が2ページ近く続くので人によっては冗長に感じるかもしれないが、私はこういうものを読むのが好きだ。この世界がしっかり作りこまれていて、書き割りのような世界ではないことがよくわかるからだ。

そのあとには学匠ルーウィンが七王国成立以前の歴史を語るシーンもあり、ここもけっこう長い。

こういうものは物語を進めるうえではどうしても必要な場面ではないが、こういう場面があることで、世界観に厚みが出てくる。あたかもこの世界が本当に存在しているかのように感じられるのだ。

 

そして、このような「歴史叙述」には、やはり文章が一番適している。

これだけの長さの「歴史」を漫画で語っているとかなりページ数が食われて冗長になるし、映像でもやはり時間が食われる。

過去を語るには、文字の中に多くの情報を詰められる小説が適しているのだ。

だから、私は歴史ものは小説で読むのを好んでいる。もちろん合戦シーンなどの迫力は映像作品には及ばないが、文章なら映像作品よりも武将の家柄や人物像・敵国や友好国との外交関係・家族や兄弟の状況など、その世界を知るための情報をたくさん手に入れることができるからだ。

 

繰り返すが、こうした小説ならではの強みを楽しめる人が多数派だとは思っていない。だからこそ、小説は漫画には勝てないと言い出す人も出てくるのだろう。だが、小説には小説独自の愉しみがあることも間違いない。『氷と炎の歌』シリーズは、特にその愉しみに深くひたれる作品であることは間違いないと思う。

【感想】『図書館の大魔術師』2巻に見る「知識の使い方」

 

図書館の大魔術師(2) (アフタヌーンコミックス)

図書館の大魔術師(2) (アフタヌーンコミックス)

 

 

saavedra.hatenablog.com

 本が与えてくれるものとは何か

1巻かけてようやく真の主人公となったシオは、いよいよ司書試験を受けるため旅に出ることになった。

この2巻で印象に残ったのは、「本が与えてくれるもの」だ。

シオはアムンの村を離れ、最初に滝の町ハムセにたどりつく。

シオはハムセの町の市場で、東洋風の外見を持つラコタ族ともめ事を起こしている少女チャクと出会う。

 

チャクはラコタ族に無礼なことをされたと怒っているのだが、本当はそうではない、ということを教えるため、シオはチャクをハムセの図書館に連れていく。

頭を叩いたり、舌を出したりするラコタ族の風習にはそれなりの意味があり、無礼を働いたわけではないということを、チャクは図書館の本で知り、認識を改めることになる。

 

ここで大事なのは、シオはチャクに一方的にものを教えようとはしていない、ということだ。

シオは自分の耳を気持ち悪いというチャクに、「君は正しい」と理解を示している。

知らないものには近づかないこと、それが自然の中で生き残るために必要な知恵だった。

だから人は異民族を避けてしまうのだ、とシオは言っている。

まずチャクの感情は自然なものだと認めたうえで、ラコタ族に対する偏見を解こうとしているのだ。

ただ正論をぶつけるだけでは人は動かないということを、シオはよく理解している。 

 

シオはハムセの町に入るときに住人に奇異の眼で見られているし、チャクにも耳のことをバカにされているのだが、シオはまったく傷つく様子を見せていない。

もちろんシオが精神的に成長したからだろうが、加えてシオがアムンの図書館で読んだ本から「人は本能的に異質なものを恐れる」という知識を得ているからでもあるだろう。

それを知っていれば、奇異の目で見られてもそれも自然なことだと受け止められるし、過度に傷つくこともなくなる。知識とは、自分の心を守る盾でもあるのだ。

 

そして、知識は差別と偏見をなくすのにも役立つ。

多くの場合、差別や偏見は相手をよく知らないことから生まれる。

だからこそ、 シオはラコタ族の風習についてチャクに教え、彼女の誤解を解くことができた。

シオが民族間のトラブルを解決するために知識を使おうとするのは、自分自身が混血児として蔑視されてきた経験があるからだろう。

シオにとり、 出自や民族が理由で差別されることは、最もつらいことに違いない。

だから、わざわざ自分とは無関係なラコタ族への誤解まで解こうとするのだ。

このように『図書館の大魔術師』では、知識をどう用いるかでキャラの性格を描いている。

大げさに言えば民族間の融和のために今まで学んだ各民族の風習や言語の知識を用いようとするシオの振る舞いには、彼の性格がよく出ている。

 

知識だけを得ることの危うさ

知識が差別と偏見を減らすということは、シオが噴火口の町イツァムナーに来るとさらにはっきりする。

イツァムナーは本の普及している町で、大通りが全部本屋で占められている。

子供たちもよく本を読んでいるので、シオの金髪を見ても恐れることもなく、蔑むこともない。自分が知らない世界があるということを、本を通じて知っているからだ。

 

とはいうものの、知識がいつでも人に恩恵をもたらすとは限らない。

2巻の冒頭に書かれているように、「本の知識とは偉大なものだが、経験に勝ることは決してできない」。

数多の本を読み知識を蓄えても、人生経験が浅ければ、その知識の用い方は危ういものとなってしまう。

 

この町ではじめて登場するミホナは、「知識の用い方の危うさ」を体現しているキャラクターだ。

最初だけはクールな感じで登場しているものの、実はミホナは小説に感化されやすい性格だということが、読み進めるとわかってくる。

それを象徴するのが、ミホナが馬に乗って突進してくる新刊泥棒の前に立ちはだかろうとするエピソードだ。

ミホナが小説から得た知識では、こういうことをすれば相手は止まってくれることになっているのだが、実際には新刊泥棒たちはスピードを緩めることすらしなかった。

この知識は本当に現実に応用できるのか、ということを考えるだけの思考力と人生経験が、ミホナには足りていない。

「学びて思わざれば則ち罔し」だ。『図書館の大魔術師』は読書の大切さを一貫して解いている漫画だが、知識に偏重することの危険性はしっかり戒めている。

 

先に「知識をどう用いるかにそのキャラの性格が出ている」と書いたが、ミホナは本から得た知識をおもに「自分をよく見せること」に使っている。

自分を物語の登場人物のように感じているミホナは、小説のキャラクターのように自分自身を演出したがっているのだが、それがいつも空回りしているところにミホナの性格がよく出ている。

対して、シオがこの町で出会うもう一人のキーパーソンであるアルフの性格は、ミホナとは正反対だ。

アルフは見た目が幼いことを利用し、周囲に油断させることを狙っている。

アルフの行動原理は「自分が最も得をすること」であり、それはケチな骨董屋の主人に古本をねだるエピソードにそれがよく表れている。

狡猾で世渡りのうまい性格と、豊富な本の知識を持っていることで、アルフは価値の高い特別製本の本を安く手に入れることに成功している。

 

2巻でもやはり要求される「主人公としての振る舞い」

だが、このようなアルフの知識の使い方は、主人公にふさわしいものではない。

それは、自分をよく見せることばかり考えているミホナが主人公にはなれないのと同様だ。

シオはこの巻において、骨董屋の主人に傷ついたシトラルポルを譲ってほしいと懇願し、ひたすら主人の暴力を受け続けている。

何の計算もない、アルフに言わせれば「知能の低さに涙が出る」ような行為だ。

しかし、わざわざ身を盾にして傷ついた動物を守ろうとするこのシオの振る舞いだけが、唯一主人公らしいものだ。

 

 

シオが持っていて他のキャラクターにはないものが、自己犠牲の精神だ。

シオは血統や生まれつきの能力によって主人公に選ばれているわけではない。

『図書館の大魔術師』1巻においては、シオは1巻かけてようやく主人公としての資格を得ることができた。

それができたのは、シオがセドナから借りた本を炎上する図書館の中から救い出したからだ。

セドナが言っているとおり「たとえ愚かと言われようと、立ち向かわねばならないことが主人公にはある」。 

2巻においても、シオはシトラルポルを身を呈してかばうことで、それを体現してみせている。

賢い行為ではないが、この物語ではそもそも賢すぎるものは主人公になる資格は得られない。

その理由が、後半の回想シーンの中で語られている。

 

 

『図書館の大魔術師』の世界はまったく甘くはない。

シオの師匠ともいえる石工の親方ガナンは、この世で人が成功する要因とは「生まれた地域、親の財産、容姿」だとはっきり語っている。

この3要素はすべて先天的なもので、後天的な努力では成功などできない、とガナンは言っているのだ。

司書もまた都会の金持ちの女性が目指すものであり、シオが司書試験に合格する確率は高くない。彼は圧倒的に不利な試験に挑もうとしている。

しかし、ガナンは一方で「前にいる奴全員を負い抜く快感は最後尾にしか味わえない特権だ」とも語っている。

あまり賢い人物は、こういう話を真に受けることはできない。

1巻の終わりでシオは様々な職に就くことをすすめられているが、司書になることなどあきらめて、地元の図書館で働くなり、教師になるなりした方がどう考えても現実的なのだ。

しかし、それは主人公らしい振る舞いではなく、それでは物語が始まらないこともシオはよく理解している。

主人公らしい振る舞いとはどういうものか、それは最初はセドナが教えてくれたものだが、それが身についたのはシオがガナンのそばで働いていたことが大きい。

そのガナンが司書試験に赴くシオを導いて旅をしているのは、いかにも示唆的だ。

ガナンの元を離れる時がシオが真に自立するとき、ということになるだろうか。

『図書館の大魔術師』1巻が良すぎて語彙力を失ったのでIQを取り戻しつつ感想を書くことにする

 

 

「すげえものを見た。すげえものを見た」

これは、北方水滸伝で花英が敵将を一矢で仕とめるのを見た男が叫んだセリフだが、このマンガを読み終えた今、そんな気分になっている。

本当にすごいものを見せられると、人はIQが100以上低下し、語彙力を失い、ただ感嘆の言葉をうわごとのようにくり返す肉塊と化してしまうのだ。

 

『図書館の大魔術師』は内容が濃密で、1巻を読んだだけで重厚な映画を観終えたかのような感動と満足感を味わえる。

キャラは皆魅力的で、描き込みは極めて細かく、セリフの一言一言も丁寧に考えられている。

「楮紙は手でちぎった方が修復跡が目立たない」などの本にまつわる薀蓄も面白い。本好きのためにあるような漫画だが、かといって本好きでなければ楽しめないようなものでもない。

妖精のような姿をしたココパ族や主人公の親友である一角獣ククオ、そして「図書館」のオリジナル漢字など、ファンタジー好きならたまらない要素も満載だ。

 

しかし、この作品の魅力はそれだけにとどまらない。驚くべきはこのマンガ、1巻の時点ではなんとプロローグが終わっただけなのだ。

ドラクエで言えばアリアハンからまだ出てない状況だ。

マンガのなかの世界では主人公が生まれ育った村、アムンから一歩も出ていない。

にもかかわらず、なぜこれほどの充実感を味わえるのか。

IQと語彙力を取り戻しつつ、この作品の作りこみのすごさについて語っていくことにしよう。

 

「書物への渇望」を軸として組み上げられる緻密な世界観

『図書館の大魔術師』は、タイトルのとおり、図書館と書物がストーリーの中核をなしている。

この世界には世界のすべての本がそろっている中央図書館があり、そこで働いている司書(カフナ)は大陸中に図書館を配備することを仕事のひとつとしている。

この世界では活版印刷術が普及していて、本を大量に印刷することはできるが、それでもまだ本は高価なものだ。庶民がたくさん買えるものではない。

そこで、本に触れる場所として図書館が重要な存在になる。特に子供にとり、小説が無料で読める図書館は大事だ。

この世界では、小説こそが最も子供が楽しみにしているフィクションだからだ。

 

しかし、主人公シオ=フミスは貧民であるため、図書館長から図書館への立ち入りを禁止されている。

一番物語を読みたい年頃に、かれは物語の世界から排除されている。

混血児で耳が長いためいじめを受けているシオは、教育こそ受けられているものの、現実世界でも差別されている。

 

つまり、シオは世界から二重の排除を受けている。差別を受けているシオにとり、狭いアムンの村は生きづらい。彼には逃げ込む先としての本の世界が必要だ。

しかし、シオにはそれすら許されていない。当然、本の世界へのシオのあこがれは、他の子供よりもはるかに強いものになる。

そんなシオの前に現れ、彼の運命を変えるきっかけになるのが中央図書館のカフナであるセドナだ。

 

なぜセドナはかっこつけてばかりいるのか

セドナは同級生からいじめを受けているシオの前に現れ、彼の窮地を救う。

セドナは小説のような芝居がかった台詞を吐くのが特徴で、そのことを同僚のピピリにいつもからかわれている。

セドナがこのようなキャラクターであることは、非常に重要だ。シオはセドナに憧れて、カフナになることを決意するからだ。

 

シオはカフナに、「僕はこの村が嫌いなんです」と涙ながらに語る。

ここでのシオの台詞にははわざわざ「村」に「せかい」とルビがふられている。

シオにとって、世界はアムンの村だけだ。この狭い世界でシオは生きづらさを感じ続けている。混血の異民族であるため虐げられ、加えて貧民なので図書館にも入れてもらえない。

この世界では、本は世界そのものだ。まだ幼く、村の外に出る手段を持たないシオにとり、本を読むことが唯一別世界へアクセスする手段だ。それすらもアムンの図書館長に禁じられているのだから、シオがアムンを好きになれるはずがない。

 

セドナがかっこつけたことばかり言うのは、もともとの性格もあるが、このシオの境遇のつらさをよく理解しているからだ。

生きづらい者ほど、人生に物語が必要だ。たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、「これは神の与えたもうた試練だ」と考えることで現実の意味が変わり、苦難に耐えることができる、ということがある。

だからこそ、セドナは物語の登場人物のようにふるまい、シオを導く役割を果たさなくてはならない。セドナはこの年頃の少年が何を求めているか、よく理解している。

シオは、魅力的な人物に導いてほしいのだ。アムンの村だけが世界ではないと、劇的な言葉で伝えてほしいのだ。

だからその要望に応え、セドナは言う。

「己の力で物語を動かし、世界を変えろ」と。

 

本は人を変え、世界を変える

シオは貧民なので図書館への立ち入りを許されていないと書いたが、実はこれは許されない行為だ。

この世界の図書館法第4条では「図書館はいかなる民族・性別・社会的または経済的身分の違いにおいて貸し出すものを選んではならない」と定められている。

アムンの図書館長はこの法を破っているので、司書アンズに鬼の形相で怒られる。

アンズが怒っているのは、単に図書館長が法を破ったからではない。

図書館で本を読み、本に育まれた子供の中から未来を救う英雄が現れると司書は信じているからだ。

 

『図書館の大魔術師』はファンタジーだから「本が英雄を育てる」ということになっているのだが、現実に置き換えてみても、これは決して荒唐無稽な話とはいえない。

たとえば、貧しいため教育の機会に恵まれない、多くの本を読めない子供にとり、図書館は知力をはぐくむために重要な場所だ。

貧しいものは本を盗むかもしれないから、という理由でその子供に本を貸すことを禁止すれば、その子は豊饒な知の世界から排除されることになる。

もし、その子が天才的な資質を持っていて、将来的に世界を変える発明をする能力があったとしても、その芽を摘んでしまうことになるのだ。

本を読めなくする、ということは、それほど罪深いことだ。

だから、図書館はあらゆるものに対して開かれていなくてはならない。

 

主人公に必要なのは「主人公としての振る舞い」

『図書館の大魔術師』では、セドナがシオにこういうことを言う場面がある。

「振る舞いとは思考から始まる。思考は次に言葉に変わり、言葉は行動に、行動は習慣に、週間は性格に、性格はやがて運命に変わる」

気高い人は初めからそう生まれるのではなく、気高く振舞うからそういう人になれるのだ、とセドナは言っているのだ。 

 

つまり、物語の主人公は最初から主人公として選ばれているのではなく、主人公らしいことをするから主人公になれるのだ、ということでもある。

この考え方が、『図書館の大魔術師』1巻を貫くテーマだ。

この1巻では、実はシオ=フミスは最初は名前を明かされず、単に「少年」と表現されている。

 しかし、物語終盤が近づくと、セドナがシオに貸してくれた本にある危機が迫る。

ここで、シオは本を救うべく大胆な行動に出る。

それが何かはネタバレになるのでここでは書かないが、こういうことをするのは、シオがセドナに感化され、主人公は主人公らしく振舞わなくてはならないと自分自身に言い聞かせているからだ。

 

先に書いた「僕はこの村が嫌いなんです」という台詞は、ことが一段落した後にシオがセドナに言ったことだ。

このあと、セドナは「私はきみ(主役)の名を知らない」と言っている。

もうただの村人Aなどではないのだから名を名乗れ、ということだ。

ここに至って、ようやくシオは主人公たる資格を得ることになった。

もちろん、物語上の立ち位置は今までもずっと主人公なのだが、シオの在り方が主人公にふさわしいものだ、と、明確に示されたのだ。

それまで名前すらない一モブキャラに過ぎなかったシオは、ここにおいてようやく物語のスタートラインに立てたことになる。

ここから、シオが司書を目指すための長い旅がはじまる。 

 

物語の中で、シオは水を扱う魔法のような力を持っていることが示されているが、シオはその力によって主人公に選ばれているわけではない。

シオはもともと、好きな冒険小説の主人公シャグラザットのような存在に、小さな世界から連れ出してもらうことを願う夢見がちな少年に過ぎなかった。

だが、セドナはジャグラザッドではなく、シオをアムンの村から連れ出してやることはできない。

だから、セドナはシオが自ら立ち、行動し、主人公となるべく導いた。

これは、平凡な少年が主人公になるまでの物語なのだ。

 

ようやくシオが(真の意味での)主人公の資格を得たあと、このマンガではあるすばらしい演出がある。

ここまでの話がすべてプロローグに過ぎなかった、ということがよくわかる演出だ。

それが何なのか、ぜひこの作品を手に取って確かめてみてほしい。

このページを見たとき、なぜか頭の中で壮大な音楽が鳴っているかのように感じられるほどだった。

これはニコ動で流れていたら「いい最終回だった」というコメントがつくような場面だろう。

もちろん、これは最終回などではない。そもそもまだ何もはじまってすらいない。

にもかかわらず、これだけの満足感を味わえる作品は稀有だ。 間違いなく傑作。これを読まないのはもったいない。

旧約聖書の面白さはもっと知られるべき。阿刀田高『旧約聖書を知っていますか』で旧約聖書の一番おいしいところがわかる

 

旧約聖書を知っていますか (新潮文庫)

旧約聖書を知っていますか (新潮文庫)

 

 

大学生一年生のとき、旧約聖書学という授業を取ったことがある。先生はいい人だったが、授業は退屈でいつも寝ていた。しかし、それは旧約聖書が退屈な書物であることを意味しない。むしろその逆で、旧約聖書は面白いところはちゃんと面白い。めっぽう面白いといってもいい。しかし全部が全部面白いというわけでもなく、面白い箇所にたどりつくまでが大変だ。活字の森をかきわけてお宝を探り当てるのは一人ではむずかしい。でもこの『旧約聖書を知っていますか』があれば大丈夫。阿刀田高旧約聖書の一番面白いところだけをピックアップして紹介してくれる。一読すれば、聖書がいかにコンテンツとして強いものなのか、を理解できるだろう。

 

この本はまず、「アイヤー、ヨッ」というかけ声からはじまる。これはアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの4人の頭文字をつなげたものである。ユダヤの英雄アブラハムとその子孫のことをまず覚えてほしい、という阿刀田高の配慮だ。旧約聖書といえばまずは天地創造、アダムとイブなのだが、そこは飛ばしてアブラハムから話をはじめるのは、旧約聖書の面白い部分がアブラハムとその子孫のストーリーの部分に詰まっているからだ。ハランの地から始まるアブラハムの波乱万丈の物語も、阿刀田高の筆にかかるととても軽いノリになる。

 

「俺は家を出るよ」

 弟のナホルはさぞかし驚いただろう。

「出るって……どこへ行くの?」

 神は「私の示す地へ行きなさい」とは告げたが、それがどこかわからない。どうやら西のほうらしい。

「一緒に行くか?」

「いや、俺はやめておこう」

 アブラハムは自分の信仰についても、きっと話したにちがいないが、ナホルは肯んじない。甥のロトだけが、

「一緒に行ってもいい?」

「いいともッ」

 かくて、アブラハムは妻のサラ、甥のロト、それから自分の財産である下僕や羊の群を率いて西の道へと出発した。アブラハム75歳、サラは65歳…… 

 

若い読者だとそろそろ「いいともッ」もなんのことだかわからないかもしれないが、終始こんなノリなので、宗教書だからと構えることなく気軽に読むことができる。ちなみに、このあと阿刀田高アブラハムとサラの年齢についても突っ込んでいて、本当はアブラハムは30代後半くらい、妻はその10歳年下くらいだったろうと推測している。老人クラブの遠足では、この先の苦しい旅路を乗り切れるとは思えないからだ。

 

アブラハムといえば、甥のロトがソドムに赴いたことは有名だ。背徳の町ソドムはのちに神に滅ぼされてしまうが、この町における男色の描写は現代の倫理基準から見ると際どいというか、政治的正しさという観点からは突っ込まれるようなものかもしれない。しかし、むしろ衝撃だったのはロトのその後だ。ソドムとゴモラが滅びたため男がいなくなり、子孫を残せなくなったロトの娘たちは、なんとロトを酔わせてその子を身ごもる。男色は許されないのに近親相姦は許されるのか、と不思議に思うところだ。

 

イサクの子、エサウヤコブ兄弟のストーリーにも興味を惹かれる。イサクは思慮深いヤコブよりも荒々しい長子エサウを好んでおり、家長の座を継がせたいと考えていたが、ここでヤコブの母が入れ知恵をする。ヤコブ腕に子ヤギの毛皮を巻き、年老いて目が見えなくなっていたイサクに近寄る。その腕をなでたイサクはヤコブを毛深いエサウと勘違いし、祝福を与えてしまう。かくて兄弟の対立が始まり、エサウヤコブを殺そうとするのだが、やがてエサウも矛を収めるときがやってくる。この二人の和解するシーンはなかなかに感動的だ。ヤコブはやがてイスラエルという名を与えらえることになるのだが、兄をだますような人物にこの名が与えらえるのか、と思うとなんだか複雑な気分になるが、民族のリーダーには悪知恵も必要だということだろうか。

 

悪知恵といえば、ヤコブの息子たちもなかなかえげつないことをやっている。ヤコブ一行がハランからカナンに戻る途上、ある集落の首長の息子がヤコブの娘ディナを犯してしまうのだが、これに対するディナの兄たちの復讐の仕方にかれらの性格がよく出ている。首長の息子がディナを嫁に欲しがり、部族ごとヤコブ一族と姻戚関係を結ぼうとしたので、ヤコブの息子たちは首長の一族に割礼を受けるよう要求する。つまり、イスラエルの神と契約しろというわけである。要求をのみ、部族の男たちが割礼を受けた3日後(割礼の手術はこのころが一番痛むらしい)、歩くこともできずにいる男たちをヤコブの息子たちはことごとく殺してしまった。それだけでなく、家畜も財産も、女子供もすべて略奪している。こういう知恵が働くあたり、やはりヤコブの血筋という感じがする。

 

知恵がある、というよりは奸智に長けている感があるヤコブ一族は、それでも神に愛されている。イスラエルの神にとって善悪はあまり大事ではないのだろうか、と思えてくるが、と著者に言わせればそれは「素人のあさはか、旧約聖書の考え方ではない」のだ。

 

イスラエルの神にとっては、常識的な善悪も大切だが、それ以上に、その男が神を敬っているかどうか、その男が神の祝福を受けたものであるかどうか、それが第一義である。あえて簡単に、はっきりと言えば、神が愛している人間であれば、神を裏切ること以外はなにをやっても、まあ、おおめに見てもらえる。 

 

というわけで、ヤコブが正しいかどうかはそれほど問題ではないようだ。

 

旧約聖書はさまざまなフィクションの元ネタにもなっているが、「サムソンの謎」の章を読んでゲームやドラマへの影響を考えてみるのも楽しい。古い話で恐縮だが、バッドエンドが有名なレトロPCゲームに「アスピック」という作品がある。長々と説明はしないが、要はこのゲームのストーリーは火の鳥異形編である。どうしてこれほど救いのないエンディングにしたのか首をかしげるほどだが、実はこの作品の主人公の名は「サムソン」なのだ。旧約聖書を知っていれば、この作品がバッドエンドで終わることを予感できたかもしれない。

この本に書かれているとおり、サムソンは強力無双の勇者ではあるが、あまり頭がよさそうに見えない。しかしサムソンには意外な弱点がある。髪の毛だ。髪を剃られると、サムソンはたちまち力をなくしてしまう。ここで思い出すのが、ゲームオブスローンズのドスラク人の首長カール・ドロゴだ。ドロゴは髪が長いが、それはドロゴが戦いで敗北したことがないことを意味している。ドスラク人は負けると髪を切らなくてはいけないからだ。髪を切ることが敗北を意味すること、豪勇を誇る男であることなど、ドロゴの特徴はサムソンと重なる。悲劇的な最期を遂げるあたりも、ドロゴとサムソンは共通している。ドロゴのモデルがサムソンかはわからないが、そう考えたくなる程度には両者には共通点がある。

 

少し脱線した。「アイヤー、ヨッ」の部分が終わり、モーゼの出エジプトからヨシュアの活躍にいたる部分も見どころは多いが、おいしいところを全部紹介していると字数がいくらあっても足りないので、ここでは省略する。「ダビデの熱い血」の章ではユダヤ人もいよいよ王国を作るようになり、ダビデが主人公として登場する。ゴリアテ退治が有名なダビデだが、この人もヤコブやその息子たち同様、ある意味とても人間的で、ただ勇敢な男というわけではない。というか、むしろヤコブよりもっとひどいこともしている。なにしろかれは家臣の妻バト・シェバに一目惚れし、すぐに手を出してしまう。そればかりか、彼女の夫ウリヤを危険な戦場へ送り出し、死なせてしまう。バト・シェバを妻にしたくて間接的な殺人を犯したのだ。さすがにこれは神の怒りにふれ、バト・シェバの子が生まれてすぐ死んだり、ダビデの長男アムノンが異母妹を犯したり、復讐として妹と同じ母を持つアブサロムがアムノンを殺すなどの悲劇が起きた。とはいえ、本来殺されても仕方がなかったところを、ダビデが必死で悔い改めたのでこれで許された、ということでもある。時に間違いも犯すところがダビデが愛される理由らしいが、この個所を読むだけでも旧約聖書が単なる堅苦しい宗教書などではないことがわかる。

 

このように、本書で取り上げられるユダヤの英雄たちの姿はとても人間的だ。かれらはギリシャ悲劇さながらの愛憎劇をくり広げたり、多くの過ちを犯したりする。旧約聖書の登場人物は我々からはるか遠くへだたった人物というわけではないのだ。とはいえ、やはりこれは宗教書でもあるので、ときには登場人物が奇蹟を起こしたりする。一番有名なのはモーセだろう。かれは杖を蛇に変えてみたり、モーセの十災と呼ばれる災害を起こしてみたり、海をふたつに割ったりする。これらの記述を、信心を持たない私のような読者はどう受け止めたらいいのだろうか。阿刀田高はこう語っている。

 

  だが、ありていに言えば、私は奇蹟が起きようと起きまいと、科学の説明があろうとあるまいと、

 ──そんなこと、さほど重要じゃない──

 と今は思っている。そこが幼いころと違っている。

 実際にあったかどうかより、そう信じられたこと、そう伝えられたことのほうが大切のように思えるからである。

 

(中略)

 

 モーセは聖書に書かれた通りの奇蹟は行わなかったかもしれないけれど、神を信じ、おのれの使命を信じ、不退転の決意で何度も何度もエジプト王と交渉して、出エジプトを敢行し、偉大な指導力を発揮した、そのことを比喩的に記せば、聖書の記述となるだろう。大衆にはこの方がわかりやすいし、伝えやすい。要は、それをみんなに信じさせるだけの人格と結果が、そこにあったということのほうである。

 

これは、日本人には一番受け入れやすい考え方ではないかと思う。奇蹟を起こしても不思議ではないと思えるほど、モーセは偉大な指導力を発揮したのだ、ということである。モーセの偉業を民衆に伝えようとすれば話に尾ひれがつき、物語ができ、それはやがて伝説になっただろう。モーセがそれほど大きな存在だった、ということが重要なのだ。

 

このように、旧約聖書はただ物語として読んでみても、内容にかなりの厚みがある。もしユダヤ教キリスト教が古代において滅びてしまったとしても、聖書というコンテンツは現代まで残っていたのではないだろうか。21世紀の現代においてゼウスやアポロンを神として信じている人はいないが、それでもギリシャ神話が今でも読み継がれているのは、それだけギリシャ神話が強いコンテンツだからだ。聖書が世界一のベストセラーであるのは、もちろんキリスト教徒の教典だからなのだが、聖書を読むのはキリスト教徒だけではない。実のところ、聖書はそのエンターテインメント性ゆえに広く読まれている、という一面があるのではないだろうか。ただ、聖書の面白さに触れるのは私のような非キリスト教徒にとっては簡単なことではない。そのような人にとっても、本書は聖書へのよき案内役になってくれるだろう。キリスト教ユダヤ教ユダヤの歴史に興味がある人、あるいはそんなものに興味はなくてもとにかく面白い本が読みたい人、にもぜひおすすめしたい一冊だ。

『昭和史の10大事件』と宮部みゆきの見た宮崎勤事件

 

昭和史の10大事件

昭和史の10大事件

 

 

半藤一利宮部みゆきが、昭和金融恐慌や2・26事件、東京裁判金閣寺消失など、昭和史の「10大事件」について対談している。やはり半藤一利が年配なので対談の大部分は宮部みゆきの方が聞き手に回っているのだが、この本で印象的なのは最後の対談のテーマが東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勉事件)であることだ。この事件は宮部みゆきが「昭和の終わりを象徴する事件」として取り上げているのだが、このテーマについてだけは宮部みゆきの方が積極的に語り手に回っている。

 

本書で取り上げられている他の9つの事件がほぼ政治的なものであるのに、この事件だけは浮いているようにみえる。もちろん宮崎勉事件は昭和末期の世間を揺るがした大事件であるのだが、これがはたして昭和という時代を代表する事件なのだろうか、と思ったからだ。知る限りでは宮崎勉という人物は徹底的に非政治的な人間であって、世間との接点もほとんどなかった。だからこの事件は一見、昭和という時代とのリンクが欠けているようにも思える。事実、この事件の報道では徹底的に宮崎勉という人物の内面性にスポットライトがあてられた。

 

しかし、宮部みゆきに言わせると、まさにそのような犯人のインナースペースに着目するような事件の語り方こそが、この事件に端を発するものだという。

 

心理学者で精神分析を専門にされている斎藤環先生が、『心理学化する社会』という本を書かれています。社会の心理学化。この言葉に出会ったとき、ああそうかって、私は思わず膝を打ちました。宮崎勉事件はまさに、メディアも、私たち素人も、社会で起きる犯罪や事件を心理学的に──もちろん素人ですから、「心理学的雰囲気」で解釈して、それで納得してしまうような流れができた、その発端の事件だと思います。(p217) 

 

この後に出てきたオウム真理教や神戸の少年Aについても、犯人が内的な想像を現実化するために犯罪を起こしたのだと社会が解釈するようになったが、そのようなものの見方のきっかけを作ったのが宮崎勉事件だった、ということだ。プロファイリングという言葉がこのころから一般化しているのも、犯人の内面に社会が着目するようになったことのひとつの表れでもある。

 

個人的な体感としては、社会の「心理学化」は90年代後半に本格化したものだという感覚があり、実際に「社会の心理学化」を語る本ではその表れのひとつとしてエヴァンゲリオンの流行を取りあげていたりするのだが、その萌芽はすでに昭和の末期にもあったのかもしれない。だとすれば、徹底的に非政治的であることにより、宮崎勉事件は「昭和の終わりを象徴する事件」になったということになる。

 

宮部みゆきは、ほかにも宮埼勤事件について興味深い見方を示している。

 

この宮崎勤事件に対して、ものすごく反応して、他人事とは思えない、僕だってちょっと間違ったらああいうふうになっていたかもしれないとか、俺だっておたくだとか、宮崎勤はもう一人の自分だとか、けっこうな人数の評論家や ジャーナリスト、作家の方々が発言したり、書いたりしたんです。

その感覚が、腹立たしいんですよね、私は。やっぱり女だから。実際に四人もの女の子が殺されている事件とその犯人に対して、そんな簡単に、分かる、他人事とは思えないなんて言ってくれるな、と思うんですよ。

でも、私は物書きでもあるので、そういうふうに宮崎勤を捉えたくなってしまうわけの分からなさが、この事件にあることも分かるんです。この男の内側を解いてみたいと。「今田勇子」という女の名前の犯行声明文がどうして出されたのかを解きほぐしてみたいと。物書きがそそられる気持ちも分かるんです。そのように誘惑される、それが魔だと思うんです。

 

 当時の空気感は今でもよく覚えているのだが、確かに当時宮崎勤被告にある種の共感を寄せていた論客は全員男性だった記憶がある。その共感はこの事件をただの異常者の犯罪だと切断処理してはいけないという気持ちから出たものだったのかもしれないが、女性の立場からすればそう簡単に犯人に感情移入されても困る、となるだろう。

 

実際問題、半藤一利が言っているように、宮崎勤は「わけがわからない」。とはいえ、ある種の人たち(ほぼ男性)にとっては、この事件が「自分たちの側」にある、と感じられたことも確かなのではないだろうか。被告と同じ趣味を持っている人は少なくなかったし、趣味は異なっても(宮部みゆきの言う)「魔」がいつ自分をそそのかさないとも限らない、という自省を持つ人がいるのは何もおかしくはない。

 

saavedra.hatenablog.com

立場が変われば、宮崎勤事件はオタクバッシングの端緒とも捉えられるだろう。自分はこの件については被害者とはいえないので、当時の空気感についてはあいまいなことしか語れないのだが、それでもこういう空気がすっかり過去のものになったことも確かだ。この事件が対談本の材料になるということ自体、もうすでにこの事件が「歴史」になってしまったという証拠でもあるだろうか。

マクベスとマクベス夫人と「男らしさ」の枷

かつてある大物政治家を暗殺しそこねた右翼青年が「男になりたかった」と漏らしていた記憶がある。男はただ生きているだけでは「男」になれない、「男らしい」何かをなさなくてはならないのだ──こういう価値観は古びてきてはいるものの、それでもなお残るところには根強く残っている。今でもそうなのだから、中世を生きていた男たちはなお強力に男らしさに縛られている。たとえば、あまりに有名なこの作品の主人公、マクベスのように、だ。

 

マクベス (新潮文庫)

マクベス (新潮文庫)

 

 

マクベス』のあらすじはごく単純だ。ダンカン王の忠実な家臣だったマクベスが「あなたはいずれ王になる」という魔女の予言を信じ込み、ダンカン王を殺害して王になる。マクベスは魔女に「その子孫が王になる」と予言された友人のバンクォーをも恐れて殺害したため、玉座にありながら罪の意識におのれおののき、最後はイングランドに逃げのびたダンカン王の息子マルコムの家臣マクダフに討たれる、というものだ。この作品はシェイクスピアの四大悲劇のうち最後に書かれたもので、もっとも短い。

 

マクベス』の中心をなすテーマは、人間の弱さだ。マクベスはもともと勇敢な武将であり、それなりに勇気も武勇も持ち合わせているが、魔女の予言を聞いて野心を起こすものの、ダンカン王を殺害するのはかなりためらっている。なにしろ『マクベス』作中でのダンカン王は「有徳の君主」であり、相手には一点の非もない。マクベスには何の大義名分もないのである。だからマクベスはこのように思い悩む。

 

だが、こういうことは、必ず現世で裁きが来る──誰にでもよい、血なまぐさい悪事を唆してみろ、因果は逆にめぐって、元凶を倒すのだ。この公平無私の裁きの手は、毒酒の杯を、きっとそれを盛った奴の唇に押しつけてくる。王が今ここにいるのは二種類の信頼からだ。まず、おれは身内で臣下だ、いずれにしろ、そんなことはやりっこない、それに、今度は主人役、逆意を抱いて近よる者を防ぐ役目、それがみずから匕首をふりかざすなど 、もってのほかだ。そればかりか、ダンカンは生まれながらの温和な君徳の持主、王として、一点、非のうちどころがない、うっかり手を下そうものなら、その平素の徳が、天使のように大声で非道の罪を読みあげよう 、そして憐れみという奴が、生まれたての赤子の姿を借り、疾風に乗って駆けまわる、天童たちも眼に見えぬ大気の早馬に打ちまたがって御出馬だ、それが世人の眼に無慚な悪行を吹きつける、そうなれば、涙の雨で風も凪ごう。(p32)

 

この時点ではマクベスにはまだ家臣としての良心が残っている。王を弑逆などすればいずれ因果がめぐり、自分が滅ぼされるだろうと恐れてもいる。マクベスはもともと悪に徹しきれるような男ではないのだ。

 

こうして逡巡するマクベスを焚きつけるのがマクベス夫人だ。この夜、ダンカン王はマクベス宅に泊っている。暗殺の絶好の好機である。この機を逃して王妃になりそこねてはたまらないと、マクベス夫人はマクベスをさんざんに煽る。

 

夫人:ひそかにこの世の宝とお思いになり、それがほしくてたまらぬ方が、われから御自分を臆病者と思いなし、魚は食いたい、脚は濡らしたくないの猫そっくり、「やってのけるぞ」の口の下から「やっぱり、だめだ」の腰くだけ、そうして一生をだらだらとお過ごしになるつもり?

マクベス:お願いだ、黙っていてくれ、男にふさわしいことなら、何でもやってのけよう、それも度がすぎれば、もう男ではない、人間ではない。

夫人:それなら、このたくらみをお打明けになったときは、どんな獣に唆されたとおっしゃいます?大胆に打ち明けられた方こそ、真の男、それ以上のことをやってのければ、ますます男らしゅうおなりのはず。(p34)

 

ここで、マクベス夫婦の間にちょっとした「男らしさ論争」が起こっている。主君を殺すようなものは男ではない、というマクベスに対し、マクベス夫人はダンカン王を殺してしまう方が男らしいのだ、と言っているのである。なんと猛々しい妻だろう。この妻がいなければ、マクベスはダンカン王を殺していなかったのではないか。王のお付きを葡萄酒で酔いつぶしてその間に王を殺せばいいと暗殺計画を話す妻に、マクベスは「男の子ばかり生むがよい!その恐れを知らぬ気性では、男の子しか生めまい」と言っている。ある意味、マクベスよりもこの妻の方がよほど「男らしい」のだ。暗殺を実行するのが自分ではないから勇ましいことが言える、というのはあるとしても。

 

 マクベスマクベス夫人の考える男らしさの中身は異なっているものの、二人とも男は男らしく振舞わねばならない、と考えていることは共通している。マクベス夫人は家臣としての倫理は脇に置き、大胆に思ったことをやってのけるのが男らしいのだ、と主張している。こういわれると、男は弱いところがある。「男らしさ」といってもその意味するところはあいまいだが、野心があるなら逡巡せずそれを実行に移すことを男らしいと考える人もいる。男らしさは優柔不断の対極にある概念だからだ。かくて、マクベスは王殺しを実行に移してしまう。

 

しかし今まで見てきたとおり、マクベスにはダンカン王暗殺をためらう良心や小心さも持っている。だからこそマクベス夫人が背中を押したというわけである。そのようなマクベス玉座に座ったところで、その居心地がよかろうはずもない。やがてマクベスは気が狂いはじめ、バンクォーの亡霊を見るようになる。マクベスは間違っても善人ではないが、主君と友の命を奪って平然としていられるような悪人でもない。堂々と悪に居直ることのできないマクベスの姿は、マクベス夫人にはやはり「男らしくない」と映る。

 

マクベス夫人:皆さん、どうぞ、おかけになって、発作はほんのいっとき、すぐまた治ります、そうして、じっと見つめておいでだと、かえって気むずかしくなり、発作が長びきます。さあ、召しあがって、王のことは気になさらずに。(小声で)それでも男と言えます?

マクベス:(小声で)男でなくて何だ、こうしてたじろぎもせず見つめている、あの悪魔も面をそむける怪物を。

マクベス夫人:(小声で)ご立派ですこと!それもご自分の恐怖心が生んだ絵姿、あのとき空を横ぎってダンカンのところへあなたを導いたという短剣と同じこと。そんな、どなったり、わめいたり、大仰な身ぶりをなさって、恐怖も何もありはしない、子供じみたお芝居です、せいぜい冬のいろりばたで女どもの打ち興じる話の種、昔おばあさんから聴かされたお化け話のようなもの……恥ずかしくないのですか!どうしてそんな顔を?

(p74)

 

自分の椅子にバンクォーの亡霊を見るマクベスを、夫人はそれでも男かとなじる。幽霊など女たちの噂話の中にしかいないものだというわけである。そんなものを恐れて恥ずかしくないのか、とマクベス夫人は言うのだが、王殺しが恥ずかしい行為だという感覚はこの人には一切ないらしい。王として男の世界の頂点に立つこと、それだけがマクベス夫人にとっては大事であるようだ。

 

マクベス陣営に目を転じると、こちらもまた別の「男らしさ」を持ち出している。ダンカン王の息子マルコムとその家臣マクダフは、このような会話を交わしている。

 

マクダフ:ああ、女のように眼を泣きはらし、口先だけで、大口たたけたら、どんなに気楽か!いや、天に慈悲があるならば、あらゆる邪魔なものを取り除き、すぐさま、このおれを、あのスコットランドの悪鬼の鼻づらに突きつけてくれ、この剣のとどくところに、あいつを立たせてくれ、それで逃げられたら、たとえ天があいつを許しても、文句は言わぬぞ!

マルコム:それででこそ男だ。さあ、イングランド王の御前へ行こう、兵たちは待っている、暇乞いさえすればよいのだ。マクベスは熟れた果実、一揺りすれば落ちる。天使の軍勢はこちらの味方、われわれを励ましてくれよう。出来るだけ元気を出してくれ、どんな長夜も、必ず明けるのだ。(p111)

 

この「男らしさ」は、マクベス夫人が持ち出しているものにくらべればだいぶ理解しやすいものだ。マクダフは家族をマクベスに殺されているのだから、ここで立ち上がらねば男ではない、という感覚は現代のわれわれが考える男らしさともほぼ重なる。ここで男らしさが「口先だけで大口をたたく女らしさ」と対比されているのも興味深い。祖国スコットランドマクベスから取り戻すという志がどれほど立派であろうと、実際にやり遂げなければ「男」ではないのだ。逆に、王殺しという大罪でもやりとげればそれも「男らしい」とみなされる。『マクベス』の世界では事をなす強固な意志と勇気が男らしさの構成要素であって、することが善か悪かは別に関係ないようだ。

 

この物語を最後まで読んで、もしマクベスがもう少し男らしさを欠いていたなら、この悲劇は起きなかったのではないか、という感想を持った。マクベスがダンカン王殺害をためらい勇気を奮い起こすことがなかったなら、彼は妻に軽蔑されながらも平穏な一生を送ることができただろう。その意味で、男らしさには明らかに負の側面がある。少なくとも、マクベスの妻がよしとするような、ためらわず悪に邁進するような男らしさは、マクベスには似合っていなかった。マクベス自身が恐れていたとおり、因果は巡り自分自身が滅びることになったのも、しょせんはマクベスが悪事をなしても平気でいられるほどの男ではなかったからかもしれない。

 

バンクォーの亡霊を見るほど心を病んだマクベスは、のちに荒野の魔女たちから「女の産み落としたものの中にマクベスを倒す者はいない」「マクベスは滅びはしない、バーナムの大森林がダンシネインの丘に攻めのぼってこぬ限りは」という予言を聞く。この予言が幻影の口から出ているのはなぜだろうか。マクベスが自分に都合のいい予言を幻影の中に見いだしているだけなのではないだろうか。女から生まれていないものなどいないのだから、この予言は事実上、マクベスを倒せるものなどいないといっていることになる。しかしこの予言は最後には見事に裏切られることになる。シェイクスピアの技が冴える演出である。

 

マクベスが魔女の予言を信じ、そして妻の言葉に煽られて王殺しの大罪を犯したのだとすれば、男はある種の女に運命を狂わされるのだという女性観がシェイクスピアの中にはあるのだろうか。女の前では男らしくいなくてはならない、妻に侮られるような男であってはならないという一種の強迫観念めいたものも、幾分かはあったかもしれない。しかしそれは男が自分で自分にはめている枷でもある、という意味のことを、佐藤賢一は『小説フランス革命』のなかで語っている。

 

saavedra.hatenablog.com

 

「でも、本当なんですか、伯爵」

 なんの話だと怪訝な顔で確かめると、ロベスピエールは背後の建物を示した。ですから、こういう激越な行動に出られると、女性は喜ぶという先の御説のことですよ。

「リュシルは心配そうな顔ですよ。ああ、みてください、おろおろしているくらいだ。それなのに喜ぶというのは……」

「嘘に決まっているだろう」

「そ、そうなんですか」

「当たり前だ。それは女の問題ではなく、むしろ男の問題なのだ。強くあらねばならない、荒々しく振る舞わねばならない、雄々しく行動しなければならないと、そういう強迫観念から男は逃れられないものなのだ」

 

王殺しという「激越な行動」こそが女を喜ばせるものだという考えがシェイクスピアのなかにもあり、それがマクベス夫人に過激な台詞を吐かせているのだとすれば、マクベスマクベス夫人のやり取りは一人の男の頭の中の葛藤だということになる。マクベス夫人のようなことを主張する女性が現実にいないわけではないが、それを受け入れるかどうかは男性側の問題でもある。そこで男らしさにこだわるかどうかで、その後の行動は大きく変わることになる。男なら雄々しく振舞わねばならない、という観念に従ったマクベスは結局、わが身を滅ぼすことになってしまった。 

 

シェイクスピアを楽しむために (新潮文庫)

シェイクスピアを楽しむために (新潮文庫)

 

 

史実では、ダンカン王は有徳の君主などではなく、マクベスはダンカン王とは別の王系に連なる実力者だったそうである。阿刀田高シェイクスピアを楽しむために』では、「従来の王位継承の習慣から見れば、マクベスが王位に就くほうが正当であったろう」と書かれている。だとすれば、現実のマクベスシェイクスピア作品のマクベスほどには罪悪感に悩まされることはなかっただろう。17年間もスコットランドの統治に成功していたのはそのためかもしれない。

ヴァイキングの歴史や文化を知るためのおすすめ本5冊

ヴィンランド・サガのアニメも始まるので、ヴァイキング関連で今まで読んだものの中からおすすめ本を紹介することにします。ヴァイキング本の中でもなるべく内容がかぶらないものを選んでみました。


1.図説ヴァイキングの歴史

 

図説 ヴァイキングの歴史

図説 ヴァイキングの歴史

 

ヴァイキングの歴史や交易、生活習慣など全体像について1冊で押さえるならこの本。古本でしか買えないのが残念ですが、ヴァイキングの遠征活動や社会の構成、ルーン碑文や生活までくわしく知ることができます。イングランドオークニー諸島アイルランドグリーンランド、ヴィンランドなどヴァイキングが活動した土地のことはすべて書かれているので、基礎的な知識をひととおり得るのには最適です。ヴァイキングの遠征については、「ヴァイキングは強力でよく組織された抵抗にあったりすると、イギリス諸島とフランでで味わったように、ほとんどいつも敗北しているのだ」と、意外なもろさも指摘しています。特筆すべきはイラストや写真の豊富さで、ヴァイキングの衣装や装飾品、馬具や造船の様子まですべてイラスト付きで解説されています。イラストはすべて専門家が監修しているので、ヴァイキングが角付き兜をかぶっているようなありがちな誤りは犯していません。


どうしても遠征や略奪のイメージが強いヴァイキングですが、この本では生活芸術や什器、衣服や食生活など、その日常生活の様子にもかなりページが割かれていて、北極海での狩猟の様子や錠前、照明器具、鍛冶師の道具などにもイラストや写真がついています。ここを読んでいると、ヴァイキングは職人・芸術家としても非常に高い能力を持っていたことがよくわかります。家屋のイラストも載っていますが、ヴァイキングはほぼスカイリムで見たものと同じ木造建築の家に住んでいたことがわかります。

 

このように、本書はイラストや写真が豊富であるほか、カラー地図も3枚収録されていてヴァイキングの活動範囲を視覚的にとらえることができます。90~91ページの地図を見ると、無人地帯から山岳地帯・ステップ地帯にいたるまで、当時知られていたほぼすべての地にヴァイキングが足跡を残していることがわかります。中央アジアで中国からやってきた隊商にも出会うなど、その活動範囲の広さは驚異的です。


2.サガとエッダの世界 アイスランドの歴史と文化

 

サガとエッダの世界―アイスランドの歴史と文化 (現代教養文庫)

サガとエッダの世界―アイスランドの歴史と文化 (現代教養文庫)

 

 
アイスランドヴァイキングの入植先のひとつとして有名ですが、アイスランドの特徴として、文芸が極めて盛んだったことがあげられます。この本ではアイスランドの歴史について簡潔に解説したのち、中世アイスランド文芸の中核をなすエッダとスカルド詩、そしてサガについて詳しく解説しています。本書によればアイスランドキリスト教化が政治的なもので、古い首長たちが異教的精神を持ち続けたことが、古ゲルマンの神話伝承にもとづく文学が盛んになった要因です。

エッダはアイスランド文学の一番古層に属するもので、アイスランドの政治家にして詩人スノッリ・ストゥルルソンが詩学の入門書としてまとめあげたものですが、古代ゲルマンの神話や伝承をくわしく伝えている貴重な文献です。本書ではこのエッダのうち神話詩篇箴言詩・英雄誌をかなり長く引用しています。

 

伝統的な詩であるエッダにくらべ、スカルド詩はより個人的な意識と技巧の産物といわれますが、両者の区別は必ずしも厳密ではありません。北欧社会では詩人が高い地位を占め、皆が豪族や貴族の出身ですが、アイスランドでもたくさんの詩人を輩出しています。本書ではアイスランドの代表的なスカルドのエギル・スカラグリムソンの事績や、北欧最初の恋愛詩人といわれるコルマクの詩を紹介していますが、これらの詩人の生涯はいずれも波瀾万丈で興味深いものです。

 

サガは散文文学ですが、アイスランドのサガは本書では「ほとんど近代小説に接近している」と評されるほど高度なもので、アイスランド文化の精華といえるものです。サガの特徴は、即物的・客観的な叙述スタイルにあり、娯楽に乏しい孤島のアイスランドではこのサガを集会や結婚式のときに語って楽しんでいたのです。この本の巻末はサガのひとつ『アイスランド人の書』の一部も収録されていますが、読んでみるとたしかに淡々とした歴史記述という雰囲気があります。このように、本書は北欧神話アイスランド文学について詳しいので、ヴァイキングの文化面について知りたい方にお勧めです。


3.ヴァイキングの歴史

  

ヴァイキングの歴史 (創元世界史ライブラリー)

ヴァイキングの歴史 (創元世界史ライブラリー)

 

 

本の帯に幸村誠さんが「この本がなければヴィンラド・サガは書けなかった」と書いているとおり、ヴァイキングの生活や社会について詳しく書かれています。ヴァイキングには獰猛な略奪者のようなイメージがありますが、この本ではヴァイキングの本来のあり方は「農民」だったことが強調されています。

もっとも、農民といってもこれは日本の百姓とはかなり異なります。サガのなかに出てくる「農民」とは定着経済を営むものということで、この「農民」は家族を維持するためにはあらゆる経済可能性を追求します。農業だけを生業とはしないので、彼らは牧畜や漁業も行うし、ときにはヴァイキング行へ出かけることもあります。略奪もまた、経済を補完するひとつの方法なのです。

 

「農民」が経済を成り立たせるためさまざまな生業に従事する北欧社会では、専業の商人というものも存在しません。この本の4章「商人なき交易」では、サガのなかで農民が行商に出ているケースがあることに言及しています。集会はビール売りの場として使われていましたが、ビールを作るのも専業の醸造者ではなく、やはり農民なのです。活動範囲が広いため「交易者」としても評価されがちなヴァイキングですが、交易や略奪、傭兵などの活動も農民として定着する前の富を得る手段であり、また農民となった後の経済を補充するためのものなのです。この「農民」としてのヴァイキング像を知ると、ヴァイキングのイメージも少し変わるかもしれません 。

 

このように「非分業の民」として生きていたヴァイキングですが、略奪活動には従士団が必要であるため、この集団が軍事的集団として発展するとかれらは農業から切り離され、政治的な上層となり小王や大豪族のような権力者に発展することになります。こうした動きの延長線上に統一王権が誕生することになりますが、これも略奪や交易を通じて富と力を蓄えから可能になることです。アイスランドではこうした流れが起こらず、ヴァイキングの「農民」としての性格が保存され続けていますが、この本ではアルシング(集会)を通じたアイスランド統治の仕組みについても詳しく書かれています。統一王権の存在しなかったアイスランドの社会は中世においてはかなり特異なものなので、アイスランドの社会や文化について知りたい方には特におすすめです。

 

4.消えたイングランド王国

 

消えたイングランド王国 (集英社新書)

消えたイングランド王国 (集英社新書)

 

 

 イングランド側からみたヴァイキングがいかに恐ろしい存在だったか、がよくわかる本。ノルマンディー公ウイリアムに征服される前のアングロサクソン人が統治する「オールド・イングランド」の歴史について書かれていますが、この本で取り上げられているのは「セカンド・ヴァイキング・エイジ」といわれる、デーン人侵攻が盛んになった980年以降の時代です。

このころ、イングランドを治めていたのはエゼルレッド無策王という不名誉なあだ名のついている人です。こんな名前をつけられているのは、デーン人の侵入におびえたエゼルレッドが「デーンゲルド」という貢納金を払っていたからです。はじめて支払ったデーンゲルドは銀で3.3トンにもなると言われますが、脅せば儲かると学習したデーン人はさらにイングランドへの攻勢を強めたので、エゼルレッドの狙った抑止効果は得られませんでした。

 

このような王の時代にも勇士はいます。エセックスのエアルルドマン(伯)ビュルフトノースは貢納金を拒否し、直属の家臣団を率いて圧倒的多数のオラーフ・トリグヴァクソン軍と戦っています。この「モルドンの戦い」は散文詩にその様子がくわしく書かれていますが、書いたのはビュルフトノースの従士のひとりともいわれています。戦いに参加した従士の名前が実名で書かれているからです。この戦いは悲劇的な結末に終わっていますが、アングロサクソン人の勇敢さは十分に発揮されています。

エゼルレッドの子、エドモンドも「豪勇王」のあだ名のとおりデーン人相手に奮戦しています。このエドモンドと戦っていたのがヴィンランド・サガで有名なクヌートで、クヌートとの4度目の会戦でエドモンドはクヌートに大きな打撃を与えています。のちにエドモンドとクヌートは休戦協定を結んでいますが、クヌートはエドモンドにかなり寛容な態度を示しています。まもなくエドモンドが死んでしまったためにイングランドはクヌートが単独で治めることになりますが、この本ではクヌートのイングランド統治に高い評価を与えています。

 

5.文明崩壊(上) 

文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)

文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)

 

 
マヤ文明やアナサジ族などさまざまな文明が衰退していく原因について考察している本。上巻では6・7・8章がヴァイキングの考察に充てられています。『銃・病原菌・鉄』の著者らしく、この本では自然環境や技術などからヴァイキングの衰退についてアプローチしています。7・8章ではとくにグリーンランドに入植したヴァイキングについて詳しく書かれていますが、この章はグリーンランドヴァイキングについて知りたい方はぜひ一度目を通してほしい内容です。

ジャレド・ダイアモンドの分析によれば、アイスランドとは違いグリーンランドヴァイキングが滅びてしまった原因のひとつは、森林破壊にあります。ヴァイキンググリーンランドに入植すると、牧草地を作るため森林を燃やして開墾しましたが、牧草地が増えて樹木が再生しなかったため、やがてヴァイキングは深刻な木材不足に悩むことになりました。

 

鉄を作るには木炭が必要で、木炭を作るには大量の樹木が必要とされます。木材が不足すると、鉄製の鎌や包丁、鋏などを作ることができません。これらの道具を石や骨で作るとなると、それだけ飼い葉の収穫や羊毛の刈り取りなどの効率は悪くなります。鉄製の武器や防具を作ることもできないので、先住民イヌイットとの戦いでも優位を保てなくなってしまいます。森林不足のもたらした鉄不足は、ヴァイキングの生活に大きな打撃を与えていました。グリーンランドでは木で作った釘やトナカイの角で作った鏃などが出土していますが、これらの出土品は当時のヴァイキングの苦境をしのばせます。

 

また、ヴァイキングの先住民への態度もグリーンランド衰退の原因のひとつに数えられます。グリーンランドヴァイキングははじめて遭遇したイヌイットに対し、暴力的な態度で臨みました。その後もヴァイキングイヌイットと友好関係を築いた形跡はありません。イヌイットは雪で家を作る技術やセイウチを狩る技術、カヤックを作る技術など、極北の世界を生きる上で有用な技術をたくさん持っています。このイヌイットと交流も交易も行わなかったヴァイキングは、イヌイットグリーンランドで生き抜くすべを学ぶことがなかったのです。アムンゼンイヌイットのやり方を学んで北極圏の探検に成功したことを考えると、新天地で生き抜くためにするべきことがおのずから見えてくるように思います。

 

saavedra.hatenablog.com

 

以上5冊紹介しましたが、以前このブログで紹介した『魚で始まる世界史』の第3章「ニシンとハンザ、オランダ」のなかでは、ヴァイキングの海外移住の背景としてニシンの回遊コースの変化があげられています。ここで紹介されているS・M・トインの説によると、ヴァイキングはたいてい地元のニシン漁が盛んだった地域に入植しているのだそうです。ニシンの回遊コースがノルウェー寄りだった時期はヴァイキングイングランド侵攻は減っているので、確かにニシンとヴァイキングの移動にはある程度の関係があるのかもしれません。ニシンに連れてヴァイキングが移動するということは、ヴァイキングの生活の中でも漁業が重要な部分を占めていたということを意味します。

 

この本ではヴァイキングに触れている箇所がそれほど多くないのでヴァイキング関連本としては紹介しませんが、ヴァイキングを含めた「魚食と世界史」の本としては非常に面白い内容なので、このテーマに関心のある方には強くおすすめしておきます。