明晰夢工房

主に自分語りです。

「痛みを知ると人に優しくなれる」とは限らない。

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ただの「近親憎悪」では片付けられない話

先日、ツイッターのTLをこういう文言が流れていった。

 

「女性が兵器になるようなゲームで遊んでいるような連中が、戦争を起こす」

「こうして女の子を支配したいという欲求が、人を他国への侵略へと駆り立てる」

 

何の話かよくわからなかったが、そのツイートに添えられていた画像を見る限り、ブラウザゲームによくある女の子が兵器になって戦うタイプのゲームのプレイヤーのことを指して言っているらしい。

少女を兵器に見立ててゲームの中で戦争をするような輩は、ヴァーチャルな世界の中でおぞましい征服欲や支配欲を満たしているのだろう……という話だ。

 

これだけなら、単に世間によくある偏見ということで話は済む。

一々相手にするほどのものでもない。

だが問題は、この話をしていた人達の属性だ。

これらの批判をしていた人達のアイコンは、ロボットや怪獣の姿だった。どうやら彼等は特撮ファンらしいのだ。

彼等のうちの一人は、こういうことも言っていた。

 

「俺のPCにも怪獣の画像が沢山保存してあるけど、こういう現実と二次元の女性が区別できない輩とは違うぞ」

 

特撮ファンである彼等は、決して「世間」の側に立つ人達ではない。

むしろ彼等だって、「いい年して子供が見るものに夢中になるなんて」といった世間からの偏見に晒される側だったのではないかと思う。

そういう人達でも、時にこうした偏見を、他の属性を持つ人達には向けてしまう。

 

彼等が展開していたような「美少女ゲーム」に対する批判は、そのまま特撮に対しても適用可能だ。

「怪獣に街を破壊させるのは、容易に他国への征服欲へつながる暴力衝動の現れ」

「怪獣退治に活躍するのは自衛隊などの国家権力であり、これは体制礼賛につながる」

などというこじつけだっていくらでも可能だし、後者に関しては実際に言っていた批評家もいる。

特撮ファンだって、決して安全な位置から物を言える立場ではないのだ。

 

お断りしておくと、特撮ファンが皆こういう人達だといいたいわけではない。

彼等がたまたまそういう人達だったと言うだけだろう。

特撮を楽しみつつ、女の子が兵器になるようなゲームを楽しんでいる人達も多いはずだ。

 

だが、中にはこういうことを言う人もいる。

社会から偏見の目を向けられてきた人が、他の人達に対しては世間と同じ視線そのものを向けて露骨に軽蔑してみせることもある。

迫害を受けてきた人同士だから仲良くできるとは限らないのだ。

「痛みを知ることで、人は優しくなれる」が、時に綺麗事でしかないということもある。

同じ属性を持つ人になら優しくなれるかもしれないが、差別や偏見にさらされてきた人が、別カテゴリの人には容赦のない罵声を浴びせてしまうことも決して珍しくない。

むしろ自分に近い属性にこそ厳しくなる、ということもままある。

 

「あんな連中とは違う」という処世術

僕自信が「世間一般」の立場を理解しているわけではないのだが、オタク文化などよく知らない人からしてみれば、特撮ファンも美少女ゲームが好きな人達も、似たようなカテゴリに放り込まれているのではないか?とは思う。

彼等自身の認識でいえば、自分達は「硬派な特撮ファン」であって、少女を兵器に見立てるような連中とは違うと言いたいのだろうし、事実違うのかもしれないが、周囲もそう見てくれるとは限らない。

 

だからこそ、「自分はあんな連中とは違う」ということを強調する必要があるのではないだろうか。

完全に別ジャンルだとみなされているのなら、わざわざ「違う」と言う必要はないのだから。

世間からの偏見に晒されてきた人は、時に世間に対して自分の趣味の正当性を証明する必要に駆られる。

見下されがちなカテゴリに身を置いている人ほど、自分は偏見を向けられるような人間ではないことを示さなくてはいけないということだ。

 

そのときに持ち出されるのが、「あんな連中とは違う」なのではないかと思う。

美少女ゲームを遊び、他国への支配欲や侵略欲を募らせる不気味な連中」というモンスターを作り上げ、「自分はそんな連中とは違う」と言い募ることで、「正しい趣味人」になれるし、仲間内での自尊心も満たせる。

偏見に晒されがちな趣味を持っているからこそ、自分達よりも倫理的に劣った他者をカテゴライズし、これを叩くことによって、自分達が「正しい」存在であることを示さなくてはいけない、といった考えを持つことはあり得る。

現実は『ペイ・フォワード』の逆バージョン

 

ペイ・フォワード』という映画がある。

 この作品が伝えているのは、「世界を変えたいと思ったら、他人から受けた善意を別の他者へと回していくことだ」というメッセージだ。

恩を返すのではなく、恩を別の人に送る。

そのことで、世界はよりハッピーになっていくはずだ――という一つの理想論だ。

 

綺麗事に聞こえるし、事実そうなのだが、この映画の結末はただの理想論では終わっていない。

このラストには賛否両論あるだろうが、自分としてはこれでよかったのではないかと思う。

本当にこの理想論が理想のまま終わってしまったら、それはそれで現実離れしすぎているからだ。

 

この世で起きていることの多くは、この『ペイ・フォワード』の逆バージョンだ。

他人から悪意を受けたら、その悪意をより弱い立場の人間に回す。

狭い空間に閉じ込められた鶏が、順番により弱い個体を突付くように。

自分を突付いた人を突き返せるような強い人ばかりではない。

自分より弱い立場の者を叩くことで「世間」というさらなる強者から身を守るというのも、ある種の人達が生きていく中で身につけた処世術なのだろう。

 

そのような人がいる一方で、自分と同じように世間から痛めつけられてきた人に優しい視線を向けることができる人もいる。

世の中から冷たくされて他者に優しくなれる人と、世の中の論理を自分の中に取り込んでしまい、他者に攻撃性を向ける人との差は何だろうか?

そのことに対する明確な答えを、自分はまだ持っていない。