明晰夢工房

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ローマ帝国軍に入隊したい人のための懇切丁寧なガイド『古代ローマ帝国軍非公式マニュアル』

 

 

「帝国は諸君を必要としている!」という帯の文句に惹かれ手に取ってみると、かなり内容の充実した一冊だった。これを読めば、ローマ帝国軍の入隊手続きや軍団兵の装備、陣営での生活や都市の攻略法、さらには除隊後の生活まで知ることができる。栄えあるローマ帝国軍の兵士になりたい人は必読。逆にローマを敵視している人にとっては、ローマ軍の内情がよくわかる貴重な一冊になる。

 

ローマ帝国軍にはだれでも入隊できるわけではない。本書の一章には帝国軍の入隊資格について書かれている。ローマ市民権を持っていること、独身であること、身長が5フィート10インチ(約173センチ)以上あること、などの条件に加え、「男性器がそろっていること」というのもある。軍隊は男の世界だが、去勢者は入ることができない。視力がよいこと、人物がきちんとしていることなども重要で、有力者からの推薦状もあったほうがいい。これらの条件を満たしている者は試験を受け、入隊宣誓をすませたのち25年間の兵士としての生活をスタートさせることになる。ローマ市民権を持っていなくてもあきらめる必要はない。補助軍になら入隊できるからだ。補助軍は非市民の歩兵部隊で、軍団兵のの8割ほどの給与でより危険の大きな仕事をする。除隊時にはローマ市民権がもらえるので、危険を冒す価値はある。

 

軍団兵は装備を自前でそろえなくてはならない。兵士にとっては剣や兜などが一番大事だと思えるが、第4章「軍団兵の道具と装備」を読むと、意外にも一番金をかけるべき装備はカリガ(サンダル)だという。軍団には行軍は欠かせないもので、カリガは平時からつねに必要だからだ。足に合っていて革がやわらかく、靴底の鋲が新しいものを選ばなくてはならない。この鋲は蹴りの威力を高めることができ、群衆の征圧など、相手を生かしておきたいときには役立つ武器にもなる。しかし硬くなめらかな床では滑りやすいという欠点もあるので、兵士はこの特徴をよく知っておく必要がある。

 

向上心の強い志願者には第5章『訓練・規律・階級』が参考になる。ローマ兵は最初はなんの特権もない「ムニフェクス」からキャリアをスタートさせることになるが、技能を身につければ特別な任務をもつ「インムニス」になることができる。インムニスには書記や鍛冶、旗手など様々なものがあるが、ムニフェクスよりも待遇はよい。ローマ軍では旗手は年金基金の管理を担当していて、数字に強い者が務める。これは、自分の年金の状況を知っている者が旗手なら、敵の投げ槍から必死に守らねばならないというローマ人の知恵が生み出した慣習だ。特別な技能がなければ、「プリンキパリス」を目指す手もある。優秀な兵士がなれるプリンキパリスは、歩哨の組織運営を行うテッセラリウスや、百人隊長の代理を務めるオプティオなどを務める。プリンキパリスになれれば百人隊長に出世する道も開けるので、上昇志向の強い兵士はめざす価値がありそうだ。

 

陣営もローマ社会の一部なので、軍団兵の陣営にもローマらしさがよく出ている。第7章「陣営の生活」には、兵舎内で軍団兵はそれぞれ七人の兵士と親密な付き合いをする、と書かれている。プライベートな空間などないが、ローマ人にとって一人の空間とは異質なものだそうで、食事や入浴、トイレですら知人と話す場だった。軍団兵も同様ということである。もっとも、兵舎内には軍団兵がいないことが多く、案外広々とした空間になる。兵士はあちこちに派遣されるからだ。高官の護衛や関所の警備、道路の建設や商人の護送など、兵士は幅広い任務に就かされる。軍団は建設作業員や蹄鉄工、書記など人材の宝庫だから、戦闘以外のさまざまな仕事にも対応できる。

 

とはいうものの、軍団兵の本来の仕事は戦争だ。第6章「軍団兵の命を狙う敵たち」を読めば、ピクト人やゲルマン人ダキア人やベルベル人など、軍団兵が向き合う敵の特徴を知ることができる。山塞の防衛に長けたピクト人やピルム(ローマの投げ槍)を巧みに避けるベルベル人、強力な鉈鎌ファルクスを振るうダキア人などは皆それぞれに手強い。だが、最も恐れるべきはパルティア人だ。パルティアは多様な騎兵隊を持っていて、それぞれの役割は異なる。まず弓騎兵が大量の矢を浴びせ、相手が消耗したところに騎兵が突撃する。特に重装騎兵カタフラクトの突撃は強力で、守りも硬い。ローマの弓はパルティアの弓ほど矢が遠くへ飛ばないので、なるべくこんな敵と戦わずにすむよう祈るしかない。

 

どんな兵士も、生きのびられればいつかは除隊の日がやってくる。25年の務めを終えた兵士たちが第二の人生としてどんな道を歩むのかは、第11章「除隊とその後」を読むとわかる。軍団兵の経験を生かすため、軍に関連する職を選ぶ者は多い。つまり、陣営に必要な飲食や物資を提供する事業をはじめるのである。また、新しい領土に入植する者もいる。征服された土地を確実に維持するには、軍隊経験の豊富な者たちが最適というわけだ。衣食の保証のない自由な生活が苦痛なら、いっそ軍に再入隊する手もある。最初の入隊が10代なら、もうしばらく兵役を務められるらしい。劇的な道として、ローマへ反逆を選んだ者すらいる。補助軍を除隊したスパルタクスアルミニウスなどがそうだ。軍の内情をよく知る彼らは、敵に回すときわめて厄介な存在になる。ローマ軍に入ると、こうした危険な敵と戦わなくてはいけないこともある。軍団兵が戦った経験を死ぬまで自慢できるのは、それだけ大きなリスクを背負っているからなのである。

 

この本を読んでいて、ローマ軍団兵として25年間無事に務め上げるにはどうすればいいかを考えていた。この時代、生活が保障され、除隊時に年金までもらえる軍隊はローマ帝国軍しかない。規律は厳しくても、生活の場としては悪くないところだ。なるべく戦わなくていい都合のいい軍団はないか……と探してみると、イベリア半島に駐屯している第7軍団「ゲミナ」についての記述が目をひく。「この軍団に入って期待できるのは、たまに山賊の見回りに出るとか、守備隊任務とか、昼寝の技術を開発するぐらいである」そうだから、あまり強敵と戦わずにすみそうだ。戦功を誇ることはできなくても、皇帝トラヤヌスがこの軍団出身であることは自慢できるだろう。平和な属州で、除隊まで平穏無事に過ごせるのはなかなかいい人生かもしれない──といった妄想をかきたててくれるのも、本書の魅力のひとつだ。