明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

近代仏教学のつくりあげた「ブッダ神話」を解体しブッダの実像に迫る好著『ブッダという男』

 

 

19世紀以降、仏教研究は初期仏典を批判的に考察することで、「歴史のブッダ」を復元しようと努めてきた。瞬間移動や空中浮遊など、超常能力を用いる「神話のブッダ」にかわり、多くの仏教学の碩学によりさまざまなブッダ像が描かれてきた。だが本書によれば、それらのブッダ像もまた現代人の価値観が投影されたものだという。ブッダは平和主義者であったり、男女平等論者であったり、不可知論者であったといわれることがあるが、こうしたブッダ像は研究者が自分の願望をブッダに語らせたものであり、「新たな神話」だというのだ。本書はこうした「新たな神話」から離れ、初期仏典を虚心坦懐に読むことで、「ブッダという男」が何を説いたかを解きあかしていく。ここで見えてくるブッダ像は、現代人のイメージする理想の人格者とは異なる面も多い。

 

たとえば、第3章「ブッダは平和主義者だったのか」では、ブッダが征服行為について助言する仏典があることが指摘される。マガダ国の王がヴァッジ族を滅ぼそうとしていたとき、ブッダは「ヴァッジ族が団結しているかぎり、衰退はない」と述べたというのだ。この発言を受け、マガダ王はヴァッジ族へ外交戦や離間策を用いることを決意する。ブッダは戦争を止めることはなく、王を批判してもいない。殺生を禁じたブッダがなぜ戦争を批判しないのか。確かにブッダの生命観において殺生は悪なのだが、絶対に許されないわけではない。この章の解説によれば、五つの無間業(父・母・悟った人を殺すこと、僧団を分裂させること、ブッダの身体から出血させること)以外の悪業なら、多くの人を殺めても、本人の努力次第では報いを受けずにすむのだという。初期仏典では戦争の無益さが説かれることもあるが、ブッダが現代的な意味での平和主義者だったとはいえないようだ。

 

ブッダは男女平等主義者だった、とされることもある。確かにブッダは女性でも悟りを得ることができると認めた。だが仏教教団において女性は男性に従属する立場だったのであり、男女平等だったとはいえない。ブッダの女性観はどんなものだったか。第6章「ブッダは男女平等を主張したのか」ではさまざまな初期仏典を引用しているが、そこからみえてくる女性観は「女は男を堕落させるもの」だ。「托鉢修行者たちよ、女は歩いているときでさえ、男心を乗っ取ります」といった文言からは、女性は煩悩を増し、修行の妨げになる存在という考えが読みとれる。逆に、男性が女性の修行の妨げになると批判されることはない。古代インドにおいては、女性は男性と哲学的議論を交わせるとみなされる一方で、蔑視される存在だった。ブッダの女性観も古代インドの一般的なものと変わらない。男女同権という考えが存在しなかった古代インドを生きていた人物だけに、ブッダの女性観にも現代人が受け入れにくいものは確かにあった。

 

本書はただ「神話のブッダ」を批判し、現代人に受け入れにくいブッダ像を紹介しているわけではない。第三部「ブッダの先駆性」では仏教思想を簡潔に解説しているため、初期仏教の入門編として利用することができる。個人的には、第11章「無我の発見」が、仏教思想の核心である「無我」についての最もわかりやすい解説になっていると思った。バラモン教ジャイナ教では恒常不変の自己原理(アートマン)が存在すると説くが、仏教では個体存在は色・受・想・行・識の五要素の寄せ集めにすぎず、これを統括する自己原理の存在を認めない。行とは意志的作用のことだが、これが他の要素をコントロールしているとも考えない。

 

このように、精神活動が個体存在の構成要素であることを否定することなく、かといって肉体と精神活動が、自己原理の下に活動しているとみるのでもなく、それぞれが互いに影響し合いつつ独立して個体存在を構成しているとするのである。(p161)

 

バラモン教ジャイナ教とは違い、輪廻の主体になる自己原理や魂の存在を仏教では認めない。にもかかわらず輪廻を認めたところに仏教の独自性がある。著者によれば、仏教は個体存在のなかに精神的要素も含めたため、唯物論と明確に区別されることになった。

 

インド諸宗教において、輪廻の主体である恒常不変の自己原理を否定したのは、唯物論と仏教だけであった。唯物論者が、物質からのみ個体存在が構成されると説き、業法輪廻の存在を認めず、結果として道徳否定論者であったのに対し、ブッダは、個体存在が感受作用(受)や意志的作用(行)などの精神的要素も個体存在を構成していると説き、無我を説きながらも業法輪廻のなかに個体存在を位置づけることに成功した。これは他には見られない、ブッダの創見であると評価できる。(p173)

 

【書評】御成敗式目を「歴史の覗き窓」として鎌倉時代を理解できる良書!佐藤雄基『御成敗式目 鎌倉武士の法と生活』

 

 

中世法は面白い!と感じられる一冊だった。これはすぐれた御成敗式目入門書であるだけでなく、この法を通じて鎌倉武士や地頭・女性・庶民の姿を浮かび上がらせてくれる良書だ。つまり、これを読めば鎌倉時代の社会がみえてくる。江戸時代や室町時代にくらべて今一つつかみにくい鎌倉時代のイメージが、本書を読むことで明確になってくる。御成敗式目は、鎌倉時代を知るための「歴史の覗き窓」でもあるのだ。

 

御成敗式目には、鎌倉時代の治安の悪さを実感できる条文が多い。たとえば、4章では「悪口の咎」について解説されているが、これは文字通り悪口=根拠のない誹謗についての規定だ。悪口を言うと、流罪か召し籠め(他の御家人への身柄預け置き)になるのだが、これは悪口への罰としては重過ぎるように思える。だがこれには理由があって、本書によれば悪口が喧嘩や殺人の原因になるからだという。喧嘩が日常茶飯事だったからこそ、武士同士の喧嘩をふせぐために悪口を厳罰に処す必要があったのだ。もっとも、著者は「喧嘩が日常茶飯事であった武士社会において、この条文通りに厳罰が科されたのかどうかは分からない」という。幕府の定めた法でも罰することができないほど、当時の武士は荒々しい存在だったのだろうか。

 

御成敗式目には庶民の女性の暮らしがわかる箇所もある。7章で解説されている三十四条の後半部分には「辻捕」という言葉が出てくる。これは路上において女性を捕らえ襲う行為だ。「辻捕」の加害者としてはおもに御家人とその郎従が想定されている。犯行現場は市場や寺社で、女性にとっては参詣すら一人でするのは危険だった。「辻捕」の罰は出仕停止や頭髪を半分剃る、というものだ。性犯罪に対して罪が軽すぎるように思うが、著者は「面子を重んじる武士にとって耐えがたいものだったかもしれない」という。やはり中世の武士の感覚は現代人には理解しがたいところがある。

 

庶民の暮らしのきびしさは、追加法二八六からもうかがえる。この法は親子兄弟の「人勾引」を問題視したものだが、「人勾引」とは誘拐して人買いに売る行為をさす。この時代、飢饉や貧困のため、弟や子供を人買いに売ってしまうのは日常茶飯事だった。「子供を売り払ってしまうのは親が生き残るためだけではなく、一家全滅を避け、子供が飢えから逃れるためでもあった」というから、中世社会は過酷だ。実は鎌倉幕府は、飢饉のときに限っては人身売買を認めていた。飢饉の際は朝廷は神仏に祈るだけだったが、幕府は人々の生存のため、身売りを容認せざるを得なかったのだ。もちろんこれは緊急措置であって、幕府は原則的には人身売買を禁止している。

 

治安の悪い話が続いたので、最後に救いのある話をひとつ紹介したい。地頭には百姓をこき使っているイメージがあるが、実は地頭が百姓を保護することもある。7章では、備後国の地頭が、「下向してきた代官たちが妻を帯同して百姓の家に住ませたり、百姓の妻を強姦するなどしている」として、荘園領主高野山に抗議する例を紹介している。この地頭は百姓の妻を犯したことが御成敗式目に反すると主張している。具体的には三十四条の他人妻密懐の規定だが、このように地頭が式目を利用して百姓を守ることもあった。地頭・御家人は百姓を搾取する存在でもあったが、領地経営をつうじて民を慈しむ「撫民」の精神も持ちはじめていた。その存在が地頭=御家人の在り方まで変えていくところにも、御成敗式目の面白さがある。

有料記事は自分が読みたい記事を書けばいい

はっきり言うと、有料記事はブロガー間格差拡大サービスだと思っている。記事を売ることで有名ブロガーはさらに豊かになるチャンスが広がる。人気者が知名度だけでなく富も手にする一方、知名度のない人にチャンスは少ない。誰でも記事を売れるようになったのはいいとして、無名な人が記事を売る意味なんてあるのか。ここで無意味だ、と結論づけるのはあまり面白くない。それでは格差拡大を追認しているだけだ。知名度がなくても記事を売る方法はないか、自分なりに考えてみた。

 

文章を売ろうとするなら、まず買う側の気持ちを理解しなくてはならない。だが読者の気持ちを推しはかるのは難しい。自分自身がいつも書き手の側から考えているからだ。でも、読者の気持ちがわからなくても、自分の気持ちならよくわかっている。つまり、自分が読みたくなる記事を書けばいいのだ。どんな文章なら買いたくなるか。まずは、「今悩んでいることを解決してくれる記事」だ。この時悩んでいたのは、「有料記事を書いて売れなかったら時間の無駄になり、後悔するのではないか」ということだった。

 

saavedra.hatenablog.com

というわけで、自分自身の悩みにこたえる記事を書いた。私はこれを書いた時点では記事を売った経験がないから、「無名な人でも記事を売る方法」は書けない。でも、「記事が売れなくても有料記事を書くメリットがある」という話ならできる。売れなければみじめな思いをするんじゃないか、という自分を励ますには、記事を売る以外のメリットを提示する必要があった。こういう話は有名な人にはできない。有名ブロガーは自分の記事を買ってくれる人がいるのが当然、という前提に立つ。せっかく書いたのに売れなかったらどうしよう、という悩みがわからないのだ。でも私ならそんな人と同じ目線に立つことができる。ここに、無名ブロガーが記事を書く意味が生じる。

 

saavedra.hatenablog.com

以前、無名な人には「無名控除」がある、という話をした。無名な人は無名ゆえに、ブログ方針を変えたり、デリケートな話題に言及しても怒られない、といった話だ。だが有料記事を書いてみて、無名であることにはもっと積極的な意味があると考えるようになった。有名ブロガーの高みからは見えない光景が、無名な人には見えるのだ。いつも大量にブックマークされている人に、記事を読んでもらえない悲しさが理解できるのか。できますよ、と言われたところで、それはそういうポーズを取っているだけでしょう、と私なら思う。有名人にも無名時代があったかもしれないが、現役で無名な人のほうが、より無名な人の気持ちを理解できるのではないだろうか。

 

そう考えて記事を書いてみた結果、記事は売れた。得られた結果はささやかなものだが、自分としては満足している。買ってくれた方にはこの場を借りてお礼を申し上げたい。ありがとうございます。有料記事を書いたのは無名な人の記事は本当に売れないのか、という実験の意味もあったが、とりあえず実験結果は得られたので、今のところは継続して有料記事を書く気はあまりない。また何かしらの悩みが生まれ、その悩みに自分で答えを提示できそうなら書くかもしれない。自分と同じ悩みを持っている人が三人くらいはいるだろう、と思うからだ。ここまで有料記事の話をしてきたが、無料記事にも同じことが言えるかもしれない。この世のどこかにいる「ご同類」にどうリーチするか、それを考え続けることで見えてくる風景があるのではないだろうか。

儲からなくたっていい!有料記事には「お金以外の3つのメリット」がある

まず最初にお詫び申し上げます。「儲からなくたっていい!」と書いてしまいましたが、有料記事を書く以上、私もお金がほしいと思っています。薄皮チョコパンが一袋4個入りになってしまい、通勤手当が課税されるとも噂される昨今、お金が欲しくないはずがありません。たとえ小銭程度であれ、有料記事で稼げるのならそれに越したことはないのです。

 

 

ただ、お金を得ることが有料記事を書く主目的ではない、と言いたかったのです。有名ブロガーならともかく、私のような無名の人間が有料記事を書いたところで、読む人の数はたかが知れています。このブログの場合、よくてkindleでセール中の『ギルドの受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスをソロ討伐しようと思います』が一冊買える程度のお金になるくらいでしょう。それでも私には十分ありがたいのですが、その程度の稼ぎのためにわざわざ長文を書くなんて割に合わないのでは?と思う方もいるかもしれません。

 

ですが、この記事を買う人が一人もいなかったとしても、私には有料記事を書くメリットがあるのです。こう書くと奇妙に思われるかもしれません。稼げる見込みがあるからこそ書くモチベーションが上がるのに、読者ゼロの有料記事を書いたところで何になるのか。せっかくがんばって記事を書いたのに、「何の成果も得られませんでした!」で終わったら虚しいだけなのでは……?

 

でも、実はそうではないのです。今この文章を書いている時点では、まだ一円の収益も発生していません。この先収益が得られる見込みも特にありません。にもかかわらず、私はこの文章を書くことをかなり楽しんでいます。少なく見積もっても、無料記事を書くより3倍は楽しく感じます。この楽しさが得られるだけでも、有料記事を書く甲斐がある、と実感しています。なぜ有料記事を書くだけで、通常の3倍も執筆のモチベーションが上がるのでしょうか。その理由のひとつ目は

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アフリカの国際ロマンス詐欺集団「ヤフーボーイ」たちの驚くべき実態を描く『ルポ 国際ロマンス詐欺』

 

 

「僕はあなたに100万回の笑顔を送っている、そのうちの1つは今日のために、もう1つは明日のために」こんな言葉を日本人から聞かされたら、どう思うだろうか。まず胡散臭い、という感情が先に立つのではないだろうか。だが同じ台詞を魅力的な外国人から聞かされると、真に受ける人も出てくる。外国人ならこんなストレートで情熱的な愛情表現をするかもしれない、と思えるからだ。まさにそんな心情に、詐欺師たちはつけ込んでくる。本書『ルポ 国際ロマンス詐欺』は、このようにSNSマッチングアプリを駆使して魅力的な外国人を装い、被害者の恋愛感情を利用して金銭をだまし取る「ヤフーボーイ」たちの実態に迫る一冊だ。

 

事例を見ていくと、国際ロマンス詐欺の手口はありふれたものだ。詐欺師たちは愛情に飢えている被害者の心情に寄りそい、感情を全肯定し、マメなアプローチを繰り返す。被害者たちの多くは恋愛・結婚するうえでは不利な条件を抱えているので、自分を包みこんでくれる詐欺師たちについのめり込んでしまう。マッチングサイトやLINEでしかやり取りをしたことがない相手であれ、自分を世界一大切に扱ってくれる稀少な相手を、被害者たちは深く信用してしまうのだ。

 

詐欺師たちに深い信頼を寄せてしまった被害者たちは、彼らの甘い言葉にいともたやすく引っかかる。この本の一章から三章にかけて紹介される被害者たちは、数十万円から数千万円のお金を詐欺師に渡してしまっている。プレゼントの搬送料を要求されたり、暗号資産で稼いだお金を引き出すための所得税を支払わなくてはいけない、などと言われるからだ。あなたのためにお金を渡したいからこれだけの額を支払ってください、と言われたらふつうは怪しいと思うが、そこをつい信じてしまうのには理由がある。被害者は寂しさや失望感を抱え、心に隙間がある人が多い。その隙間に巧みに入りこんでくる詐欺師の言い分に抵抗するのが難しいので、被害はふくらんでいく。

 

言葉巧みに金銭をだまし取る国際ロマンス詐欺師の正体はどんなものか。著者は苦労の末に、詐欺師たちの本拠地にたどりつく。詐欺師たちの住処はなんとナイジェリアだった。ナイジェリアでロマンス詐欺を働く者の多くは若者で、「ヤフーボーイ」と呼ばれている。かつてナイジェリアではヤフーメールを使う詐欺の手法が横行していたためだ。ナイジェリアでは若者の10人中8人くらいがサイバー犯罪にかかわっているという。これだけ多くの若者が詐欺に手を染めているためか、ヤフーボーイたちの罪悪感は薄い。彼らのやっていることは「デイティング」であり、被害者は「クライアント」なのだ。彼らは著者に笑顔を見せつつ、テンプレ化された口説き文句を被害者に送り続ける。

 

なぜ、ナイジェリアにはヤフーボーイが数多く存在するのか。著者は彼らへのインタビューを通じ、ナイジェリア特有の労働事情へ迫っている。ヤフーボーイたちはサイバー犯罪をする動機を「生活のため」と語るが、ナイジェリアでは若者の完全失業率は42.5%にもなる。大学を出ていてもコネがなければ就職口がなく、といって海外へ出るのも難しい。ナイジェリアのパスポートで渡航できる国が限られているからだ。とはいうものの、貧困は必ずしもヤフーボーイになる動機にならないという。筑波大学のイケンナ・ウェケ氏は、彼らが詐欺に手を染める一番の動機はグリード(強欲)だと指摘する。イケンナ氏は貧しくてもヤフーボーイにならなかったからだ。

 

騙す側が強欲であるとして、騙される側はどうなのか。騙される側の欲は詐欺師に搔き立てられたものだから、騙す側の欲と同列に考えることはできない。詐欺師は人の欲を膨らませるプロだ。ではヤフーボーイたちは何に欲を掻き立てられたのか。かつてナイジェリアにはハッシュパピーという「詐欺王」が存在した。彼は若者たちの憧れの的で、世界を股にかけた大規模な詐欺を繰り返していた。高級ブランド品を身につけ、フェラーリロールスロイスを所有していたこの人物は、ナイジェリアでは知らないものがいないほどのインフルエンサーだった。この「強欲」の象徴のような人物に影響されれば、サイバー犯罪にも手を染めてしまう。こうした若者をこれ以上増やさないため、イケンナ氏は誠実さや無私無欲の大切さを訴える財団「INFO CLUB Nigelia」を立ち上げた。この財団はナイジェリア14州に拠点を持ち、スタッフは各州の高校や大学でイベントを開催している。

【書評】『土偶を読む』検証を通じて縄文沼に誘ってくれる良書『土偶を読むを読む』

 

 

土偶を読む』で示された「土偶は植物の姿をかたどったもの」との読み解きは明快で斬新だった。だが斬新な説だから正しいとはかぎらない。ベストセラーになりサントリー学芸賞を受賞した『土偶を読む』の新説が本当に正しいのか、縄文時代の専門家が大真面目に検証したのが本書だ。とはいっても、本書の内容はただの『土偶を読む』批判にとどまらない。土偶研究史や縄文研究の「今」についての考古学者へのインタビュー、植物と土偶をめぐる対談など、土偶をめぐる様々なトピックをとりあげているので、良質な土偶縄文文化入門書としても読むことができる。特別な前提知識は必要ないので、縄文時代に少しでも興味があるなら楽しく読めるのではないかと思う。

 

土偶を読む』はイコノロジー(見た目の類似)を用いて「土偶の正体を解明した」としている。そこで、本書では土偶が本当に植物に似ているか検証するため、編年と類例を用いる。編年は土偶の新旧関係や年代の配列、類例は同時期の同じタイプの土偶のことだ。この双方の面から見て妥当なら、土偶のモチーフは植物となる。そして検証結果はといえば、◎(妥当)となったものは、残念ながら一つもない。『土偶を読む』全般に編年と類例という視点が欠けているからだ。土偶はいきなりその形になるわけではなく、徐々に形が変わっている。有名な遮光器土偶も、長い時間をかけて小さな目から巨大な目へと変化している。『土偶を読む』では遮光器土偶の目は「サトイモの親芋から子芋を取り出した跡」と考察されているが、それなら目が小さい土偶はなんなのか、ということになる。しかも縄文時代は北東北でサトイモは育たなかったとの指摘もあり、この点からも遮光器土偶サトイモの精霊説は成り立たない。『土偶を読む』は土偶の正体を解明したとはいえないようだ。

 

土偶が植物ではないなら、土偶とはなんなのか。ここに興味を持つ人のために、本書は『「土偶とは何か」の研究史』の章を設けている。考古学者にして大道芸人の白鳥兄弟氏が担当するこの章はかなり充実していて、明治時代から2020年までの土偶研究の流れをこの章で一通り知ることができる。お守り説や神像説・女神説・半神半人像説・祖先像説・呪物説など、土偶に関しては数多くの説が登場していることがわかる。この章は変わり種の説も紹介していて、土偶宇宙人説への言及もある。この説の初出は1962年に宇宙友好協会の会報の記事に掲載されたものだそうで、意外と古い。こういう学問的には評価できない説まで網羅しているので、この章はなかなか楽しく読めた。これだけ多くの学説を並べられると、「土偶とは〇〇だ」と簡単に決められないのではと思えてくる。白鳥兄弟氏も「すべての土偶が同じ性格を持っていたとはかぎらない」といっている。それぞれの土偶に固有の役割があったかもしれないわけで、この点でもやはり「土偶は植物の姿をかたどったもの」とは断定できない。

 

本書ですでに検証されたとおり、『土偶を読む』の内容は学問としては評価できない。しかしこの本は刊行後すぐ多くのメディアでとりあげられ、サントリー学芸賞も受賞した。こうした高評価の背景には「専門知への疑念」があったと、最終章の『知の「鑑定人」』では指摘される。『土偶を読む』著者の竹倉史人氏は「土偶は一部の人だけで扱うのではなく、もっと開かれた議論が展開されることが望ましい」と主張している。これは竹倉氏の説が考古学者にほとんど相手にされなかった過去があるからだ。竹倉氏は考古学者に冷遇されたことを『土偶を読む』の「はじめに」と「おわりに」で繰り返し述べているが、こう書かれると読者は「考古学界とはアマチュアの自由な発想を認めない、頭の固い学者の集まりなんだな」という印象を持つかもしれない。事実Amazonではこの本を「バカ学者の視点を覆した痛快な内容」と評するレビュアーもいる。専門外の人間が、柔軟な発想で土偶の正体を解きあかしていく様は確かに痛快だろう。しかしその読み解きが正しいかは、専門知により検証される必要があるはずだ。竹倉氏は「本書にジャッジを下すのは専門家ではない」と主張し、『土偶を読む』の「鑑定人」から考古学者を除外した。だが最終章では『土偶を読む』を評価した人々のなかに、考古学者という「専門知の鑑定人」が不在だったことを問題視している。そして、ポスト真実時代に入り、消費者の好みや感情が優先されがちな現代だからこそ、良質な「知の鑑定人」としての専門家が必要になるとも説かれる。知は専門家だけが独占していいものではないが、専門家抜きに知を評価するのは危うい。だからこそ、『土偶を読む』を専門家が検証する『土偶を読むを読む』が書かれた。本書の帯に書かれているとおり、この本を読めば縄文研究の現在位置がわかり、縄文時代の解像度がかなり上がる。専門知が積み上げられた成果だ。縄文研究を通じて専門知の必要性を再認識するうえでも、本書は有益な一冊といえる。

世界史の鼓動が聴こえてくる漫画『天幕のジャードゥーガル』2巻までの感想

 

 

 

これはある意味、世界史そのものを描いた作品だ。かつてモンゴル史家の岡田英弘は「世界史はモンゴル帝国からはじまった」と主張したが、そのモンゴル帝国が東西に領土を広げていく時期を舞台に展開する『天幕のジャードゥーガル』は、まさにモンゴル史が世界史と重なっていく時代のストーリーとなっている。主人公のシタラ、のちのファーティマ・ハトゥンはモンゴルの後宮に仕えることになるので、この作品も一種の「後宮もの」ではある。だがモンゴル帝国が東西のさまざまな文化を含みこむ大帝国であり、シタラ自身もイランでイスラームの高い文化を身につけた元奴隷なので、シタラがモンゴルに身を置くこと自体が高度な文化交流の意味合いを持ってくる。加えて、女性の権力が比較的強いモンゴル帝国でオゴデイの皇后ドレゲネと接点を持つシタラは、モンゴル帝国の命運そのものにも関わってくることになる。そんなシタラの一生を描く『天幕のジャードゥーガル』は、モンゴルの後宮という舞台を大きく超え、ユーラシア全体を視野に入れた物語になっていく。

 

この漫画の一巻では、三分の一くらいが奴隷少女シタラがイランの都市トゥースの学者夫婦のもとにひきとられ、イスラームの高い教養を身につけていく過程に費やされている。このあたりの描写はかなり丁寧で、シタラがエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』やビールーニーの『占星術教程の書』について教えを受けるシーンも含まれている。「すべてのイスラム教徒は知を求める義務がある」ため、これらの書籍で解説されている高度な数学を、奴隷のシタラも教えてもらえている。学者夫婦の息子でやはり学問好きなムハンマドとシタラの交流も描かれ、順調に進めばいずれは学問好きな二人が結ばれる日もくるのだろうか、という淡い期待も抱かせるが、そうは問屋が卸さない。モンゴルがトゥースに攻め寄せてくるからだ。

 

モンゴル兵に捕らえられ、天幕群へと連れ去られたシタラは、ファーティマへと名を変えることになる。ここでファーティマは新たな文明に出会う。チンギス・カンの元へ向かう途中の長春真人だ。「不老不死の賢者」といわれる長春真人は道教を修めた人物で中華文明の象徴だが、この人物の前でファーティマは天文学の知識を披露する。これはイスラーム文明と中華文明の対面だ。ユーラシア大陸の大部分を征服し、あらゆる文明を呑みこんでいくモンゴルにおいて、世界中の文化は入り混じり、攪拌される。モンゴル人は世界を支配すべく運命づけられたと信じていて、事実モンゴルのもとで新たな世界秩序が生まれつつあった。しかしファーティマはモンゴルの驕りを赦すことはできない。ファーティマの主人となるチンギス・カンの第四皇子トルイの妃ソルコクタニは、世界中の知識をモンゴルが手に入れることを当然と考えている。その知識の象徴が、かつてファーティマが読んだことのある『原論』だ。この書物を手元に置いているソルコクタニは、世界のすべてを吞み込むモンゴルの姿そのものだ。このモンゴルの中において、ファーティマは自分だけは「異物」であり続けると決意する。

 

『天幕のジャードゥーガル』2巻でのキーパーソンは、ファーティマ同様、モンゴルの中の「異物」であるドレゲネだ。ドレゲネはモンゴルの第二代カアン・オゴタイの第六妃だが、いつも不機嫌そうな顔をしていて、オゴタイにすら「私はあなたの敵です」と吐き捨てるほど強烈なモンゴルへの敵意を抱えている。ドレゲネはあるきっかけでファーティマと出会うことになるが、彼女がファーティマに語る過去は読者に強い印象を残す。ドレゲネはもともとナイマン族の生まれでメルキトに嫁いだ人物だが、ナイマンは西域の都市から文化が流れ込む文明的な一族で、メルキトは族長がシャーマンを務める独自の信仰を持つ部族だった。それぞれ独自の世界を持つこれらの部族も、結局モンゴルに征服されてしまう。ドレゲネもファーティマ同様、モンゴルに世界そのものを奪われた人物だったのだ。モンゴルに征服された地域の人物でも、モンゴルに溶け込んで平穏な生活をしている者はたくさんいる。ファーティマの知己でサマルカンド出身のシラもそのひとりだ。だがモンゴルでの出世をめざす彼とは違い、ファーティマもドレゲネもモンゴルへの敵意を保ち続けている。カアンの妃でモンゴルの総会議(クリルタイ)に参加できるドレゲネと、豊かな知恵を持つファーティマが組めば、モンゴルを内側から食い破れるかもしれない。やがて来る嵐を予感させつつ、二巻ではさらに物語の舞台が広がった感がある。この段階ではまだ大きくストーリーが動いているわけではないが、モンゴルを舞台にした特大スケールの話が読めるだけでも世界史好きな人にとっては大満足の作品だと思える。漫画が面白かった人はモンゴル研究者のコラム「もっと!天幕のジャードゥーガル」を読めばさらに楽しめる。

 

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