明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

「豆腐メンタル」でも文章を書き続けるには、どうすればいいのか?

ウェブで文章を書くなら批判は避けられない

ウェブで小説などを書いていると、時にはあまり聞きたくない言葉を浴びせられることがあります。オチの意味が分からないだとか、こんなものを書くなんて痛々しいにも程があるだとか、挙げ句の果てにはこういう小説は書くべきではないだとか、こちらを叩いてくる人達の言葉は実にバリエーション豊か。

 

いや、書くべきではないって何?なんでそれをアンタが決めるの?表現の自由って何だ、こっちが書きたいことを書いて何が悪いんだ、とは思いつつも、こういうことを言われるたびにやはりメンタルは削られていくものです。私みたいに大して有名でもない作者ですらこんなことを言われるのなら、もっと有名な作者は一体どれくらいの批判を浴びているのか……?これから紹介するエッセイは、カクヨム初期にファンタジーランキング1位になった作品を書いていた佐都一さんのエッセイです。

kakuyomu.jp

このエッセイ、本人の実体験を踏まえて書かれているだけあって、実に示唆に富んでいるのです。カクヨムがオープンして間もないころには様々な混乱があり、コンテストの最中には上位ランカーはさまざまな心ない言葉を浴びせられました。このエッセイは、佐都さんがそのような状況下にあって「どうすれば豆腐メンタルでも創作を続けられるか」について実践してきた内容を綴ったものです。

 

これはまさに現場からの声です。今心が傷つき弱っている人に、無責任な叱咤激励の声を飛ばす人は多いものですが、そんな外野からのアドバイスなんて大して役には立ちません。砲弾の飛んでこない安全圏からなら、どんな勇敢なことだって言えるのです。このエッセイはおもに小説を書く上での心構えについて記したものですが、ブログにも通じる部分が大きいと思うのでここで紹介する次第です。

 

悪意は立ち向かうのではなく「かわす」方がいい

「そんな弱いメンタルのままじゃプロになれないよ」とウェブ作家に向かって言う人がいます。そもそも皆がプロになりたいわけではないのですが、性格というのは生まれつきの部分も多いし、そうそう簡単に変えられるものではありません。

そこで、より実践的な方法として、このエッセイでは悪意と戦うのではなく、悪意をかわす方法を推奨しています。例えば、おかしな上から目線のアドバイスネガコメが来たら削除を推奨。悪意をぶつけたい人にまで向き合う必要はないし、逃げればいい。ツイッターで変な人に絡まれたら即ブロック。これでOK。

 

ここで、「いや、せっかく読んでくれたんだから批判的意見にも向き合わなければ」と真面目な人ほど考えがちなのですが、これこそが心が折れる原因になるのです。こちらに余裕があって、様々な意見に耳を傾けられるのならそれもいいでしょう。でも、それができるのはもともと強い人だったり、たくさん褒められていて「感情貯金」に余裕のある人だったりするのです。豆腐メンタルの人が強い人と同じ戦略を採用してはいけません。弱者には弱者なりの身の施し方というものがあるのです。

 

どうしても避けられない「嫉妬」の感情とどう向き合うか

このエッセイでは、ウェブ作家生活を続ける上でどうしても避けられない「嫉妬」の感情との向き合い方についても触れられています。全体からすればほんの一握りではありますが、ウェブの世界では参入してすぐにランキング上位に駆け上り、書籍化の栄光を勝ち取る人がいます。そこまで行かなくても、「○○PV達成しました」「○○ポイントに到達しました」など、日々成果報告がツイッターで流れてきます。

これは、そうした成果を得られていない人からすると、かなり心をえぐられるものです。ブログのPV報告や収入報告にも似たような面はあるでしょう。他人の成功報告は、時にそれができていない自分の無能さの証明であるように感じられることがあるのです。これが辛い。

 

嫉妬の感情なんて、持たなければそれに越したことはありません。しかしそう思い通りにならないのが人の心というものです。では、どうすればいいのか?詳しくは本文を読んで欲しいのですが、ここでも大事なのは「目をそらす」ことです。嫉妬心は存在しているのだから、これを無理やり叩き潰してもどうにもならない。それよりも、まず受け入れること。自分の心が折れないようにすることが何よりも大事です。

 

謙虚になって心が折れるくらいなら、傲慢になったほうがいい

これはあくまで私の場合は、ということですが、批判を受けてあまり謙虚になるのは考えものだと思っています。というのは、自己評価が低いときというのは、酷評ですら「誰も読んでくれない自分の作品をちゃんと読んでくれたんだ、感謝しなければ」と思ってしまい、ネガティブな言葉を全身で受け止めて疲弊してしまうからです。

 

ですが、これは危険な徴候です。酷評した人が見る目があるとは限らないし、仮にその人の言うことが正しいのだとしても、酷評を真に受けすぎて自分の能力まで疑うようになると、書き続けることができなくなってしまうからです。

書き続けることを邪魔するような言葉は、どんな正論でも毒です。どんな物事でも、結局続けなければ物にならないのだから、こちらの心を折ってくるような言葉は聞かないほうがいい。

 

冒頭で「貴方の話はオチの意味がわからない」と言われたと書きましたが、これは私が創作をはじめて間もないころです。その人は、良い点はほんの少しだけ、悪い点についてはずいぶん念の入った詳細な感想を送ってきました。私は何も言い返しませんでしたが、心のなかではこう思っていました。

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ちゃんとオチつけてるのにオチがないように思えるなんて、頭悪いね。自分の読解力のなさを長々と感想欄でアピールするなんて、生きてて恥ずかしくないの?こう考えたほうが私はテンションが上がりますし、どう見てもこちらの心を折りにかかっている意見にまともに向き合うだけ時間の無駄だと思っています。別にその人のために書いてるんじゃないんだから。

 

作品を読んだ人がその作品にどのような感想を言っても、それは表現の自由というものでしょう。しかし作者の側も、ネガティブな感想を受け取らない自由があるのです。メンタルを健全に保つためにも、受け取る言葉は選んでいい。エッセイ中にも書いてありますが、酷評を真に受けてこちらが書けなくなっても、向こうは責任なんて取ってくれないんだから。

 

 心が折れやすい人にこそ書いて欲しい

 実際問題、人目に触れるところで何か書いてたらいろいろと言われてしまう、それ自体はどうしようもないことです。ですが、それで心が折れるような人はブログなんて書かない方がいい、とは思いません。それだと結局炎上上等のプロブロガーみたいな人ばっかり生き残ることになるんじゃないの?とも思うからです。

 

どの世界でもタフな人が生き残りやすいのは事実で、自然とそういう人の声が大きくなりがちです。だからこそ、時にはそうでない人の声も聞きたくなるのです。運良く勝ち上がった人の生存者バイアスまみれの自己啓発書なんて世の中にはいくらでもあふれかえっているのだから、その逆のメッセージにだっていくらかの価値はあるはず。マイノリティの発言はそれだけに貴重なのだから、上手く自分を守りつつ書き続ける方向性を模索するのも悪くないでしょう。今回紹介したエッセイは、そのような人にとって大いに役立つものだと思います。

ローグライク的価値観を持つと、人は何度でも挑戦できる

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最近、片道勇者でずっと遊んでいる。こういうローグライクというのは面白い。明確なストーリーはないが、アイテムや町、モンスターの配置などはランダムで決まるので何度プレイしても違う展開が楽しめるし、ジョブの種類も多いので攻略法も職ごとに変わってくる。1本で長く楽しめる作品だ。

 

ローグライクというのは簡単に言うと、トルネコシレンのようなゲームのことだ。マップがランダムに生成され、アイテムの配置もプレイのたびごとに異なる。主人公が死ぬとまたレベル1からのスタートになるので、プレイヤーは何度でも緊張感をもってゲームに臨めることになる。 

 

 

この種のゲームの特色は、プレイが運に大きく左右されることだ。

空腹なのに食料が手に入らないと死ぬし、ろくなアイテムがない状態でモンスターハウスに突っ込むと詰むし、あと1回攻撃すれば倒せるはずだったモンスターにたまたま攻撃が空振りすればそこでジ・エンドだ。

逆に、たまたま強い攻撃アイテムを持っていてモンスターハウスの敵を一掃できればレベルはたくさん上がるし、大量のアイテムをゲットできるし、いいことずくめだ。そういう理不尽さも、ローグライクの魅力のひとつだ。毎回のプレイそのものがストーリーになるから、ストーリーが必要ない。

 

ローグライクの世界における成功には、運が大きく関わっている。プレイヤーが何度も何度もこの手のゲームを遊んでしまうのは、次は幸運にもうまくいくかもしれない、という期待が持てるからだ。努力は必要だが、すべてが自己責任ではない。失敗するたびに「ここで死んだのは俺が下手だからだ」と自分を責めていたら、トルネコは「1000回遊べるRPG」にはならない。

 

 

「英雄たちの選択」によく出演している飯田泰之さんが、「人生の8割くらいは運」とどこかでいっていた記憶があるが、渾身の作品が受けるかどうかだって、ある程度は運で決まってしまうところがある。だから、1作にすべてを賭けてはいけない。結果がすべて実力の反映だと思っていたら、結果が伴わないともう次に挑戦する意欲がなくなってしまう。

 

逆に、当たるかどうかは運次第だくらいに気楽に構えていると試行回数を増やせるし、試行回数が増えればいつかは当たることもある。繰り返しているうちに実力もアップする。しょせん確率論の問題なら、当たるまでガチャを回し続ければいい。

 

先日、知恵泉に出演した為末学さんが「スポーツ選手って頑張れば夢が叶う的なことを言いがちですけど、それって逆に言えばうまくいってない人は頑張ってないってことになるんですよね」と話していた。頑張れば必ずゴールにたどり着く。これは1本道RPGの価値観だ。でも、現実はローグライクの方に近くて、大きく運に左右される。親が毒親だったりしたら、生まれたときからモンスターハウスに突っ込まれているようなものだ。天災のような理不尽なイベントもしばしば起きる。個人的に、「努力すれば夢は叶う」的な公正世界信念のようなものは、東日本大震災でかなり壊されたのではないかと思っている。

 

はっきり言って、頑張ってもダメなときはダメだし、頑張らなくてもうまくいくときはうまくいくのだ。そういうものだと知っていれば失敗しても過剰に自分を責めることもないし、次回のプレイではいい目が出るかもしれないと期待を持つこともできる。深刻になりがちな人ほど、ローグライク的価値観を取り込む必要があるのかもしれない。

「ガチ恋おじさんの黄昏」を読み、「優しさ格差」について考えた。

noteの有料記事ですが、先日こういう文章を読みました。

note.mu

「ガチ恋」という言葉は最近知ったんですが、これは「アイドルに対して真剣な恋愛感情を抱き、それをモチベーションにしてアイドルのイベントに参加する行為、またはその人」と記事中では定義されています。スターとしてのアイドルではなく、一人の異性としてアイドルを求める、この記事はそういう「ガチ恋勢」の人へのインタビューをまとめたものです。

 

これがなかなかに辛い内容なんです。私は子供の頃からアイドル、と言うか芸能界そのものにあまり興味がなくて、「推し」のためにCDを何十枚も購入するような人のことはよく理解できなかったのですが、この記事を読んだあとではそういう人にもそれなりに切実な事情があるのだ、と考えるようになりました。

 

現実世界のヒエラルキーが、そのままアイドルファンの格差になる

この記事を読んでいて驚いたのは、アイドルファンの世界にも、男社会のヒエラルキーそのままの格差が存在するらしい、ということです。

この記事における「ガチ恋おじさん」(以下Aさんとします)によると、アイドルファンの世界では、ちゃんとした仕事についていて家庭を持っている、いわば現実社会における勝ち組のような人が発言力が自然と強くなるそうです。

 

アイドルファンの世界では、「ガチ恋」はあまり良く思われないそうです。いえ、一般世間からもあまり良くは思われていないでしょう。恋心が報われることはまずないのだし、あくまで自分はアイドルのパフォーマンスを応援するためにファンをやっているのだ、というのが大人の態度ではあるのでしょう。

その立場からすれば、アイドルが結婚を発表したとしても、少なくとも表向きはこれを祝福するべきだ、ということになります。実際、Aさんの入れ込んでいるアイドルが結婚を発表したときも、Aさんはファンならそれは祝福するべきだ、と言われたそうです。ファンなら推しの幸せを我が事のように喜ぶべきだろう、というのはひとつの正論ではあります。

 

ですが、こういう正論をAさんに言ってくるのがどういう人なのかというと、良い仕事についている人や家庭持ち、恋人のいる人、といった人達なのです。そういったものに恵まれていないAさんからすると、これがとても理不尽なことのように感じられるのです。貴方達がそういう正論を言えるのは、恵まれた立場にいるからでしょう?と。

 

私も創作をする立場の人間ですが、ウェブの小説書きの人の中では「多くのポイントを稼ぐことが大事なんじゃない。少数でも熱心に読んでくれる人がいることのほうが大事」と主張する人を見かけたりします。でも、よく見てみると、そういうことを言っているのは結構多くのファンを抱えていたり、界隈では実力者として有名な人だったりするのです。

「ファンなんて少数でいい」という台詞が吐けるのは、たくさんの評価をもらっているという余裕が背景にあるからではないの?そもそも「少数の熱心なファン」だって、ある程度有名にならないとつかなかったりしませんか?と私なんかは言いたくなったりするのですが、人間、自分の持っているものには無自覚になりがちなもののようです。

「感情貯金」に余裕のある人とない人の格差

 推しのアイドルが結婚しても祝福できる、我がことのように喜べる。なるほど、これは大人として望ましい態度です。ですが、そういう態度を取れる人というのは結局、アイドル以外に心の拠り所を持っているのです。

Aさんにガチ恋なんておかしい、と正論をぶつけてくる人は、家族や恋人、良い仕事など、実生活において心の支えになるものを持っている人ばかりでした。精神的に余裕のある人が、他者の幸せを祝福できるのは当然のことです。しかし、Aさんにはそんな余裕はありません。縋れるものがアイドルしかないのに、なぜ「ガチ恋」をしてはいけないのか?彼に向かってちゃんとした恋人を見つけろなんて言うのは、「パンがなければケーキを」と言っているのと何が違うのか?これは、非常に重い問いであると感じました。

togetter.com

私はこの話を読んでいて、「感情貯金」という概念を思い出しました。このまとめによると、人から優しさなどの好意的感情を多く受け取ってきた人はそれだけ「感情貯金」に余裕ができるので他者にも優しくできるようになり、逆に他者から冷たくされてきた人は貯金が減って精神に余裕がなくなる、ということです。

 

家庭や仕事に恵まれているアイドルファンが「ガチ恋」している人を正論で非難するのは、私には感情貯金をたくさん持っている人が貯金の少ない人を責めている、という話のように思えました。実生活で十分な優しさや承認を受け取っている人は、アイドルに恋愛感情など抱く必要はありません。そんなことをしなくても十分に満たされているからです。

一方、優しさの不足している人からすると、あくまで仕事上のこととはいえ、自分に優しさを向けてくれるアイドルの存在は貴重なものです。そこに恋愛感情が生まれてもおかしくはありません。他に心の隙間を埋めるものが何もないのに、アイドルを異性として好きになるのがなぜいけないのか?と言われたら、私にも返す言葉なんてないのです。

 

 「感情の支払い」は心に余裕のある人にしかできない

ここであえて世間的な立場に立つなら、こう反論することもできます。つまり、「いま家庭に恵まれている人だって努力してその地位を獲得したんだから、優しさが足りないというのなら優しさを得られるような人間になるべく努力するべきだ」と。

欲しいのならまず与えよ。優しさはその対価として得られるものなのだ。これは間違いのない正論です。そもそもアイドルもその容姿やパフォーマンスで多くを他者に与えているからこそ、代わりにファンの賞賛を得られるのですから。

 

ですが、「感情貯金」が少ない人が、その少ない貯金の中から優しさを他者に向けるのは難しいものです。アイドルに縋らなければいけないほど心に余裕のない人に、果たしてそんなことが可能なのか。「感情労働」という言葉があるように、人に気を使うだけでも精神は摩耗するものです。であれば、まずどうすれば「感情貯金」を貯めることができるのか?という話になると思いますが、これもなかなか簡単ではありません。

 

saavedra.hatenablog.com

これは以前書いたエントリですが、『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』作者の永田カビさんは、どうしても満たされない心の隙間を埋める方法として、まずは「レズ風俗に行く」という方法を選びました。あくまで商行為としてではあれ、生身の人間と触れ合うことで満たされるものが、確かにあるのです。風俗とは違いますが、アイドルの握手会にだって似たような面はあるでしょう。

でもこれでは不十分ですし、心を満たすのにお金が必要になってしまいます。結局、永田さんの心が本当に満たされたのは、このレポ漫画が評判になり、世間に認められたことでした。彼女はこの経験を「甘い蜜が大量に口に注ぎ込まれた」と象徴的に表現しています。長い間ずっとマイナスだった感情の収支が、ようやくプラスになったのです。

 

おそらく、この「感情貯金」を増やすための一般的な解というのは存在しないでしょう。永田さんの体験談はかなり特殊ですし、だからこそ漫画として売る価値もあるのですが、こういう形で世間に受けいられる例は稀です。永田さんには漫画という武器がありましたが、多くの人はそういうものを持っていません。持たざるものが人の優しさを受け取れる側になるには、どうすればいいのか?答えは宙に舞っているのです。

 

「優しさ格差」の差は埋めがたい

 「既婚男性はモテる」なんて話を時折聞くことがあります。女性に結婚しても良いと思わせた「品質保証」があり、結婚しているからもう相手を探す必要が無いという余裕がそうさせるのでしょう。これを逆から見ると、今孤独な人は孤独であるがゆえに余裕がなく、他者に好感を与えづらいために孤独から抜け出しにくい、という構図も見えてきます。

 優しさを得やすい人と得にくい人の間には、こうした残酷なまでの非対称性があります。これが経済格差なら、財源さえあればお金のない人にお金を与えることは可能です。でも、優しさを得られていない人に、優しさを分配することは果たして可能なのか?

この記事の中でAさんは、「もっとやさしくして欲しい」と語っていました。優しさに飢えているからこそアイドルを好きになってしまうのだから、これが偽らざる本音でしょう。彼から見れば、優しさに十分恵まれている(ように見える)既婚者や恋人持ちの人がガチ恋を批判するのは、ただの強者の論理でしかないのかもしれません。

 

うろ覚えですが、以前ONE PIECEのどこかで人形たちが友達のいない人の友達に、恋人のいない人の恋人になってあげたという話を読んだことがあります。一時はつまらなくなったとかいろいろ言われていたONE PIECEではありますが(最近また盛り返してますが)、こういう話が書けるだけでも尾田栄一郎という人は凄いと思います。

ですが、こんな「やさしい世界」はリアルには存在しません。友だちがいない人は友達が、恋人がいない人は恋人が余計に得にくくなってしまうのが現実です。

 

優しさが平等に配分されないこと、それ自体はどうしようもないことかもしれません。ただ、だからこそ、今アイドルのような存在に夢中になっている人に「もっとまともな生き方しろよ」などと言えるのは自分がそうせずにいられるほど恵まれた立場にいるからではないのか、と省みることも、時に必要なのではないかと思います。

「平凡」な高校生活を描く非凡な青春小説の傑作『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』

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6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。 (角川スニーカー文庫)

6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。 (角川スニーカー文庫)

 

 

ラノベで高校生活を描いたもの作品といえば、なにか変な部活動を立ち上げたり、異能の持ち主が派手なバトルを繰り広げたり、といったものを想像しがちですが、本作『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』は、本当に「普通」の高校生活を描く青春小説です。

4人の登場人物はそれなりに目立つ個性の持ち主ではありますが、特別な能力の持ち主がいるわけでもなく、物語中で現実ではありえないような事件が起きることもありません。進学校らしく全員が勉強漬けで、授業をサボったりすることすらも特別な体験になる、そんなリアルさが作品中に横溢しています。異能も魔法も超能力も、ここには出てきません。

 

作者の大澤めぐみはカクヨムで話題となった『おにぎりスタッバー』でデビューした作家ですが、この作家の特徴は一人称にあります。『おにぎりスタッバー』では「石版」とも言われたほどの過剰なまでに饒舌な自分語りとめまぐるしい場面展開で読者を翻弄した作者ですが、今回はガラリと作風を変えて一見とても地味な、しかし確かな構成力と丁寧な心理描写で物語を牽引する、どちらかと言うと一般文芸に近い作品に仕上げてきました。

 

今回の作品でも、著者の一人称語りの強みは存分に生かされています。

本作では4人の男女がそれぞれの章で主人公を務め、視点が次々と交代していくのですが、ある章では見えなかった事実が別に人物の視点から明らかになり、なぜお互いがすれ違っているのかがわかってきたり、登場人物の新しい一面が見えてくる、という構成になっています。主題も作風も全く異なりますが、ある意味『藪の中』を読み進めるような愉しみも味わえるのです。

そしてまた、この4人の視点から語られる高校生活の描写というものがとてもリアルなのですね。それほど大きな事件が起きるわけでもなく、それぞれが感情を露わにして怒鳴り合ったり持論をぶつけ合ったりするような、青春ものにありがちなあざとい演出もない。しかしだからこそ、本作で描かれる「青春」は、確かな質量を持ってそこに存在しているように思えてくるのです。作り物なのに作り物ではない、登場人物の息遣いが感じられる。松本市を舞台として本当にこのような青春群像が繰り広げられていたかのような錯覚にとらわれるのです。

 

タイトルからわかる通り、本書は「別れ」を描く物語です。本書の登場人物たちは割と理知的で、他の多くの青春もののようにそれほど感情を爆発させることがありません。ラストシーンに至るまで、それはあまり変わらないのです。しかしこの抑制の効いた筆致が、かえって作品の香気を高めているように思います。記号的な「青春」の枠内に収まりきるような高校生など、現実にはそうそういるものではありません。涙腺を緩くするような舞台装置には一切頼らないストイックなこの作風が、しかし読後にはじんわりと沁み渡るような感動を、読者の心に届けてくれるのです。

 

『おにぎりスタッバー』の読者には大澤めぐみが新境地を切り開いた作品として、初めて作者を知る読者には青春文学の傑作として、強くおすすめしたい一冊です。

1989年、一地方高校生が見た「オタクバッシング」の光景について語ってみる。

学級日誌に書き込まれた「オタク叩き」

「オタクは危険人物だ。このクラスにも一人、オタクと呼ぶべき人間がいる」

これが、あの宮崎勤事件が起きて間もないころ、私のクラスの学級日誌にある男子の書いた言葉です。

ここでオタクだと言われていたのは私のことではありません。

いえ、名指しされてはいないのでその可能性もなくはありませんが、その男子がいつもあいつはどこかおかしい、とバカにしていたのは別の男子だったので、彼のことを言っていた可能性のほうが高かったと思います。

つまり、この事件はその程度には私にとって「他人事」だったのですが、その立場から見て語れることもあると思うので、当時の一高校生からみえた風景について、ここに書き記しておこうと思います。

 

news.yahoo.co.jp

ゲーマーはいじめられることはなかった

これは私の高校の話なので、一般論にはできないとは思います。

ただ少なくとも、私の通っていた高校では、ゲームが趣味の生徒がいじめられたり、バカにされるということはありませんでした。

オタクの趣味といえばアニメ漫画ゲームですが、この当時は多くの生徒がゲームを趣味にしていたこともあって、あまりオタク趣味の範疇とは(私のまわりでは)思われていませんでした。

 

ですが、ゲーム趣味が叩かれた地方も存在した可能性もあります。

そのことが推測できるのは、1989年に発売された「サーク」というアクションRPGの攻略本の内容にあります。

この攻略本には、コラムの内容として「僕たちは、たとえゲームの中のキャラクターであっても、無念の死を迎えれば痛みを感じる。架空の世界の人物であっても、現実の人間と同じようにその死を悼むことができるのだ。その感覚を、どうかこれからも大切にして欲しい」といったことが書かれていた記憶があります。

ゲームの攻略本に、こうしたライターの個人的主張が書かれるのはかなり珍しいことです。

これは、宮崎勤事件のあおりを食らって白眼視されたゲーマーへのある種の激励だった可能性もあります。

このことについては、以前記事を書きました。

saavedra.hatenablog.com

 

オタクだからバカにされていた人は確かに存在する

今でも時々、「あの当時いじめられていたのは、もともとイジメられるようなタイプの奴だけ。オタクではなく性格が暗かったのが原因」だなどという言説を耳にします。

ですが、私の経験上、これは間違いであると思います。

冒頭に書いた日誌で陰口を叩かれていた彼は陸上部に所属していて、抜群に足が早く、性格も明るく友達も多いタイプでした。キャラクターだけ見れば、バカにされるような要素などどこにもなかったのです。

私のクラスでは、オタク呼ばわりされて陰口を叩かれていた男子はもう一人いて、彼は演劇部でしたがやはり性格は明るく、むしろクラスでは人気者のタイプでした。

しかし、陸上部の彼は少女漫画、演劇部の彼はアイドルという趣味を持っていたというただそれだけのことで、こうして陰口を叩かれるような立場になってしまったのです。

この事実からも、「オタクがバカにされているんじゃない、お前がバカにされていたのだ」ははっきり間違いだといえます。

 

彼等はいずれも、深刻ないじめを受けたというわけではありません。

ですが、宮崎勤以前ならこんな陰口を叩かれることはあり得なかったであろう人達までこういうことを言われてしまうのだから、彼等がもともといじめられやすい性格だったならどんな目に遭っていたのだろうか?と今でも思ったりします。

 

オタクバッシングは「ネクラ人間」イジメの延長

 私は自分がそういう陰口を言われる立場ではなく、たとえ言われていたとしても気づくこともなかったので、この事件についてはある意味「他人事」ととらえているところはありました。

ですが、まったく自分には無関係のことだと思っていたわけでもありません。

というのは、当時の私はこのオタクバッシングを「ネクラ人間いじめ」の延長線上にあるものと考えていたからです。

 

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 80年台の日本には、ネクラ/ネアカという性格の二分法があって、ネクラ側に分類されるような人はなんとなく馬鹿にされがちな風潮がありました。

タモリの作り出したこの言葉は、本当はネクラをバカにするための言葉ではなかったようですが、自分を「ネクラ」側の人間だと思っていた私は、オタクバッシングはこのネクラ蔑視のようなものと地続きであるように感じていて、いつこっちに矛先が向かってきてもおかしくないな、とも思っていました。

 

この当時、タイトルは忘れましたがコミケの実態について書かれたムック本を読んだことがあります。

強烈なオタクバッシングが書かれていたわけではなく、中には面白い同人誌もあると一定の評価はされていましたが、全体としてはオタクの閉鎖性みたいなものに対して批判的なトーンで書かれていました。そうした批判が、私にはある種のネクラ叩きのようにも思えました。

個人的には「学研のひみつシリーズ」のパロディとして女体のひみつという同人誌が作られていて、欄外のまめちしきまでちゃんと作られていたという記事にはかなり笑ったのですが、こうして半ば見世物のように取り上げられていた側からすれば笑い事ではなかったかもしれません。

 

さっき「明るくてもオタクだとバカにされた人はいるといったのに、オタク叩きはネクラ叩きだって、それは矛盾してるんじゃないか」と思われるかもしれません。

これについては、オタク文化が「陰」に属するものだということになってしまったので、もともと明るい人でもそのような趣味を持っていることである種の負の烙印を背負わされてしまったとういことではないか、と思っています。

 彼等がもともと暗い人間だったなら、もっと色々言われていたことでしょう。

 

「オタク差別」は本当になくなったのか?

 dragonerさんの記事を見る限り、「ここに10万人の宮崎勤がいる」と言ったキャスターの実在は今でも確認できないようです。ですが、こういうことを言う人がいたと思われても不思議はない時代というものは、確かにありました。

 

この頃に比べれば、今では芸能人でも普通にアニメ好きを公言したりする現代とは、本当に隔世の感があります。そうした表向きの現象だけを見れば、確かに「オタク差別」はなくなったと言ってもいいかもしれません。

 

ですが、それはオタク趣味もある程度世間一般に浸透し、「陰」から「陽」の側に来たから叩かれなくなった、ということのように私には思えます。

オタク趣味の中でも「陰」に位置すると見られているものは、今でも叩かれがちではないかと思います。

オタク同士の中ですら、そうしたバッシングは発生します。例えば特撮ファンが美少女ゲームのファンを「支配欲の塊」だと言ってしまうように。

saavedra.hatenablog.com

マジョリティがマイノリティを、「陽」の側にいると自認する人が「陰」の側の人を抑圧するという構図自体は、この2017年の日本においてもなんら変わりのないもののように私には思えます。

 それこそ「陰キャ」なんて言葉にも象徴されるように、かつてオタクの特徴と見られていたコミュニケーションの苦手な人、友達の少ない人というのは今でも見下されがちな風潮もあります。

現象としての「オタク差別」はなくなっても、それはオタクが叩かれるターンが終了したに過ぎず、今度はまた別の誰かがそういう役を割り振られているのではないか──いささか悲観的ですが、私にはそう思えてならないのです。

まるで冒険小説のような興奮を呼び起こす名著。増田義郎『古代アステカ王国』

 

 

実はこのエントリのタイトル、最初は「モンテスマは戦闘狂ではなかった!」にするつもりでした。シヴィライゼーションでは相手構わず戦争をしかけまくる狂犬のようなモンテスマが、本書においてはあまりに弱々しい王として書かれていたからです。

 

ですが、実は私は勘違いしていました。

シヴィライゼーションに出てくるモンテスマはコルテスを出迎えたモンテスマ2世ではなく、モンテスマ1世のほうだったのです。

ちょっと彼の業績を調べてみたところ……

 

CIVILOPEDIA Online: モンテスマ

 強い戦士であり指導者でもあったモンテスマ1世は、アステカの国家を大きく輝かしいものへと駆り立てるのに貢献した人物である。彼のことを、不運な孫のモンテスマ2世と混同してはならない。モンテスマ2世は、スペインのコンキスタドールの手により崩壊していく帝国を、なすすべもなく眺めていた人物である。

 

ここにも間違えるなって書いてありますね。

この人とアステカ滅亡の一因を作ったモンテスマを間違えるのは、ナポレオン1世と3世を間違えるようなものだ。

これ、調べていないとCivのモンテスマは史実とぜんぜん違う!と書いてしまうところでした。

 

さて、この『古代アステカ王国』。

初版は1963年と古いですが、これ、読みはじめたら止まらなくなってしまうタイプの本です。

コンキスタドーレのコルテスを主人公とし、アステカ帝国の滅亡を描いた歴史書ですが、堅苦しいところは全くありません。

主役のコルテスを始めとして上司の総督ベラスケスや裏切り者の現地人マリンチェなど、登場人物が皆キャラが立っており、ページをめくるごとにコルテス一行の波瀾万丈の冒険行が展開され飽きさせません。

度胸があり頭も切れるコルテスが降りかかる苦難を得意の雄弁と奇策で打開し、道を切り開いていくさまはあたかも冒険小説を読んでいるかのようです。いえ、下手な小説よりはるかに面白いといっても過言ではありません。

 

実はそれもそのはずで、著者の増田義郎はあとがきで大の冒険小説好きであった過去を回想しています。若き日に著者の呼んだ冒険小説の中には『モンテズマの娘』という作品もあり、これが著者にいつかアステカ王国の最後を書いてみたい、という気持ちを抱かせたのだそうです。

冒険小説へのあこがれと、ラテンアメリカ史学者の学識が合体すれば、できあがるものが面白くないわけがありません。

 

 数々の苦難を乗り越えてコルテスがアステカの王都テノチティトランに乗り込むくだりなどは、さながらファンタジー小説の趣さえあります。30万とも言われる人口を擁し、湖上にそびえ立つ王都の姿はコルテスには夢の都としか思えなかったことでしょう。

というのは、本書でも説明されているとおり、コルテスの故郷スペインでは騎士道物語に登場するアマゾネスの国や黄金郷などを、実在するものと思いこんでいる人がたくさんいたのです。コルテスもまた、テノチティトランがこの手で征服されるべき黄金郷だと思っていたかもしれません。

 

しかし、本書を小説として見るならば、ラスボスに当たるモンテスマの人物像が今ひとつ物足りなく感じられます。モンテスマ2世はコルテスに対し毅然と逆らったわけでもなく、アステカ戦士の誇りをかけて戦ったわけでもありません。むしろ、彼はかなりコルテスを恐れていたのです。とはいえ、これが史実だったのだから仕方がありません。

しかし、モンテスマがコルテスに逆らえなかった理由を単に彼の臆病な性格に帰することはできません。実はコルテスが姿を表したのは、アステカ人の暦で「一の葦の年」と呼ばれる年でした。これはアステカの神であるケツァルコアトルが現れると予言されていた年で、占星術師が予言した日付はなんとコルテスがサン・ホアン・デ・ウルアに到着した日と同じだったのです。

 

ケツァルコアトルと言うのはずいぶん変わった神で、太陽神に生贄を捧げることを常習としていたアステカにおいて、なぜか生贄を否定する神だったのです。アステカの神話において、ケツァルコアトルは「一の葦の年」に帰還し、人民に災厄をもたらすと考えられていました。

しかも悪いことに、ケツァルコアトルは白い肌で黒い髭を蓄えているということになっていました。これはスペイン人の姿です。王であり祭司長でもあるモンテスマがコルテスを恐れたのも無理はありません。

 

 また、モンテスマはコルテスとの宗教論争にも敗北しました。

コルテスは、長年イスラム勢力と渡り合ってきたスペインの出身です。彼にとって、キリストこそが唯一の神であり、アステカの神は悪魔だと断定するのは造作もないことでした。しかしモンテスマは、自分たちの神こそが真の神だと反論することができませんでした。アステカの神学大系は複雑で一つの神が闇や戦争や光の青空などいくつもの属性を持っていたため、コルテスに切り返すことができなかったのです。

結局、モンテスマはろくにコルテスに抵抗もできないまま捕らわれてしまい、ただ王国の滅亡をながめていることしかできませんでした。

 

こうしてみてくると、アステカは宗教によって滅ぼされたようにも思えてきます。もちろん、アステカが滅んだ原因は第一には銃や騎馬を持つスペインの軍事力でしょう。そのことはマクニールが『世界史』の中でも触れているとおりです。この名著の翻訳を著者の増田義郎が担当していますが、そのことには当然著者も同意していたでしょう。『銃・病原菌・鉄』の見方に従うなら、鉄資源も車輪も持たないアステカがスペインに敗北することは必然だったことになります。

 

世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)

世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)

 

 

しかし、巨視的に見ればアステカは滅びるしかなかったとしても、この歴史を誇る大国の最後には、どうにもやりきれないものがあります。モンテスマは結局スペインとアステカの戦争に巻き込まれ、自分は戦うこともなく飛んできた石に当たって死んでしまいます。

死の床の王を訪れたコルテスは涙を流したと言われていますが、著者は「彼はモンテスマに対する数々のひどい取扱や処置について、深く良心に恥じるところがあったのだろう」と記しています。

アステカ族は本来は狩猟民族で、農耕地帯の北方に住んでいて時に傭兵として活用されていました。その武力を活かして371の都市を従え、メキシコ高原に覇を唱えたアステカの末裔も、その最後は哀れなものでした。

 

そして一度は征服者として栄華を極めたコルテスも、その絶頂は長くは続きませんでした。一度は侯爵の位を授けられるものの、メキシコは結局スペインから派遣された副王が統治することとなり、コルテスは蚊帳の外に置かれてしまいます。

一代の梟雄が征服の果実を奪われていく姿にはつい因果応報という言葉を用いたくなりますが、それなら滅ぼされたアステカにはいったいどんな業があったというのか。太陽神に多くの人身御供を捧げたのが悪い、などと言えるほど単純な史観の持ち主は現在には存在していないでしょう。我々は本書に記された圧倒的な歴史の真実の前に、ただ立ちすくむことしかできないのです。

人の善意の限界はどこにあるのか?──武者小路実篤『真理先生』

 

真理先生 (新潮文庫)

真理先生 (新潮文庫)

 

 

マリ先生ではなくシンリ先生。

その名の通り、弟子たちに真理を語り聞かせる代わりに生活の面倒を見てもらい、特に働くでもなく暮らしている真理先生と周囲の人達を実篤特有の素朴な筆致で描く物語……なのですが。

 

この小説、評価はどんなものだろうと思ってamazonをのぞいてみたら、意外にも大絶賛でした。いえ、確かに読ませるといえば読ませるし、登場人物の心魂の暖かさに心を打たれる場面がいくつもあるのですが、皆あまりにも善人でありすぎるがゆえにかえって今の読者には敬遠される点があるのではないかと思っていたのです。でもそのあたりがかえって新鮮に映る読者も少なくないようです。

 

 この小説の人物がどれくらい善人ばかりなのかというと、まずは馬鹿一という人物について語らなければなりません。

この馬鹿一はひたすら石ばかり描いている奇人で、もうほとんど老人と言っていい年齢なのですが、彼の下手糞な絵を真理先生はなぜか絶賛するのです。そればかりか、当時の有名画家である白雲子までがこの馬鹿一の絵を見て彼には見どころがあるとし、デッサンをきちんと習えばものになるだろう、とまで言い出すのです。

ある種のヘタウマというか、ジミー大西のような才能の原石を馬鹿一の中に見出した白雲子は、彼のもとに杉子というモデルを派遣します。

 

最初は石にしか興味を示さなかった馬鹿一も次第に心を動かし、杉子を描くようになっていきます。杉子も馬鹿一は風変わりではあるがいい人だと言い、馬鹿一の人物画の修練に飽きもせず付き合い続けます。

しかしある日、異変が起きます。

デッサンの途中で寝落ちしてしまった杉子に馬鹿一が顔を寄せ、おもわず接吻しそうになってしまうのです。絵にしか興味がなさそうに見えた馬鹿一の中の「男」が目覚めてしまったのか?というとそうではなく、真相は杉子があまりにも赤子のように可愛らしかったため、我を忘れた馬鹿一が顔を近づけてしまった、ということでした。

 

生々しい劣情の発露など、ここには一切ありません。

慌てふためいた馬鹿一は杉子へ謝罪の手紙を書き、それを読んだ杉子も謝罪を受け入れます。普通なら気持ち悪がって二度と行かなさそうなものですが、この世界にはそんな物わかりの悪い人間は出てこないのです。

白雲子も本気で馬鹿一に大成して欲しいと思っているし、杉子も馬鹿一の善意を疑ったりはしません。誰もが本当に心から他者のためを思って行動する、あり得ないくらいの善人ばかりなのです。

 

ですが、この善人ばかりの世界にも、ほんの少しだけある種の生々しさが隙間風のように吹き込んでくる箇所があります。それは先ほど触れた杉子と、愛子という二人の若い女性の描写です。

 

愛子というのは若く美しい少女で、もともと馬鹿一は愛子をモデルにして絵を描きたがっていたのですが、愛子は馬鹿一のことを「あまり一心にこちらを見つめてくるから気味が悪い」と言っています。だから愛子の代わりとして杉子がモデルを引き受けたのです。愛子もまた善人には違いないのですが、馬鹿一を良い人とは認めつつも生理的嫌悪感には逆らえないあたりに、かすかなリアリズムを感じます。

 

これは杉子も同様で、馬鹿一の謝罪を受け入れたあとふたたび彼女はモデルとして馬鹿一のもとを訪れるようになるのですが、杉子は絵を描くときは必ず第三者を同伴させて欲しい、と主人公に頼んでいます。過ちを犯した馬鹿一の謝罪を快く受け入れた杉子でさえ、やはり馬鹿一はどこか怖いと思っているのです。この世界は決して完全無欠な善人ばかりを描いているわけではありません。

作品を通じて、馬鹿一の風貌は醜いと書かれています。年齢も年齢だし、およそ女には好かれそうにありません。作者がその気なら、私は馬鹿一さんの心の真っ直ぐなところに惚れました、という女性を登場させることも可能だったはずです。しかし、実篤にはそんなことはできなかった。これにはおそらく実篤なりの理由があります。

saavedra.hatenablog.com

実篤の『お目出たき人』は「自分は女に飢えている」という強烈な告白から始まる小説で、作品中では好きな女性に思いのたけを伝えられず延々と悩み苦しむ主人公の独白が綴られています。

この小説を読んでいる限り、実篤は女性に好かれないタイプの男にかなりのシンパシーを抱いていたように思えます。実篤自身はどうだったのかはわかりませんが、そのような男性の目を通じて描かれる女性の描写には、けっこうなリアリティを感じます。

冴えない主人公を自分を都合よく愛してくれるような女性は『お目出たき人』には登場しません。それが現実というものだということを実篤はよく理解していただろうし、その女性観はおそらくは『真理先生』にも持ち込まれています。

 

実篤は、いくら善人であってもその人の女性としての部分を無視したキャラクターを作ることができなかったのではないか、と思います。実は愛子は後に馬鹿一のモデルになっているのですが、それを引き受けたのは杉子から馬鹿一の評判を聞いたからです。他の女性から評価されているので自分も評価を引き上げる、というのも現実にありそうなことですし、またいくら馬鹿一が評価を上げてもそれはあくまで人間としての評価であって男性としての評価ではない、というあたりにも、実篤のある種の諦観をかいま見ることができる気がします。

 

どれだけ善人であっても、醜い馬鹿一は作中の女性から男として愛されることはありません。馬鹿一もそれを望んでいないので誰も不幸にはなっていないのが救いですが、このあたりが実篤の考える善意の限界だったように思います。

事実、モデルの杉子は馬鹿一と一緒に絵を描いていた別の男性と結ばれていますし、愛子もまた白雲子の息子と結婚しそうな勢いです。本作において、善意の上限は馬鹿一のような風変わりな他者を人間として尊重するところまでであって、異性として愛するところまでは達しないのです。

 

もし馬鹿一が、「いや、俺だって男なんだ。俺は尊敬されるだけでは足りない、あくまで男として受け入れられたいんだ」などと主張していたら、真理先生の形成するユートピアは崩壊してしまうでしょう。馬鹿一が『お目出たき人』の主人公のように女性を欲しがったりしない「善人」であるからこそ、この世界は成り立っています。

 

馬鹿一はひたすら絵を描きたいだけの求道者なのですが、求道者であるという点では真理先生も馬鹿一と同タイプの人間です。実は真理先生は若い頃に妻に逃げられていて、現在に至るまで独身なのですが、真理の探求と男としての幸せは両立しない、という考えが実篤にはあったのかもしれません。実際、『お目出たき人』の中で実篤は登場人物に「君のような道学者は女には好かれないよ」という台詞を言わせています。

現実では到底ありえないほどの善人ばかりが登場するこの小説にも、そうしたほんのわずかな現実が忍び込んでくる点が、この作品に独特の陰影を与えているように思えます。